第14章 2階には何が……?


小林さんが、ポケットに入りっぱなしになっていたマスターキーを取り出し、田中さんの部屋のロックを外した。
そして彼がドアを開け、明かりをつけると、4人で固まるようにして室内に入った。

……途端に血まみれの田中さんがベッドの上に現れ、全員が思わず顔を背けた。おまけに、暖房を切ってあるのでひどく寒い。
しかしそれでも、どうしてもこの部屋を調べる必要があるのだ。

「私はバスルームを調べてこよう」
恐怖のためか寒さのためか、小林さんは震えるような口調で言い、入口のすぐ脇にあるバスルームに消えた。
が、彼がそうしても、今日子さんも美樹本さんも動こうとはしなかった。
ただ田中さんの死体を気持ち悪そうに見下ろし、顔を歪めているだけだ。
……無理もない話だが。
「今日子さん……本当にこの人が、秋に自然散策に来た人なんですか?」
「ええ。……間違いないわ、この人よ。でも、どうしてこんなことに……」
今日子さんは目を細め、恐ろしそうに答えた。

ぼくは、少しでも早くこの部屋を調べ終えて戻りたかったので、まずはクローゼットのカーテンを開けた。
ぼくがそうすると、ようやく今日子さんと美樹本さんも動き出した。
今日子さんは窓際に行き、美樹本さんは田中さんが横たわるベッドの下を調べる。

クローゼットの中では、田中さんが食堂で着ていたあの黒いトレンチコートが揺れていた。
そのコートのポケットを、慎重に探っていく。
すると、内ポケットから財布が見つかった。取り出して中を調べる。
財布自体は10万円ほど入っているだけで取り立てて変わったところはなかったが、中に免許証入れがあった。考えてみれば、車に乗ってきたのだから、免許証は持っていて当たり前だ。
その免許証をケースから取り出すと、写真と本人を照合するべく、またあのひどい死体に目をやる。……切り裂かれているといっても、顔がわからなくなるほどではないので、確認できた。確かに同一人物だ。
免許証の名前は「草薙博之」となっている。生年月日から計算すると43歳で、本籍、現住所とも横浜市だ。念のため裏返してみたが、住所などの変更の届け出をした形跡はない。
どうやら、宿帳に書かれていたことはほとんど虚偽だったらしい。職業だけは免許証からはわからないが、これでは「会社員」などというのもはなはだ信憑性に欠けると判断した方がいいだろう。
……田中さん(本名は草薙さんらしいが、便宜上そう呼んでおこう)は、秋にここに来たときから身元を偽っていたことになる。
やはり、ただの自然散策などではなく、何か別の目的があったに違いない。

その「目的」がわかるようなものが見つからないかどうか調べるために、ぼくは免許証をケースに納め、さらに財布ごとコートの内ポケットに戻してから、その下に置かれたバッグに手を伸ばした。
大きなスキー用のバッグだが、この田中さんがスキーに来たとは到底思えない。
頭をひねりながらバッグをひっぱり出し、開けてみる――。
中身は着替えばかりだった。Yシャツ、背広、ズボン、ネクタイ、靴下、下着――そんな物がやたらとたくさん入っている。
ぼくはそれらを全部バッグから出し、ひとつひとつ詳しく調べたが、麻薬や拳銃が隠してあったりすることはなかった。
しかし、この着替えの多さは何か気になる。
「小林さーん」
ぼくはその場から小林さんを呼んだ。
「どうした?」
バスルームからエコーのかかった返事が来る。
「ちょっと聞きたいんですけど、田中さんは何泊する予定だったんですか?」
「えーと……今夜だけだよ」
少しして、彼はそう答えをよこした。
「でも、ぼくは今バッグを調べてるんですけど、それにしては着替えをすごくたくさん持ってるんですよ。どういうことなんでしょうね」
「出張の帰りにここに寄ったか、あるいは明日から別のどこかに行く予定だったんじゃないかな。そういうお客さんもよくいるから」
そう考えると辻褄は合う。事件とはあまり関係がなさそうだと判断したぼくは、着替えを元に戻してバッグを閉めた。

続いて、バッグの脇のポケットを調べる。そこからは黒い表紙の手帳が出てきた。
これは何かの手がかりになりそうだ、と期待して開いてみる。
……ほとんどのページが白紙のままだったが、ただ1ページだけ、「22日午後3時」という日時と、どこかの電話番号が書かれているページがあった。
22日は今日だ。今日の午後3時に何かあったのだろうか?

「それは何?」
そのとき、今日子さんがぼくのもとにやってきてたずねた。
彼女の声に反応して、田中さんの死体をじっと見ていた美樹本さんも立ち上がってぼくのところに来る。
「田中さんの手帳みたいです。バッグのポケットにあったんですけど、このページ以外は何も書いてないみたいで……」
ぼくがそのページを開いてふたりに見せたとき、ちょうど小林さんがバスルームから出てきた。
「あなた、田中さんの手帳があったんですって」
今日子さんが言うと、小林さんもすぐに寄ってきた。
そして、4人で問題のページをのぞき込む。
「ああ、こりゃうちの番号だよ」
電話番号のことを小林さんが指摘した。
「ここの番号? じゃあ、今日の午後3時っていうのは……?」
「午後3時はチェックイン開始の時間だ。このページは、ここに来る予定を書いてあるだけなんじゃないかな」
……ぼくは拍子抜けした。これも大した手がかりになりそうにない。

「カレンダーのところは見たかい?」
美樹本さんが質問してくる。
「いえ、まだはっきりとは……」
答えながらぼくは、カレンダーのページをパラパラとめくった。
やはり何も書かれてないな……あ、何か書き込みがあったぞ。
ぼくはそこで手を止めた。9月のページで、22日のところに青いペンで丸がつけられている。
「9月22日……何があったんだろう」
「ひょっとして……」
ふと、今日子さんが口にした。
「前に田中さんがここに来た日がそれくらいの頃だったような気がするんだけど……」
「……ああ、確かそのあたりだ」
小林さんも、思い出しつつそう言った。
「あ、じゃあさっきの『22日午後3時』っていうのは、今日じゃなくて9月の22日なのかもしれないね」
と美樹本さん。
ぼくはそれにうなずいたが、正直がっかりしていた。
田中さんは、ここに来た理由がわかるような物を何ひとつ残していないようだ。
ひょっとしたら今着ている服のポケットとかに入っていたりするのかもしれないが、いくら何でもそれを調べるには勇気が足りない。
「もうこれは戻しておきます。何の手がかりにもなりませんでしたし」
みんなが納得したので、ぼくは手帳をバッグの脇のポケットに戻し、バッグごとクローゼットの中に押し込むと、カーテンを閉めた。

 

 

そうして一区切りつくと、自然とぼくたちの視線は死体に向いてしまった。
あたり一面にあふれ出した血は、発見したときよりだいぶ黒ずんできている。
見ているだけで気持ち悪くなってくるのに、なぜか目をそらすことができない。
そして、みんな口を手で押さえるのだ。

「そういえば……」
口から手を放し、美樹本さんがつぶやいた。
「どうしたんですか?」
「さっき思ったんだけど、田中さんは本当に切りつけられて殺されたのかなあ」
そうに決まってるじゃないですか、と返そうとしてぼくはやめた。自分の考えに固執してしまうと、そこから新しいことは何もわからなくなるからだ。どんな可能性でも考えた方がいいと思い、首をひねるだけにとどめた。
「どういうことですか?」
小林さんがたずねる。
すると美樹本さんは田中さんの脇に移動し、ひどく切りつけられた顔を見下ろした。
「普通、切りつけて人を殺すときは、頸動脈かどこかを狙いませんか? 顔をこうして切り裂いただけじゃ、ひどい怪我はするでしょうが、致命傷にはならないと思うんですよ」
彼の言うことはもっともだった。
「と、申しますと……」
小林さんが、何かを考えつつ相槌を打つ。
「つまり、田中さんも春子さんも、別の方法で殺されてから切りつけられたんじゃないか、とそう思うんです」
「どうして切りつける必要があったんでしょう?」
ぼくはたずねた。
「そこまではわからないよ。でも、そう考えると、俊夫くんが切りつけられていなかった理由がわかるじゃないか。きっと犯人は、彼も同じように殺してから切りつけたかったんだろうけど、手元に刃物がなかったか時間がなかったかの理由でできなかったんだ」
想像の域を出ない推理だが、納得できなくはない。
が、そうするとやはり、田中さんと春子さんを殺した犯人と、俊夫さんを殺した犯人は同じということになる。
アリバイから考えて、それはありえないはずなのに……。
「……もし美樹本さんの推理が正しいとしたら、犯人は、本当の死因をごまかそうとしたのかもしれないな」
小林さんが低くつぶやく。
「それで、殺した後で顔を切り裂いた……」
ぼくが続けると、彼はうなずいた。
「しかし、それならどうして頸動脈を切りつけなかったんだろう。そうすれば、明らかに死因がそっちにあると思わせられるのに」

……美樹本さんがやたらと頸動脈にこだわるので、ぼくはつい恐ろしいことを想像してしまった。
カミソリを持った謎の人物。
脅えて抵抗する田中さん。
しかし抵抗も虚しく、その人物が凶器を振り上げる。
カミソリは田中さんの頸動脈を直撃し、激しい血しぶきがあたり一面を真っ赤に染める……。
……ん?
「美樹本さん、犯人が頸動脈を切りつけなかったのは、返り血を浴びたくなかったからじゃないでしょうか?」
「……ああ! そうだ! そう考えれば納得がいく!」
美樹本さんは自分の疑問が解決したため、目の前が急激に開けたような表情をした。
が、この推理もやはり想像にすぎない。
それがわかっているぼくは、彼と同じように喜ぶわけにはいかなかった。

ふと、今日子さんはどうしたのだろうと思って見てみると、彼女はさっきぼくが調べていたクローゼットのカーテンを再び開け、例の大きなバッグを見下ろしていた。
「どうしたんだ?」
ぼくの視線を追って今日子さんに行き着いたらしい小林さんが、いぶかしげにたずねる。
「ううん、大したことじゃないわ。ちょっと気になっただけよ」
「気になったって、何がだ?」
小林さんが突っ込むと、今日子さんはバッグに目を向けたまま言った。
「田中さんがこれから出張に行くところだったり、あるいは帰ってきたところだったりしたら、こんなスキー用のバッグを持っているかしら。普段からこれを持って歩くのはちょっと……」
「たくさん入って便利だから使っていたんじゃないか? 持ち歩かなくても、コインロッカーに預けるとか、方法はいくらでもあるだろう」
「……そうよね」
今日子さんは小林さんの意見に納得し、クローゼットのカーテンを閉めた。
……また新しい手がかりにはならなかった。

ぼくは手詰まりを感じて、みんなの顔を見まわしてみた。誰の顔も、ひどくやつれているように見えた。
やはりこんな寒い、しかも惨殺死体のある部屋に長くいるのは、肉体的にも精神的にもよくない。もう戻るべきだろう。
「……みなさん、ついてきてくださってありがとうございました。もう談話室に戻ろうかと思います。科学捜査もできないぼくたちには、これ以上打つ手はありませんよ」
ぼくが言うと、3人ともすぐに承知した。どうやらみんな同じ気持ちだったらしい。

ぼくたち4人は廊下に出た。
そして小林さんが部屋の明かりを消し、ノブのボタンを押してドアを閉めた。

 

 

階段のすぐ手前まで来たところで、ぼくはふと微かな声を聞いた。
「……ん?」
「どうしたんだい?」
美樹本さんが聞く。それで、先を歩いていた小林夫妻も立ち止まって振り向いた。
「いえ、何か声みたいなものが聞こえたんですが……」
言ったそのとき、ぼくはまた聞いた。……はっきりと、猫の鳴き声とわかる声を。
「……猫?」
「ジェニーだわ!」
今日子さんが叫ぶと、全員がきょろきょろとあたりを見まわした。
……が、あたりといっても、目につくのは廊下の突き当たりにある物置くらいのものだ。
「あの中に……?」
小林さんが、不思議そうな声を出しながら物置に近づいた。ぼくたち3人も後を追う。

小林さんは物置のドアを開けた。
中にはほうきやモップ、ちりとり、バケツなどの掃除用具が入っている。
そして、そのすきまから……のっそりと黒い塊が現れた。
「ジェニー!」
その姿を確認した今日子さんが安堵の声を出して手を伸ばすと、黒い塊――ジェニーは、その中へと駆けてきた。
「こんなところに入り込んでいたのか……」
廊下に膝をついて座り、物置の中を深くのぞき込みながら、小林さんが言った。

「……おかしいな。ペンション内の探索のときは、ここには猫なんていなかったのに。開けてみんなでのぞき込んで調べたから間違いないよ」
美樹本さんが、不可解といった感じでつぶやいた。
ぼくは探索に参加しなかったので直接は感じられなかったが、確かにそれはおかしな点だった。物置のドアがきっちり閉められていた以上、ジェニーがあの探索以降に自分でここに入り込めたはずはない。
「その後で犯人が閉じ込めたんじゃないですか?」
そう考えるのが一番まともだったので、ぼくは言った。
「どうしてだ?」
膝をついた体勢のまま、小林さんがぼくを振り返ってたずねたが、もちろんぼくがその答えなど知っているはずもない。

ぼくが黙っていると、小林さんは立ち上がり、物置のドアを閉めた。
「中には特に怪しい点はないようだ。……それより、ジェニーも見つかったことだし、もう下に戻ろう」
今日子さんと美樹本さんが賛成する。ぼくもそれに納得してうなずいた。

小林さんが最初に階段に向かった。
彼に続いてジェニーを抱いた今日子さんが、不可解な表情のままの美樹本さんが、最後にぼくが階段を下りた。


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