歪められる事件の背景―神戸小学生連続殺傷事件―
神戸小学生連続殺傷事件は、今、急速に幕を引かれようとしている。逮捕された少年は家庭裁判所の審判にかけられ、精神鑑定に入っ
ている。新聞報道によると、彼は精神病の一種と判定されそうだとのこと。そして彼が起訴される時の神戸地検が発表した捜査結果の概
要によると、彼が殺しに興味を持つきっかけになったのは祖母の死であり、挑戦状などに書かれた、公教育への恨みのようなものは、犯
行とは直接の関係がないとされる。
あれほど世間を震撼させた事件は、彼の家族とその内部での彼の心の葛藤にのみ原因が収斂され、事件は収束されるように見える。
しかし、はたしてそうなのだろうか。この事件に彼と彼の家族を取り巻く社会には、全く責任が無かったのだろうか。
この疑問を、この事件の報道のされかたと、学校・地域・警察などの対応を検証することを通じて、考えてみたい。
この事件はどう扱われたか?
A少年が6年生の児童の殺害容疑で逮捕されてから、マスメディアの視線は、彼の所属していた学校へと向けられた。
それには理由があった。5月24日の犯行の後に神戸新聞社に送られてきた挑戦状には、はっきりと公教育への恨みが述べられてい
た。そして犯人が被害者の首を置いたのが、自分が在籍している中学校の正門の前であることは、誰の目にもこの事件と中学校とが直接
的な糸で繋がれていると思わせた。
A少年が学校に出てこなくなる直前に、同級生を殴った事件があり、その時対応した教師が「学校に来るな」と言ったという報道のよ
うに、学校が直接にこの事件のきっかけをつくったという報道がなされた。
それと同時に、A少年の家庭がどのような家庭であるのかについても、マスコミは暴きだそうとした。
なぜならば、一般の凶悪犯罪においても、その親の責任が問題とされることが多く、マスメディアは、しばしば加害者の家庭の奥深く
にまで土足で立ち入り、その家族関係を暴こうとしてきたからである。
「どんな学校がこんな凶悪な子を作ったのか」、「どんな家庭がこんな凶悪な子を生んだのか」という、世間一般の人々の覗(のぞ)き
趣味も、マスメディアの対応に拍車を懸けた。しかしその報道は断片的なものに終始し、少年が起訴され、精神鑑定にかけられるや、ほ
とんど行われなくなっていった。
その理由は、以下の3点に要約されるであろう。
その一つはマスメディアの体質である。
日本のマスメディアは、事件の社会的本質を長期にわたる取材によって明らかにしていくよりは、その時その時で、衆人の耳目を引き
つけるセンセーショナルな事件のスクープを争うことがその体質となってきた。
しかしその取材活動も、だいたいにおいて加害者が特定され、起訴されるまでである。
もう一つの理由は、当該の学校なり、家族なりの秘密主義であろう。
A少年の在籍している中学校は、マスメディアの取材攻勢に対して、ほとんど何も語っていない。A少年が学校に来なくなったきっか
けについての報道は在校生へのインタビューに基づいており、報道されるとすぐ、学校の対応姿勢が問題にされた。中学校はこのような
発言をした教師はいないの一点ばりで、それ以上何も答えようとしていない。
そしてA少年の家族であるが、彼が逮捕されてからは家の外には出ず、その内に一家離散状態になり、A少年の下の子どもたちは、施
設に預けられたようである。
報道されたところによると、A少年の両親の社会的地位は高く、母親は当該中学校のPTAの役員でもあり、地域の活動にも熱心な家
庭であったという。であればこそ、事件の衝撃は深く大きく、一切を語りたくないのも当然であろう。しかし、それ以上に問題なのは、
「親を謝らせろ」とか「親を罰しろ」とかの世間の対応である。これまでの多くの少年犯罪において、世間はこのように対応しており、
マスメディアはその傾向に乗るだけではなく、それを煽りさえしてきた。
この事実は、A少年の両親にとっても既知のことであろう。であればこそ、行方をくらまし、世間やマスメディアからの追求から逃れ
ようとするのは当然である。
さらにもう一つの理由は、警察と検察の対応である。
7月25日に発表された検察の捜査結果の概要は、はっきりとこの事件の本質をA少年という個人の心の中の問題とA少年をとりまく
家族の中の問題に、ことを限定しようとしている。
以下は捜査結果の概要の要点である。
○少年が死に興味をもつようになったのは小 5の時の祖母の死がきっかけ。小動物を殺 してみたりして殺したいという欲望がこう
じた結果として殺人にいたった。
○学校教育はこの事件とは直接的には無関係 であり、挑戦状の文言は、捜査を攪乱する ために少年が書いた。
この捜査結果の概要は、警察・検察が、この事件をどう処理しようと望んでいるかを明白に示している。
報道によると、A少年は事件のことを聞かれると饒舌になり、聞きもしないことまで話すそうだが、一切答えない質問がある。それこ
そは、彼の家族のことと共に、彼の学校生活のことである。
彼が全く口をつぐんで話さないのに、なぜ学校はこの事件に無関係と断定できるのか。逆になぜ彼が事件を起こした背景には、家族間
の問題があることを匂わせる発表をするのか。どちらについても彼が語らないということは、この双方が事件の根本的原因に関わってい
ることがはっきりと推察されるのに。
捜査結果の概要は、警察・検察が、この事件を一家庭内の事件に矮小化しようとしていることをはっきりと示しているのである。
日本のマスメディアの警察情報への依存体質は強く、独自取材の弱さは、警察・検察情報への依存と表裏の関係にある。警察・検察が
被疑者を逮捕して事件の背景を発表すれば、それでお終いである。こうして今やこの事件は報道の波に乗ることもなく、A少年個人とそ
の家庭の問題に矮小化されようとしているかに見える。
少年の逮捕後の経過のおおまかな把握だけでも、この事件への社会の対応の方向ははっきりと見てとれるであろう。
しかし、はたしてこれで良いのか。本当に学校をふくむ社会の側には、一切の責任はないのだろうか。この点を以下に、検察の捜査の
概要と断片的ではあるが報道された学校や家庭の状況をもとに考えてみよう。
社会には責任がないのか?
捜査結果の概要によれば、この犯罪の動機は「大事に思っていた祖母の死がきっかけ」だ。だがこれは裏返していえば、祖母しか少年
と心の通いあいをもっていなかったという家族の問題を指摘しており、検察が、家族のありかたに事件の深い原因を求めていることの証
左である。
たしかに、彼が小動物を殺して解剖したりしていた時に、家族はそれに気がつかなかったのだろうか。新聞報道によると、彼の家の床
下に虐殺された動物の死体を家族が見つけたという報道があり、家族がA少年の心の闇に気づこうとしなかった可能性は高く、彼の心を
破壊した原因が、彼の家族関係にある可能性も高い。
しかし、これは同時に、家族をとりまく地域社会にも、同じ問題が投げかけられる。これも断片的な報道であるが、少年は以前、切り
取った猫の舌をたくさん瓶につめ、仲間の少年たちに見せびらかしていたという。この少年たちは、このことを自分の家族には全く話さ
なかったのだろうか。
警察が捜査が行き詰まった中でA少年に的を絞ったのは、事件前に周辺で頻繁におこっていた動物虐待の事件であるという。少なくと
も彼の家族をとりまく地域社会は、動物虐待があいついでおり、それに少年たちが関わっていたことは知っていたはずである。
捜査員は彼の遊び仲間から、彼が生き物を殺して楽しんでいたとの情報を得たという。
これは明白に、地域社会に属する人々が、A少年の異常な行動を通じて、彼の心の闇に気づく可能性があったことを示している。しか
し、それは見逃されたのである。
同じことは学校にも言えるのである。
これも断片的な報道ではあるが、彼が小6の時の図画工作の時間に異様な作品を作ったという。それはボール紙で作った箱なのだが、
その箱の床面を除く全面に、カッターナイフの替え刃が、切っ先を外側にして無数に突き刺してあったという。
この作品を見た教師は何をしたか。親を学校によんで、「こんな危険なものをつくってはいかん」と叱責したそうである。
さらにA少年は、学校においてかなりの頻度で同級生などに暴力をふるっていたそうである。
これが事実なのであれば、犯罪の兆候、少なくともA少年の心の中の深い傷を発見できるチャンスを、学校は自ら放棄したと言える。
少年はこの一連の事件を起こす前に、かなり以前から、その兆候を見せていたように思う。周囲への暴力や小動物への虐待、そして犯
罪や死体への異常な興味など。それは、心の闇の明白な証拠であり、それ以上に、当人が心の奥底の闇を、まわりの人に気づいてほしい
というシグナルでもある。
断片的な報道だけでも、無数のシグナルが発せられていたようである。これに遭遇したものは家族をはじめ、近所の人たちや友達やそ
の家族、そして学校の教師たちと、多くの人がいたはずである。
そして3月の小学生連続殺傷事件、さらには5月の小学生殺人事件。この事件そのものも、A少年が無意識のうちに発した、周囲への
救援を求めるシグナルである。
しかし、何度事件を起こしても、家族も社会も全く気がついてくれなかった。だからこそ彼は新聞社に挑戦状を送ったのである。彼の
遊び仲間のマークを添えて。
挑戦状にある「透明な存在である僕」という言葉。この言葉の中に、はっきりと彼が自分が彼を取り巻く社会から全く無視され、どう
でもよい存在として見られていることへの無意識の怒りが表明されている。彼がこの挑戦状に、彼のグループのマークを使用したという
ことは、これが公表されることで、彼という人間が特定されることを無意識のうちに願っていた証左である。
A少年が無数に発した救援のシグナル。しかし、それはまったく無視された。子どもが子どもを殺すという最悪の行動に出ても、それ
は無視された。A少年だと感じた人間は全くいなかったのだろうか。いたはずである。
その人々がなぜそれをそれとして認識しなかったのか。早い時点で彼のシグナルを読み取り救援の手がさし延べられていたら、彼はこ
れほどの事件を起こさなくてもよかったのではないか。彼は、社会からなんの恩恵も受けなかったのである。ここに今回の事件の本質を
解く鍵があると思う。
A少年の心の闇の断面
A少年が小学校の卒業文集に書いたと報道された言葉。「村山総理大臣を殺してやりたい」は、あまりにもリアルに彼の心の中を語っ
ている。
突然の災害にうちひしがれている人々の前に、戦後ひさしぶりの社会党連立内閣の首相である村山は、不遜ともいえる態度でヘリで降
り立った。防災服に身をかためて、あわただしく避難所を駆け抜けていくだけの行政府の長である村山の姿勢。
天災ではなく人災とも言える災害。しかもその直後の行政の対応の冷たさ。被災者は住む家さえなく野宿同然に置かれ、救援物資は善
意の国民のカンパに頼る状況。焼けた家は自力で建てろとの行政のお達し。江戸時代の藩主権力でさえ、自身の蔵を開いてお救い米を出
し、当座の生活費を藩財政から捻出し、さらには生活の再建まで藩がめんどうを見る。このような封建権力の足元にも及ばない行政の非
人間的対応。
弱者はまさに虫けらのごとく踏みつぶされる現状。阪神淡路大震災は、この現実を白日のもとに晒した。
すでに、たった一人彼が大事に思っていた祖母をなくし、心の傷を次第に隠すことができなくなっていたA少年にとって、ここでかい
ま見た現実は、いかばかりの影響をあたえたであろうか。
多くの被災者が抱いたであろう行政への怒り。しかしこれは到底実現されることはなく、闇から闇へとその底へと沈んでいくしかない
怒りであった。そしてこれは、彼自身の心の奥底の怒りの辿ってきた道筋と同じである。「村山を殺したい」という言葉は、以上のこと
を敏感に感じたA少年が、自分の心の奥底の怒りを無意識のうちに投影した可能性がある。「村山」は「親」または「教師」と置き換え
られるはずである。
A少年の行き場の無い怒りはどこにむけられたのだろうか。
A少年が傷つけたものをもう一度思い返してみよう。猫やハトなどの小動物。そして歳下の女の子。そして最後は歳下のしかも障害を
もった男の子。彼はこれら、特に自分より弱い人間たちを「汚い野菜」と呼んでいた。
傷つけられた心の闇を、自分を傷つけた者に突き返すことのできない弱者であるA少年。彼が傷つけ命を奪ったものは、すべて彼より
も弱者の立場にあるものたちばかりだったのである。
しかし、この事件がいかに異常であろうとも、子どもによる子どもの殺人は、これ1件の特異な事件ではないという事実を消しはしな
い。学校におけるいじめを広範な底辺として、今までにも全国で何十件も起きてきたのである。
教育界の悪を照らす事件の様相
この事件が報道された時、まだ犯人としてA少年があがっていない時でも、筆者にはひとつ、根本的な疑問があった。
それはこの事件があった場所が、あの有名な神戸高塚高校校門圧死事件の現場に近いということが、まったく報道されなかったことで
ある。学校に遅刻してくる生徒をなくすという名目で校門指導がなされ、遅刻すれすれの者を締め出すために、チャイムと同時に門を閉
める。それも大人が何人かかからなければ動かせない鉄の移動扉だ。生徒が飛び込んでくることを知りながら、勢いをつけて鉄扉を閉め
た教師たち。その扉と門柱に頭をはさまれて、一人の女生徒が圧死した。
この事件には、この学校とこの学校をとりまく神戸の、そして日本の教育界の異常さが浮き彫りになっていた。
ささいなことまでとりあげて生徒を締めつける生徒指導の異常さ。そしてそのことを生徒のためと公言してなんら疑問をもたない教師
たちの異常さ。さらに当該の教師が業務上過失致死罪で起訴されたときに、教育熱心な先生を無罪にとの署名運動をおこなった父母たち
の異常さなど。
筆者は神戸新聞社に送られた挑戦状を読んだ時に、すぐこの高塚高校校門圧死事件を思い出した。挑戦状に書かれた公教育への恨み
は、直接的にこれと類似の指導が今も神戸の教育界ではなされていることを指摘していると感じたのである
しかし、挑戦状の報道のあとも、A少年が逮捕されあとも今日にいたるまで、このことはまったくマスメディアでは話題に登っていな
い。この状況自身が、まったく異常であると言わざるをえない。あえて言えば、二つの事件をつなげて考えないように誘導しているとさ
えいえる。
文部省は今回の事件があかるみにでた時、文部大臣名で中央教育審議会に「心の教育」のありかたを諮問した。家庭や地域、学校にお
ける心の教育。それは命の尊さを教える教育だという。
なんと唐突な、その場凌ぎの対応か。
A少年の心が破壊されていたことは確かである。彼の行った行為の異常さだけでなく、彼自身が彼の行ったことについて、まったく感
情をもたないかのような状態にあることでもそれは伺われる。
しかし、その原因を深く問うことなく対応策だけ求める動き。ここには、文部省がこの事件が学校教育の本質に関わることを直観的に
感じとり、あわてて防衛策を講じようとしたことが示されている。
検察も警察も、事件と学校教育の直接のつながりはないと判断している。なのに文部省のこのあわてぶり。「道義的責任はある」と文
部大臣は言っているが、この対応のまずさそのものが、事態はそうではないと社会の多数の人々が感じ始めていることへの恐れが、文部
省の中に走ったことを示している。
命の尊さを教える教育というが、現実の学校の教育活動そのものが、命を日々傷つけ削り取っていることは事実である。ささいなこと
をとりあげて生徒を締めつける指導のありかた。7年前の校門圧死事件の直後に文部省は全国の学校に対して、生徒指導規則(生徒心
得)の見直しを指示した。その観点は生徒の人権への配慮であった。
つまりそれまでの全国の学校の生徒指導なるものが、生徒の人権を侵していることを文部省が間接的に認めたのである。
だがいったいどこまで改善されたのだろうか。生徒の頭髪や服装や持ち物の細かいことについての規則を一切持たない、または全く自
由とする学校はいくつあるだろうか。この瞬間にも全国の中学校では、茶髪やルーズソックスやピアスが摘発の対象となっていることで
あろう。またそれほど目立つ行為でなくとも、ワイシャツやブラウスの第一ボタンを外していることすらが指導の対象となる現実があ
る。
子どもの権利条約が批准されても、学校の状況は前と変わらない。これはこの条約と国内法とは矛盾しないと文部省が強弁しているこ
とに表されているように、子どもの人権を最上位の事項としては考えない体質を日本の教育界が持っていることを示している。心の教育
というのなら、この状況こそが改められねばならない。
そしてもう一つ。生徒を互いに比較して評価する現在の学校における評価のあり方も、子どもたちの心を日々蝕んでいく元凶である。
学校の授業は、極端にいえば評価の為の授業であり、評価のためのテストである。つまり、一定の決められた割合で、5なり4なり3な
りの評価に生徒を分けるための授業であり、テストでしかない。
A少年が逮捕された時、彼の中学校は1学期の期末テストの直前であった。「動揺せず大切なテストをしっかりうけよう」という校長
の発言は象徴的である。テストを実施することの方が、人一人の死を考えることよりも大事なのである。
現在の相対評価では、学校の教育活動の最終目標はどんなに粉飾しようと、人間を能力の名の下に分け、結果として受ける差別を甘受
する感覚を社会的に生み出すためでしかない。子どもたちは日々競争させられ比べられる。それは教師からだけではなく、子どもどうし
でもそうであり、親や近所の大人たちからでもある。一人一人の子どもの違いは優劣に置き換えられ、優とされたものも劣とされたもの
も、共に心をむしばまれていく。日々学校で頻発するいじめといわれる状況はこの結果であり、心の鬱屈した状況が弱者にぶつけられた
ものであることは明らかである。
学校の殺伐とした状況の元凶は学校教育のありかた自身にあることは、かなり社会的に知られはじめ、文部省自身も深刻なものと認識
をしている。だからこそ教育改革が叫ばれる。しかし、それは遅々として進まない。能力さえあれば出世できるという能力差別と裏腹の
似而非平等主義という、この国の多くの人々の心を支配してしまった観念は、それを必要とした社会が手つかずにそのままという状況に
も助けられて、教育の根本的な改革を阻害する最大要因となっている。
わずか7年の間をおいて、同じ神戸でおきた二つの事件は、学校教育の度し難いまでの悪を白日のもとにさらけ出す可能性を持ってい
る。これを緩和し軽減するための教育改革が進まない現状のもとでは、この事件は教育の根本的な社会的性格を暴き出しかねないのであ
る。
A少年の様々な暴力行為や異常な行動の背後にある彼の心の闇を、なぜ学校はつかめなかったのか。そのような行為を彼がした時に何
故悪者として排除するしかできなかったのか。ここを具体的に追求したとき、この事件は7年前の事件と同質の悪が学校に巣くっている
ことを明らかにする。
7年たっても事態は改善されず、むしろ悪化すらしている。このことが明らかになった時、差別を生み出し差別を拡大するための社会
装置としての教育、この性格が明るみに出てしまう危険性がある。
社会の多数の人がこれに気がつかないうちに、教育の悪を緩和する。この至上命令のために、この事件の本質は曖昧にされねばならな
いのである。
今なにがなされるべきなのか?
この事件は、現代社会が、そこに属する人間たちに破滅的ともいえる破壊作用をなしていることをはっきりとしめしている。
資料があまりにないために言及しなかったがA少年の家族。彼があれほどの心の闇をかいまみせる行動をしていたにもかかわらず、そ
れを無視した家族。そしてにもかかわらず、社会的には地位も高く、地域活動にも熱心な模範的な家族。その家族の内部に悪が巣くって
いた。その原因は何か。
ここには現在の家族や労働のありかたなど、社会生活の問題点が凝縮している。
だからこそA少年の犯した犯罪を彼と彼の家族の内部に閉じ込め、彼を一種の精神異常者として社会から隔離してしまうことは意味が
あるのである。
しかし、それではA少年も、A少年の家族も救われない。そしてこれまでの同様な事件の当事者や家族、さらには第2・第3のA少年
とその家族も同様であろう。
かれらを救うために今何がなされねばならないのか。
A少年の心の闇を解明するために。
第一に。彼の家族や親戚や近しい人々にたいする徹底した調査がなされねばならない。彼がいったいどのような家庭状況で育ってきた
のか。彼の心を破壊するまでにいたった家庭とは、どのような状況でうみ出されたのか。それは、両親の成育歴や家族の歴史にまで逆上
るであろう。
第二に。彼が過ごしてきた小学校や中学校の状況の調査である。担任は言うに及ばず、彼が在籍していた年を含む前後10年ほどのす
べての教師や多くの生徒たちにたいする徹底したインタビューが必要である。そして直接的に彼に関わったすべての教師と生徒たちに
も。
このような調査を警察が行うことは不可能であろう。訓練された専門的な精神分析・心理学の医療チームによってのみ可能である。
この二つの調査がなされた時、彼が今回のような残忍な犯行におよんだ心の動きと、それをしても悲しんだり苦しんだりすることのない
心の動きの真の原因がつかめるであろう。その時はじめて、彼の心の闇を治す手掛かりが見えてくる。
そしてこの二つの調査の過程そのものが、彼を取り巻く社会の一人一人の人間に対して、その生き方、そのあり方、その連携のありか
たを根本から問い直していくきっかけとなるであろう。
《参 考 文 献》
○アリス・ミラー著(新曜社刊)
「魂の殺人」
「禁じられた知」
「才能のある子のドラマ」
この著作は、人間の異常な行動の背後に、幼少期にその生を握っている身近な大人による精神的肉体的虐待があることを明らかにし、
その傷が癒されることなく残っていることで、異常な行動が生み出されると説く。これは文明社会で人が人を支配するシステムを維持す
るために生み出された事を、ミラーは多くの例を検証して論証している。
○ジッタ・セレニイ著
「マリー・ベル事件」(評論社刊)
30年前、イギリスで起きた事件のドキュメント。11歳の少女が犯した2件の幼児殺害事件を社会がどうあつかったかを記録したも
の。今回の事件への日本社会の対応の性格を知るのに恰好の書。