教育労働運動の「死」
ー〔神戸高塚高校・女子生徒圧死事件A〕ー
1. 危機に立つ教職員組合
7月に開催された全日本教職員組合協議会(全教)の第2回定期大会において、兵庫県高等学校教職員組合の西本書記長は、神戸高塚高校の
女子生徒圧死事件について、次のような発言を行った。『今回の事件は、学校で教員が加えた力で一人の生徒を死なせた事件です。指導する「形」
だけにとらわれ、結果として、生徒を「物」としてしか扱っていなかったのです。・・・」と。そして、新学期が始まった9月1日。兵庫高教組の神戸高塚高
校分会は『生命の尊重、主権者としての人格の形成という教育の原点に立ち返り、深く反省して、今後の教育活動に反映させる』とした「おわびと決
意」の声明を発表した。
このような事件に際して、当該の分会や組合の責任者が、自己批判とも言える発言をしなければならない背景には、兵庫高教組自身が、「体感指
導」という名の生徒に対する暴力的制裁に積極的に手をかしてきたという経緯がある。
74年の八鹿高校事件を契機にして生徒統制の立場を明確に取った高教組と、75年に学校秩序の維持、強化を図る方向へ方針転換した教育委員
会とは、事実上一体となって、「体感指導」に邁進していった。そしてそれは、小中学校にもひろがり、86・87年には、教育委員会が相次いで「体罰禁
止の徹底について」という指導文書を出さざるを得ない所までに来ていた。教師による生徒に対する暴力的制裁が頻発し、教師が傷害容疑で起訴
される事件が多発していたのである。
そして兵庫高教組が「日教組の右転落」と「日教組の反臨教審闘争の放棄」を叫んで全教に参加した時に、自らが、現行の差別的な教育体制を支
えてきた事実が暴露された事は、その存立基盤すら崩壊させかねない。自らが推進してきた「管理教育」打破を叫ばざるを得ない、危機の状況に陥
っているのである。 しかし、このような事態は、兵庫県が特殊な事例という事ではない。教職員組合全体に共通して起こっている事態である。
2. 危険な「熱血教師」
9月14日、生徒を圧死させた神戸高塚高校の元教諭の起訴を報じた毎日新聞の夕刊に興味深い資料が掲載された。
1955.7 女子中学生36人が水泳訓練中、異常潮に流され水死(三重県) 1966.8 中学校の夏期キャンプで、女生徒8人と教諭1人が増水した川で流され死亡(宮崎県) 1967.4 高校の山岳部3人が朝日連峰を登山中、吹雪に遭い死亡(山形県) 1967.8 高校生3人が学校近くの川で水泳授業中おぼれて死亡(秋田県) 1969.6 中学校で理科実験中、アルコールランプの火が生徒の服に引火、死亡(埼玉県) 1970.7 私立高校のラグビー部員が長野県で夏休み合宿中、日射病で死亡(東京都) 1985.5 男子高校生が修学旅行中、ヘアドライヤーを持っていて教諭に殴られ死亡(岐阜県) 1986.7 男子中学生が「忘れ物が多い」と教諭に殴られ、足払いされて転倒し死亡(石川県) 1987.1 知恵遅れ小2男子が書き初め授業中、「集中力がない」と教諭に殴られ死亡(神奈川県) |
「生徒死亡事故で教諭が起訴された主な事件」と題するこの表を一見して明らかなように、1970年と1985年の事件の間に明確な質的な違いが見て
とれる。教師の暴力的制裁による生徒死亡事件が、毎年のように起きている。この15年間に「管理主義」教育が蔓延した事実と照らし合わせてみれ
ば、事態の意味する所は明らかである。「管理主義」の蔓延は、生徒を「物」として扱い、生徒に対して暴力的制裁をふるう事に何の痛みも感じない
教師達を大量に産み出してしまったのである。そしてこの象徴的な事件が、87年の神奈川県川崎市における生徒死亡事件であった。
この事件が子供の学校秩序への反抗という事態が起きにくい小学校で起きた事、そしてとりわけ障害児学級で起きたことは、教師による暴力が、
単に教師個人の資質に起因するものではなく、生徒を「教えこむ」「ありうべき姿に鍛えあげる」対象としてしか見ない教育体制の本質、その能力主
義的な差別的体質にある事を明らかにしている。
川崎市においては、教師による暴力事件は今も多発している。中学校の部活動においては、うまく競技が出来ない生徒に対して、殴る蹴るといっ
た行為がかなり日常的に行われ、部活動に遅刻しただけで殴られるという事態も耳にしている。また、日常の学級指導でも事態は同様である。朝の
学級の時間に、クラスの生徒の挨拶が悪いといっては学級委員を代表として生徒達の前で殴り、掃除が出来ないといっては学級委員を殴り、体育
祭や合唱コンクールへのクラスの取り組みが悪いといっては、学級委員を殴る。そしてあげくのはては、家庭の事情で家出している同級生に一日中
密着しろと学級委員に命令するという、教師の業務の押しつけにまで走る。さらにこの命令を忠実に実行して、周囲の教師や父母から「不良」の烙
印をおされながらも自らも家に帰らずに毎夜盛り場に出入りし、同級生の心を解きほぐそうとした学級委員がそれに失敗するや、殴り倒すという暴
挙。そして教師不信に陥ったその学級委員が役員改選に立候補せず、替わりに教師が指名した生徒が教師の暴力的指導に抗議して学級委員を
辞退するや、この二人の生徒を別室によんで殴り倒すという事までしているのである。
しかし、二人の生徒の心をズタズタに引き裂き、以後学校や親に対する徹底的な反抗に出て最後にはシンナーで体をだめにしてしまうまでに追い
込んだこの教師は、学校や親から「すばらしい生徒おもいの教師」という評価を受けていた。彼のクラスは、日常の挨拶も清掃も大変良くでき、ほと
んどの行事において優勝するクラスであった。つまり、この教師は、学級委員に対する暴力的制裁をクラスの全生徒の前で繰り返す事によって、生
徒を脅し、自分が望むような生徒に仕立てあげていたのである。しかも、学校側や同僚の教師達はこの事態をうすうす気がついていながら、「熱心な
教師」の一言で彼を弁護し、真実が外に漏れるのを押さえていた。
これは川崎市のある中学校の一教師の行状の一端である。全ての教師がこうであるわけではない。しかし、「教育熱心」という美名の陰に隠れて、
生徒を自分の実績を挙げるための道具としてのみとらえ、暴力的制裁をちらつかせながら生徒を管理している教師は数多くおり、職場でこれを正面
きって批判することは、かなり勇気のいる状況もある。つまり、「体感指導」が生徒指導の主流を占めているわけである。
3. 進行する地域「戒厳令」体制の確立
川崎市における「問題生徒」への対し方は、基本的には「選別と排除」の原則に立っているといっても過言ではない。各学校には生徒指導担当教
諭(略して生担)が置かれ、彼の仕事は日常的に生徒の悩みの相談にのったり、問題行動を取り締まったりするだけではなく、かなり重要な業務とし
て、警察の少年課との連絡調整がある。生担は、定期的に少年課へ出向き、自校の生徒が補導されていたり犯罪に関わっていないかチェックす
る。そして該当者があれば、家庭も含めて「指導」し、警察・裁判所の指導に従うように勧告する。また、中学校の学区を一単位として、学校と警察と
が相互に定期的に協議する場として、学校・警察連絡協議会(略して学警連)があり、ここでは「青少年の犯罪動向」なるものが警察の方から知らさ
れ、それへの学校の対応の仕方が要請される。また、生担の方からは、各学校の生徒の状況が詳しく報告され、警察の対応の仕方が要請される。
この会合を核にして、地域の青少年指導員や保護司・民生委員・町内会役員等が子供の生活指導をめぐって協議する場や、小中高の各学校が、
中学校の学区を一単位として定期的に生徒の動向を連絡・協議する場も設けられているのである。さらにこの協議に基づいて、夏休み中の帰宅時
刻や、盛り場などへの出入り、外出や旅行についての決まりなどが決められ、生徒の行動は、学校の中だけでなく、家庭に帰ってからも規制されて
いるのである。
この学校・警察・裁判所・地域を貫いた管理体制を基礎にして、学校PTAや地域PTA協議会を地域ボスが牛耳ることを通じて、生徒を一貫して管
理する体制は、地域・家庭をもおおいつくしている。さらに、これに加えて川崎市教職員組合は、地域の教育力を高めるためと称して、校区教育懇談
会なるものを提起し、以上の各組織や個人と学校・教師は密接に協議して生徒指導・教育にはげむものとしているのである。
このシステムの下においては、「問題生徒」の抱えている心の痛みを共有するという優れて教育的営みは後景に退き、「手におえない生徒は警察
におまかせする」指導がまかりとおることになる。まさに、選別と排除の体制にほかならない。
このような管理システムを何故教職員組合は容認し推進しているのであろうか。背景をたどっていくと、川崎市教職員組合が主流派として所属して
いる神奈川県教職員組合の、「経営協議」という名の労使癒着構造に行きつく。
4. 教育労働運動の「死」
1959年に成立した「勤務評定神奈川方式」においては、勤務評定実施にあたって、次の3項目が労使で確認された。
1)教育は直接「国民」に対する責任を負ってその期待に答える。
2)教育行政者は、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を任務として「教師の自発的・自主的教育活動意欲を高める」こと。
3)教師はその使命を自覚して「全体の奉仕者」として努めること。
ここに述べられている精神こそ、後に日教組によって提唱された「国民教育運動論」や「教師専門職論」、それをより純化した共産党による「教師
聖職論」の源流をなしていることは、一見して明らかであろう。この時成立した勤評神奈川方式は同年の教育委員会総辞職によって反故となり、60
年に成立した第2次神奈川方式によって、勤務評定としてはほとんど意味をなさないものになったが、ここで成立した労使協調の精神は、以後両者
の間に引き継がれることとなった。つまり、教育委員会と教職員組合は「民間の労使関係とは異なり、教育の質を高め、教育効果の向上を図るた
め、公教育の有り方について、労働側というより教育の専門家・教師集団の代表者としての立場で話し合い」(1976年主任制交渉時の教育委員会
の発言)、「教育行政を担当するものと現場で実践にたずさわる者が、上下関係とか支配と被支配の関係にはない、独自の任務を持ちながら、一緒
に力を合わせてやることによって、教育の効果は期待できる」(同じ交渉時の組合の発言)という精神である。
現行の公教育が、体制イデオロギーの注入と、親の所属階級・階層を「能力」の差に固定化して、子供達を差別選別してしまう体制であること。そ
して、ここにおける教師の立場は、このイデオロギー注入と選別の業務執行者であり、児童・生徒の前には、教師個人の資質・考え方には関わりな
く、管理者・差別者として立っている現実を視野に入れて見る時、教育委員会と組合とが「教育効果の向上」のために協力することの意味は明白で
ある。
兵庫高教組が「体感指導」をもって生徒統制・教育秩序の維持の立場に立ったことは、以上のような神奈川県教組の立場と全く同質である。一方
は日教組の反主流派であり、日教組の連合加盟にあたって「日教組の右転落」を叫んで、これにかわる全教の結成に参画した組合であり、他方は
日教組の主流派として、日教組の連合加盟を推進した組合である。しかし、そのどちらも、現行の学校教育体制の容認につながる「教育秩序の維
持」「教育効果の向上」という全く同じ立場に立っていたのである。
この立場に立った時、教職員組合は教育専門家の職能集団と化し、国家の教育政策を忠実に実行するかわりに、専門的な高い賃金を要求する
ものとなる。これを児童・生徒の立場から見れば、教職員組合が、抑圧された者の解放のために闘う組織ではなく、抑圧者・差別者の集団と化した
に等しい。この意味で、教育労働運動は死んだと言える。
このような傾向の源流はすでに50年代の闘いにおいて生まれていたとはいえ、全面開花してくるのは、60年代の後半から70年代の前半である。帝
国主義の危機の構造が見えてきた時、教職員組合もその本質を明らかにしたと言えよう。
(以下次号にて、70年代の日教組運動の総括的スケッチを試みつつ、今後の教育労働運動の新しい方向を探る)