「自由主義史観」論争に垣間見る歴史教育の矛盾と新たな可能性
ー教育労働運動のための一考察ー
昨年9月の自由主義史観研究会による「歴史教科書から従軍慰安婦の記述を削除しろ」との声明の発表以来の論争。この論争の中できわめて重
要な論点が、あまり取り上げられることもなく過ぎてきている。
それは『このような右翼的な運動がなぜ、教育現場を基盤として起こってきたのか』という問いについてである。この運動が過去の右翼的な動きと
際立って異なっているのは、この運動のメンバーの多くが小中高の現場教員であり、この研究会は近現代史の授業研究サークルとして発足してい
る事である。
この点について論及したものとしては雑誌「世界」の97年4月号の村井論文があるが、この論考は、自由主義史観研究会の呼び掛け人や「教科
書が教えない歴史」の執筆者の中から小中高の現場教師を選び、一人一人のインタビューを通じて、この研究会への参加動機を探り、「現状の歴
史教育への不満層」を基盤としていることを析出した点を注目しなければならないと思う。
筆者はこの問題を、この論争の中で暗黙の前提とされているある命題を手掛りとして考えて行く事により、今後の歴史教育の方向性や、新たな教
育労働運動の構築の可能性について考察してみたい。
歴史教育を根本的に問い直す
その命題とは『歴史教科書には正しい歴史が書かれていなければならず、歴史教育は正しい歴史を教えなければならない』というものである。
「そんなことは当たり前だ・・・」とおしかりを受けるかもしれないが、『正しい』歴史というが、何を持って正しいというのだろうか。『正しい』『誤ってい
る』という事自体が一定の価値判断の結果であり、絶対的なものではない。この問いを発すると多くの人はこう答えるだろう。「一定の歴史観やイデ
オロギーによって立つのではなく、事実にそったものが正しくこれは絶対的なものだ」と。
だが、何が『事実』なのか。過去の事実は、運良く残ったり公表されたりした様々な史料や証言を組み合わせ、付き合わせて、事実を再構成する
作業を通じてしか明らかにすることはできない。その再構成の作業自身の中に、一定の価値判断、作業をする者の歴史観や価値観が必ず介在す
る。従って、『事実』とは歴史観や価値観と一体のものであり、価値判断そのものなのであり、その立脚点の違いにより、見えてくる『事実』そのもの
が異なってくるのである。だから歴史論争というものは必然的に「何が事実なのか」を巡って争われるわけで、今回の「従軍慰安婦」「自虐史観」を巡
る論争もそのようにおこなわれている。
このように考えて来ると、『歴史教科書には正しい歴史が書かれていなければならず、歴史教育は正しい歴史が教えられねばならない』という命題
は、『歴史教育においては、一定の価値判断が教えられねばならない』というのと同じことになる。
しかし、この考え方は根本的に誤っており『歴史教育というものは一定の価値判断=歴史観を与えるもの』という命題を根本的に疑ってこなかった
ことに、自由主義史観研究会なるものが、現場教員を基盤にして立ち現れた遠因があったと思う。
啓蒙主義教育の限界
戦後の歴史教育は、戦前の「皇国史観」という「自国の歴史を美化し、天皇を頂点とした価値観を普遍的なものとする」歴史教育を否定し、「社会
の内的・外的な動因をさぐる、客観的な」歴史教育を標榜してきた。そしてそれを基礎にして、日教組によって「二度と戦争を起こさない」の誓いの
下、「平和教育」なるものが展開されてきた。
だが、戦後の歴史教育・平和教育の内実を顧みるならば、「一定の価値判断をおしつけている」点においては、戦前の「皇国史観」教育と全く同じ
だったのではないだろうか。そこでは「何が事実だったのか」を生徒自身が調査する事もなく、一方的に「正しい」事実がおしつけられ、そして、「この
事実をどのように評価したら良いのか」という歴史評価をする自由もない。このような教育は、主体的な価値判断を促すのではなく、一定の価値判断
を正しいものとして受け入れることを要求する。
これを『啓蒙主義』という。
「皇国史観」も戦後「客観史観」も「平和教育」も、どちらも『啓蒙主義』という点では同根である。
「歴史は何のために学ぶのか?」。みなさんはこのような問いを発したことはないだろうか。筆者は現場で歴史教育に携わる教員として何度となく
生徒から、この問いを突きつけられた。『事実を覚えて何の役にたつんですか。時間の無駄だ!』と。「現在が成り立ってきた道筋を知ることによって
今をより深く理解でき、これから先をどのようにしたら良いかを考えられる」と答えた所で空しい。歴史教育の目的としては、これで正しいのだが、現
実の歴史の『授業』はまさに『正しい歴史・正しい歴史評価を授ける』だけであり、生徒自身が主体的に歴史評価をするという構造にはなっていない。
歴史を学ぶということは、過去の「歴史的経験を学ぶ」ということである。それは、けして「過去の事実を知る」というレベルのものではない。「何故そ
うでしかなかったのか?。それ以外の道筋(選択)はなかったのか」と考え、そうなった原因を知り、そうするためには(そうならないためには)どうした
ら良かったのかを学ぶことである。つまり経験というものは体験してみないと身につかない。いうなれば「シュミレーション」=「過去を追体験する」こと
を経ずには、「歴史的経験を学ぶ」ことはできないのである。
『啓蒙主義』とは、「正しい知識・判断を与えなければ、人は正しい行動ができない」という考えかたである。そしてこの考え方は「正しい知識・判断を
与える」指導者と「その指導者に導かれる愚昧な」民衆という2項分離の考え方でもある。これは民衆の認識が経験を通じて発展し彼等自身が社会
を管理する能力を発揮するようになることを認めない考え方で、これ自体階級支配の論理そのものである。
『啓蒙主義』に立った歴史教育。これは「正しい」指導者の歴史認識を民衆に注入するものでしかなく、それでは歴史を経験として学ぶことはできな
いのである。
「平和教育」にも同じ事が言える。戦後の「平和教育」は戦争の悲惨さを教え、その事がわかりさえすれば戦争を回避できるという考え方にたって
いる。この考え方が改められないかぎり、たとえアジアの人々に対する日本の侵略の事実が教えられたとしても、それは歴史的経験として、未来を
切り開く力として蓄積されるのではない。どうにもならない現実への嫌悪と諦め、へたをすれば侵略の事実を認めることへの嫌悪感すら引き起こす。
「それ以外の道はなかったのか」と問い、事実を明らかにしつつ歴史を追体験してこそ侵略された側の痛み・悲しみ・怒りを自分のものとし、二度と
繰り返さないためには・・・と主体的に歴史から学ぶのである。
戦後の歴史教育は戦前の「皇国史観」教育と同じく、歴史を追体験し、歴史的経験を学ぶものではその根本原理からしてそうではなかった。その
上、受験競争の激化によって単なる受験知識の授業と化してしまっているのである。
このような教育しか行われていないことへの不満は、広汎に存在している。まじめに歴史教育を行おうとすればするほど、現在の歴史教育の不毛
な壁にぶつかるのである。これが、『自由主義史観』という名の「侵略肯定史観」が現場を基盤にして跋扈したことの基盤である。
自由主義史観研究会は、歴史の学習にディベートという「模擬的な討論」の形態を取り入れ「生徒が主体的に学ぶ授業」を標榜した。そして研究会
の発足の目的は「イデオロギーや一定の歴史観に囚われないで近現代史を見直してみよう」というものであり「自由な立場で歴史を再評価する」か
のような姿をとっている。これが歴史を経験として学びたい(学ばせたい)という現場の欲求の琴線に触れたからこそ、大きな動きになったに違いな
いのである。
国家と歴史教育
以上、歴史教育のありかたという視点から述べてきた。最後に、今後いかなる歴史教育を進めるべきかを考えるために、『国家と歴史教育』という
問題を考えておきたい。
戦前の「皇国史観」教育にしても、戦後の歴史教育にしても、その性格を規定したのは国家のありかたである。
「皇国史観」は日本を欧米列強に対抗できる国民国家として統合し、アジアを自己の勢力圏とする盟邦国家の国民意識を形成するために広めら
れた。天皇制国家の主宰する歴史教育の存在理由はこれである。
では戦後の歴史教育の存在理由は何か。戦後の日本国家はそれ自身としての世界戦略を喪失したまま、今日まで、経済的発展に邁進してきた。
経済的発展こそが戦略だったと言っても過言ではない。資本主義の技術競争に勝つためには、科学の発展こそが基礎である。従って戦後国家は
国民の科学的知識の水準を上げることに邁進してきた。そこにあるのは科学=客観的という科学信仰であり、歴史教育も科学的=客観的であるこ
とが要求された。ここに『客観的な事実』に基づく歴史教育が成り立つ根拠がある。
そして今、日本とアジアとのさらなる結合が日本資本主義にとっても急務となるや、アジア諸国および日本の支配層にとって、過去の日本の侵略行
為を踏まえた新しい国民意識の形成が必要となっている。ここに歴史教科書に日本の侵略行為が具体的に記述されはじめる根拠がある。
国家の行う歴史教育は、国益にそった国民意識をつくりだすためにあり、教科書への侵略の具体的事実の記入は,この国家の戦略の変更に伴っ
ておきているのである。
「自虐史観」という批判が教育現場から出てきた背景には、国家の教育に対抗してきたかに見えた日教組が文部省との歴史的和解をはたし、国
家の側に明確に擦り寄ったことにも直接的なきっかけがある。
自由主義史観研究会の中の右翼的分子の目には、日教組が文部省と和解し、組合としての独自の動きを辞め、国家の機関へと変貌しようとして
いる現状は、右翼的ナショナリズムを広める最大の抵抗力が弱体化したと判断され、政府のアジアへの「謝罪外交」に危機感をふかめ、反撃のチャ
ンスを狙っていた右翼的分子には、教育現場こそかっこうの反撃の場と映ったに違いない。なにしろ文部省の中には、君が代・日の丸の強制を進め
ることでも分かるように、政府の「謝罪外交」に反発する部分が、官僚の内部にもいるのだからよけいそう映ったに違いない。
そしてこの自由主義史観研究会の出現を促したもう一つの原因は、教育の「歴史的転換」である。「不透明な状況に柔軟に対応できる力」を養う事
が急務となって、従来の一方的に知識を授ける授業から、生徒が主体的に学びとる学習活動への転換が文部省自身の手で進められている。この
動きは学校現場の底辺に淀んでいた歴史教育への不満に形を与え、出口を与えることとなり、これを促進することは文部省の御墨付すら得られる
状況になったのである。
転換期の矛盾と新たな可能性
教育現場からの右翼的な流れをおし止め、真にアジアの人々と連帯していくためには、私たちは、自由主義史観研究会の主張に事実をもって対
抗し、その真の意図を暴く活動を進めると共に、「国益にそった歴史教育」を拒否する取り組み、「国益に沿った歴史観を押しつける教育」を、そして
さらに「一定の歴史観に基づいて知識を与える教育」を拒否することが必要である。自分の目と耳と感性でもって歴史的事実をつかみ評価し、国家
から自立した歴史観を育てる歴史教育運動を確立することである。
この運動の推進なくしては、自由主義史観研究会に一旦は引きつけられた今までの歴史教育への不満層を、この右翼的流れから引き離すことは
できない。そして、国家からの自立を目指した歴史観の提起と、歴史を追体験する歴史教育の提起は、この不満層を、文部省の意図を越えて、あら
たな教育運動を推進する力として鍛え発展させる可能性を、現実のものとして生み出すだろう。ここに新たな教育労働運動を生み出す現実的な基
盤の一つがある。
今、文部省が進めている「教科書にそって知識を与える『授業』ではなく、生徒が主体的に事実を調べ、歴史を評価する『学習活動』」へと転換する
ことは、国家から自立し、アジア民衆との連帯を模索する歴史観を、日本の民衆の中に確固として樹立する運動へ向かう第一歩へと転換されなけれ
ばならない。現在の文部省の進めている方向は、その行き着くはてに、「教科書検定の廃止」いや「教科書そのものの廃止」すら生み出しかねない
質を秘めている。「教科書検定の廃止」は確実に日程に上ってくる。なにしろ従来日教組が行ってきた「平和教育」、教育研究集会で反対派が指摘し
てきた「加害の視点の欠落」は、すでに政府・文部省の立場でもあり、両者は同じ立場に立っているのだから、検定の必要などなくなってくるのであ
る。教育現場を握っている両者の考え方に根本的に対立がなく、どちらも国益にそった国民意識を育てるという共通基盤に立つならば、国の定める
教科書など必要なくなる。
国定教科書や検定教科書が出てきた歴史的経過を考えてみよう。国家の基本戦略を巡って、国民的規模での対立があり、国家に対抗する大きな
民衆的勢力(自由民権運動であり戦後の労働運動・平和運動)があったればこそ、国家の利益にそった方向に国民意識を誘導する機関としての学
校教育を、その民衆的流れの影響から隔離する手段として国定教科書・検定教科書が出されたのであった。労働組合が、そして政党までもが、国
家の機関として統合されつつある現在、検定教科書などその存在理由を失っているのである。これは事実上、教科書の廃止へとつながる状況であ
る。
そして歴史教育の「歴史的転換」には従来の歴史教育や「平和教育」を内在的に批判してきた層や不満層の動員なくして、それは不可能である。
「歴史的」転換を進める思想的質を持った教育労働者はこの層にしかいないからである。
教育の「歴史的転換」の生みの苦しみの時機。その内的矛盾が吹き出している時機だからこそ、この状況を利用して自由主義史観研究会などの
右翼的分子が登場しえた。この状況は同時にまた、国家の意図を超え、それを阻害し、それから独立する傾向を育てようとする私達にとっても有利
な状況である。
文部省の進める教育政策を全て反動的な攻撃とのみ捉え、その内部にある矛盾を利用する視点を失っていては、教育労働運動の再建などは不
可能に近い。反転攻勢を可能にする基盤は、今行われている「転換」の中にこそあるのである。それを誰がつかむのか。それをどの方向に向けた
「転換」にするのか。今や政府・支配層とその右翼的分子と、そして私達との、その存在を賭けた戦いの場、豊なエネルギーの満ちた可能性のある
戦いの場の姿を、自由主義史観研究会の突出した行動は、私達に垣間見せてくれているのである。