第12章 第三の殺人
「そういえば……女の子3人組の姿が見当たらないようだが」
沈黙を破ったのは、小林さんのつぶやきだった。
「彼女たちなら、トイレに行くって言って部屋に戻ったけど……」
真理が答える。小林夫妻は彼女たちが2階へ行ったとき談話室にいなかったから、その事情を知らなくて当たり前だ。
だが――ぼくは一瞬、不吉なことを考えてしまった。
あれからもう、優に30分は経っている。いくら3人一緒とはいえ、ちょっと遅くないか?
女性というのは概してトイレの時間が長いものだし(ぼくにはよくわからないが)、彼女たちの部屋にはテレビがあるという話だから、3人でそれを見ているのかもしれない。
しかし……何といっても、こういう夜なのだ。
いくら自分で止めようとしても、悪い方へ、悪い方へと思考が傾いていってしまう……。
「だけど、トイレに行っただけにしては遅すぎないかい? ぼくがちょっと様子を見てこようか?」
美樹本さんも、ぼくと同じことを考えていたらしい。
「そこまでしなくてもいいでしょう。3人もいるんですから、万が一彼女たちに何かあっても、その騒ぎがここまで聞こえないはずはありません」
ぼくはそう言って彼を止めた。それは自分のマイナス方面の想像を振り切る目的でもあったのだが、よく考えてみたら、2階で何かがあって彼女たちが騒ぎ出してからでは遅い。
やはり、彼に様子を見に行ってもらおうか……しかし、止めたばかりなのにすぐ発言を覆すというのもどうもな。
「そうだね。待ってようか」
迷っているうちに、彼は彼なりの結論を出してしまった。
「俊夫くんは? 俊夫くんはどうして戻ってこないの?」
今度はみどりさんだ。その口調はなぜか強めで、焦っているようにも聞こえた。そのためか、談話室にいる全員が彼女の方を向いた。
確かに、真っ先に談話室を出ていったはずの俊夫さんがまだ戻ってきていないというのはおかしい……。
「あ……」
すっかり忘れていたといった感じで、小林さんが今日子さんを振り返る。
「いいえ、私は見てないわ。部屋にいるんじゃないかしら?」
彼女は首を横に振り、答えた。
「しかし……こんなときなんだぞ。ひとりで部屋に閉じこもるような真似はさせない方が賢明じゃないか?」
それは、ひとりが危険だというよりも、ひとりでいると疑われるというニュアンスの方が強いように感じられた。
「あたし、呼んでくる。ああ見えて意外に頼りにならないんだから、心配だわ」
ぼくに言われて結局やめた美樹本さんとは違い、みどりさんはそんなセリフを残してすぐにフロントの奥の廊下へと消えた。俊夫さんの部屋に向かったらしい。
「……篠崎くん!」
小林さんは何か目が覚めたような勢いで叫んだが、足を一歩踏み出しただけで、彼女を追おうとはしなかった。
推測だが、ひとりで行動するなと言おうとした直後、自分と今日子さんも別々にジェニーを探していたことを思い出し、危険なことはないと判断したのだろう。
――しかし。
「きゃああああああっ!!」
突然、空間を切り裂くような悲鳴が建物の奥から響いてきたのだ!
自分がその裂け目に飲み込まれて消えてしまう錯覚を覚え、ぞっとする――そんな鋭い悲鳴だった。
「篠崎くん!!」
今度はためらうことなどなく、小林さんはすぐに奥に向かって飛んでいった。
……ぼくは、何が起きたのかわかったような気がしたが、信じられなかった。
そんなことがあるはずない。そんなことが許されていいはずはない――。
今日子さんが、全身を震わせつつも動き出した。そして、同じく奥の方へと歩いていく。
ペンション側の人間である以上、様子を見に行く義務があると感じたのだろうか。
彼女が行ってしまうと、香山さんが立ち上がった。
「……わしも見てくるわ。放ってはおかれへん」
彼も行ってしまった。
談話室の人がそうやって減っていくと、真理がぼくの肘をまた強くつかんできた。
「透……あたし、怖いよ……」
ぼくは震える彼女に身を寄せながら、ぼくたち以外でただひとり談話室に残っている美樹本さんの方を見た。
行くべきかどうしようか、意見を求めるように。
「……ぼくたちも行こう。何もしないでいるよりいい」
彼も立ち上がり、ぼくたちに手を伸ばして促す。
ぼくはそれにうなずき、同じように立った。そして、いやいやながら真理も。
ぼくたち3人は、固まるようにして奥へと向かった。
真理は、ぼくの肘から手を放さないまま……。
廊下の角の部屋の前に、小林夫妻と香山さんが立っていた。ここが俊夫さんの部屋なのだろう。
「小林さん……」
「なんて……なんてこった……」
ぼくが呼びかけると、小林さんは目を伏せて答えた。いや――答えたのではなく、ただつぶやいただけだろう。ぼくの言葉など、耳に入っている様子もない。
――今日子さんが、ふらりと倒れそうになった。それを香山さんが慌てて支え、小林さんにまかせる。
「今日子! 今日子!」
小林さんは今日子さんを揺さぶったが、彼女は目を閉じたままつぶやくばかりだった。
「どうして……どうして?」
それは誰もが持っていた疑問だっただろう。が、答えられる人は誰ひとりとしていない。行き場をなくした今日子さんの言葉は、無感情な廊下にただ響くだけだった。
ぼくは真理の手をそっとなでてから、部屋の中をのぞき込んでみた。
……思った通りの光景が、そこには広がっていた。
そこは俊夫さんの部屋のようで、低いテーブルと2段ベッドがある以外は、客室とほぼ変わらない造りだった。
が――その2段ベッドの下段には、俊夫さんが横たわっていた。端にまとめられた布団に頭を乗せ、仰向けになって。
ベッドの横で絨毯にひざまずき、床に両手をついてがっくりとうなだれているみどりさんがいなければ、事件のドタバタか仕事に疲れた俊夫さんが仮眠を取ってるのだとでも思えただろうに――。
小林さんが、意を決して部屋に踏み込んだ。彼を信頼するかのように、ふらつきつつ今日子さんがそれに続く。
そして香山さんが、美樹本さんが入ったので、ぼくも足を動かした。真理も震えながらついてくる。
……至近距離で見る俊夫さんの顔は、ひどい紫色だった。そして、ほんの少しも動かない。
俊夫さんに一番近いところにいた小林さんが、彼の腕を取って脈を探った。
視線でその結果をたずねたみんなに――小林さんはただ黙って首を横に振るだけだった。
「俊夫くん……」
今までに聞いたこともないようなか細い声が聞こえてきて、ぼくたちは自然とその声の主を見た。
すると彼女は、絨毯を蹴って俊夫さんに飛びついた。
そして、朝が遅い夫を起こす妻のように――いや、それよりはだいぶ激しく――彼を揺さぶり、叫ぶ。
「……俊夫くん! 何バカな真似やってんのよ! そんなことしたってあたし、だまされないからね! もうバレてんだから、早く目を開けなさいよ……!」
――しかし、彼女の叫びには何の説得力もなかった。
俊夫さんがこの世の人でなくなってしまったという現実と彼女自身の悲しみとを運んで、その場にいる全員に涙を催す効果があっただけだった。
本当に俊夫さんが死んだふりをしているだけだったら、どれだけいいことか――ぼくも涙を浮かべつつ、そんなことを考えていた。
が、俊夫さんは確かに死んでいる。それは覆せない事実になってしまっていた。
「絞め殺されてる……絞殺だ……」
美樹本さんがつぶやいた。
それを聞いて、涙を拭って見てみると、確かに俊夫さんの首のまわりには、何かで絞められたような跡が残っていた。しかし、その方面の専門知識がないぼくには、何で絞められたのかまではわからない。
「俊夫くん……起きてよ! 言ってよ……もう一度言ってよ! あたしのこと好きだって、もう一度言ってよ……!!」
みどりさんは泣き叫びながら、俊夫さんをひたすら揺さぶり続けていた。
――が、彼が彼女に笑顔を向け、彼女の望むセリフを口にすることは、決してなかった。
「……許せない! もう絶対許せない!」
そして彼女は突然立ち上がると、「どきなさいよ!」とぼくを突き飛ばして入口の方に駆け出した。その力は並の男よりずっと強く、ぼくだけでなく隣にいた真理までをも転ばせた。
彼女はさらに、入口をふさぐように立っていた美樹本さんさえも突き飛ばし、廊下に飛び出してしまった。
大柄な彼がふらついてドアの横の壁に手をつくのを見て、ぼくはみどりさんの強さを――その想いの強さを――改めて知った。
「篠崎くん!」
小林さんが慌てて彼女を追う。
続いて、入口に近い順にみんな部屋を飛び出した。
ぼくもすぐに立ち上がり、真理に手を貸して立たせると、彼らに続いた。
「きゃあっ!」
今日子さんの悲鳴が飛んだ。
――見ると、みどりさんが包丁を持ってキッチンから飛び出してきたところだった。ぼくはそれを認めると、恐怖でまったく体が動かなくなってしまった。
「……落ち着くんだ、篠崎くん!」
どうして恐くないのか、小林さんは大声を上げながらみどりさんに近づき、包丁を握る右手をねじ上げた。
「しっかりしてくれ!」
美樹本さんが彼女の背後にまわり、羽交い締めにする。それと同時に、小林さんが彼女の手から包丁を取り上げた。
「殺してやるわ……みんな殺してやる! 犯人が名乗り出ないなら、全員殺してやるわ……!!」
武器をなくしたみどりさんは、狂乱して叫び、羽交い締めの中で暴れ続けた。その瞳は常人のものではなかった。
――しかし、彼女を責めることなど誰にもできないだろう。
さっき俊夫さんに言った言葉やこの様子から考えて、彼らはおそらく恋人同士だったのだ。ぼくと真理の関係のようなぎこちないものじゃなくて、互いを信じ、互いを愛し、互いを守るような――そんな大切な人を失って、平静でいられるわけがない。
みどりさんは俊夫さんを守れなかった――その現実は、ぼくにひとつの決意を湧かせた。
例え自分が死ぬことになろうとも、真理だけは必ず守ろう……。
「俊夫くん……どうして……どうしてこんなことに……」
……やがてみどりさんは、十字架にはりつけになったキリストのように、美樹本さんに羽交い締めにされたまま全身の力を抜いた。
生気を失った頬に、涙が次々と伝う。
ぼくは彼女を何とかして助けてあげたいと思ったが、恐れる真理の肩を抱くのに精一杯で、そこまで手がまわらなかった。
いや、手がまわらないことがわかっているから、助けてあげたいなんて思ったのかもしれない――。
ぼくは、そんなネガティブな解釈しかできないようになってしまっていた。
「……もうこうなったら、全員で談話室に集まって、一歩も離れないようにするしかあるまい」
みどりさんがほんの少し落ち着くと、小林さんは言った。
もうそれしかないと思ったので、ぼくはうなずいた。みどりさんを除く全員がそれに続く。
「篠崎くん……」
小林さんが呼ぶと、彼女も仕方なしにうなずいた。
「よし。私は俊夫くんの部屋の暖房を切ってくる。……今日子、これを元に戻しておいてくれ」
そして小林さんは、持っていた包丁を今日子さんに差し出した。彼女は無言でそれを受け取り、キッチンに入っていった。
ぼくは自然とそれを目で追い、暖簾のわずかなすきまからキッチンの中をのぞいたが、彼女は不審な行動も見せず、キッチンの壁についていたケースに包丁を戻してすぐに出てきた。
俊夫さんの部屋の方に戻ると、暖房と一緒に部屋の明かりも消した小林さんが、ノブのボタンを押して出てくるところだった。
誰かが死ぬたびに暖房と明かりが消えていく――それはあたかも、生命の炎が次々と消えていくのを目で見ているかのようで、思わず背中に寒いものが走った。
そしてぼくたちは、そろってゆっくりと談話室に戻った。
率先するように小林さんが先頭に立ち、続いて香山さんが、美樹本さんが、ぼくと真理が、最後にみどりさんを支えながら今日子さんが……。
みんなが談話室に着くと、2階から何やら言い争う声が飛んできた。
「もういやよ! 絶対にいや!」
「そんなこと言ったってしょうがないじゃないの!」
「あたしたちだけより、みんなでいた方が安全でしょ?」
「安全なことなんてないわ! もし犯人がここにいるみんなを殺すつもりだったらどうするのよ! あたしたちだって殺されるのよ!」
「そんなことあるわけないじゃない! さあ、下りましょ!」
「いや!」
何事かと見上げると、OL3人組が階段の上で騒いでいた。
どうやら、亜希ちゃんが部屋に戻ろうと必死になり、他のふたりがそれを引き留めて階段を下りさせようとしているらしい。
「……どうされましたか?」
非常事態だというのに、責任感に駆られてか、小林さんは2階に向かってたずねた。
すると、可奈子ちゃんが振り向いて答えた。
「亜希が、部屋に閉じこもってたいなんて言い出したんです。あたしたちはみんなでいた方が安全だって言ってるのに、全然聞かなくて……」
亜希ちゃんの気持ちもわかるような気がする。この中に犯人がいる可能性が高い以上、誰からも離れていれば安心はできるだろう。
しかし、やはり全員でいた方が安全であることに変わりはない。
「河村さん、ここにみんなでいた方が遥かに安全です。これだけの人数がいれば、いかに凶悪犯でも手出しはできません。どうか下りてきてください」
小林さんもそう判断し、すぐに言った。
「ほら! 小林さんだってああ言ってるじゃないの!」
可奈子ちゃんが怒ったような口調になると、亜希ちゃんはその場でまた叫んだ。
「わかったわよ! でも、もしちょっとでもあたしたちに危険なことがあったら、それは小林さんの責任だからね!」
ぼくはそれを聞いて、小林さんに目を向けた。やはり「責任」という単語に弱いのだろう、彼は苦しそうな顔をしていた。
亜希ちゃんは、可奈子ちゃんと啓子ちゃんに両脇を支えられて下りてきた。
3人とも無事だったのはいいが、この彼女たちに、俊夫さんが殺されたことをどう伝えればいいのだろう。
なるべくならずっと伏せておいてあげたいくらいだが、隠しきれるものでもない……。