第5分科会「学校をひらき,教育をとり戻そう」                           調              首都圏教育労働者連絡会議 (文責 神奈川 K)   

1)現在の教育をめぐる状況

1)〔教育の荒廃〕

「教育の荒廃」が叫ばれて、それへの対策が種々講じられてすでに久しい。しかし,文部省─教育委員会や教職員組合が、どのように声高
 
に、「荒廃」の克服を叫ぼうとも、むしろ状況はさらに悪化しているように見える。
 
「校内暴力」はあまり減少せず、「いじめ」「登校拒否」「自殺」「少年非行」は増加するばかり。一方それに対応するように、教師による「体罰」も
 
増加している。また、このような表面に現れた諸事件だけではなく、児童─生徒全般に、自主─自立の力、連帯の力は失われ、学習などの学
 
校における諸活動に積極的に取り組む意欲は失われ、さらには生きる事への気力すら失われつつあるように見える。(正確にはその力を奪
 
われたと言うべきであろうが。)
 
2)〔原因は何か?〕
 
このような状況を生み出した原因はどこにあるのだろうか。それが、政府─文部省、財界─独占資本が言うような、「戦後民主教育」にあるの
 
でも、ましてや「日教組」による「教育への介入」に原因があるのではないことは明白である。
 
3)〔「戦後民主教育」とは?〕
 
「戦後民主教育」は、理念としては、「国家主義」を排除し、「個人を尊重」し、主権者として国政を担う国民に必要な、総合的・普遍的な「普通教
 
育」を全ての国民に保障すべきことをうたっている。
 
そして、この理念を実体化するため、高等学校における職業科を排除し、総合制・普通科高校のみを設置したり、男女共学制などを実施し
 
た。また、教科の面で、この理念を体現して新設されたものとして社会科があり、教育行政の面では、教育委員会の設置とその委員の公選
 
制、行政の教育内容への不介入などが定められ、権利を保障するための様々な就学援助制度も設けられた。
 
全体として、「戦後民主教育」においては、「民主主義」が叫ばれ、その実体化が不充分ではあれ推進されており、戦後の教育運動は、この
 
「民主主義」の不徹底な部分をさらに徹底させる方向で闘われてきたのである。
 
4)〔「民主教育」の空洞化〕
 
「教育荒廃」の原因は、「戦後民主教育」にあったのではなく、むしろ、この「民主主義的側面」をつぎつぎと有名無実化し、反民主主義的な教
 
育体系を実体化してきた、政府─文部省の政策にあったと言わなければならない。
 
教育行政の面では、教育委員の公選制を廃止して任命制とし、教育労働者に対する勤務評定を実施することで、文部省─教育委員会─校
 
長という、縦系列の命令組織がまず最初に確立された。そして、この中央集権的な行政組織の下で、次々と教育体系の改変が行われてきた
 
のである。
 
職業科高校の設置に始まる高等学校の能力による別学体制化(=いわゆる多様化)。統一的学力テストを導入しつつ、能力による選別体制
 
としての入試制度を導入し、小学校─中学校を、成績によって児童─生徒を競わさせ、選別する機構へと変えていった。また、この流れの中
 
で教育内容にも行政は大幅に介入し、教育課程の決定権・教科書の採択権を教育労働者から奪いとり、行政機構によって管理するように変
 
えていった。
 
いわゆる、「資本に役立つマンパワーの形成」。このための装置として、学校─教育は、その時々の資本の要請にあわせながら、能力による
 
選別機構へとなり下がっていった。いわば、「戦後民主教育の空洞化」ともいうべき事態が進行したのである。このような、「マンパワー形成の
 
選別機構」と化した学校─教育の現場においては、児童─生徒は、より良い成績をあげて、より上級の、より高い社会的地位を得られるコー
 
スへの進学のパスポートを得るための、過酷な競争に投げ込まれる。そこにおいては、同級・同学年の者達は、本質的に競争相手であり、そ
 
のことによって、仲間としての連帯の意識の形成は、日々阻害されざるをえない。そして、学ぶこと自体が、児童─生徒の内発的な欲求という
 
より、外部から強制されたものとなっていかざるをえない。
 
また、この児童─生徒の大多数が、労働者・勤労国民の子供である。彼ら・彼女たちは、より高い地位を得るための競争に組み込まれている
 
うちに、自らの出身階層・階級を捨てて立身出世し、より「きれいな」管理的職業につこうとする意識をうえつけさせられる。そのことによって、
 
親の職業にたいする誇りや、日々労働し、社会を支えている者としての仲間意識─階級的連帯感の形成をも、阻害されてしまう。そして、日々
 
強制される学習や、様々な管理主義的規則に耐えながら、生活して行かざるを得ないのである。
 
競争に勝ち抜き、立身出世できる見通しがあるうちはそれでもよい。しかし、その可能性がなくなった時、もしくは競争に参加する日々の生活
 
に目的・喜びを見出せなくなった時には、学校─家庭における生活そのものが耐えられなくなるほど無意味なものとなっていくことだろう。
 
一方、教師は、児童─生徒をこのような競争に組み込み、走らせる役割を担うことになる。従って、この競争から外れようとする者や、この競
 
争自体を阻害しようとする者を取り締まるために、様々な管理主義的規則を設け、自らを管理者として、児童─生徒の前にさらさざるをえな
 
い。そして、成績でもって児童─生徒に鞭をあて、選別していく者となっていく。こうして教師は、児童─生徒との連帯を日々阻害されざるをえ
 
ないのである。
 
親たちも同様である。競争を積極的・消極的にしろ容認した途端に、親自身も、管理者として、子供の前に立たざるをえなくなる。
 
こうして、児童─生徒の生きる力は奪われ、児童─生徒・教師・親の連帯感は失われ、「教育荒廃」と呼ぶ現象がおこっていったのである。
 
「民主教育の空洞化」。ここに「教育荒廃」の原因があったことは明らかであろう。
 
5)〔「空洞化」を支えた日教組〕
 
しかし、原因はこれだけではない。現場で教育活動を担う教育労働者の側が、総体として見れば、このような教育に対して、積極的に「介入し
 
なかった」ことも、「教育荒廃」の原因と言わねばならないだろう。
 
日教組運動は、「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンに見られるように、戦前の「国家主義教育」への全面的加担への痛みから、「国家
 
のための教育」を拒否し、「個人を尊重」する民主教育を積極的にになおうとする側面をもち、そのことを明白に理念としてかかげてきた。そし
 
て、「教育研究集会」の開催に見られるように、教育の教育労働者による自己決定権の確立をめざすとりくみを、様々に進めてきた。しかし、
 
日教組は、「民主教育の空洞化」ともいうべき政策にたいして、有効な反撃を組織してこなかったといわねばならない。自己に対する、管理統
 
制の強化に対しては、組織をあげて闘いはした。しかし、そのような闘いとしての勤評闘争の敗北・そして学テ闘争の敗北以後、「教育実践」に
 
のめりこむことによって、「民主教育の空洞化」に対して闘うことはせず、むしろそれを現場で担う立場に立っていった。
 
6)〔その原因は何か?〕
 
それは、何に起因していたのだろうか。結論的に言えば、教育労働の社会的・階級的役割への無自覚が原因であった。
 
資本の支配下にある国家─社会における教育は、本質的に資本にとって有効なマンパワーの形成装置でしかない。そのため、資本の支配に
 
とって有効なイデオロギーを児童─生徒にうえつけ、同時に能力によって選別する役割を、教師は担うことになる。 この意味において、教育
 
労働者は、「教師」として存在するかぎり、労働者・勤労国民の階級意識・階級的連帯感を日々破壊し、国家・資本の足下にひきすえる役割を
 
担っている。そしてそれは、すべての児童─生徒に競争に参加する機会を等しく強制することにようて、日々果たされていくのである。
 
日教組において「国民のための教育」という論がまかりとおっている。ここには、国民の大多数が、日々の生活を通じて、職場・社会の自己決
 
定権を奪われ、資本の足下にひざまづかねば暮らして行けない労働者・勤労国民であるという視点はあっただろうか。政府・資本の側が「国民
 
のための教育」という時、それは資本にとって有効な考え方と技術を持ったマンパワーとしての「国民」という視点にたっている。日教組の言う
 
「国民のための教育」は、それに対抗する視点たりえただろうか。
 
そうではない。「教師専門職論」という考え方が日教組の主流を占めているが、この考え方の中に、教育労働の社会的・階級的役割をみすえ
 
る視点がないことは明白である。それはむしろ、自己を専門職・技術者として、国家の推進する教育に対応することを意味しており、労働者と
 
して、自らの階級意識・連帯感を取り戻す立場で対応するものではない。したがってその立場は、教育労働の社会的・階級的役割を承認した
 
うえで、それを積極的に推進する専門職・技術者として、自己を国家に高く売りつけることにもなるのである。また、「教師聖職論」は、この立場
 
をもっとより露骨に押し進めたものと言ってよいだろう。
 
「教師の倫理綱領」にいう、「教師は労働者である」という言葉は、国家・資本と対抗し、国家・資本から強制される、教育労働の社会的・階級
 
的役割を拒否しようとする、自覚的な労働者ではなかったのである。この視点がないままでは、「教師の倫理綱領」にいう「教師は教育の機会
 
均等のためにたたかう」という言葉も、実態としては、児童─生徒に競争に参加する機会を均等に強制することでしかなくなってしまい、「青少
 
年とともに生きる」(教師の倫理綱領より)ことなどできなくなってしまうのである。こうして、学校─教育の現場においては、国家(政府・教育委
 
員会)と教育労働者とが、共同で「資本のためのマンパワー」形成のために日々努力しており、両者の共同管理とも言うべき現状がある。しか
 
し、これが「共同幻想」にすぎないことは明白であろう。主導権は明らかに国家の側にあり、教育労働者はそのしもべにしかすぎないのである
 
から。
 
7)〔「能力主義教育」に対抗する闘い〕
 
しかし、こうした状況に学校─教育がおかれた一方で、能力主義教育に反対する闘いが、かなり広範な基盤をもって闘われてきた。
 
それはとりわけ、社会の中で、最も差別されてきた側からの闘いであった。障害者 ・部落民・在日朝鮮,韓国人など、被差別の子供達に教育
 
を保障し、「共に生きる」教育・社会の実現を目指した闘いがそれである。この闘いは、「戦後民主教育」の民主主義の不徹底な側面を是正
 
し、民主主義を発展させるという意味を持っている。しかし、同時にそれは現在の学校─教育が果たしている、社会的役割、ひいては階級的
 
役割を明らかにしてしまう意味ももっている。なぜこの人達を排除するのか。この疑問をつきつめていくと、社会の差別的な・階級的な現実が
 
明らかになってくる。
 
そしてそれは同時に、教育労働者に対して、自己の労働の社会的・階級的役割をみすえることをも強制するものでもある。           
 
この意味において、被差別の側からの学校─教育に対する闘いは、能力主義教育に対抗するものとなっているのである。
 
また、教育労働者の内部からも、能力主義教育を問題にし、教育労働の社会的・階級的役割をみすえる実践・闘いもおこってきてい
 
る。1970年の福岡伝習館高校の教師の闘いを頂点とする、各地での闘いがそれであり、部落民・障害者に教育を保障する闘いの中から
 
も、それほど明確・自覚的でないにしろ、同様な視点を提起する教育労働者も現れている。
 
さらに、同様の意味を持つ闘いとして、反戦・反基地・平和をめざす教育のとりくみや、教育委員の公選制を求めた闘い、児童─生徒の人権
 
を無視した「校則」を見直すたたかいなどがひろがっており、やはり同様に、学校─教育、そして教育労働の社会的・階級的役割をみすえる役
 
割を徐々に果たしつつある。
 
しかし、このような闘いの示した視点は、いまだに日教組運動においては、少数派である。日教組運動が、専門職集団として国家に癒着し、教
 
育労働の社会的・階級的役割に無自覚である現状においては必然的とも言えるが。

2)「臨教審」を軸とする教育再編

1)〔教育再編攻撃〕

しかし、今日、臨時教育審議会(以下臨教審と略す)の答申をてことして、国家─資本の側は、学校─教育をさらに変質させる攻撃をしかけて
 
きている。
 
日の丸・君が代を強制し、侵略の事実をごまかしつつ、資本の新たな海外侵出を美化する国家主義教育の導入。「個性の尊重」の名の下に、
 
差別構造を拡大する諸施策(飛び級制・6年制中等学校,能力別学級編成の導入・高校教育の多様化など)。さらには、「生涯教育体系」の確
 
立の名の下に、企業・行政・学校・地域・家庭を一体化し、一生涯に渡って、能力に応じて、考え方と技術とを植えつける「教育体系」の確立が
 
行われようとしている。そしてさらに、研修の強化、免許法の改正などによる教育労働者の管理強化など。
 
この攻撃は、「戦後民主教育」を根本的に解体・再編成しようというものである。「戦後民主教育」は、明白に「国家のための教育」を否定してい
 
た。したがってそこにおいては、「国を守る気概」も「国益のために働くこと」なども、児童─生徒にうえつけるべき考え方としては、掲げられては
 
いなかった。(これは、憲法において、国民皆兵制にもとづく軍隊が位置づけられてはおらず、国旗・国歌も制定されてはいないことと対応して
 
いる。)今日の教育再編で特徴的なことは、この点を根本的に改変しようとしていることである。
 
さらに、飛び級制や6年制中等学校、そして能力別学級編成の導入や高校教育の多様化などは、「戦後民主教育」の「能力に応じ」て「教育を
 
受ける機会を均等に与える」という側面を、徹底的に能力による別学体制へとおしすすめていくものである。そして、新しい内容として、「生涯
 
教育体系」の確立がある。これまでは、「教育体系」と言った時、それは学校教育を意味していた。学校教育にこそ、「資本のためのマンパワ
 
ー形成」の役割が期待されていたのである。しかし、今日、その役割は、学校だけに限られず、企業・行政・地域・家庭にまで広げられ、それぞ
 
れの役割分担と相互の関連性が明確化されようとしている。そして「国民」は、その能力と特性に応じて、一生涯に渡って、それぞれの場で、
 
「教育」を受けるようにしようというのである。そこにおける「教育」が、「国家のために働く」ことを意識させ、能力に応じて、様々な技能を習得さ
 
せるものであることは、言うまでもない。
 
「臨教審」答申をてことする、今日の教育再編は、「戦後民主教育」の民主主義的側面を根本的にはぎとり、露骨な、国家─資本のための、差
 
別的・管理的な「教育」へと変質させ、さらにその役割を、学校だけでなく、社会全般にわたっておしひろげていくものである。言い換えれば、国
 
家─資本が、社会全般を管理・統制しようとするものと言ってよいだろう。
 
2)〔「参加と協力」ですすむ教育再編〕
 
しかも、もう一つ特徴的なことは、この再編攻撃が、「国民」の側の「参加と協力」の形を取って進行していることである。家庭・地域の教育的役
 
割をことさらに強調し、学校や行政による「地域懇談会」などが組織されている。そして、日教組も、「国民のための教育改革」を掲げ、「改革運
 
動」を推進している。
 
日教組が「臨教審」答申に反対する時、教育労働者に対する管理・統制の強化にのみ反対している事に特徴的なように、その「闘い」は、能力
 
による別学体制化や、「生涯教育」の名の下における、社会全般の管理の問題には、実態としては、反対していないのである。そのような質に
 
おける「改革運動」は、今日の新たな教育再編にたいして、積極的にそれを担うものとなっている。                
 
3)〔教育再編の背景〕
 
今日の「臨教審」答申をてことする教育再編は、「戦後民主教育」を根本的に解体 ・再編成しようとするものである。したがってそれは、「民主
 
教育の空洞化」に対して闘い、民主主義の拡大を掲げながら能力主義教育に対して闘ってきた運動の成果をも削りとろうとするものでもある。
 
ところで、今、なぜ、このような根本的な教育─社会の再編成がなされなければならないのだろうか。
 
今日、政府─自民党は、「日本の国際的役割」を政治の場において明確に主張し、それを果たすために努力しなければならないことを掲げて
 
いる。
 
それは、国際紛争を解決するための国連軍への、物的・人的寄与の問題であり、これは明白に自衛隊の海外派遣の問題をはらんでいる。ま
 
た、「シーレーンの確保」「国力に応じた、応分の防衛費の負担」などの掛け声の下、自衛隊の増強、アメリカ軍との共同体制の強化ともなって
 
現れている。さらに世界の貧困国にたいする「経済援助」の応分の負担も唱えられており、これは、海外に侵出した資本の安全にとっての「保
 
険」として積極的にとらえられてもいる。
 
このようなことにあらわされた「日本の国際的役割」とはいったい何であろうか。ここでいう国際紛争は、イラン・イラク戦争や、パレスチナ問
 
題、そしてまたニカラグアの問題で明らかなように、帝国主義的支配にたいする民族解放闘争とそれを抑圧しようとする帝国主義の側との闘
 
争の問題である。ここでの「紛争の解決」とは、民族解放闘争を抑圧するか、中途でおしとどめ、経済的抑圧下につなぎとめるものでしかな
 
い。また、貧困国に対する「経済援助」も、フィリピンや韓国の例で明らかなように、その国を帝国主義の支配の下におしとどめ、極端な貧富の
 
差の下で労働者・勤労国民を支配する政権を維持するためのものでしかないこともまた、あきらかである。「シーレーンの確保」の下で、自衛
 
隊の防衛分担とされている、東・東南アジアとは、まさしくこのような「紛争」がいつ勃発してもおかしくない地域である。
 
そしてこの地域は、日本の資本が侵出し、その経済を握っている地域でもある。
 
このようにして見てくれば明らかなように、今、日本は、戦後におけるその国際的役割を、根本的に改変しなければならない地点に立っている
 
と言える。
 
日本は、戦後、アメリカの核の傘の下で、「軍事費」も「経済援助」にもほとんど力をさくことなく発展し、海外にその資本を雄飛させてきた。しか
 
し、今日、アメリカの国際的な力が低下した中で、各地で民族解放・経済的自立を掲げた闘争が発展する状況において、アメリカと共に、その
 
国際的な帝国主義的支配の体制を積極的に維持する役割を担うことが求められているといえよう。
 
これが、今日における「日本の国際的役割」なのである。
 
しかし、日本がこの国際的役割を果たそうとする時、戦後の日本の国家体制は、そのままでは、とてもその任に耐えうるものではなかった。国
 
家意識などはなく、ただそれぞれが各自の利害に基づいて動くことが許された体制。国家は、その利害の調整の役割を果たすのみであり、そ
 
の内部にはらまれた様々な不満が、限定されているとはいえ、ふきだすことのできるようなしくみになっていた。
 
それをいかに変えるか。そして、今後、日本の経済的発展の中でつちかわれてきた差別・抑圧の構造の下、様々な不満がうずまき、ふきあげ
 
てくることが予想される。(「教育荒廃」と呼ばれる状況も、そのことを予想させる一つの現象であるが・・)これをいかにして防ぐか。しかもそれ
 
を、戦前のような、むきだしの支配としてではなく、「参加と協力」という「共同幻想」のもとで、労働者・勤労国民のエネルギーをとりこみつつ実
 
現する。
 
このような観点から、今日、様々な政策・攻撃が行われている。
 
来るべき天皇死去の事態を利用した、「国民的統合」の策動。戦後民主主義─戦後政治の総決算の名の下に、「国会」をバイパスして「審議
 
会」をてこにした強権的政治の推進。労働者・勤労国民の不満をバネに、国家─資本から様々なおこぼれを奪いとってきた総評労働運動の
 
解体・労働戦線の再編の攻撃。さらにこれと連動した、社 ・公・民を軸とした政党再編など。これらのものは、同じ観点から立てられた、一体の
 
ものなのである。そして、「臨教審」答申をてことした、今日の、教育─社会の再編攻撃もまた、このような攻撃の不可欠の一部なのである。
 
今日求められている、「日本の国際的役割」を果たすためには、労働者・勤労国民が、国家─資本の号令の下で、自発的にその意に従って、
 
社会のあらゆる場で行動することが必要とされているのである。                     
 
このような観点から、教育再編攻撃を見るならば、「国家主義の強調」「生涯教育体系の確立」などは、明白に以上のような国家─社会の再編
 
成の線に沿って行われていることがあきらかになる。                         
 
そして「能力主義」の徹底・別学体制の確立も、この線に沿っている。帝国主義国際体制を維持する共同のとりくみの中で、一方でアメリカや
 
EC諸国との技術競争に勝たねばならない現実。ここからくる、創造的で、活力あふれる「ハイタレントマンパワー」の形成の必要性。そしてそ
 
の支配階級としての共通の意識を、労働者や勤労国民とは別個に形成する必要性。さらに、そうした選別体制の中でおちこぼれた労働者・勤
 
労国民をも、国家の下に、「分」をわきまえた上で参画させる意識を形成する必要性。こうした観点から、別学体制の確立を出されているので
 
ある。
 
4)〔とりこまれる日教組〕
 
このような背景の下でだされた教育─社会の再編攻撃。これに日教組運動が対抗できないでいることもまた明白である。
 
自らの教育労働の社会的・階級的役割をみすえる視点をもたず、むしろその上に立って、国家に自らを高く売りつけようとする傾向を孕んでい
 
た日教組運動。これを対象化し乗り越える視点を持たねば、今日の教育─社会の再編攻撃に正面から対抗できるものではない。
 
労働戦線の再編において、「連合」の「進路と役割」を基本的に承認し、これをベースにして「官民統一組織」の綱領を作製するという,日教組
 
のとった姿勢は、教育─社会の再編攻撃にたいして、武装解除したも同然である。個々の資本との協調だけでなく、国家の要請に答えること
 
を協調した「進路と役割」を承認して、どうして国家再編の一部としての教育再編に対抗することができようか。明白に軍事産業の強化拡大を
 
掲げる「連合」との合併に際して、反戦・反基地・平和の闘いを、新組織の綱領としていれさせることなどできるのであろうか。国家への「国民
 
的統合」の「象徴」と変貌しつつある天皇制にたいして、それを奉る「連合」との合併に際して、君が代・日の丸の闘いを新組織の綱領として入
 
れさせることなどできるのだろうか。資本への協力を明白に掲げる「連合」との合併に際して、「能力主義教育」=別学体制に反対する闘い
 
を・・・・・。具体的に考えてみれば、日教組がこれまで闘ってきたことも、また日教組の周辺で闘われてきた様々の闘いとの結合も、日教組が
 
「連合」と合併してしまえば、不可能となるか、形だけの牙を抜かれたものになるしかないのは、あきらかであろう。                            
労働戦線再編の闘いと、「臨教審」攻撃に対する闘いを別個のものとしては推進できないのである。

3)いかに闘うか!

1)〔「戦後民主教育」の徹底化〕
 
ではこのような状況の中でいかにたたかったらよいのだろうか。またその時、いかなる課題を克服しなければならないのだろうか。
 
まず、今後、はっきりさせなければならないものとしては、いかなる「教育体系」をめざしてたたかうのかということ。いいかえれば、教育運動綱
 
領ともいうべきもの。これをつくるための共同の作業がなされねばならない。
 
これは、空想的・抽象的に考えてはならない。現に、「能力主義教育」=別学体制と化した現在の教育体系に対して、様々な人々が闘いを挑
 
んでいる。被差別諸階層の教育保障・そして自らの解放をもとめる闘い。平和教育・反戦反基地の闘い。日の丸 ・君が代に対する闘い。教育
 
委員の公選制を求める闘い。児童─生徒の人権を守る闘い。そして能力主義教育に加担しない教育労働の質・ありかたを求める闘い。これ
 
らの闘いが提起しているものを総合しながら、「戦後民主教育」の民主主義的側面の不徹底な面を、徹底して変えていくという視点。この視点
 
にたって、めざすべき「教育体系」を明らかにするとりくみを、今日ただちにしなければならない。
 
2)〔地域・全国を貫く共同闘争の形成〕
 
そして、この「教育運動綱領」とも言うべきものをつくりあげるとりくみは、議論としてだけではなく、実態としての共同の闘いを基礎にしなくて
 
は、推進できないだろう。
 
現実に、「臨教審」答申をてこにした攻撃は、日々実態化されている。そして今日、これに対して日教組運動が有効な闘いを組めないのは、こ
 
の攻撃を対抗する視点、自己の教育労働の社会的・階級的役割をみすえる視点を運動体がもっていないことに起因していた。この視点を持っ
 
ているものは、日教組運動─教育労働運動内部においては、ごく少数である。 
 
しかし、「教育荒廃」の状況が深化する中で、教育労働者には、日々この視点にたつのか否かが鋭く問われている。この状況を加速する必要
 
がある。
 
教育労働者の意識を変えつつ、「臨教審」攻撃に反撃を具体的に進めるためには、学校を社会に開いてしまう闘いが必要である。
 
現在の学校は、親や地域の労働者・勤労国民に介入の余地を与えないまま、文部省─教育委員会─教師の共同の体制のもとで運営されて
 
いる。この閉鎖的状況を打ち破らねばならない。児童─生徒の人権を守る闘い、君が代・日の丸をめぐる闘い、どのような闘いにおいても、閉
 
鎖的な学校内部で問題をとどめないで,地域に問題を公開し、広範な父母・労働者が、学校の運営に介入する余地を開く必要がある。
 
このことを実現する手立て、それは地域共同闘争という形をとる以外にないであろう。このことを今後、意識的にすすめることが大切だろう。
 
3)〔教育労働運動の再構築〕
 
だが、このような闘いをおしすすめるためにも、日教組運動の現状が打破されることが不可欠である。
 
今日まで、「民主教育」を守る立場に立ってきた日教組運動は、同じ立場に立つ総評労働運動の支援のもと、県評・地区労の枠に依拠して、
 
様々な地域共同闘争を闘ってきた。被差別諸階層の教育を保障させる闘いや、日の丸・君が代の闘い、平和教育の闘いなどはみな、このよ
 
うな状況を基礎にしてたたかわれてきた。
 
しかし、今、労働戦線の再編の下で、総評労働運動が解体されることは、このようなたたかいを今後は、総評労働運動、県評・地区労の組織
 
や地域共闘組織に依拠して闘うことが困難になっていくことを意味している。
 
この闘いの組織をいかに残すのか。このことが今日重要な課題となっているといわなければならない。
 
労働戦線の再編をめぐる闘いは、日教組内においてはまだ決着がついたわけではない。玉虫色の妥協の下、現在水面下で、「連合」に行くの
 
か、それともいかないのか、さらには、「連合」に対抗する階級的な労働運動を再構築する立場にたつのか、これらの選択をめぐって激しい闘
 
いが繰り広げられている。しかし、この闘いそのものが、依然として幹部だけの密室の中で行われているのが現状である。この問題をいかに
 
大衆的に明らかにし、「連合」に行かない勢力をふやし、「連合」に対抗する組織をつくる闘いをくりひろげるかが、今、最大の課題である。
 
この闘いと結合しつつ、県評・地評・地区労を守り、それを「連合」に対抗する拠点と化する闘いを繰り広げることも重要である。
 
さらには、現在唯一、国家と対決し、「連合」に対抗する位置にある国鉄労働組合を支援する闘いも大切な課題である。
 
このようなたたかいを、精一杯たたかいぬくことなくして、地域共闘、学校を地域に開き、教育を労働者・勤労国民の手にとりもどす闘いをくり
 
ひろげるための闘いの組織を残すことはできない。
 
そしてまた、この闘いを通じて、教育労働の社会的・階級的役割をみすえ、それを超えようとする視点をもった教育労働運動の再構築もまた
 
不可能なのである。
 
「臨教審」攻撃に対する有効な反撃を築き、学校をひらき、教育をとりもどす闘いの先頭に私達は立ちつづけたいと思う。
 

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