新たな地平へ!─教育労働運動の「再生」─

ー〔神戸高塚高校・女子生徒圧死事件B〕ー

 

1. 「教師専門職論」の展開       

 日教組運動が現行の学校教育体制容認の立場を明らかにし始めたのは、70年代の初頭のことであった。それは、教職員の超過勤務と賃金改善

の問題を巡ってであった。

 1968年以後、政府は日教組の超過勤務手当て支給の要求に対して、「教師の仕事は特別で、一般の労働者とは質的に違うから、超過勤務手当

て支給の労働基準法になじまない」として、本俸の4%にあたる特別手当てを支給するという法案を何度も出してきた。68年の教育公務員特例法の

改正がそれであり、71年の「国立および公立の義務教育諸学校等における教育職員の給与等に関する特別措置法案」(給特法)がそれであった。

 日教組はこれらの法案に対して「教師の労働者性の否定、聖職化」として反対したが、日教組の賃金に関する考え方自身、すでに、教師を専門職

として、一般の労働者よりも高い能力を必要としているという考え方に立っていた。そして70年12月の中央委員会では、「自主的・自発的超過労働に

たいしては定率4〜8%の特別手当て」を方針化するにいたっていたのである。政府があいついで賃金改善の法案を提出してきたのも、日教組がこ

のような考え方に立っていることを前提にしており、日教組が実質のむことを前提にしていた。このような両者の「歩み寄り」は、73年の「学校教育の

水準の維持向上のための義務教育諸学校の教育職員の人材確保に関する特別措置法案」(人確法)をめぐる問題で頂点に達した。3ヶ年計画で教

員給与を50%あげる計画で、初年度135億円が予算計上された。この時日教組は、「幼稚園から高校まで一律配分する」ことを条件にして、反対ス

トを中止してしまったのである。

2. 伝習館闘争と日教組         

 このことは何を意味していたのであろうか。その真の姿は、この賃金をめぐる問題と平行して進んでいた「教育改革」への対応と、青年達の反乱へ

の対応の中に、現れていたのである。

 69年1月、東大闘争が続く中で東大当局が69年度入試の中止を決定した時、日教組は「大学入試期にある生徒および、その父母たちの切実な期

待をうらぎるもの」との理由で、入試の実施を文部省に要請した。大学の有り方・学校の有り方を根本的に問い直そうとしたこの闘争に対して、「父

母・生徒の期待」を盾に敵対したのである。

 そして70年6月。福岡伝習館高校の3教師が、「教科書不使用」「学習指導要領逸脱」「特定思想の鼓舞」「一律評価」を理由として免職処分となっ

た時、福岡高教組・日教組は、「恣意的」「組織的でない」として切り捨てて行ったのである。3教師の実践と闘いは、「生徒が生徒であること、教師が

教師であること」を拒否することから「人間として対等」の関係をつくろうとするものであった。そしてその内奥には、教師の労働者性を資本主義の墓

掘り人としての労働者としてとらえ、生徒を労働者階級の子弟・同盟軍としてとらえ、両者の共同作業によって互いの階級意識を鍛え、体制への教

化・順応をはかる公教育の作用を拒否・破壊していこうとする意識性を内包していた。

 この観点から生徒たちには「学ぶことの意味」「現在の自分にとっての意味」が常に問い掛けられ、「学力─学歴」の枠のもとで、体制に組み込まれ

ていく自分自身をとらえかえすことが求められていた。そして教師にはその生徒の作業を助ける「同伴者」として立つことが要求され、これは「選別作

業員」であることの拒否へとつながり、地域社会の要求=受験教育に応える「教師」であることの拒否でもあった。

 そしてこの取り組みは「集団的」に取り組まれた。生徒は生徒会やサークル活動を通して集団的意志の確立をめざして闘い、教師は体制への集団

的反乱をめざして組合活動が組織されていった。3教師の闘いは、体制への反乱を開始した青年達への連帯の闘いでもあったのである。

 この闘いを日教組は切った。理由は「実践が恣意的であり、職場の集団的討論をへていない」というものであった。しかしこれは事実を歪めてい

る。事態はその逆であったのである。

 日教組が3教師の闘いを切ったのは、全く別の理由からであった。71年度の運動方針を立てるにあたっての70年度総括では、自主編成運動の基

本的観点を次のように設定している。

1)「憲法・教育基本法の精神にそったものであること」

2)「子供の全面発達を保障するという前提にたち、科学的・系統的に精選されたものであること」

3)「組織的・集団的なとりくみを前提とし、職場闘争と一体的にすすめるべきこと」

4)「父母・地域との結びつきを深め、理解と協力を得ながらすすめること」

 の4点である。この自主編成運動の観点が「福岡伝習館高校の弱点を持った実践」を克服するためとして提起されている以上、この観点が、3教

師の実践と闘いにたいする批判であることは明白である。

 「憲法・教育基本法にそう」とは、体制への批判を排除するということ。「発達保障のための科学的・系統的」とは、生徒達を自立した人間とは見

ず、教化・指導の対象とのみとらえること。「組織的・集団的」とは、大勢に順応するということ。「父母・地域の理解と協力をえる」とは、父母・地域の

「立身出世のための教育」=受験教育要求を容認すること。この自主編成運動の4つの観点は、伝習館3教師の実践と闘いに照らして見る時、この

ような性格を帯びてくるのである。

 日教組の立場は、この時すでに現行教育体制を容認するものであった。この枠を伝習館3教師の闘いは越えており、青年・学生の闘いもこの枠を

越えていたからこそ、日教組の敵対に出会ったのである。

 そして同じ時期の70年6月の日教組大会は「21世紀にむけた教育改革」を提起するための「教育制度検討委員会」の設置を決定した。これは、中

央教育審議会の教育改革提言に対応した動きであった。

 青年の反乱が将来の体制的危機につながることへの不安と、「高度技術立国」へむけてのエリート・技能労働者養成の体制づくりの必要性にから

れて、財界・政府が推進しようと始めた教育改革。これは、一層の「能力」差別の強化と体制イデオロギーの注入が、教育の場で行われることを意

味していた。この動きに対する日教組の対応が、「憲法・教育基本法の精神」に基づき、「父母・国民の要求に応える」教育改革運動の展開であっ

た。70年代初頭の時点において、「憲法・教育基本法の精神」とは、資本主義体制の安定を前提とした、「立身出世」「能力」による選別・評価を認め

るものであり、「父母・国民の要求」とは、体制に順応し、差別に耐えながらも「人並みの生活」を得ようとする要求であり、受験教育を求めるものでも

あった。今日展開されている「参加・提言・改革」路線の始まりであったのである。

3. 戦後価値意識の変質と「教育」    

 日教組の体制を擁護する立場への転換はいかにして行われたのであろうか。1950年代以降、日教組の看板ともいうべきスローガンは「民主教育

を守れ」であった。それは「憲法・教育基本法の精神に基づいた教育」であり、「戦争につながらない教育」でもあった。

 これは、戦後の支配的価値観である、<平和>と<民主主義>、<生活の安定と向上>とも直結していた。

 この価値観は、戦争直後においては、一定の革新的意味を持っていた。しかし、50年代の後半以降、高度経済成長が開始されて以後は、この価

値観の持つ意味は違ってきた。<民主主義>とは、階級別・階層別のライフスタイルの否定であり、「競争」と「能力」による選別さえ我慢すれば、一

定の人並みの生活ができることへと変わっていった。そしてこの<生活の安定と向上>のためには、生産の発展・企業の発展に寄与することが労

働者の生き方となり、このような体制を守ることが<平和>を意味するようになった。

 50年代から60年代を経てのこのような「国民」の生活と意識の変化は、当然のことながら、その教育要求の質を変化させた。人並みの生活を確保

し、できればより良い生活を得るための「学力─学歴」の獲得。これが「父母・国民」の教育要求となっていったのである。このような状況の下では

「民主教育」とは、受験教育であり、「能力」による差別・選別教育となり、「憲法・教育基本法の精神」とは、体制の擁護・能力主義と選別・差別の擁

護でしかないのである。

 日教組が一貫して守ってきた戦後の価値観はこのように内実が変化し、従ってそれに基づいた運動の意義も変化していく。60年代の自主編成運

動も、高校全入運動も、現行の差別的教育体制を前提とし擁護するものとなっていったのである。そして60年代後半から70年代前半にかけての「教

師専門職論」は、このような運動の内実の変化を表現していた。74年に出された「教師聖職論」も同様であった。労働者の生活と意識の体制への順

応が進むにつれて、その政治意識は「保守的」な表現をとるようになっていった。そしてそれは73年4月には、順法闘争で闘う国鉄労働組合の闘い

に対する「乗客」の暴動という形で表現されるにまでいたった。この一見「保守的」な意識へ見事にすりよったのが、共産党による「スト迷惑論」であ

り、その教組版が「教師聖職論」であったのである。

4. 神戸高塚高校事件が暗示するもの   

 1990年。連合に加盟した日教組は「参加・提言・改革」の路線を明確にうちたてた。この意味する所は、日教組新聞5月29日号で、この間日教組の

連合加盟を積極的に推進してきた「現教研」の幹部である、岩井大阪府教組委員長の発言に明白である。ここで彼は、「参加・提言・改革」は、日教

組の「コペルニクス的転換」であり、「参加」とは、「住民参加・市民参加」のようなものではあってはならないと明言した。つまり、臨教審に委員を出す

ように、文部省・行政の各種の委員会・審議会に幹部が代表参加し、政府の政策決定に組合が参画してその実行・推進を組合が担い、協力すると

いうものである。

 この路線の結末は最早見えている。兵庫高教組や神奈川県教組が、県教育委員会と一体となって教育をおしすすめた結果はどうであったろう

か。87年の川崎での生徒死亡事件。そして今年の神戸高塚高校での生徒圧死事件。この二つの事件は、日教組の「参加・提言・改革」路線の結末

を暗示している。

 日教組が、そして全教が、体制の押し進める差別的教育に対抗する教育理念と実践を持たなくなった時、教育現場は一層の混乱をみるだろう。生

徒達を一方的に管理・虐待する教師が横行し、教育に理想を見失って混乱し物言わぬ状況に陥った教師も多くなるだろう。そして、このような「教

育」に対する子供・生徒・親の「反乱」は様々な形をとって噴出していくことであろう。神戸高塚高校の事件をきっかけとして、兵庫県内では「校則」の

見直し運動が盛んになっていった。生徒会や親達が積極的に関わっていった学校もいくつもある。「校則」を手掛りとして、子供・生徒・親達の「教育」

への疑問はますます、深い不信と疑念へと深化している。この動きに教師たち、そして教育労働運動はいかに応えるのか。日教組の「参加・提言・

改革」路線は、この動きに真向から対決するものとなろう。たたかいが「校則」の見直しにとどまっている間はこれに順応し応えるかのような動きをす

るだろうが、「教育のあり方」までメスを入れた時、日教組や全教の運動の本質は白日のものとなろう。

5. 新たな地平へ!−教育労働運動の再生─

 今、新たな教育労働運動が生まれ出ようとしている。日教組の連合加盟をめぐる闘いの中から、新しい教育労働者の組合や運動体が形成されつ

つある。その中で最も、先進的な闘いを展開しているのが、大阪の大阪教育合同労組と東京の東京・西多摩地区教組の取り組みである。

 大阪教育合同労組は10年以上にもおよぶ、主任制反対闘争の中で、義務制・高校とかの職種の壁や、行政区の壁を越えた活動家集団の形成

と、共同の闘いを経て結成された。この組合の組織と闘いの理念は、日教組運動の総括の上に立って、次のように設定されている。

1)産別合同労組として、教育現場で働く全ての労働者が結集でき、その要求の実現のために闘う組合にする。

2)各単組の連合体ではなく、府下単一の労働組合とする。

3)新しい労働運動の全国潮流としての全労協に加盟し、地域共闘づくりと全国産別づくりをめざす。

 教員中心主義の克服をめざして講師の待遇改善の闘いや、学校警備員の待遇改善の闘いを進め、この層の間に多くの組合員を獲得している。

そして府下単一組合という組織形態を生かして、一つの職場・地域の闘いを全体のものとして闘ってきた。また、地域の労働組合や市民運動とも連

携して、地域の労働運動の組織者として教職員組合が動くと共に、教育問題についても、子供・親の立場に立って、差別教育を撃つ闘いを展開して

いる。

 東京・西多摩教組は、10年以上にわたる青年部活動や地域の労働組合・市民運動との共闘の蓄積の中で形成された。この運動と組織の理念

は、「自立した個人の自由な連合体」である。この組合は徹底した大衆討議と、討議に基づいて「自分が大切だと思う闘い」を推進する所に特徴があ

る。とりわけ、地域の父母・市民運動との共闘として、共に教育のありかたや子供をめぐる状況について討議する中から、学校給食のあり方をめぐ

る闘いや、指導要領の改悪に対する闘い、日の丸・君が代に反対する闘いなどを展開している。

 そして以上のような、現行の教育体制に疑問を感じている人々と連携して、学校体制を内と外から包囲していく闘い、教育問題を社会問題として提

起していく闘いは、とりわけ東京の地で進んでいる。今年4月の入学式での日の丸・君が代をめぐって、全市で掲揚・斉唱させなかった国立市の闘い

などはその典型である。そして大阪教育合同が6月に「子供の人権フォーラム」を開いたこともこの流れに属している。

 「能力」による差別選別が強化され、体制イデオロギーの注入が強化されようとしている今日、このような教育体制への疑問を持つ人々に応えてい

こうとする教育労働運動が、生まれでようとしている。そしてそれは、組合民主主義を大事にし、一人一人の闘う意志に基づき、従来の職種・職能を

越えた、全ての教育に関わる労働者の連帯に基づいた組織として、今形成されつつある。      

 そしてこの闘いは、高度成長の歪みの中から派生した、新しい生活スタイルと意識を持った人々の闘いに基礎をおいているといえよう。教育のあり

方を問題にする意識は、同時に環境保全の問題や、核・原子力について問題にする意識と共通している。そしてこれは、企業における労働者の働

き方や、社会における生き方の問題を問う流れとも一体である。新しい教育労働運動は、このような流れと結合しつつある。この流れの中に教育問

題を置いて見る時、それは社会のあり方・体制のあり方の問題である事が見えてこよう。教育をそして社会・国家を、大衆一人一人の問題のレベル

に引きずり落とし、大衆参加によって変えて行く闘い。日教組の「参加・提言・改革」路線とは異なる、新しい闘いが開始されている。


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