「無縁」の人々の共同墓地
ー「千秋の丘」3周年に想うー
横浜市緑区恩田町の、田園を見下ろす山の中腹の墓地の一角に、高さ2.3m台座の大きさ1.6mの御影石製の墓がたっている。名付けて「千
秋の丘」。真言宗徳恩寺の「青葉霊園」の中にある、身寄りもなく無縁仏となった横浜寿町の住民の「共同墓地」である。 この墓地は、いつ訪れても
花と線香が供えられており、常に訪れる人が絶えないようである。
「千秋の丘」の由来
この墓地が建てられたのは、1991年の9月。開眼供養は9月21日に行われた。建立費用は約550万円。寺を含め、多くの人の協力で建てられ
たものである。この「共同墓地」を建てようという話しが決まったのは、91年の早春のことであった。
元寿日雇労働者組合の副委員長であった川瀬誠治の労災事故の民事訴訟が終わり、1月に慰謝料が出された。そして以前から造成中であった
徳恩寺の墓地が出来たので、その一角に息子の墓を建てようと両親が住職を訪ねた時のことである。話しの中で母親から、息子が生前、寿の仲間
たちの死後の住処について心を悩ましていたということが話された。「寿の人達は生きている時も住む所がなく、死んでからも住む所がないんだよ
な」とよく、母親に話していたというのである。この話しを聞いた徳恩寺住職の鹿野融照師は、「誠治君も同じことを考えていたのですか」と語り、その
場で「共同墓地」を建てる話しが具体化したという。
そして慰謝料の一部の350万円を基金として、それに徳恩寺住職・寿の住民有志、さらには、「共同墓地」を建てようという趣旨を聞いた田奈農協
(青葉霊園の造成を仲介していた)と石材店などがそれぞれ金を出しあって、1991年9月の彼岸に、開眼供養がなされるに至ったのである。
今日では、この「千秋の丘」は寿の人達のみではなく、東京の山谷で無縁仏となった人のお骨も納められ、故人を知る人々が、機会ある毎に訪れ
るようになったのである。そして、今では徳恩寺住職と檀家の人々の心づかいの中で、死者の魂は千秋の眠りについている。
徳恩寺と寿の縁
徳恩寺の住職と寿町とのつながりは、もう20年にも及ぶ。住職の弟子の一人が寿町に入ったことから、身寄りのない労働者が亡くなっても引き取
り手がなく、そのまま無縁墓地へと運ばれていくことが住職の耳に入った。それから住職と二人の、無縁仏の供養塔を建てるための托鉢が始まり、
多くの人々の支えで、無縁地蔵尊が建立された。ここから、徳恩寺と寿町の縁は始まったという。
以来、引き取り手のないお骨を徳恩寺で引き取って弔ったり、毎年夏のお盆には無縁地蔵尊の前で無縁仏のお盆供養が行われ、大勢の徳恩寺
檀家のボランティアの人々の手による千食分のライスカレーの施食配布が行われてきた。
このような縁の中で、住職は、無縁仏の「共同墓地」の必要性を感じられていたという。
死者との共感
8月22日、ひさしぶりに「千秋の丘」を訪れた。今日は、川瀬誠治の命日である。10年前の8月22日午前0時20分。病院での約36時間の戦い
の後、彼が息を引き取ってから、10年の歳月がたってしまった。この最後の戦いの中で、彼は何を考えていたのであろうか。彼の労働者解放へ向
けての戦いの思いを、私達は引き継げているのか。「千秋の丘」に参り、その側の誠治の墓に参ったあと、そんな思いが、心をよぎる。
彼の残した日記の中に、次のような一文があった。
『寿で、多くの人々の死につき合って来ましたが、霊のおちつく先を捜す作業が結局は警察の手を頼らざるをえないとしても、空しくもありま
したが、弔いのし方であったと思います。生前を知る人々が、何もしてやれなくとも、その人(死者)を語ることでうなづきあう時こそが、偲ぶ
会であったと思います。ですから、無縁仏となることは仕方ないとしても、そうしたくないという心が大切であったのであって、「無縁にしたく
ない」という気持ちだけが充足されて寿の死者は寿の共同墓地へというシステムができあがってしまうとすればそれは決して積極的に弔お
うとする姿勢とは、それこそ無縁なものとなると思います。ただし、“自分のおちつく先がない。寿の死者たち全ての骨の一部でも必ず納め
たい”という労働者の声から作られるのならわかりますが、何かやり、何かできた人たちが、さらに何かしてやれるようになってしまう・・・・
何かが違うという感じです。』(1984年1月24日の日記 より)
これは、1月20日になくなったある労働者の弔いの仕方と、その中で提案されていた「共同墓地」案への意見である。安易に共同墓地と考えるの
ではなく、死者とのかかわりかたの問題だと言っているようである。
「千秋の丘」は完成して3年目の秋を迎えようとしている。誠治の考えとは違った形で「共同墓地」は建てられたが、それは良かったのだろうか。
寿からも山谷からも、故人を知る多くの人々が、機会ある度に「千秋の丘」を訪れ、墓前の酒や饅頭や花を供え、死者との語らいの時を過ごしていく
ことを思うと、この人達にとっては、これで良かったのだと思う。
しかし、『周囲の人間にとってはこれで良かったのであろうか。「共同墓地」が出来たことで、死者たちの思いを共有し、思いを引き継ぐという関わり
が、かえって薄れてはいないだろうか』と、こんな思いが、今、心によぎってくる。
「千秋の丘」の存在は、死者の思いを共有し、死者の思いを引き継ぐ弔いの場として、寿や山谷に直接の関わりを持つ人だけでなく、多くの人々と
の出会いの場としてありたいと思う。
この意味で、もっと多くの人々に「千秋の丘」の存在を知ってもらい、訪れてほしい。
(兄 川瀬 健一 記す)