<主な登場人物>
●緒方三郎:?‐? 本姓は大神氏。宇佐八幡宮領緒方荘の荘司で、平重盛の家人。豊後国知行国主藤原頼輔の説得で反平家方に付き、1183(寿永2)年8月に京から太宰府に落ちた平家を一族で攻撃し、豊前方面に追い落とした。その後1184(元暦1)年の秋、源範頼の軍は平家追討のため九州に向かい、翌年2月に緒方惟義とその一族が渡海に際し船を調達し、大功をたてるなど源氏方として活躍。彼の先祖は日向(宮崎県)の姥岳の蛇神との伝承あり。
●原田種直:?‐? 岩戸少卿・大蔵大夫と称す。父は大蔵種平。妻は平頼盛の娘。原田荘・岩戸郷を本拠として、博多筥崎の油座を押さえ貿易港今津を支配した有力府官。大宰大監・大宰権少弐などを務める。平家一門を太宰府に迎え、菊池隆直、源範頼と戦うなど活躍したが、1185(文治1)年壇の浦の戦で平家が滅亡したとき、源氏に降った。
●山鹿秀遠:?‐? 太宰府の有力府官藤原蔵規の子孫で粥田経遠の子。九国一の強弓と謳われ、本拠を遠賀川河口の山鹿荘におく。1185(文治1)年の壇の浦の戦では、平家方舟軍第1陣の大将軍として緒戦に源義経軍を破った。
<物語のあらすじ>
平家の一の郎等と目された豊後の緒方三郎惟義が平家に謀反と聞いて主家にあたる小松殿の公達・資盛が説得にあたったが、法皇の院宣を盾に惟義は寝返らず、「一院の御定により九国を追い出す」と宣言した。平家はやむなく太宰府を捨て、住吉・箱崎・香椎(博多)を経て遠賀郡山鹿の城にこもったが、ここにも緒方の軍が押し寄せるとあって豊前柳が浦に逃れ、ここに内裏を作ろうと滞在。この間に、事態を悲観した小松殿の清経が入水。だがここも内裏とするには狭いので離れ、長門の水軍・四国の水軍に守られて、四国讃岐の八島に移ってここを内裏とした。
<聞きどころ>
「太宰府落」も悲し気な句だが、前半の緒方三郎謀反とその説得失敗の場面は、口説⇒素声⇒口説と淡々と語る。後半の太宰府落の場面は、中音⇒初重⇒三重⇒初重とその心情を悲し気に語ったあと、実際の太宰府⇒遠賀郡山鹿⇒豊前柳が浦⇒讃岐八島への移動過程を口説を多用しながら、途中平家の悔しさを折声・指声で指しはさみながら語る。最後に、落ち着いた八島には内裏もなく御座舟を宿所とせざるを得ない状況を、三重⇒中音で悲しく歌い上げて終わる。
<参考>
「太宰府落」は「平家物語」の中で何度も語られた「〇〇落」という句の最終。
どの平家諸本でも、太宰府を落ちて水城から、住吉・箱崎・香椎の宮々までの行程は、輿も鳳輦も名ばかりで輿に乗れたのは主上安徳とその母建礼門院だけ。他の女房達や内大臣を始めとする卿相雲閣も裸足で落ちたと記す。だが平家諸本は、平家都落ちの時の総勢は7千余騎と記し、かなりの大軍勢であったとしているのだが、太宰府への到着と退去の場面では、緒方三郎詰問使の小松殿の資盛勢500余騎、緒方三郎勢を筑後高野で迎え撃つ軍勢3000余騎とのみ記し、緒方三郎惟義勢3万余騎に圧倒されて太宰府を引き退いてからは、この数千の軍勢すらもかき消える。
そしてこれらの大軍勢はあまたの大船で福原から移動したはずなのに、山鹿城を退去して豊前柳ヶ浦へ移動した際には「海士の小舟」に取り乗って動き、さらに柳ヶ浦から讃岐八島へ移動する際には、長門の目代が、「大船100余艘」を調達したお蔭で八島に移動できたとする。この際も『延慶本平家』や『源平盛衰記』では「正木を積たる船」と記し、高位のものが乗る御座舟や軍船ではなかったとする。
しかし当然、陸上の移動に際しては、輿や鳳輦、そして軍馬や牛車が用意され、海での移動は、大きな御座舟と軍船が用意されたものと思われる。
だが『覚一本平家』では省略されているが、『延慶本平家』などでは、法皇の命を受けた緒方三郎の「平氏を九州から追い出せ」との命令には、九州水軍の松浦・臼杵・戸次党も従ったとある。つまり1180(治承4)年の諸国源氏反乱に際して九州で、源氏反乱に呼応した菊池・緒方と、北九州の松浦党と豊後水軍である臼杵・戸次党(これらの党の棟梁は緒方三郎惟義の兄弟)もまた、「主上と三種神器返還・九州からの平家追討」の法皇の院宣に従って、再び反平氏の旗色を鮮明にしたということ。
だが最後まで平氏に味方した山鹿秀遠は、後の壇之浦の合戦では、平氏方1000余艘の中の半数を占める500余艘を率いて先陣を務めた武将。その居城の山鹿城から豊前柳ヶ浦への移動に「海士の小舟」を使うはずもない。
やはり、「太宰府落」での記述の数々は、非現実的で、平家零落のさまを強調する創作と思われる。以後の戦場はすべて瀬戸内。最後に平氏を支えたのは四国勢を中心とした瀬戸内水軍であったという事実を反映した記述と知るべし。
しかし、今にも平家が滅びるのではないかという「太宰府落」の語りにも関わらず、その後平家は勢力を盛り返し、寿永2年閏10月の水島合戦や11月の室山合戦においては、源義仲軍に快勝。その後福原の都の跡に進出し、ここに西国10数か国の軍勢を集めて再度平安京を窺うまでに勢力を盛り返す(平家が滅びたのは太宰府落ー寿永2年秋9月ーから、およそ1年半後の元暦2年3月の壇之浦合戦。)。
なぜ亡びかけた平家が勢力を盛り返したか。
この秘密が巻の8の太宰府落の後の句で語られる。
要するに都を陥れた源義仲が後白河法皇と対立して求心力を失ったからだ。理由は、義仲が故以仁王の一子・北陸宮を天皇に推したことだった。
義仲は王家の複雑な事情を知らなかったのだ。
以仁王は後白河の第二皇子ではあるが、生後間もなく、兄の第一皇子(後の二条天皇)とともに、後白河の実父の鳥羽法皇の妃で、鳥羽の跡を継いだ近衛天皇の生母である美福門院の養子となっていた。理由は近衛が生来病弱で、このままでは鳥羽の皇統は絶える危険が大きかったからだ。
そのため近衛に万一のことがあったら先に第一皇子が即位し、その第一皇子にも万一のことがあったら第二皇子たる以仁王が即位して鳥羽の皇統をつなげる手はずになっていたのだ。そして予想どおりに近衛が若くして嗣子なく死去したが、第一皇子が即位するには幼すぎたので、その父後白河が即位した。後白河は自身の第一皇子が、鳥羽法皇の後継として即位できるようになるまでの臨時の中継ぎだったのだ。従って後白河即位後の皇位を巡る争乱(保元の乱)を乗り切ってしばらく経って第一皇子が15歳となると、後白河は隠居させられ、第一皇子が手はず通りに即位した(二条天皇)。
このまま二条に正統な跡継ぎが生まれ、その治世が安定して続けば、後白河の出番はここまでであった。
だが二条がわずか21歳で死去したときは、正統な跡継ぎに恵まれず、身分の低い妃が生んだわずか3歳の第一皇子のみ。
ここで後白河の野心に火が付いた。
隠居して院となっていた後白河は、新たに気に入った妃をめとり、二人の間には皇子が誕生していた。しかもこの皇子の母は桓武平氏の血を引き、平清盛の妻の妹であり、この後白河の第六皇子は、二条の第一皇子よりも3歳年長だった。
つまり後白河は、保元の乱・平治の乱という二度の皇位を巡る争乱を通じて、王家を支える最大の武力集団の長となった平清盛を自身の第六皇子の心強い支援者として動かし、第六皇子を皇位につけて、後白河皇統を樹立する力を得ていたのだ。だから彼はすぐに動いた。二条の第一皇子を即位させるとともに、自身の第六皇子を皇太子につけ、数年後に二条の第一皇子(六条天皇)を退位させ、皇太子を即位させて(高倉天皇)、まだ未成年の天皇に代わって自分が院として天下を統治することとしたのだ。
この後白河ー高倉の王統を支える最大勢力の長である平清盛は、後白河の下で武家として初めて太政大臣の高位につき、後白河皇統を支える人物として、朝廷で重きをなしたのだ。
このため二条に万一のことがあったら即位するはずであった以仁王の存在は宙に浮いてしまう。
彼は放置されて元服の儀も行われず、天皇の皇子であるにもかかわらず親王宣下もなされずに、不遇な日々を送ることとなる。
事態が動いたのは、高倉の妃となった清盛の二女徳子が高倉の第一皇子(言仁親王)を生み、この皇子を成人前に天皇として即位させることで、高倉ー安徳と続く、「平家皇統」と呼ぶべき王統が樹立されたことによってだった。
このままでは、本来の鳥羽皇統が消えてしまう。
この危機感を持った有力貴族たちが動いて、平氏政権の中でも命脈を保ち、皇居守護の任に付いていた清和源氏嫡流・摂津源氏棟梁の源頼政を動かして、頼政をして以仁王を説得させて、反平氏の反乱の狼煙を挙げることに成功したのだ。
以仁王の令旨では、自身を王家一の人である後白河の第二皇子として、後白河の王統を継承する正当な位置にあると宣言し、横暴で皇統を乗っ取った平氏政権の打倒を訴えた。以仁王の正統性を支える権威は王家一の人たる後白河の第二皇子なのだが、隠された権威の源泉は、鳥羽ー近衛ー二条ー六条と続いた鳥羽皇統を継ぐもの、というものだったのだ(「源氏揃」を参照)。
このため以仁王が全国の武士の反乱に支えられて平氏政権追討に成功した場合は、後白河は政治的に排除される運命にあった。
成立するのは、鳥羽ー近衛―二条ー六条と続いて鳥羽皇統を継ぐ存在としての、新たな王=以仁王の皇統だったのだ。
後白河にとって幸いだったのは、以仁王が反乱の緒戦で戦死したことだ。
このため全国の武士の反乱が拡大し、その先方たる源義仲軍が都を制圧したことは、後白河にとっては、高倉の皇子の中で平氏の血をひかない皇子を皇位につけて、自身はその祖父として王に代わって天下を統治し、後白河皇統を樹立するチャンスをつかんだのだ。
当然後白河は高倉の皇子の中で平氏の血を引かない皇子の中から、第四皇子の尊成親王を皇位につけようとした。
この後白河の真意を源義仲は理解できず、皇位を巡って後白河と対立してしまった。
その結果、皇位は後白河の意に沿うものになったが、義仲は後白河から疎まれ、そのうえこの事態を見て後白河に取り入った義仲の叔父の十郎蔵人行家が、義仲排除に動き、義仲は京と朝廷に居場所を失ってしまう。
気を取り直した義仲が、依然として讃岐八島に拠点を構える平家を追討するため、山陽道を西に軍をすすめたが、すでに王家一の人に疎まれた義仲の権威は失墜して、山陽道の武士たちをその傘下に収めることには失敗し、義仲は孤立し、さらに水軍を擁した平氏に海から攻められ、次々と敗北を喫してしまう。
この事態を見た西国の武士たちの源氏への期待はしぼみ、彼らは再び平氏に見方するようになったのだ。
これが亡びかけた平氏が復活した理由だ。
だが「平家物語」はこうしたことの真相は語らない。淡々と事の経過を語るのみなのだ。
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