【書評】「20世紀社会主義の挫折とアメリカ型資本主義の終焉」寺岡衛著・江藤正修編、つげ書房新社刊

明確な暴力革命論との決別の姿勢

−注目すべき20世紀社会主義運動の総括−


▼本書の主題は何か?

 本書の主題は三つある。
 一つは、20世紀社会主義運動の敗北の歴史を総括し、その理由を20世紀社会主義運動が依拠してきたマルクス主義の革命論が、マルクスが「経済学批判序言」で述べたテーゼに反していたのではないかという観点から考察することによって、マルクス主義革命論の再構築を図ることである。
 そして二つ目の主題は、この同じテーゼによって、2009年9月のリーマンショック以来混乱を極めている戦後のアメリカ的な資本主義、寺岡が言うところの後期資本主義、大量生産大量消費のフォーディズム型の資本主義の衰退によって、資本主義社会の生命力は尽きたのかどうなのかを考察することである。
 そして三つ目の主題は、以上の考察に基づいて新たな社会・社会主義社会に向かう変革の道筋とそれを担う主体はどのように形成されるのかを考察することである。
 したがってこの三つの課題を総括的に言葉にすれば、本書の表題の副題である「左翼再構築の視座を求めて」ということになる。

▼暴力革命を否定したマルクスの経済学批判序言のテーゼ

 では、寺岡が「左翼再構築の視座」の基礎にすえたマルクスの「経済学批判序言」のテーゼとは、如何なるものか。それは、
「一つの社会構成体は、それが生産諸力にとって十分に余地を持ち、この生産諸力がすべて発展しきるまでは、決して没落するものではなく、新しい、更に高度な生産関係は、その物質的存在条件が、古い社会自体の体内で孵化されてしまうまでは、決して古いものに代わることはない」(p116)というものだ。
 マルクスとエンゲルスは「共産党宣言」において、1848年のヨーロッパ革命を次のように予測していた。
 1848年のフランスとドイツの民主主義革命は、イギリスにおける反資本主義闘争と結びついてヨーロッパ規模での社会主義革命へと発展すると。つまりマルクスとエンゲルスは、資本主義発展の不均等のために、フランスとドイツの民主主義革命は、それを推進する主体が労働者階級であることで社会主義的性格を持ち、これとイギリスの反資本主義的闘争が結びついて、ヨーロッパ規模で民主主義革命が社会主義的革命へと複合的に発展していくという「永久革命論」を提唱した。
 しかしこの予測は完全に外れた。すなわち1848年のフランスの2月革命とドイツの3月革命に於いては、マルクスとエンゲルスが民主主義革命に敵対すると予想したブルジョアも貴族もともに民主主義革命を支持し、その結果ヨーロッパ規模で民主主義国家が成立したことを背景として、産業資本主義が爆発的に発展して行ったのである。
 資本主義はマルクス・エンゲルスの予測に反して、その生命力を使い尽くしていなかったばかりではなく、すでに遅れたフランスやドイツをもその中に包摂しつくしており、すでに支配的な新たな生産関係となっていたのだ。そしてより広範な地域での民主主義的国民国家の発展と全ヨーロッパ市場の形成は、資本主義のさらなる発展の揺り篭となったのだった。
 この革命の総括からマルクスは、資本主義とは何かということを深く歴史的経済学的に考察する必要を感じて資本論の研究に入っていき、その過程の1859年に「経済学批判」を公刊するにあたって、1848年革命の総括として導き出された前記のテーゼを序言に掲載し、何ゆえ経済学的研究が革命のために必要なのかを述べた。
 言い換えれば、「経済学批判序言」のテーゼが資本論の依拠する前提であり、資本論の考察を経てこのテーゼはさらに深化させられ、「共産党宣言」に代わる新たなマルクス主義革命論が構築されるはずだったのだ。
 しかしこれが、マルクスの手で文章化されることはなかった。それは、1870年のパリコミューンに対する彼の対応の中に仄見える程度でしかない。
 だが序言のテーゼの言う所は明確である。マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」で表明された革命論は、ヨーロッパ資本主義社会の体内でいまだ社会主義的生産関係の物質的基盤が成長しておらず、資本主義そのものがまだ生産力のさらなる発展を保障する余力を持っている段階で、無理やり暴力的にそれを強行突破しようとした点で間違っていたと。従って社会主義社会への移行は、資本主義社会の中で社会主義的生産関係の物質的基盤が生れ落ちて育ち、それが資本主義社会の枠組みと衝突しはじめないかぎり起こりえないと、このテーゼは述べているのだ。
 そして社会主義とは、より民主主義の発展した状態を言い、人と人との関係が支配・従属関係ではなく、それぞれの自己決定と協同関係によってなりたつ新たな平等で自由な関係だと考えられていたのだから、資本主義から社会主義への移行は、資本主義社会の中で自主・自己決定の民主主義的基盤が発展し、社会の主導権が資本家や国家の手から、より広範な人々に移譲され、その多数者の同意を得て次第に体制が変化していくという、言い換えれば社会の民主主義的改革の連続によって実現できるのである。
 こう考えてくれば、このテーゼは暴力革命論を明確に否定した物といえるのだが、マルクス・エンゲルスの弟子たちはこのようには考えず、旧来の暴力革命を信奉する左派(これが後に共産党となる)と、資本主義の拡大に依拠して議会主義的な改良によって労働者の生活を改善することを目的とする右派・社会民主主義派に分裂していった。
 だがこの序言のテーゼは以後マルクス・エンゲルスの弟子たちに重くのしかかり、暴力革命論の継承者であったレーニンやトロツキーも、常に自分たちの理論や行動がこれに反していないのかどうか考察していたことはよく知られたことである。

▼新たな資本主義としての後期資本主義−寺岡の現代資本主義分析の基礎認識−

 後に1920〜30年代にトロツキーは、崩壊しつつあったヨーロッパ資本主義をアメリカ資本主義が救済したがゆえにヨーロッパ革命が頓挫した事態に直面する中で、これは資本主義の生命力がまだ枯渇していないことを意味するのかどうか判断することを迫られた。
 結局この時のトロツキーの判断は、アメリカの資本主義はヨーロッパのそれとは異なる新たな性格を持ってはいるが、それが世界を組織しようとしてかえって資本主義世界の矛盾を内部に抱え込み、結局は死の苦悶の資本主義に飲み込まれて終焉すると予測し、社会民主主義と組んで(アメリカと組んで)反ファシズム人民戦線に動いたソ連邦と第三インターナショナルに対抗して、「ヨーロッパ合衆国」を掲げる第四インターナショナルを結成して世界革命を目指した。しかし、第二次世界大戦の中から世界革命は立ち現れず、世界はアメリカ型の資本主義に再組織され、空前の繁栄を誇ったことは諸人が確認する事実である。
 つまりここでもマルクスの先のテーゼは正しかった。資本主義はいまだその生命力を使い果たしてはいなかったのだ。
 寺岡はこの事実に基づき、アメリカ型資本主義を、利益のためには労働者階級を犠牲にして国内市場を狭隘化し、結果として植民地超過利潤を求めて世界戦争に至ったヨーロッパ型の資本主義に代わる新たな資本主義として捉え返し、ヨーロッパ型を前期資本主義、アメリカ型を後期資本主義と呼び、大量生産大量消費のシステムの導入によって労働者階級の生活を向上させて国内市場を拡大するとともに、労働者階級をより民主主義化された社会に取り込むことによってなりたつ資本主義のあらたな発展と捉えたのである。
 つまり第一次大戦から第二次大戦にいたる時期に死の苦悶に陥っていたのは前期資本主義であり、第二次世界大戦は、前期資本主義の矛盾を暴力的なヨーロッパ統合によって突破しようとしたドイツと、世界を新たな資本主義の下に再組織しようとしたアメリカとの間の戦争であったと寺岡は捉え返したのだ。
 従って寺岡が戦後世界を分析しようとするときには、後期資本主義による日本とヨーロッパの再組織の過程をどうとらえるかということと、後期資本主義そのものが抱える内的矛盾の発展と爆発の様が、その重要なポイントとなっている。
 ここが、寺岡が世界を認識しようとするときの、従来の左翼と異なるところである。
 ここを理解しないと、本書の寺岡の論は理解不能になるのだが、残念ながら寺岡は、この部分を明確に、理論的に論述していない。
 これが本書の読みにくい原因の一つである。

▼20世紀社会主義運動の敗北の戦略的根拠−マルクス主義は如何に間違ったのか?−

 本書は、このような課題を意識して、寺岡が前著「戦後左翼はなぜ解体したのか」刊行以後に書き綴ったいくつかの論文をまとめた論文集であり、そのため掲載された論文には、上記の三つの目的のいくつかが混在し、それとはっきりわかるように課題が明記されその考察が行われたものではないため、少々読みづらいところがある。
 以下、本書の論述に沿って、寺岡がいかに総括し、マルクス主義革命論の誤りをどう抉り出したのかを概観してみよう。

@死の苦悶の資本主義という認識の誤り

 Tの「今日の世界金融危機をどう見るか」の最初の論文「後期資本主義の上昇と衰退、衰退と崩壊」は、主として課題1・20世紀社会主義運動を敗北に追い込んだアメリカ型資本主義の上昇・衰退・崩壊の過程を分析し、この新たな資本主義の性格を明らかにするとともに、現在のその衰退と崩壊の原因を明らかにする。その上で課題3・新たな変革主体の形成を考察するには、トロツキーの永久革命論、寺岡がトロッキストとして依拠してきた革命論が正しかったのかどうかを吟味しなければならないと述べ(p59から65)、20世紀社会主義運動の総括の課題に取り組む必要性を述べたものである。
 そしてTの二つ目の「戦間期の政治と経済、今日の危機の源流」は、1の課題の一部、1917年のロシア革命に続いてなぜヨーロッパ社会主義革命が勝利しなかったのかという問題を扱い、結局それは、前期資本主義の危機の表現としてのファシズムをアメリカが中軸となった人民戦線が圧倒し、世界をアメリカ型の後期資本主義に作り変えたからであると結論づけた。つまりレーニンやトロツキーが考えたような資本主義は死の苦悶の状態にあるという認識に誤りがあったのであり、資本主義はその生命力を使い果たしてはいなかったことを指摘した(p104から107)。
 そして1920から30年代のヨーロッパの社会主義運動の敗北の問題を総括するには、マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」で定式化した1848年のフランスとドイツの民主主義革命はイギリスにおける反資本主義闘争と結びついてヨーロッパ規模での社会主義革命へと発展するという「永久革命論」は誤りであったと彼ら自身が後に総括した視点に依拠しなければならないこと、つまりこの総括に基づいてマルクスが経済学批判序言で出したテーゼに依拠すべきことを提起した(p72から74)ものである。
 言い換えれば、1919年ドイツ革命で「全ての権力をレーテへ」という、スパルタクス・ブンドの「死の苦悶の資本主義」認識にたったスローガンは、資本主義の安定と民主主義の発展を支持していたドイツ労働者の多数の意識からは乖離していたがゆえに敗北したのだし、トロツキーが1930年代のファシズムとの闘争に際して出した「ヨーロッパ合衆国」のスローガンも、反ファシズム人民戦線に結集し、各国民国家の維持と繁栄、すなわち資本主義の繁栄と民主主義の発展を支持していたヨーロッパ労働者の意識から乖離していたために敗北したのだと寺岡は指摘し、従来の左翼反対派の未成熟論やスターリニストの裏切り史観の誤りを明確に指摘したのである。

A社会主義の基盤の欠如を国家資本主義で強行突破しようとしたロシア革命の誤り

 さらにUの「20世紀社会主義の総括」。
 この論文集が取り扱ったのは、ロシア革命によって成立した労働者国家ソ連邦が、なにゆえ東欧民主主義革命⇒ソ連邦の解体という形で崩壊せざるをえなかったのかの考察であり、前半の「ソ連邦の80年と反対派の挫折」は、なぜロシアのように十分には民主主義的基盤が発展していないところで社会主義革命がおきたのかという問題、換言すれば、マルクスが1848年革命敗北の総括に基づいて出したテーゼと資本論に反して革命が起きたのかという問題を考察したものである。
 その結論は、ロシア民主主義革命において労働者階級が主導権を握らざるを得なかったのは、資本主義の不均等発展によるブルジョア階級の脆弱性によって起きたものであり(p116・117)、このためソ連邦がその成立のときから孕んでいた矛盾、すなわち革命主体の目的は社会主義建設にあるのに、ロシアの現実的な課題は資本主義的な民主主義の基盤の建設にあるという矛盾が生まれ、その克服の困難さがその後のレーニンやトロツキーの苦闘を生み出し、この矛盾に対応するために取られた諸政策が国家と党の自己決定・民主主義的要素を解体して官僚化を進展させたためにスターリンを押し上げ、社会基盤を失った反対派は解体されたということを詳しく考察したものである(p117から133)。
 つまりロシア革命は、マルクスの経済学批判序言のテーゼを強行突破しようとして果せなかったのだということを、寺岡はここで論じたのである。
 Uの二つ目の論文、「ソ連東欧の解体と『反官僚政治革命論』」は、一つ目の論文を基礎にして、なぜソ連・東欧においてはトロツキーが予想したような反官僚政治革命が勝利せず、ソ連東欧の解体に至ったのかを論じたものだ。
 ここでは、トロツキーが予想したような、国有化と計画経済に基づく急速な工業化は、逆に彼が予想したような民主主義の基盤の拡大には結びつかず、官僚的な上からの計画化は、受動的な労働者を大量に生み出しただけで、官僚の統制力の強化に帰結した事実を指摘し(p137・138)、結局トロツキーの反官僚政治革命論は、社会革命論をバイパスした経済決定論ではなかったかと総括している(p138から140)。
 そしてアメリカ型資本主義によって再組織され、高度に豊かになって民主主義が発展した西欧と、民主主義の発展が官僚的に抑圧され続けた東欧ソ連邦の現状という格差が、ソ連邦東欧崩壊の背景にあったことを指摘した寺岡は、ソ連東欧における反官僚政治革命の敗北とソ連東欧の解体過程を分析することを通じて、マルクスの先のテーゼの正しさを再確認したのだ。
 つまり資本主義の十全な発展を基盤として拡大した社会的な民主主義の基盤がないところでは、社会主義建設はありえないと寺岡は考えているのであり、これがマルクスの経済学批判序言のテーゼに依拠しながら、20世紀社会主義運動敗北の総括と現代資本主義の分析を通じて出された、寺岡のマルクス主義革命論再構築の主要テーゼと考えられる。

▼より人間の顔をした資本主義−本書は何を提起しているのか?−

 以上のように20世紀社会主義運動の敗北を総括してくる中で、寺岡は、左翼が、アメリカ型資本主義の新たな性格を見誤り、それによる世界の再組織化が、資本主義の新たな発展を画するものであったことを見誤ったことが、20世紀社会主義運動の敗北の根幹にあったことを示した。
 つまり資本主義は死の苦悶にあるというレーニン・トロツキー以来の資本主義認識が根本的に誤っていたのであり、この認識に依拠し、「共産党宣言」に定式化された暴力革命論に依拠した戦いを展開した左翼が、資本主義の高度で広範な拡大と発展の浪に飲み込まれ孤立していったと寺岡は総括したわけである。
 では寺岡は、今日のアメリカ型資本主義の衰退をどう捉えているのか。そしてそれからの脱却の道筋をどうとらえているのか。
 この点を直接考えているのが、本書のT「今日の世界金融危機をどう見るか」の最初の論文である「後期資本主義の上昇と衰退、衰退と崩壊」であり、その変革主体の形成の問題をあわせて考えたのが、Vの諸論文である。
 Tの「後期資本主義の上昇と衰退、衰退と崩壊」では、寺岡は今日のアメリカ型資本主義の崩壊現象を資本主義の終焉とは捉えていないようである。
 彼はむしろ今日の事態を、アメリカ型資本主義の抱えた矛盾の爆発、何でも商品化する価値観が社会と激突し始めていると捉えているようである。彼は、「商品的価値観」を脱却して「人間としての平等の価値である人格権や最低の生活のための生存権」を基礎にした、新しい価値観に基づいた「対抗文化」が問われていると論じている(p48・49)。
 またVの論文も、同じことを詳しく論じたものである。
 Vの「21世紀左翼の構築のために」の最初の論文「国家主導の社会主義論から市民主導の社会主義論へ」は、この本に収録した論文の中で最初に書かれたものであり、この本の三つの課題を総論的に述べたものである。
 このため、ここまで本書を読み進めてきた人にとっては、この論文の前半の(1)は、これまでのT・Uで論じた20世紀社会主義運動の敗北の総括の要約的な性格をもつものと捉えられるであろう。そしてこの論文の後半(2)は、寺岡自身の自己総括の歴史であり、これまで述べた認識に至った過程を述べた自分史的部分であり、日本共産党を中心とした日本の戦後左翼運動総括への入り口であり、Vのあと二つの論文につながる性格をもっている。
 Vの二つ目の論文「新左翼の源流 1968年をどう考えるのか」は、三つ目の論文の「新たな変革主体登場の可能性」とあわせ、今日の世界をどうとらえ、その変革への動きの性格と変革主体のありかたを考察する本書の結論部分であり、ここが今日論議すべき最も大事な論点であろう。
 ここで寺岡は、1968年における世界的な「青年の反乱」をとりあげ、それが特に西欧では、前期資本主義を支えた「植民地的な差別や女性差別、そのような古い習慣にどっぷりと浸かっている旧来の市民社会の限界の告発」であったと総括する(p190)とともに、この運動は「市民社会の内的分化と進化として登場したのではないか」として(p192)、この動きの今後を次のように捉えている。
 「1968年の旧来の市民社会を超えようとする流れは、市民社会を否定して登場するのではないと思う。今日までの主流的流れは、アメリカ型の物質的価値観、商品的価値観に基づいて組み立てなおされていく。それは人間を評価する機軸を成果主義や能力主義に求め、物質的な商品価値を生み出す能力があるかどうかで人間の価値が定まっていく人間の商品化の極限化した社会である。その一方で今日登場しつつある新しい流れは、人間の人権、人格、自治や自己決定権として価値観を取り返そうとするものである。このような分化を市民社会の中で進め、新しい大衆的基盤を獲得できるのか。この考え方がアソシエーション論として提起されている」(p192・193)と。
 つまり寺岡は、今日の事態は資本主義の終焉ではなく、その「商品的価値観」を改め「人間としての平等」の権利に基づいた価値観で社会のあり方を変えていくことが大事だと言っているのだ。換言すれば「より人間の顔をした資本主義」への変革。ということは寺岡の結論は、革命ではなく、資本主義の民主主義的な改良を意味しているのだろうか。
 20世紀社会主義運動の敗北の総括をどう捉えるかということとともに、本書が提起する大きな論点がここであるが、結論はあいまいである。

▼残された課題−概念の正確な把握と歴史的事実に基づいた議論

 本書は、とても刺激的なものであり、その20世紀社会主義運動の敗北の総括は、とても鮮烈なものである。この本は、左翼が共通に基盤としてきたマルクス主義の革命論から階級概念や労働観に至るまで、様々なテーゼの根源的な再検討を迫るものである。
 この意味で現代をどうとらえ、どうこれの変革に関っていこうとするのかを考えている人々にとって本書はとても有益である。

 しかし本書をこのために利用しようとする時、大きな欠陥が三つある。
 その一つは、寺岡が概念規定を正確に行わずに恣意的感覚的に概念を操作して論を進めていて、論考が理論的には未整理の状態にあることである。
 前期資本主義・後期資本主義という資本主義規定のあいまいさは、その典型である。そしてもう一つは、今後の変革の道筋を論じた諸章でみられることだが、市民革命・ブルジョア革命・政治革命・社会革命の諸概念の混在とその感覚的な使用である。同じく、これは前著の「戦後左翼はなぜ解体したか」でも見られた特徴だが、第一次市民革命・第二次市民革命・第一次市民社会・第二次市民社会というあいまいな概念規定である。
 これらをきちんと理論的に整理することなくしては、議論は深化しない。
 そして本書の二つ目の問題点は、寺岡がマルクス主義革命論をどのように再構築しようとしているのかを明確にしていないことである。 
 すでに見てきたように、寺岡の考察の機軸は、民主主義革命が社会主義革命に複合発展的に展開していくとしたマルクス・エンゲルスの永久革命論(「共産党宣言」の革命論)は誤りであり、「一つの社会構成体は、それが生産諸力にとって十分に余地を持ち、この生産諸力がすべて発展しきるまでは、決して没落するものではなく、新しい、更に高度な生産関係は、その物質的存在条件が、古い社会自体の体内で孵化されてしまうまでは、決して古いものに代わることはない」とした新しいテーゼに依拠して資本主義を分析し、それから社会主義に至る過程も構想すべきであるとした点にある。
 しかしこう考えるのであれば、資本主義から社会主義への移行は、マルクス主義の従来のテーゼのような暴力革命によるのではなく、資本主義社会の中で孵化した社会主義的諸関係を基礎にした多数者の合意による資本主義の民主主義的改革によると考えるべきではないのだろうか。
 しかし寺岡のこの論考は、この肝心な点があいまいなのである。
 さらに本書の三つ目の問題点は歴史認識、とりわけ日本における資本主義と市民社会の発展に関る旧来の歴史認識の、日本は遅れているとする機械主義的な認識を引きずったままのあいまいさである。
 寺岡は、日本における資本主義の発展の過程を考察した個所で次のように述べている。
「明治維新は資本主義へと転換するブルジョア革命であったが、市民革命の発展を抑圧し社会(市民)革命を欠落させた国家革命として展開された」(p214)と。
 ここでも概念のあいまいさが目立つが、つまり西欧のブルジョア革命は、社会(市民)革命が並行的に発展した、政治革命と社会革命が結合したものであったが、日本はそうではなく国家主導の政治革命だけであったと捉えているのであり、その結果、戦前の日本には市民社会は形成されておらず、それは国家主義的に再編成され温存された古い家父長制的な封建的な共同体社会であり、それを基礎として天皇制ボナパルティズム体制が成立したとしているのであろう。そしてこの古い共同体を基盤とした社会は戦後もそのまま温存されていると。
 寺岡の、西欧のブルジョア革命は政治革命と社会革命が結合して展開したという認識は、フランス革命の実態にあまりにも引きずられたものだと思う。先進資本主義国イギリスでのブルジョア革命は、社会革命が政治革命に先行しているのであり、この結果、イギリスとフランスの市民社会はその性格が異なるはずである。寺岡の論は歴史を単純化しすぎており、それは特に「日本の近代」の把握において顕著である。
 自由民権運動が「市民革命への萌芽」であったというのであれば、ではその基盤となった都市や農村の共同体は、単に封建的な家父長制的な古い共同体であったのであろうか。市民社会といわれているものも共同体であり、それは封建社会の中で形成された村落・都市共同体の中から生まれたものであり、旧い共同体がもっていた封建的・家父長制的性格を多少なりとも引きずったものでしかありえない。寺岡の市民社会の捉え方は、西欧のそれの理念的理想化像にあまりに依拠しすぎである。
 自由民権運動を生み出した村落・都市の共同体は、それ自身が日本的な市民社会というべきものであり、それを基盤にした市民的な民主主義拡大闘争として自由民権運動の性格があった。それはたしかに弾圧によって抑圧されたが、その運動の成果として立憲君主制という限定的形ではあれ、議会制民主主義の社会が出来上がったのではなかったか。そしてそれは、明治から大正にかけての工業化の進展の中で、特に都市を中心とした中産階級を大量に生み出し、ここに市民社会が形成され、これを基礎として政党内閣が成立し、大正デモクラシーの高揚が出現したのだと思う。
 寺岡が言う「天皇制ボナパルティズムの国家構造」とは、このようにしてできた日本的な市民社会を、前期資本主義が帝国主義へと突入し植民地争奪の世界戦争へと入る危機に際して、日本の前期資本主義の矛盾が爆発しないように、その市民社会を、天皇制の家父長制的構造と軍国主義とによって再組織した結果出来上がったもので、その成立への胎動は1910年の大逆事件をその始原とし、確立したのは1930年代の日中戦争に至る時期とすべきではないのか。
 そしてこのような天皇制ボナパルティズムの成立に対して日本左翼がなんら抵抗できなかったのは、その抵抗の基盤となる民主主義的市民社会がなかったからではなく、日本左翼においてはその成立当初からロシア革命史観に基づく暴力革命派が多数であり、資本主義の発展に依拠しながら、市民社会における民主主義の暫時的拡大を通じて資本主義を変えていこうとする、社会民主主義的勢力やその左派としてのサンジカリズム的傾向が脆弱であった結果なのではないのか。
 それゆえ天皇制ボナパルティズムに対するレジスタンス闘争は形成されず、戦後民主化がこの闘争の延長上に行われるのではなく、占領軍による上からの改革によって行われ、社会は深く天皇制によって再組織されたままの状態が続いた。故に、日本における戦後左翼は極めて受動的で脆弱であったと考えるべきではないのか。
 寺岡の論は、西欧においては、従来の社会主義運動の敗北は、主体の脆弱やスターリニストの裏切りにあるという主体の問題への偏重を排して、革命の客観的基盤がなかったからだと明快に論じており、それは正しい。だが日本におけるその原因を、主体の問題を脇において、民主主義発展の客観的基盤がなかったという形に歴史を曲解している点は改めるべきであると思う。
 この点は、日本における「アナ・ボル論争」や「日本資本主義発達論争」などを総括する過程で、もう一度ブルジョア革命における市民社会と資本主義の関係などを理論的に整理することと、日本の歴史をもっと事実に基づいて検証する作業を行うことによってより正確に議論できるものと考える。
 ただしこれらの三つの問題点は、著者寺岡が学者ではなく、第四インターナショナル日本支部の中心的活動家・理論家として、半世紀を越える彼自身の革命家としての運動とその理論とを経験的に総括する中からこの論考が生まれた、という経緯に起因していることを付け加えておきたい。
 その上で、以上明らかにした寺岡論考の三点の問題点を明確にすることが、寺岡の20世紀社会主義運動の注目すべき総括を生かし、現状と未来を認識する上で不可欠であると思うのである。

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