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ひとりごと その1 (2006/08)

2006/08/31
三番目の子が一歳半ぐらいのころの家族旅行のビデオが残っている。
秩父の名栗川だろうと思う。 うまい具合にだれも来ない、いいポイントを見つけて一日河遊びをして帰ってきた。 三人の子供たちは浅瀬の河原で遊んでいる。 長男のちんぽこのシーン、二番目の食いしん坊のシーン、三番目のポンポコリンのお腹のシーン、どれも懐かしい。 ビデオにはないが、三番目が2〜3才の頃、海岸の砂浜で自分の子供三人を相手に「アブラハム体操」をしたことがある。 三番目が踊りの途中でひっくり返った。 それでもひっくり返ったまま踊り続けたことを思い出す。 よっぽども嬉しかったのだろう。 その嬉しそうな三番目の子を見て僕は最高の幸せを味わった。
うちの子供は全部学校の成績が悪い。 
この間、パソコンの先生に、とろくてどうしようもないノートPCのCPUとかというメモリー(?)を増やしてもらった。 いきなり早く作動するようになった。 僕は専門家ではないからよく分からないが、どうも脳もそれに似た機能があるような感じがする。 脳みその分量は確かにみな同じなのだが、脳みそを使う何かがうちの子供たちはとろい。 どうも遺伝的なものがあると思う。
長男が幼稚園の年長さんだったころ、運動会の本番での遊戯の途中で砂いじりを始めてしまうシーンがビデオに残っている。 その当時、何をさぼってるんだろうかと思っていたが、そうではない。 自分の課題を理解できていないのだ。 二番目は5年生のときに家出をした。 何が本当の原因かそのときには分からなかったが、どうやら授業についていけないストレスが大きかったようだ。 三番目の子は小学校へ上がる時点で児童相談所の専門の方に知能テストを受けることになった。 そのときに、完全に授業についていけませんが普通の学校へ行ってもいいでしょう。 焦らないでください。 理解できるようには遅いですがなります。 と言われた。
僕はショックだったが、専門家のアドバイスに感謝した。 不要な心配をしないで済む。 三番目は、無理に学習させることなく毎日路地裏で近所の子供たちと歓声を上げた。 その子が九九を覚えたのは、ナント、中学三年生の夏休みだった。

2006/08/30
三番目が産まれてカメラマンで仕事があったりなかったり、嵐の中の小船のような生活だった。
昔の友達が言った。 スキーなんかしなければ簡単に家が買えただろうに。 たしかに収入を全部気持ちよく遊んで使ってしまった。 おかげで風呂のない二間のアパートにずっと住んでいる。 子供が三人になって住環境が一番の問題になっていた。 今でもそこに住んでいる。 しかし、今は四番目の子が一人いるだけなので特に不自由はない。
最近になってその古い友達が言った。 いいよな、お前みたいに好き勝手に生きられて・・・。 だから僕はいった。 簡単だよ。 貧乏生活をすればいい。
しかし、そのころは、ともかく手狭のアパート生活をどう改善させるか優先順位一番の問題だった。 そして、計画ではアパートで隣の部屋を借り足すことにし、そのために売上を伸ばす具体的な案を練った。 そして実行した。
「卒業ビデオアルバム」制作をすでに開発していて2〜3件手掛けていた。 それを営業展開して一気に10件こなした。 しかし、やって分かったことだが、それだけの件数を一人で扱うと重なった取材を誰かに頼まなければならなくなる。
知り合いのカメラマン、同業者、今だから言えるが現職の幼稚園の先生。 極めつけは園長先生のお子さん!? これ本当の話だ。
それで結果は大赤字を出してしまった。 トホホのお話だ。
ビデオナー・ビズネットというビデオ屋の集いの幹部をもう10年しているが、ビデオ屋を目指す方で一番つまずくのがこの営業だ。 それで、営業ができないから機材に、エフェクタに、こだわる傾向が見受けられる。 しかし、商売である以上それらの小手先のごまかしでは喰ってはいけない。 プロがプロであるためには「営業」が一番の要となる。
そして、若い人は特にこの営業が嫌いな様子だ。 人との関わりが苦手と言う新聞の記事がうなずける。 変な話し、これも育てられ方の問題だ。
僕は、手に職を身に付けたくてビデオ屋になったが、正直下手だ。 しかし、こうして生きてこられたのは営業のおかげだ。
とっても不思議なことだ。 僕の一番身についていた技術は、「営業」だったのである。
本当に青い鳥は、目の前にあるものだ。

2006/08/29
企業に理念、戦略、戦術、という言葉の作戦があるが、お父さんの役割はその家族の理念、戦略を練ることにある。 母親は主に戦術家だ。 この違いを良く理解できて実行できる家族はバランスの良い安定した平安を築くことだろう。 僕はバランスの欠いた家庭にしてしまった。 
そして、ニートが85万人。 30代のうつ病の増加という現象は僕と同じトラブルを日本中で起こしているのだろうと思う。 これを打破するためには、なんとしてもお父さんが本来の役割を、つまり優しい「パパ」ではなく「オヤジ」として家庭に機能しなければならないのだろうと強く思う。 オヤジが女々しいのでは困ったものなのだ。 地震、雷、火事、オヤジ。 しかしオヤジは怖くても虐待はしない。 何が怖いのだろうか。 それは生きることへの真実を貫こうとする姿ではないだろうか。 どうだろう?

2006/08/28
朝日新聞の報道では、今やニートは85万人だそうだ。
育て方の問題だ。
母親の甘やかし、それを見逃す父親。 どうやらこれは僕の問題だけではない。 母親の甘やかしの暴走を食い止められるのは父親の役目であり、それこそ父親の子育てになる。 決して母親と一緒にエプロンを着て台所に立つことではない。
父親の役割、それをここではテーマにしている。

Snowmen camp club の活動で埼玉は戸田、道満グリーンパークで月一回の割でディキャンプをしている。
この活動の目的は、お父さんに子供と遊ぶキッカケ作りの場を提供することだ。
僕もそうだったが、子供とどう遊べばいいか分からないお父さんは、実は多い。 ついつい、気楽なレジャーで子供と遊んだつもりになってしまう。 それでは子供の心は強く育たない。 僕がそれを実証した。
昨日のディキャンには、幼稚園年長さん、小三、小六、の三人の子が集まって工作物に挑戦した。
小六の子のために、今回、うちの四番目の、この間ジャンボリーから帰った子を連れて行った。
四番目の子は、小六の子に一生懸命竹と紐で小さなテーブルの作り方を教えてくれた。 四番目の子は、そうやって自分より小さい子の面倒を見ることで心が育っていく。 本人もそのことを知っている。
ボーイスカウトの世界では、こうしたことを「奉仕のチャンスをいただき、ありがとう」という気持ちを起こすよう教育する。

2006/08/27
脱サラして僕の30代は、ビデオ屋家業の修行の十年だった。 子供たちの様子をみる余裕などなかった。 それでもディキャンプとサイクリングは楽しめた。 
今思うと、実は子供だけではなく家内が子供と接する様子も見逃していた。
僕自身の子育ては、かなりスパルタだ。 しかし、家内は絶対にしてはならない甘やかしを毎日していた。 子供上二人は、両極端の夫婦の影響を受けて育った。
甘やかしとは、何だろうか。 それは、本人がちょっと頑張れば出来るはずだろうことを大人が余計な世話をすることだ。 例えば、小学校高学年の子のズボンを母親がはかせる、とか。 実際に目の前で起こったことだ。 幼稚園の遠足で子供が転んで、母親が起こしてあげるとか、これはかなり多い。 うちの場合、「かわいそうに」という言葉がけとともに、朝子供を起こさない。 布団の上げ下げから、おかたずけ、着替えも当然のようにいつまでも母親がしていたようだ。
母親は、甘やかしこそ愛情と履き違えている。 これは今でもうっかりすと、そうする。

2006/08/26
今までに何人かの若者が僕のところにビデオを学びにきたことがある。 
残念だが一人も育てられていない。 一番の理由は、本人がもっと簡単に商売が出来ると気楽に考えていることだろう。 僕は、自分が学ぶのにちょうどいい教科書がなかった。 だから自分で作った。 それが「卒業ビデオアルバム制作」という本だ。 営業も含めて広く浅くしかも重要なポイントを押さえたつもりだ。 ある幼稚園の園長先生にお願いして徹夜で輪転機を回して作った。 まったくの手作りだ。 そこの園長先生も徹夜で手伝ってくださった。 その本を使って若者に教えたのだが、そもそもベーシックな基本を覚えようとしてくれなかった。 そして「営業」になると去っていく。
ビデオ屋家業4〜5年でギャラ仕事でなんとか食べられるようになった。 そこまででも本当に苦しかった。 しかし、いつまでもギャラで生活をしているわけにはいかない。 営業して幼稚園を一軒づつ開拓した。 自分の幼稚園を一軒、また一軒、とつかむうちにギャラ仕事を断らなければならねくなった。 自分の幼稚園だけではとても売上が足らない。 しかもギャラ仕事はどんどん減っていく。 必死に営業開拓をした。 このときが一番仕事上で苦しかった。 とても子供の面倒をみることができなかった。 それでも乗り越えられたのは子供の存在だ。 こいつらに飯を喰わせなくっちゃ、そういう思いがどんな苦しさをも立ち向かうエネルギーになった。 今の若者たちは、これが不足しているのだと思う。 ハングリー精神だ。 
気楽に快適で安全な毎日しか体験できていないと堂々と何かにチャレンジする精神は育たない。 それが極端に甘やかすとニートになるのだ。 そういう僕も上二人をつまずかさせてしまった。

2006/08/25
仕事の技術的なことは、現場のたたき上げで学んだ。 現場ではどうしても分からないことで台本があった。 通信教育でシナリオを学んだ。 絵作りでよくつまずいた。 高校のときに美術部だったので思い出しては悩んだり・・・よく夢を見たものだった。 高いところは大嫌いなのに空を飛んでいる夢も見た。 頻繁に見た。 ギャラは多いときには50万を越したが、無いときにはさっぱりなかった。 フリーのカメラマンだから当たり前だが、10年続けたサラリーマンの性、そう簡単にはぬけない。 給料袋をもらう夢も良く見た。 そんなとき、ショッキングな夢を一つ見た。
僕は必死に電柱を登っている。 長男を担いでいる。 長男に「しっかりつかまっていろ、頑張れ」と励ましている。 長男の息を感じる。 電柱の棒を僕は一本、また一本、と握りしめ登る。 するとあろうことか、長男が落っこちていく。 夢で心臓が止まりそうな思いは今のところこれだけだ。 しかし、不思議なことに長男ははるか下界でピンピンしていてどこかへ行ってしまう。
この夢はたぶん長男が小学校2〜3年生のころだと思う。 克明に今でも覚えている。 そしてこれが正夢となる。

2006/08/24
そのころはまだバブル景気が残っている頃で、仕事も次第に増えていった。 放送とは違うビデオの仕事を、放送関係者は「パッケージ」と呼んで見下していた。 しかし、その需要は、始めのころは、金融商品の紹介ビデオ、それがリクルートビデオで一気に花が咲いた。 ハウツー物も僕の好きなスキーがヒットして一時、1シーズンに100タイトルが市販されるまでになった。 そういう環境だったから仕事はゴロゴロと転がっていた。 どれもギャラ仕事で零細のビデオ屋を渡り歩いた。 多い月には、22〜23日のロケがあったことも、死ぬかと思った。 カメラだけではなく音声や照明もやらさせられた。 おかげで製作現場を広く浅く覚えることが出来た。 仕事が充実していて問題を感じなかったが、実は、子供の様子を見る、正確には、子供を観察することをおろそかにしてしまった。 日々、刻々と変化成長する子供の様子を把握できないと言うのは、まったく親の怠慢だ。 後で苦しむことになる。 そして僕もそのとおりになった。

2006/08/23
男の子三人に囲まれて賑やかで愉快な毎日が過ぎていった。
子猫のように兄弟がじゃれ合っていた。 男兄弟が僕にはないので羨ましいほどだった。
網戸は、直しても三日も経たないうちに破いてくれた。 終いにはアルミサッシごとぶち抜いてくれた。 以来、二十数年蚊取り線香だけが頼りだ。 
大雪の日に江戸川の土手へ三人を連れて行った。 いつまでも雪の上でじゃれ合っていた。 凍傷が心配になって終わらせたのを覚えている。 
三人が食べ盛りになると、米30キロが一週間もたなくなった。 牛乳は朝から2〜3リットルは当たり前。 1リットルの牛乳が3〜4秒でなくなった。 
スキーに連れて行くお金はなかった。 キャンプもディキャンプしかできなかった。 それでも自由業なので夏休みには平日に土手でディキャンをした。 まぁ、くる日もくる日も子供相手に何かをしようとしたが長い夏休み、終いにはネタが切れたものだった。 
ビアンキ社製の24インチのロードレーサー(自転車)に上二人が乗れるようになった。 三番目はお留守番だったが、上二人を連れてオートサイクリング(車で自転車を運んで目的地まで行く)や輪行(自転車をバラして袋に入れて電車で移動)をやった。 三番目は早く自転車に乗りたくて毎日柱に印を付けていた。
いよいよ三番目もビアンキに乗れるようになった。
僕のは、アラン社製のアルミフレームだった。 その後に三人の子がカルガモみたいにビアンキでついて来た。 秋の夕日がまぶしく照らす土手の上で、「お父さん、見て、4人の影が!」と叫んだ。 土手の脇の田んぼに自転車に乗った親子の影が大きく写っていた。 幸せが心の中から爆発するようにあふれ出た。 ナイトランもした。 横須賀あたりまで車で行って三浦半島を半周した。 子供たちは始めての体験で眠い目をこすりこすり走った。 空気が生ぬるかったり、ひんやりしたり、夜の海岸線をスリリングに走った。 朝方雨が降ってきて長男が弟たちをかばう、微笑ましいシーンもあった。

2006/08/22
マザー牧場では、なんとかビッシっと決めたつもりで帰ってきたが、ナント、ビデオ屋の集い−ビデオナー・ビズネット−の例会をサボってしまった。 
先月の勉強会も出られず2ヶ月連続で欠席はたぶん初めてだ。 会長よりたっぷり皮肉の入った「お休みなさい」の電話をいただいた。 これがきっかけでうつ病になるかも・・・

脱サラをする前の一年間は、鬱状態だった。 専門家の話では誰でも"うつ病"になるのだそうだ。 「心の風邪」なんだそうだ。 しかし、それを肺炎までにこじらせる人が増えたそうだ。 8/21付け朝日新聞のトップ記事になるほどに事態は深刻のようだ。 僕の友人もうつ病で苦しんでいる。 また、高校のときの別の友人は、30代でニートになったのもいる。 そこでうつ病とニートを直す本を2冊買って読んだ。 
ビックリした。 著作者が違う、しかも「うつ病」と「ニート」と違うことなのに共通したものを見つけた。 それはどちらの本にも「父親の不在」ということを指摘していた点だ。
ここを読んでいる方は、子育てに興味がある方だろう。 うつ病や、ニートに関する本をぜひお読みになることをお勧めする。 それらになりにくいように予防の意味でぜひよんで欲しい。 そして、心を強く育てるということがいかに子育てで重要か認識して欲しい。
僕は、上二人では、そこを失敗した。 それで反省して下二人は「心を強く」育てられるよう頑張った。

2006/08/18
三番目が産まれた月に脱サラをした。 「子供をビデオで撮って売る商売」を目指したが、いったいどうしていいかまったく分からなかった。 周りの全部の人に「絶対にそんな商売はない。」と言われた。 放送でも映画でもない映像の仕事、確かに見当たらなかった。 ただ、ちらほらと結婚式をビデオで撮るサービスが出始めていた。 嫌いだったがとりあえずそれで食いつないだ。
不思議なもので、そうこうしている内に幼稚園の「お泊り保育」をビデオで撮る仕事が舞い込んできた。 これだ!と思った。 脱サラして1年半後のことだった。 製作技術の問題、営業開拓の問題、生活費の問題、解決しなければならないことが山積みだった。 子供をビデオで撮ることを目指しながら、自分の子を見ることが出来なかった。 まったく矛盾している。 本当によくなかった。 男は仕事が命とよく言うが、子供の世話をしないと後で後悔することになる。 声を大にして訴えたい。

これからまたマザー牧場に出稼ぎに行って来る。 これが最後の5回目だ。 ビッシっと決められますように。

2006/08/17
小学校低学年までの子でも、良く観察するとどれだけ甘やかされているか、どれだけ物質的なことを心のよりどころにしようとしているか分かる。 ただ初心者のお父さんにはそれを見抜く力はあまりないようだ。 つまり子供の成長の様子に気付けない。 僕もそうだった。 良かれと思ってたくさんスキーやキャンプに連れて行ってはいたが、ただのレジャーだったので子供の心に「気楽に遊べるのが当然」を身に付けさせてしまった。 そしてそれはたぶん小学校低学年でその危険信号を出していたはずだったろうが、まったくその頃の僕には分からなかった。
だいたい、心のトラブルは何年か先に現れる。 場合によっては20〜30年後に出てくることもある。

二番目の子がかわいい盛りの二歳ごろ、僕は仕事のことで悩んでいた。
高校を卒業してある零細の広告物の問屋に就職し、そこで営業をしていた。 目標は6年勤続だったが、給料が良かったのでついつい9年を過ぎようとしていた。 営業職だから手に職が付いているわけではない。 給料という金の魅力で自分を磨くことが出来ない。 そういう焦りを感じていた。 この僕が出来る何か特技を生かした仕事をなんとしても見つけよう、そう思い探したがない。
技術的な何かを身につけよう。 焦れば焦るほど袋小路に・・・ ついに鬱状態になった。
そんな時に、二番目の子をビデオで撮ってそれにBGMを付けたら、なんてかわいいことだろうか! 本人を脇に置いてビデオを毎日見た。
本物よりかわいく感じる・・・なんて不思議な体験だろうか。
それで、「子供をビデオで撮って売る商売をしよう」と本気で思いついた。 そして会社を止めた。 そのときに三番目の子が産まれた。
皮肉にも仕事のことで頭が一杯になり子供の様子を見るどころではなくなった。
そして僕の心の支えにしていたスキーサークルも、維持が出来なくなった。

2006/08/16
アイドル歌手が一度覚えた豪華な生活を捨てることが出来ないまま売れなくなる話を聞いたことがある。 先日もうつ病で悩む友人に誘われてスナックへ行った。 そこのお姉さんがテーブルについて日本全国の旅の話と、どうやらマンション住まいであることを語った。 40才、50才、になってもそれを維持できる収入があるのだろうか。 もし、結婚できてもそれを満足させる男を捕まえられればいいけど、質素な男で我慢できるだろうか。 人は豪華な生活を一度でもしたらそれを落とせない。 そういう性がある。 だから金はないよりあった方がいいかもしれないが、いつか金回りが悪くなったときに悲惨な人生になりやすい。 しかも人は、金のとりこになると、それよりもっと多く欲しくなるし、それよりもっと贅沢をしなければ気がすまなくなる。 麻薬のようだ。 金や物を手に入れた瞬間だけ少し幸せな気分になるが、大方欲求不満の人生。 これが僕の答えだ。 
僕の子供上二人は、派手なレジャーが当たり前の生活を植え付けてしまった。 それがどうなったかというと・・・・

2006/08/15
人生に何を求めて生きるのか。 千差万別だ。 ただ、何かを求めようとするときにその人がどう成長できるのか、それが重要だろう。 気楽で安全で楽しいレジャーでは、成長は望めない。 何か物を手に入れて喜ぶ「消費」でしかないから、早晩虚しくなる。 ところが同じ事をしていてもそこに何か得るものがあれば、それは成長の喜びが起こるものだ。
僕は10年間、スキーサークルの音頭取りをした。 仲間意識が起こるようにいろいろな工夫をして活動した。 その中で仲間をビデオで撮って、その日の夕食でそれを上映するのはバカウケだった。 そしてそうしたからこそ僕はビデオ屋になったのだ。 本人の思わぬ展開だが、そこにはカラシダネの一粒ぐらいの成長があった。
ところが、連れて行ってた子供たちにとってはただのレジャーだった。 
さぁ、どういうことがレジャーで、どうすれば成長の場になるのだろうか。 
考えていこう。 

2006/08/14
マザー牧場でキャンプする予定だったが、ものすごい雷雨。 テントサイトにあったバケツに12cmの雨が一気に溜まった。 雷はほとんど光ると同時に音がした。 この企画の担当者が調整をして近くの禅道場に避難することになった。 多少の雷雨は今までにあったがこれほど激しい天候は初めてだ。
ところでここの住職は確か、高橋さんと言ったと思う。 その禅道場では一度もお見掛けしたことがないが(幼稚園のお泊り保育で何回も行っている)越谷界隈で住職のお話を聞いたことがある。 何でもその当時年間何百回かの講演に出向くそうだ。 
そのときの講演の話口にものすごいインパクトがあった。 住職は開口一番、「私は仏教が大嫌いです」と言った。 インパクトあるでしょう? 
住職の田舎では、代々お世話になっている寺の子が大学に行くからと言ってはお布施。 何かあると言ってはお布施。 それで家計がずいぶん苦しかったそうで、それで大嫌いになったとか。 ところが住職が自立して何かの縁で出会ったのがお坊さん。 そしてその方の人柄が気に入ってその道に入ったそうだ。 後は何をお話しされたのか覚えていない。
人は生きるのに誰でも必ず「心の支え」が必要だ。 小泉首相は靖国神社、高橋住職は師。 お金を心の支えにしている方もいる。 僕のようにスキーという遊びを支えにすることも。 仕事に命を掛ける人もいる。 
その人が心の支えにしているものを批判するととんでもないことになる。
今まで一番強烈な反応を示したのは、お金だろう。
この間も、「お金はないよりあったほうがいいに決まっている。 本当にそうだろうか。」と言っただけで噛み付くように怒り出す人に会った。
おそらく高橋住職を悩ませたその寺の主と同じかも。 
この「ビデオマンのひとりごと」でも冒頭にそのフレーズを入れたのは、お金を心の支えにしている方がこれを読んでも極めて不愉快な思いをするだけだから始めに基調をご案内させていただいた。
もしかしたらお一人ぐらいは読み続けてくれているとしたら、その方はお金以外に、人生に何かを求めたい気持ちがあるのだろうと思う。
たぶんそういう方には、「成長の喜び」を伝えやすいだろう。
これは、子供の成長と同時にお父さんの成長を願っているもので、それを男心をくすぐるキャンプで味わおうと言うものだ。

2006/08/11
スキーというレジャーで心の窓が曇っていて子供を観察できなかった。
よく考えてみれば、猫だって、犬だって、菊の育て方だって、それぞれ上手に育てる方法がある。 それを無視していい訳がない。 ましてや人の子を育てようと言うのだから複雑でものすごく難しくて当たり前ではないだろうか。 
スキーサークルではもっぱら初心者にプルークの基本を教えていた。 僕の腕前は浦佐での2級だ。 スキーで基本がいかに重要かを初心者に教えていた。 当然子育ても基本がある。 最近になってやっと少しそれが分かってきた。 子供の育ちに必要なのは、甘やかしではなく愛だ。 消費の喜びではなく成長の喜びを味あわせることだ。 それぞれの違いをハッキリと区別できない限りとんでもない間違えを子供にしてしまう。 僕は4人の子供を育てながら試行錯誤でそれを少し説明できるようになれたような気がする。 同じ間違えを若いお父さんがしないで上手に子育てをして欲しいと心から願っている。

ジャンボリーから帰ったばかりの最後の一人、4番目の子が今日またキャンプへ行く。 じじ抜きキャンプのところに価値がある。 
僕はまたマザー牧場に火起しのお手伝いのキャンプへ行く。 子離れのところに意味がある・・・・

2006/08/10
そのスキーサークルは、11月に初すべりをして12月から3月まで毎週の
土日にワゴン車でスキー場まで定期便をだした。 仲間は都合のいい日に
参加するシステムだった。 冬場の祝日と正月はフルに活用してスキー旅
行を企画した。 夜行日帰りには子供を連れて行けなかったが宿泊のスキ
ーには連れて行った。 一番豪華だったのは草津温泉の"大阪屋旅館"で
懐石料理が出たときだろう。 仲間は「食いなれないものを食った」と言って
お腹をこわしていた。 茶室と囲碁の部屋が付いていた。 
シーズンが終わると5月の連休には山形の月山で春スキーをした。 
もちろん子供も連れて行った。
7月の初旬には乗鞍岳の残雪を求めて行った。 今は完全通行止めで上
がれないが、当時は夏休み前なら自家用車でコロナだかなんだかの観測
所の真下まで行けた。 おおむね標高2500m、ポテトチップスの袋がパンパ
ンになり破裂寸前だった。
ここまでくるとスキー依存症だった、自分でそう思う。
シーズンoffは、神田の美津濃スポーツの"みんなのキャンプクラブ"に入っ
て遊んだ。 オートキャンプのはしりのころだ。 上の子二人はかなり連れ
て行った。 僕は土日休日に家にいることはまずなかった。
子供も連れて行ってはいたが、子供の心を育てるという概念が僕になかっ
たので、すべてただのレジャーでしかなかった。
同じようなキャンプを子供としても、それがレジャーなのか子育ての場なの
かで育ち具合はまるで違う。 
上二人はただのレジャーキャンプ。 下二人の子は子育てキャンプをした。

2006/08/09
昨日の夜、ボーイスカウトの日本ジャンボリーに参加していた4人目の子が
帰ってきた。 今家にいる最後の一人だ。 4人の男の子がいたころのあの
騒ぎはない。 一家三人暮らしはお通夜のように静かだ。
夫婦二人だけの生活は、まるで抜け殻のような日々だった。 
あとたった一人。
うまく自立させられるかどうか、これからいよいよ本番だ。
去っていくのは、耐えがたい寂しさだが子供の成長を見るのはそれに勝る
喜びがある。
つくづく思う。 人の喜びには消費のものと成長の喜びと2種類あって、
自分と子供、仲間、動物や植物、それらの成長を味わえる喜びにこそ本当
の幸せを感じるんだろうと言うこと。
それに対して消費の喜びは虚しい。
なぜ今の日本人は消費ばかり追い求めているのだろうか。
つい100年前ぐらいの物が不自由だったころの日本人の方がよっぽど本
当の幸せを感じて生きていたのではないだろうか、そんな気がする。
そして、物や金、性欲、名誉欲、僕がしでかしたスキー欲。 場合によって
は仕事欲。 そういう心が曇っている状態だと子供の成長が見えない。
本人は欲求不満の連続で幸せを感じにくいばかりではなく子育てに失敗す
るかも・・・。 これは学説でも理論でもない、体験談だ。

2006/08/08
そのスノーメン・スキー・クラブは、高校生のときにできて10年間活動した。
途中、地元のSAJにクラブ登録の誘いがあったが断った。 現実的に目一
杯の活動をしていてそれ以上に余計なことができなかったからだ。
仲間のモチベーションを上げるためにいろいろなことをした。
一番有効な手段は、会報だった。 個人で営むビデオ屋の集い−ビデオ
ナー・ビズネット−の会報を受け持ったのも、僕の人生の習慣からだ。
旗も作ったし、歌もある。 そして、レンタルの家庭用のビデオカメラでス
キー仲間を撮ったら大うけしたので、ある年のボーナスを全部はたいて、
撮影用のポータブルデッキ、編集受けのVHSデッキ、カメラ、をセットで買っ
た。 ビデオ自体に興味があったのではない。 仲間作りのツールとして極
めて有効だった。 そしてある学校の先生にビデオ編集の手ほどきをしても
らった。 30分ぐらいに仕上げるのにまさか徹夜になるとは思わなかった。
長男が生まれるときにはビデオカメラがなかったが、二番目の子は産湯に
漬かった映像が残っている。 今から24年前のことだ。 ビデオに写る我
が子がかわいくてかわいくてしょうがなかった。 
会社から帰ってきてすぐBGMが入った二番目のプロモーションもどきビデオ
を見たものだ、毎日、毎日・・・。
小さいころの子供は、親に従順だ。 それが余計にかわいく感じる。
しかし、心を強く育てる意識が親にないと些細なことで子供の心がくじける
ようになる。 あるデータでは、男の子は女の子の10倍くじけやすい。

2006/08/07
2人目の子しかまだいないころ、社会人10人ぐらいのスキーサークルをし
ていた。 名前は「スノーメン・スキー・クラブ」と言った。
そう、SNOWMEN・CAMP・CLUBの名称は、そこからきていて20年ぶりの復
活なのです。
スキー仲間を連れて行くのにハイエースのワゴン車を買った。 ワゴン車が
流行だす前のこと、苗場の駐車場では、どんなところに止めておいても一目
で分かるぐらいワゴン車はなかった。
上の子二人はこの車で年中、山や海や河原へ出かけた。
しかし、闇雲にアウトドアーの体験をさせたからと言って子供の心が強くなる
わけではないということを、いやと言うほど思い知ることになった。

2006/08/04
お金はないより、いくらあってもいい・・・、本当にそうだろうか。
僕が結婚して2人目の子が出来るころには、固定給が35万のサラリーマン
をしていた。 バブル経済のおかげだ。 もともと物や金で威張るのがいや
な性格なので、収入はもっぱらそのころ好きだったスキーやサイクリング、
キャンプに費やした。 スキーは年間40日ゲレンデに立ったことがある。
たいがいは35日ぐらいだった。 
もちろん家族も可能な限り連れて行った。
それがよくなかった。

今日から日曜日までマザー牧場で「ごちそうサマーキャンプ」のスタッフと
して出稼ぎに行ってきます。

2006/08/03
僕が24歳のときに長男が生まれた。
今までいなかった人が現れる、なんという不思議。 その驚きを今でもハッ
キリ覚えている。 当時「異邦人」という歌謡曲が流行っていて、まさしく
僕にとって異邦人との出会いのようだった。 今でも長男のテーマソングと
してカラオケで歌うことがある。
小さい人をかわいく思う。 なぜそれまでにかわいいのか・・・
なぜかわいく感じるのか・・・。 未だに不思議な感情。 
まさか、その子の心がいじけるなんてまったく想像できなかった。

2006/08/02
このホームページは、パソコンの先生にお願いして作ったんです。 それで
自分では何もできなかったのですが、なんとかこのページに書き込むことを
教わって出来るようになりました。
これから"お父さん"を25年やってきた、その失敗やドジ、感動などつづっ
ていきます。
人のドジをよく読んで同じドジを踏まないよう心を込めて書き込みますね。

2006/08/01
ようやく始まり

2006/07/10
これからぽつぽつ書き始めます。
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