第15章 遅すぎた愛
「ジェニー!」
今日子さんの腕に抱かれたジェニーを見て、みどりさんは少しだけ笑顔を戻した。
今日子さんが手を放すと、ジェニーはみどりさんの方に駆けていった。
みどりさんは床に座り込み、手を伸ばして抱き留める。やはり、ジェニーを一番大切にしていたのは彼女だったようだ。
……いや、それだけではなく、俊夫さんを失ってしまった今、彼女が信じられるのはこのジェニーだけなのかもしれない。
ジェニーがこの事件に一枚かんでいるかもしれないようなことを美樹本さんは言っていたが、それが事実でなければいいのに、とぼくは心から思った。
小林さんが、2階でのことを談話室待機組の全員に話した。
田中さんがここに来た理由はついにわからなかったこと、殺され方に関する美樹本さんの推理、そしてジェニーの行方について。
「猫が物置におったやて? 何でやねん」
香山さんが実に不思議そうに言った。
「あそこを探索した後に、犯人が閉じ込めたんじゃないでしょうか?」
「まともに考えればそうやな。鳴かれたら困るよって。……せやけど、ほなその犯人はいったい誰なんや。わからんのか?」
わかるわけがない、とぼくは思った。
あれこれと憶測は飛んでいるものの、決定的なことは何ひとつわからない。春子さんと田中さん、そして俊夫さんが同じ犯人に殺されたのかどうかさえ、まだはっきりしていないのだ。
ぼくは考えた。
もし犯人がジェニーをあの物置に閉じ込めたのだとしたら、犯人はペンション内部の探索以降に2階に行った人であるはずだ。それは誰だろう。
まず、香山さんを除く男4人でペンションの外を調べに行ったが、そうするに当たってぼくと美樹本さんは、着替えるためにそれぞれ2階の自分の部屋に戻っている。ぼくはもちろん犯人ではないが。
続いて、トイレに行くと言って自分たちの部屋に戻ったOL3人組。
そしてさらに疑えば、たった今行った小林夫妻も含むことになるが、彼らは2階でずっとぼくの目の届く範囲にいて、ジェニーを発見する直前まで物置に近づいていないことは明らかなので、除外していいだろう。
すると犯人は、美樹本さんかOL3人組ということになるのだろうか?
……わからない。
春子さんと田中さんの事件のアリバイが怪しいのは啓子ちゃんとみどりさん、香山さん。
俊夫さんの事件でアリバイがないのは小林夫妻。
そして、このジェニーを基準とした推理で怪しいのは美樹本さんとOL3人組……。
ほとんど全員が含まれてしまうではないか。
……ぼくは、この談話室にいる誰を信じていいのかわからなくなっていた。
自分以外で唯一犯人ではありえない真理でさえ信じられなくなりそうで、ソファーに体を埋めたまま、ずっとうつむいていた。
さらに、自分自身までもが偽りの塊のように思えて、何度となく首を横に振った……。
……どれくらい経っただろう。
鳩時計が1回鳴ったのを聞いて、ぼくは顔を上げた。同じことをしている人が何人かいた。
時間は、いつのまにか夜の11時半になっていた。
そんなとき、ふと口を開いた人がいた。
「……部屋に戻らせてもらえませんか」
美樹本さんだった。
その意外なセリフと驚くほど静かな口調に、ジェニーを抱いたまますすり泣いていたみどりさん以外、全員が彼の方を見た。
「何のためにですか?」
小林さんがたずねると、美樹本さんはさっと答えた。
「寝るためですよ。眠くてしょうがないんです」
こんなことがあった後ではとても眠れない、とぼくは思っていたのだが、彼はそうではなかったらしい。習慣的に寝る時間が早いのか、あるいはいろいろとあって疲れきっているのかもしれない。
「……お部屋には戻られない方がよろしいかと思います。特に美樹本さんはおひとりなんですから」
小林さんは無難な返事をしたが、そこで亜希ちゃんが大声で口をはさんだ。
「あたしも戻りたい! こんなところで朝まで過ごすなんていやよ! もしうっかり眠っちゃったりしたら、殺されるに決まってるもの!」
「亜希!」
両側の可奈子ちゃんと啓子ちゃんが亜希ちゃんをたしなめたが、彼女たちふたりの目も眠そうで、自覚せずとも部屋に戻ることを望んでいるように見えた。
それを小林さんも察したのだろう、談話室のみんなに言った。
「……みなさんにお伺いしますが、ご自分のお部屋に戻って休みたいという方はどれくらいいらっしゃいます?」
美樹本さんと亜希ちゃんが素早く手を挙げ、その勢いを見て、可奈子ちゃんと啓子ちゃんが恐る恐る続く。
やがて真理も手を挙げたので、ぼくも同じことをした。
そして、スタッフである今日子さんも、床に座り込んだままのみどりさんも。
手を挙げていないのは、小林さん自身を除けば香山さんだけになった。確かに、彼の部屋では春子さんが変わり果てているので、あそこに戻って眠りたいわけはないだろう。
「香山さんは?」
小林さんがたずねる。
「わしかて戻りたいわ。……春子さえ無事やったらな」
思った通りだった。
すると小林さんはフロントに行き、そこから鍵をひとつ持ってきた。
「香山さんには別のお部屋をご用意しましょう。……それではみなさん、お戻りになってくださって結構です」
美樹本さんと亜希ちゃんが先を争うようにさっと立ったので、そこで小林さんは慌てて続けた。
「待ってください、ひとつお願いがあります。お部屋にはしっかり鍵をかけて、さらにベッドのひとつを入口のドアにつけておいてほしいんです。そうすれば、例え犯人が鍵を持っていたとしても絶対に開けられませんから」
それを聞いて、ぼくは恐怖感が少し緩むのを感じた。それなら夜中に襲われる心配はない。
ぼくはみんなと一緒にうなずいた。
美樹本さんとOL3人組が逃げるように2階に上がり、香山さんがゆっくりとそれに続いた。
新しい部屋の準備をするためか、小林夫妻もついていく。
「あたしたちも……」
真理が立ったのでぼくもそうしたが――。
ここでぼくたちが2階に上がってしまうと、小林夫妻が下りてくるまでの間、みどりさんがひとりで残されてしまう。
ぼくはそれが心配になり、歩き出そうとした足を止めてみどりさんを振り返った。
その心情をわかってくれたのか、真理も同じことをする。
みどりさんは、相変わらず床に座り込んだままだった。
ジェニーの頭をなでながら、放心状態といった感じでフローリングの木目を眺めている。
「みどりさん……」
ぼくが声をかけると、彼女は顔を上げてぼくを見た。
「透くん……どうして俊夫くんが殺されなきゃいけないの? あなた頭いいんでしょ、推理してよ……!」
――その声は、「悲しみに満ちている」なんて表現じゃとても足りないほどだった。そんな声にどう答えたらいいかわからず、ぼくは真理を見た。
彼女も困っているようだったので、ぼくはすまないという気持ちを込めてみどりさんに言った。
「ぼくは、俊夫さんのことをよく知りませんから……すみません」
すると、ぼくよりは俊夫さんを知っているだろう真理が、そっとたずねた。
「みどりさん。……こういうこと聞いていいかどうかわからないけど、推理の参考にしたいから答えてくれる?」
「何でも聞いて。知ってれば何でも答えるわ」
「……あなたは、俊夫さんのことを好きだったの?」
みどりさんは、はっきりとうなずいた。――しかし、その後にこう続けたのだった。
「でも、それに気付いたのはたったさっきなの。俊夫くんがあたしの気持ちに応えてくれなくなってからなのよ……!!」
彼女が涙を必死に抑えようとしているのがわかった。
が、その努力も虚しく、彼女の頬を、次から次へと光るものが伝った……。
何もない空間を見つめながら、彼女はさらに続けた。
「……俊夫くんは、何度もあたしに好きだって言ってくれた。でもあたしは、それを受け入れられなかった。彼があたしにそう言ってくれればくれるほど、自分の気持ちがわからなくなったからなの。自分を見失って……誰が一番大切なのかが自覚できなくなっていたわ。それなのに……」
ぼくはやりきれない気持ちになった。
取り返しがつかなくなってから気付くことというのは確かにある。しかもそれは皮肉なことに、大切なものや大きなものであることが多い。
が、みどりさんのそれはあまりにも大切すぎ、そして大きすぎたのだ。
誰かを永遠に失ってから、その人を愛していたことに気付く――それはおそらく、すでに相思相愛だった恋人を亡くすよりも悲しいことであるに違いない。
――しかし、ぼくがそんな風にがらでもなく沈んでいると、みどりさんは静かに涙を拭い、力強く口にした。
「……でもあたしは、気付くのが遅かったことを悔やんだりはしないわ」
ぼくはまた彼女の瞳を見た。今度はちゃんと焦点が合い、ぼくと真理をしっかり見据えていた。
「あたしが持つ感情はただひとつ、犯人に対する憎しみだけよ。あたしは絶対に犯人を許さない。例えどんな事情があったとしてもね」
彼女の背後で炎が燃え上がっているように感じられた。
それはぼくに、こんな強さは自分には到底持てないだろう、と思わせた……。
「ねえ、透くん」
そして彼女は、ぼくを呼んだ。
「は、はい」
「ジェニーは、犯人に物置に閉じ込められたの?」
「そう……だと思いますけど、ぼくは」
「だとしたら、ジェニーは犯人を見てるはずよね……」
そしてみどりさんは、自分の腕の中のジェニーを見つめた。
あの猫が犯人を見ていたとしたら、何とかそれを教えてもらう方法はないものだろうか? ……ぼくは真剣にそう考えた。
「……ねえ、ジェニー。あんた、俊夫くんを殺した犯人を見てるんでしょ? あたしの言ってることがわかるなら、教えてよ。そいつんとこ行って、ひっかくかどうかしてよ……!」
……しかしジェニーは、懇願するみどりさんに抱かれたまま、にゃあにゃあと鳴き続けているだけだった。
永遠とも思えるような時間が過ぎた後、小林夫妻が2階から下りてきた。
「あ……透くんも真理も、まだいたのか。みんな部屋に戻ったんだから、君たちももう休んだ方がいいんじゃないか?」
さっきは部屋に戻らない方がいいと主張していた小林さんなのに、今度は逆のことを言っている。が、その場その場で一番的確な行動を考えるのも、ここのオーナーである彼の義務なのだろう。
「ええ……はい」
ぼくが答え、隣の真理がうなずく。
「じゃ、私たちも……」
今日子さんが、小林さんの肘をそっとつかんで促した。
「ああ、そうだな。……篠崎くんは? もしひとりになるのが怖いなら、私たちの部屋に来てもいいんだぞ」
小林さんは親切のつもりだったのだろうが、みどりさんは顔を上げて彼を見つめ、悲しげに答えた。
「いいえ、ひとりで寝られます。今までだって、ずっとずっとひとりだったんですから」
彼女は立ち上がると、ぼくに視線を移した。
「透くん……真理ちゃんをひとりにしないでね。朝まで一緒にいてあげてね……」
予想もしていなかったセリフを耳にして、ぼくは真理を振り返った。……彼女はぼくの視線を受けて、そっとうなずいた。
「……わかりました」
ぼくが答えると、みどりさんは「よかった」と少し微笑んだ。
「……じゃあ、もう寝ることにしよう。おやすみ」
安心させるように今日子さんの背中をさすりながら、小林さんが小声で言った。
「おやすみなさい」
ぼくも、真理も、そしてみどりさんもそう言い合った。
小林夫妻が3人そろって奥に消えるのを見届けると、ぼくは真理に改めてたずねた。
「真理……いいのか? ぼくと一緒で」
「うん。……ひとりになるのはやっぱり怖いもの。あたしの部屋に来て、朝まで起きててよ」
ぼくはうなずいた。徐々に眠気が襲ってきていたのだが、やはりこんな夜に眠れるとは思えない。
談話室の明かりをそのままにして、ぼくたちは階段に足をかけ、ゆっくりと上っていった。