第11章 謎に包まれた事情


「なんで春子が殺されなあかんのや……」
ふと香山さんが、悲しげにつぶやいた。
確かに、春子さんが殺された動機についてはまったくわからない。いや――彼女だけではなく、田中さんの方もだ。
春子さんと田中さんが同じ犯人に殺されたのはほぼ間違いないところだが、そうするとあのふたりの間には何らかのつながりがあった可能性が高い。
しかし、香山さんの知らないところで春子さんと田中さんにつながりがあった、などということがありうるだろうか?

「そうだ。こういうことが考えられるんじゃないかな」
腕組みをし、ずっと考えていたらしい美樹本さんが口を開いた。
「どういうこっちゃ?」
すぐさま身を乗り出して、香山さんが聞き返す。
「犯人はあの田中さんって人を殺すのだけが目的だったのに、その犯行を……凶器を持って歩いてるところとかかもしれないけど、とにかくそういったのをたまたま2階にいた春子さんに見られて、口封じのために彼女も殺してしまったとか……」
「せや! きっとそうや! 春子が殺されなあかん理由なんてわしには考えつかん……」
香山さんはまた悲しげな顔で叫びを上げる。夕食前に見せたあの明るいキャラクターはどこに行ってしまったのだろう……ぼくは彼を見て、がらでもなく感傷的な気分になった。

「でも香山さん。……水を差すようですけど、それだけのことであそこまでむごい殺し方をするでしょうか?」
真理がそう発言すると、香山さんではなくみどりさんが口をはさんだ。
「確かにあれはひどすぎると思うわ。顔を切り裂いてあったっけ? 恨みの犯行とかならよくある手口だけど……」
どうもみどりさんは一言多い。
「あんたら、春子が誰かに恨まれとった言うんか? そないなことあるわけが……」
案の定香山さんはそれに食ってかかったが、途中でその勢いをなくした。
「……いや、正直なとこあいつのことはよう知らんからわからんが……」
「よく知らない?」
夫婦なのに? ……と続けようとして、ぼくは口をつぐんだ。神経を逆なでするようなことは言わない方が無難だ。みどりさんの二の舞になりたくはない。
が、香山さんはぼくの心の声が聞こえたかのように反応し、話し出した。
「せや。……春子は後妻なんや。結婚してまだ10年も経っとらん。しかもわしは仕事が忙しいよって、家庭を顧みる余裕もあらへんかった。そやから、わしの知らんとこで春子は何ややっとったのかもしれん……」
そういう言葉をためらわないところから、彼と春子さんはかなり溝がある夫婦関係だったのだろうと推測できた。
「じゃあ……」
言おうとしてみどりさんは、今度は口を押さえた。何をためらったのか、ぼくにもわかるようだった。
「何や? 何でも構へんから、思い当たることがあるんなら言うてくれへんか」
しかし香山さんは、まるで懇願するようにみどりさんにそう言った。春子さんが殺された事情について、少しでも多くの情報が欲しいのだろう。
「失礼な話ですけど、例えば奥さんとあの田中さんって人が不倫してて、先の見えない恋に失望して無理心中したとか……」
ぼくより一足早く、真理が反対意見を出していた。
「待ってよ、みどりさん。それは違うんじゃないかしら? もし無理心中なら、ふたり一緒の部屋で死んだはずよ」
「そうよね……。じゃあやっぱり、美樹本さんの言う通り、田中さんを殺したところを奥さんに見られて……? でも、それだとあの殺され方の謎が解けないし……」
「犯人の方に何らかの理由があって、田中さんを殺したのと春子さんを殺したのは同じ人物だと主張したかったんじゃないでしょうか? つまり、犯人は田中さんを恨んでいて、ひどい殺し方をした。そして、それを見てしまった春子さんもあえて同じ手口で……」
ぼくは考えつつ話したが、それに突っ込みを入れたのはまた真理だった。
「どうしてそんなことにこだわる必要があるの?」
もちろんぼくにわかるわけはない。ただ考えてみただけだ。

「……あの田中さんが殺された動機ってのは、いったい何なんだろう」
ぼくが答えられないでいると、その穴を埋めるように美樹本さんがそんな疑問を出した。
「そないなこと考える余裕あるかいな! 春子が殺された理由考えるんでも精一杯やのに……」
香山さんがむきになってつらそうに返す。いくら溝があるとはいえ、やはり彼は彼なりに春子さんを愛していたのだろう。
が、美樹本さんはそんな彼をなだめるように言った。
「しかし、やっぱり警察が来るまでの間に、少しでも考えておくべきだと思うんですよ。そうすることで、ぼくたちの身だってある程度守れるでしょう。逆に言えば、ぼくたちの自衛手段なんてそれくらいのことだけです。それをしなくてどうするんですか」
納得のいく意見だった。そのためか、香山さんも少しは落ち着いたようだ。

「オーナーに聞いてみたらどうかしら」
とみどりさん。
「小林さんに? 何を聞くんだい?」
美樹本さんがたずね返す。
「田中さんが過去にここに来たことがあるかどうかとか、宿帳にはなんて書いてあるのかとか。少しでも手がかりになるかもしれないわ」
みどりさんの言うことももっともだが、正直ぼくはそれにあまり意味がないように思えた。
「無駄じゃないですか? サングラスにコートなんていう怪しげな恰好からして、とてもペンションの常連客って感じじゃないし、田中って名前も何かありふれてて偽名っぽいですし」
ぼくは、はっきりとみどりさんにそう返した。事態が事態だけにそんな風には思いたくないのだが、地下室の件でプライドを傷つけられたことに対する仕返しの気持ちが入ってしまい、口調が意地悪っぽくなっているのが、話していて自分でもわかった。
「確かにそれはそうだけど……じゃあ透くんは、他に何か田中さんの素性を探る方法があるっていうの?」
「警察にやっちゃだめだと言われてたみたいですけど、一番いいのは田中さんの部屋に入って持ち物を調べることでしょうね。もちろんあの部屋に好きこのんで入りたいなんてわけじゃないですが……」
「……そうね。その方が効果的よね」
みどりさんは頭を傾け、小さく言った。勝った、とぼくは一瞬思ったが、そんなことの勝ち負けにこだわっている場合ではないとすぐに思い直した。

 

 

効果的とはいえ、やはりあの田中さんの部屋に入るのは相当ためらわれる。行くべきかどうしようか考えていると、背後でドアの開く音がした。
そっちを振り向くと、小林さんがキッチンのドアを開けて出てくるところだった。手ぶらだから、ジェニーは見つけられなかったのだろう。
「あ、オーナー。ちょっと聞きたいことがあるんです」
ぼくと同じように振り向いて彼を見つけたみどりさんが、すぐに声を上げた。彼女の心が読めるわけではないが、さっきぼくに負けた質問を小林さんにぶつけるに違いないと思った。彼女はそういった性格の持ち主だ。2日も同じ建物にいればわかる。
「ん? 何かね」
小林さんが答えてこっちに歩き出したとき、奥から今日子さんも戻ってきた。
「ああ、今日子。ジェニーはいたか?」
彼は今日子さんの方を優先し、たずねる。
「いいえ。私が探した範囲には……。あなたの方も?」
「ああ。どこに行ったというのだろう……」

小林さんは今日子さんと並んで談話室の真ん中まで来ると、改めてみどりさんに顔を向けた。
「……それで篠崎くん、何を聞きたいんだね」
「あたしたち、田中さんはどうして殺されたのかってさっきから考えてて、それで彼の素性を確かめようってことになったんです。まず、彼は前にここに来たことがありましたっけ? あたしはちょっと記憶にないんですけど、オーナーならって思って」
……やっぱりそうだ。みどりさんを完璧に負かすのは無理なのかもしれないな。
「田中さん? うーん……」
小林さんは考え出したが、そこで今日子さんが横からぽつりと言った。
「あったんじゃないかしら」
――ぼくを初めとして、全員が驚いた。みんな、まさかそんな答えが返ってくるとは思ってもみなかったのだろう。
「……そうだったかな」
小林さんは覚えていないのか、首をひねって曖昧につぶやくばかりだ。
「私もよくは覚えていないけど……秋に来た、あの自然散策が好きだっていう人じゃないかしら」
が、今日子さんが思い出しつつそう言うと、小林さんはいきなり大声を上げた。
「そうだ……! そうだった! あの人が田中一郎さんだ!」
「来たことがあるんですね?」
みどりさんが勢いよくたずねると、小林さんはうなだれて話し出した。
「……ああ。今年の秋にひとりでやってきたんだ。そのときはあんなサングラスなんかしてなくて、本当に気さくな人だった。紅葉を眺めるのが好きだと言っていて、私と趣味が合うと喜んでいた」
彼の口調は、本当に親しい友人を亡くしたときのような悲しげなものに変わっていた。
「あの人だったのか……あの人が殺されたのか……。今日来たときに、どうして名前だけでも思い出せなかったんだろう……」
彼は半ば放心状態のまま、そうつぶやき続けた。
ありふれた名前だけに思い出せなくてもしょうがない、とぼくは小林さんを慰めたい気持ちに駆られたが、そこでひとつ引っかかる点に気付いた。
田中一郎、などという名前は偽名っぽい。もしかして、田中さんが秋にここに来たときには、自然散策以外に何か別の目的があったんじゃないだろうか?
……しかし、それならなぜそのときはサングラスをしていなかったのだろう。
いや、それよりも、なぜ今日に限ってサングラスを……。
ぼくが考える間にも、小林さんのつぶやきはまだ続いていた。
「もし思い出せれば……もし彼に気付いていれば、この部屋に誘って……みんなで話したりして、結果的にあんな目に遭わずにすんだかもしれないのに……」
彼の瞳には、深い後悔があった。

が、そのとき突然香山さんが、それを認めないかのように叫んだ。
「小林くん! ほな春子はどないなるんや! 春子は殺されても構へん言うんか!?」
「い、いえ、決してそういうわけでは……」
小林さんは我に返り、慌ててそれを否定したが、香山さんの勢いは止まらなかった。
「そや、小林くん! 元はと言うたらあんたが悪いんや! あんたが衛生管理怠りよったから、春子は具合悪なったんや。あれさえなければ、春子はわしのそばにずっとおって、それこそ結果的に殺されずにすんだんや! あんたのせいや!」
「香山さん! 落ち着いてください!」
彼の隣に座っていた美樹本さんが止めに入ったが、奥さんを殺された彼がそれだけでおとなしくなるとは到底思えなかった。
「ちょっと待ってください、香山さん」
しかし、真理が何かを思いついた様子で呼ぶと、全員の動きが止まった。
「あたし、奥さんの具合が悪くなったのは、叔父さんの衛生管理が悪いせいじゃないと思うんです」
「何でやねん」
小林さんをかばうために真理がそう言ったのだと解釈したらしい香山さんは、今度は彼女の方に不満そうな顔を向けた。
「だって、奥さんだけじゃなくて、あたしもあなたもみんなも、遅れてきた美樹本さんだって、叔父さんの作った物を食べたじゃないですか」
確かにそうだ。
もし小林さんの衛生管理に問題があったのだとしたら、宿泊客全員の具合が悪くなっているはずだ。それなのに、ぼくも真理も香山さんも他の人たちも、こうして無事にここにいる。春子さんひとりがとりわけ体が弱くて反応してしまったと考えられなくもないが、やはりちょっと不自然だ。
真理の言う通り、春子さんの体調不良の原因は小林さんの料理ではないだろう。

「それより、オーナー。田中さんが書いた宿帳を見てみたらどうでしょう?」
香山さんが鎮まり、小林さんも少しほっとした表情になったのを見計らってか、みどりさんが口にした。
「ああ、そうだな」
小林さんはすぐにフロントに向かい、そこから宿帳を何冊か持ってきた。
そして、その一番上を、みんなが見ている前で開く。
ページの最後は、遅れてきた美樹本さんのサインだ。
それからさかのぼって香山夫妻、OL3人組、そして――意外にも気弱そうな細い文字で、田中さんのサインがあった。
「田中一郎。住所は名古屋市だわ。職業は……会社員」
のぞき込みながら、みどりさんがつぶやく。駐車場にあった例の名古屋ナンバーのレンタカーはやはり田中さんが乗ってきた物であり、またこのサインも確かに彼が書いたのだろう。
小林さんは次に、別の宿帳を開いた。
それは古いものなのだろう、パラパラとめくっていくうちに、彼は前の田中さんのサインを見つけたようだった。
見てみると、そこにも今日とまったく同じことが、同じ筆跡で書かれていた。

「……殺されたのが、秋に来たあの田中一郎さんだっていうことは間違いないようだ。しかし、どうして……」
小林さんはそれだけ言い、黙った。
誰も、何も言えなかった。
相槌を打とうにも、何を言ったら無難にやり過ごせるか考えるような余裕がなかったのだ。


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