腐敗した資本主義そのままの”理想郷”たる出家社会の現実

ーオウム事件が映し出す日本社会の閉塞状況ー

                                                                 

 「ハルマゲドン」の予言のもとに、国家転覆・新国家建設まで企てたオウム真理教。この「狂気」とも思える事件から、階級的労働者は何を読み取

り、何をすべきなのか。この事件からは、時代の性格と、私達にとっての課題がくっきりと見えてくるものと言えるが、この小論では、体制の閉塞状態

の中での階級意識のあり様に限定して、論じていくこととしたい。

 オウム真理教とサリン事件をあつかった様々な報道番組が流された。その一つのNHKの特集番組の番組紹介欄の中に、次のような文句があっ

た。

 『人々の心に安らぎを与える宗教が、なぜあのような暴力的な大量殺戮という行為に出たのか?』と。

 この問いの前提には、「宗教というものは現実の社会の中で様々な苦悩に喘ぐ人々に対して心に安らぎを与え、現実社会の中で生きていく力を与

えるもの」という観念が存在している。「心に安らぎを与える」というのはそのとおりであるが、「現実社会の中で生きていく力を与える」かどうかは、そ

の時々の社会体制が、妥協可能なそれなりに満足する生活を保障する(と思える)状態にあるかどうかにかかっている。

 一つの社会体制の発展期には、宗教にとりこまれた人々の不安は、現実の体制の中で生きていく意味を与えられ、その中に吸収されていく。しか

し、その爛熟期や崩壊の局面においては、体制の側に人々の不安を吸収する余地がない。したがって宗教は必然的に「現実の社会から“脱出”」す

る事により、人々の不安を解消しようとする。オウムに限らず最近発展している宗教は全て、超能力や霊力など、近代合理主義に相反するものによ

る救いを標榜する。そしてしばしばその教祖は、全てを超越した絶対者として崇められる。

 ここには、近代合理主義と民主主義への絶望感が反映している。さらに、このような宗教の中に、「世界の終わり」を説き、人々の不安をかきた

て、生への欲望をあおりたてるものが現れている。危機を説き、「超能力」による救いを標榜する宗教が発展したのは70年代以後であるという事実

が、危機の時代の宗教という捉え方の正しさを証明している。そしてその幾つかが、社会との交わりを極力避けたり、「理想郷」をつくろうとしているこ

とも、同様である。

 オウムが他の新しい宗教と違うのはたった一点。「悪」とみなされる体制を「変革」しようと行動した所にある。

 オウムは国家転覆のあとに、来るべき「ハルマゲドン」に備えて、「太陽寂静国」という理想国家をつくろうとした。その「憲法草案」には、神聖法皇と

称される教祖が唯一絶対の統治者として軍を統率し、国民には兵役が課せられるとされる。そしてその神聖法皇の指揮のもとでつくられる「平和で

平等な社会」。「衣食住の全てが保障され、幸福な生と死を送れる」社会。この「理想」郷とかって戦前の国家社会主義者が構想した理想国家とのあ

まりの相似形に慄然とする。

 また、その「理想郷」を現実に体現する、オウムの出家社会の現実はどうであったか。10いくつかに分かれた身分・位階制。その階段を昇っていく

ために設けられた修行マニュアル。「ビデオ百本。教本百冊。マントラ(経文)復唱五万回」などの「量」を重んじる修行。そしてその修行の過程で不

可欠な高額の「布施」。さらには「修行」の美名に隠れた暴力の横行や薬物投与による「夢幻」体験。そして、「最終解脱者」と自称した教祖のみに許

されるという「金と飽食と性欲」にまみれた自堕落な生活。

 あまりにも露骨な能力主義。マニュアル化された「修行」という名の人間破壊。そして露骨な拝金主義とインチキ。現代の資本主義社会の腐りきっ

た現実そのものである。

 では何ゆえ、オウムの「理想郷」は、現実の醜いコピーでしかないのか。これは、宗教そのものの社会的機能に由来する。

 宗教は、社会矛盾に発する人々の不安をかきたて、不安の裏にある欲望をあおり、その不安の源である社会矛盾を解決するのでなくむしろ別の

方向にそらして欲望を満足させることで、不安を解消しようとする。

 オウム真理教は、体制危機の諸様相からくる不安や、能力主義社会に阻まれた栄達心や挫折感を持つ人々に、「体制の崩壊」と「信ずる者のみ

の生き残り」を約束することによって、この宗教にひきつけられた人々の心の奥に潜む欲望に火をつける。「もっと人に注目されたい」「心の欲するま

まに生きたい」などの欲望が、ハルマゲドンのあとに来る理想郷への生き残りという教義によって目覚めさせられる。それは教団を作った者と引きつ

けられた者の双方にとって言えることであり、ここに両者の疑似共同体が出現する。

 人の欲望はもっとも保守的である。その人間を育んだ社会の価値観がもっとも露骨に生きているところでもある。それゆえオウムの描く理想郷は

現代資本主義そのものとなり、自分の不安の原因とされたことが「世界の終わり」とともに消滅する喜びと、その時に備えて自己を鍛練する修行とい

う生きる目的を与えられたことにより、そこで生きることに喜びすら感じる。

 オウム真理教に垣間見られる人々の意識状況は、現代資本主義の体制的危機ともいえる矛盾の噴出にもかかわらず、それをそれとして意識す

るのでなく、「時代への反発と逃避」の水準に止まり、その意識は、現代資本主義の価値観に色濃く染まっている。

 この人々は、その社会的出自や現在の社会的地位から判断すれば、支配的エリートに属するものではない。被支配層とも言えるこの人々、しかも

体制の矛盾を垣間見ており、被支配層の中では受けた知的訓練の水準の高い人々の意識が、現代資本主義の価値観の枠内に止まっているのは

何故であろうか。それは、人間形成に大きな影響をもつ学校教育が、現実への適応やそこでの立身出世・弱者切り捨てを煽るものでしかないという

現実や、環境破壊やその他の危機的状況の根拠と解決策を明確に示す思想潮流と運動が、体制の側からも反体制の側からも目に見える形で作ら

れていないことの反映である。

 危機的状況が噴出するのみで、未来は全くの闇に閉ざされた状況といえよう。

 では、オウム真理教が他の宗教と違って、「体制の変革」へと行動したのはなぜだろうか。それは時代の危機的様相から発した、人々の不安に満

ちた意識状態が、臨界点に達しつつあることの反映といえる。この意味でオウム真理教とサリン事件は、現在吹き荒れる「無党派の嵐」と同根であ

り、同じ状況のメダルの裏側といえよう。

 人々は明確な海図もないままに、とにもかくにも現状の変革に向けて、船出しはじめているのである。体制への絶望と、変革への期待の交錯した

意識の下で。

 


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