【書評】『優しい経済学―ゼロ成長を豊かに生きる―』(高橋伸彰著・ちくま新書)『100年デフレ』(水野和夫著・日本経済新聞社刊)

成長神話からの脱却が問われている


 政局は自民党総裁選に続いて、10月10日の衆議院解散、11月9日総選挙という日程にむけてひた走り始めた。
 今回の総裁選での争点は経済運営をめぐって構造改革によって経済成長をはかるのか、それともようやく上昇に向き始めた景気を積極的公共投資の実施によって経済成長をはかるのかであった。そしてまた来るべき総選挙においての最大の争点も経済運営であるようである。小泉自民党は構造改革によって経済成長をはかると唱え、菅民主党やその他の野党は、公共投資の効果的投入や生活不安の解消によって経済成長をはかるとしている。
 しかし表面的対立にもかかわらず、与野党ともに経済運営についてはなんらかの方法で経済成長を図ることを目的にしており、それさえできれば年金などの諸問題は解決できるという点では同じである。
 今回とりあげる2冊の本は、このような経済運営についての考え方に根本的に疑問を投げかけ、そこからの脱却の必要性を説いたものである。総選挙を控えた今日、じっくり読む必要があると思われる。

▼成長を前提にしたシステムの崩壊

 『優しい経済学』において高橋の中心的論点は、第3章「正常な時代への移行」で述べている以下の点に要約される。
 「人々の生活を支えてきたさまざまな制度を見ると、終身雇用や年功序列といった日本的雇用慣行だけではなく、個人のライフプランや年金などの福祉政策も、『右肩上がり』の成長を前提にして設計されてきたことがわかります。・・・しかし将来の成長を担保にして設計された政策やライフプランは、当然ながら想定どおりの成長を実現できなければ破綻します。・・・だから成長が必要だというのは政府の論理であり、それがもはや難しい時代をむかえている」と。
 つまり成長を前提にしないシステムに転換しないと、私たちの生活を支えてきたシステムが崩壊すると警告しているのである。
 そしてもう一つの中心的論点は、構造改革という痛みを伴う改革を実施すれば経済成長が実現し、そうすればさまざまな問題が解決して国民生活も豊かになるという、政府の構造改革路線が根本的に間違っているというものである。
 著者によれば、さまざまな規制の緩和が必ずしも成長を促すとは限らないし、今行われている構造改革は経済的強者には「優しい」かもしれないが、経済的弱者には「冷酷」なものであって、成長が実現したとしても、その陰で日本社会における貧富の格差は一層拡大するという。
 著者は構造改革における医療費負担の問題などをとりあげ、「一人一人のレベルで受益にみあう負担を求めれば求めるほど、政府の仕事は減り、民間の仕事は増えて行きます。・・・これまで政府が行ってきた再分配的な役割を縮小し、公共的なサービスの分野でも受益に見合う負担を個人に求めるような改革を進めれば進めるほど、その仕事は民間でもできるようになる・・・つまり、政府よりも民間のほうが効率的だから民間に仕事を任すのではなく、市場原理を徹底して公共的なサービスの分野から受益に見合う負担ができない人を排除していけば、負担できる個人だけを対象にした民間の仕事が成立するようになる・・・そう考えると『構造改革』の本質が見えてきます。それは『民間にできることは民間に任せる』というのは口実にすぎず、実際は『民間ができないことは政府もやらず』で公共的な領域の中に空白地帯をつくり、そこから弱者を追放して行くという目論見です。その結果心配になるのは追放された弱者の行方です。そのままでは放置できないとすれば、政府は改めてかぎりなく薄いセーフティーネットを用意して形ばかりの救済を図るはずです。厚すぎると『構造改革』に逆行してしまうからです」と述べる。

▼豊かさの意味を問い直そう!

 では何をすべきだというのか。
 著者は「構造改革」は必要だし、当面の景気変動に伴う痛みを緩和するための財政投資も必要だが、問題はその「構造改革」が何を目差すものかということだという。つまり現在の「構造改革」は、社会的な公正を確保するための「協同」の観点から構築された社会システムにまで「市場競争」の論理をもちこみ、この規制を緩和すれば新たなビジネスチャンスが生まれて経済成長が実現できるとする。しかしその結果は、成長が実現したとしても貧富の格差を拡大し、社会的公正は破壊されると著者はとらえている。
 著者の目差す「構造改革」は、現にある社会的格差をなくすことを目標にした「社会的公正の観点に基づいた分配システムの転換」だと説いている。
 この考え方の根本にあるのは、「成長政策が社会を豊かにするという考えかたは論証もできないし日常生活の事実にもあわない」というイギリスの経済学者E・J・ミシャンの考え方である。その証拠として、戦後驚異的な成長をとげた日本でも「物質的豊かさではなく心の豊かさやゆとりのある生活に重きをおきたい」という意識が80年代以降国民の多数を占めていることや、「改めて世界を見わたせば、衣食住の『絶対的必要』が満たされている国で生活している人よりも、満たされない国で生活している人のほうがはるかに多い」という事実をあげる。
 経済的な成長が図られても、豊かな国では豊かさの実感がなく満足がえられないし、そもそも世界の多くの国では「最低限必要」な物質的豊かさすら保障されていないということだろう。
 さらに著者は「消費ではなく労働の中に」豊かさがあるというとらえ方を示し、「労働生活自体の満足」に基づいた社会的公正や、協同に基づいた社会を構築することの中に真の豊かさはあると述べる。
 「労働を単なる生活の糧を得る『手段』として位置付けるかぎり、労働に対する満足感や労働市場を変革しようとする気運は生まれません。また、自らの仕事に対する満足よりも昇進に価値を求め過激な出世競争を繰り広げる人たちには、公共心や公正さといった『幅広い心の余裕』も期待できません。だからと言って、日々の仕事に対する不満や苦痛を、より高い所得とより安価なモノやサービスの消費によって埋めようとしても、際限なく膨らみつづける欲求に対して豊かさの実感が追いつくことはむずかしいでしょう」。
 高橋は、物質的な成長が目的と化している現状から脱却し、世界レベルで、そして日本国内においても富の再分配をはかり、「労働生活の満足」に基づいた社会的な「協同」の精神に依拠した社会=真の豊かな社会を今こそ目差すべきだと主張している。

▼一つの世界システムの終末

 それでは高橋氏が、今こそ経済運営におけるこのような転換をすべきと考える論拠は何か。残念ながら彼はその論拠を詳しく展開はしていない。ただ「急激な経済成長がいつまでも続くわけはない」ということをあげるのみである。
 高橋が詳しくは展開しなかったことを明確に述べたのが、水野和夫著『100年デフレ』である。副題は「21世紀はバブル多発型物価下落の時代」である。
 水野は断言する。「デフレは日本だけの現象ではなく、グローバルな現象であること。そして21世紀は、『国民国家』が終わり、『帝国の時代』へと向かうことである。私たちは現在、16世紀以来の大転換期を迎えている。人類は16世紀以降、中世封建社会の危機を、近代主権国家と資本主義によって克服していった。その原動力は価格革命(利潤革命)だった。そして、21世紀においては、株価革命(利潤革命)と、市場統合による内外価格差縮小を通じて、長期デフレを招来することになろう」と。
 水野は歴史上の3度の長期デフレに注目する。第1は14〜15世紀のヨーロッパに起こったデフレ。第2は、17世紀のヨーロッパに起こったデフレ。そして第3は19世紀にヨーロッパで起きたデフレ。そしてそれぞれのデフレの原因とそれがどのように克服されたかを調べている。
 ここで明らかにされたことは、どの長期デフレもそれ以前の体制の成功ゆえにおきた長期の利潤率の低下を伴って起きており、その終息は、新たな利潤率の上昇を伴う体制の根本的転換によってなされたことである。
 この歴史的考察に基づいて水野は、20世紀末から起きているデフレについて検証し、それが日本だけではなく世界的に起きており、20世紀後半の3分の2の時期に起きた利潤率の低下を伴った世界規模での市場統合によって起きていることを発見する。
 つまり現在のデフレは、20世紀に成功したアメリカ型資本主義の限界を克服しようとする体制の転換への胎動、世界規模での市場統合という過程で起きているのであり、その結果、新しい世界システムが生み出されない限りデフレは長期に続き、短い高揚と激しい衰退を繰り返していくという仮説を導き出しているのである。
 水野はこの仮説を、現在の様々な経済現象を検証する中で論証しようと努めている。つまりこの本は、こうした仮説を近代経済学の方法を使って論証しようとした著作であり、この点で注目される。

 はたして水野の仮説は正しいのだろうか。正しいとすれば、新たな世界システムが構想されなければならないし、それなくしては、安定した世界は再生できないということになる。
 20世紀に実現された経済の急激な成長は終わったのか。そしてまたそれは16世紀以来つづいた資本主義の成長の終わりなのか。現実の経済的諸問題に具体的に関わりつつも、この根本的問題を明らかにすることが今、求められているのではないだろうか。

(10/4)


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