学校の差別性変革が課題
ー教研集会が示した教育労働運動の危機と転機ー

 

 2月1日から4日間にわたって、日教組の第45次教育研究全国大会が、大阪で開催された。今回の教研集会は、「文部省や自民党との対立の終

焉を象徴する」(日経2月1日)と報道されていた。しかし、今回の教研集会の特徴は、そんなことにあるのではない。現在の教育体制の崩壊的危機

の状況と、そこを越えて、教育の新たな未来を示すことのできない、教育労働運動の現状とを、白日の下に曝したところに、今回の教研集会の特徴

はある。

    対症療法どまりの「いじめ対策」

 この教研集会では、特別分科会として「いじめ・不登校」の分科会が設けられた。しかし、この分科会の議論は、現在の教育状況を象徴的に示すも

のであった。

 いじめ議論の特徴は、いじめに対する処方箋にのみ議論が集中しており、いじめの原因なり、いじめに対して学校・教師が充分な対応どころか、

逆にいじめを拡大しかねない対応しかできないことの原因を掘り下げる議論が、ほとんど見られないことにある。新聞などでの報道された限りではあ

るが、いじめの被害者やその保護者からいじめの実態を報告され、教師・学校の対応を批判される一方で、教師からの報告の多くは、いじめに対し

て、「生徒の中にいじめ対策係を設けた」とか「人権にかかわる討論をした」とか「様々な男女の区別をなくした」などの対応策の報告か、生徒に対応

できない悩みの吐露が大部分を占めている。もちろん、そのような対応策をとったことは良いことであるし、いじめに充分対応できないことに悩み、

子供達の心のありかを捜そうとすることは、いじめ解決の第1歩としては評価できる。

 しかし、いじめによる自殺が全国的に相次ぐという事態にいたってもなおこのレベルに止まっていることは、極めて深刻な状況であるといわねばな

らない。

 何故に、このような対応しかできないのであろうか。

    破壊されている「人間的関係」

 学級代表で作る学年委員会に「いじめ対策係」を設け、この係の会議に教師が出席することにより、子供の生活やいじめの兆しを教師がつかむこ

とができ、さらには、教師の言動に対するこどものがわからの逆点検ができるようになったという報告があった(読売、2月1日)。とても良い実践では

あるが、なぜこのようにしなければ、教師が子供の状況をつかめなくなっているのか。「子供が教師に『つらい』と訴えてくれればいいが、そういっても

らえない。現場はもっと深刻だ」(日経2月2日)などの報告があったようだが、なぜ、いじめの被害者やまわりの者が、教師に訴えてこないのか。こ

の点こそが、厳しく問い直されなければならない。

 そして、「いじめ対策会議」のような場をもうけないと、どうして教師の言動(おそらくいじめを助長するような言動があるのだろうが)を子供が批判で

きないのか。この点も本質的な問題を提起している。

 筆者が長年教師として活動してきた中で、子供たちから、鋭い批判をうけた経験が多々ある。この子供たちからの教師批判や学校批判の中にこ

そ学ぶべき点は多い。

    差別を生む教育体制

 たとえば、市の統一テストの答案を全教科白紙で提出した生徒がいた。彼女はなぜと問い質した私に対して、こう答えた。『学校というのは、一人

一人の生徒がより多くのことを学びとれるように援助する所だとおもう。しかし、現実には先生達は、授業の内容が理解できない生徒がいても、その

まま放置して進め、わからない者がいるのを承知の上で、テストをして点数をつける。そして5だとか1だとかの成績をつける。そんなのって差別では

ないか。大切なのはテストをすることではなく、一人一人がわかるまで教えることだし、私達生徒は、仲間の全てがわかるように、互いに教えあって

いくことだ。問題の意味すら分からず、悩んでいる仲間がいるのをしりめに、テストに答えて良い点をとるなんて、その差別に私も加担することになる

のでイヤだ』と。

 子供たちは鋭い感性で感じとっている。教師自身が差別者であり、学校自身が差別を生み出していることを。このことへの真摯な捉えかえしのな

い所での「人を差別するな、いじめるな!、みんな同じ人間じゃないか」という教師の問いかけは、子供たちの心には、「偽善者!」という反発さえま

ねきかねない。

 性差をことさらに強調する男女別の名簿や男子と女子との学用品などの色の違いなど、こういった差別にもつながることを廃止したという報告も、

特別分科会ではあったようだ。しかし、学校での差別を問題にするのならば、なぜテストのありかた・評価のありかた、そして授業のありかたが問題

にならないのか。「男女を区別することに対する問題意識のない所にいじめのスキができる。集団でくくってモノを言うと、個々の違いが見えなくなる」

(読売2月1日)というのなら、教育活動の根幹ともいえる、授業・テスト・評価の差別性こそ問題にされねばならない。

  これも筆者の体験したことだが、生徒に以下のように詰め寄られたことがある。

 『なぜ学校では、あれを覚えろ、これを覚えろというのですか。私たちには知りたいことがあります。例えば、なぜ地球環境が破壊されるのか。なぜ

それを阻止出来なかったのか。そしてすでに破壊されつつある環境をどのようにしたら少しでも元にもどせるのか。このようなこれからの私たちの世

代にとっての問題を解決するためにこそ学習はあるとおもう。これと無関係な、ただ知識を覚えるだけの授業など受けたくない!』と。

    教育体制の変革が課題に

 重い批判であると思う。私たちは、このような子供たちの問い掛けに、どのように答えてきたのだろうか。

 日教組運動は文部省と対立してきたという。本当にそうなのだろうか。私たち教育に携わるものはよく「一人一人を大切にする教育」という。しか

し、それは絵そらごとであり、たてまえのものでしかなかったことが、現在のいじめ論議の中から、透けて見える現実であろう。この点では文部省と日

教組とは共犯者である。かって主任の制度化に反対する教職員組合に対して、「段階評価をつける事を拒否したりする教師がいてはこまる」と教育

委員会がわが言い返した。組合の反応は「そのような不届き者は組合の力で排除する」というものだった。このような遣り取りを特徴とする交渉のテ

ーマは、「県民のための教育をめざして」というものであった。

 いじめ・不登校に象徴される問題が、教育体制のあまりに過度な競争主義・差別主義にあったことは明白である。だからこそ文部省ですら、「教育

の個性化・個別化」「競争主義の排除」と言わざるをえないのである。

 もはや、今の教育体制を擁護する立場からは、問題を解決することはできない。来るべき時代の教育労働運動は、教育体制のもつ差別性を、日

常レベルでの実践を通して暴き乗り越えることが必要であり、この路の彼方にのみ、多くの人々との連帯の輪が築きあげられるにちがいない。

(3月11日記す)

 


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