【ロンドン地下鉄テロの背景】
「文明の衝突」に引き裂かれる「多民族社会」イギリスの現実
−「文化的宗教的断層」を越えるのは可能か−
▼人権無視の治安維持に走る当局
7月7日のロンドン地下鉄爆破テロと続く21日のテロを受けて、イギリス当局は治安維持策の強化に乗り出した。
内務省は、自爆テロを称賛する発言者にも刑事責任を問える「テロ間接扇動罪」や、テロリストのウェブサイトへのアクセスを違法化する「テロ予備罪」、さらに国内外を問わずテロリスト訓練への参加禁止などが盛り込まれた新反テロ法案の骨子について保守・自由両党の合意を得、10月に国会に提出するという(読売7月19日・20日)。またブレア英首相は、テロを扇動するような言動を行ったり暴力を称賛するウェブサイトや書店の運営に関与している在英外国人などが、新たに国外追放の対象になるとの国外追放に関する新方針を明らかにし、「テロに関与した経歴を持つ人物に対しても亡命を認めない」とした。そして、新しい国外追放措置実施の妨げになるなら「現行の人権保護法の改正も辞さない」と明言した(読売8月6日)。
規制の強化を求める世論を背景に、英当局は人権保護法を改正し、人権侵害を起こす可能性の強い規制策を実施しようとの意気込みを見せたわけである。しかし強硬な規制で、テロを未然に防ぐことができるのだろうか。
テロ実行犯が、米英両国が中心となって行ったイラク戦争への怒りが動機だと供述していること(8月1日読売)や、実行犯がアルジャジーラ放映のビデオで、イスラム教徒への残虐行為がやまない限り戦いを続けると宣言したこと(毎日9月2日)で明らかなように、テロの背景にはヨーロッパ・アメリカ的な価値観で世界を再編成しようというアメリカ・イギリスの動きがある。
また次に述べるようなイギリス社会に大きく開いた文化的・宗教的断層に遠因があることを考慮に入れると、強硬な取締りはかえって火に油を注ぐことになりかねない。
▼「多民族社会」イギリスの成立
イギリスでの大規模テロの背景には、この国が第二次世界大戦後の60年間で急速に「多民族社会」化したことがあり、旧来のイギリス社会がその現実を充分に受け止められず、「人種主義」的な「移民」排斥の傾向を強めていることがある。いわばイギリス社会の内部に「文明の衝突」と言われる状況が起きており、社会に大きく口を開けた文化的宗教的断層が事件の背景にある。
7月7日の自爆テロ実行犯の3人は、リーズ郊外に住むパキスタン系イギリス人二世であった。他の1名はジャマイカ系イギリス人二世。さらに21日のテロ実行犯4人は、ロンドン西部に住むソマリア、エリトリア、エチオピアなど東アフリカ生まれの移民である。
01年の国勢調査によると、イギリス国民の民族的構成は白人92%、インド・パキスタン系4%、アフリカ・カリブ系2%、中国系0.4%と、非白人が8%にもおよんでいる。この人々がイギリスに渡ってきたのは主に第二次世界大戦後の50年代のことである。戦後復興期の人手不足を補うために、旧大英連邦内の人々を大量に受け入れたことが始まりである(毎日7月8日)。そして60年代、増大する移民に対する不安から移民制限が行われたが、50年代に渡英した人々の多くが旧大英連邦の出身だったためにイギリス市民権を持ち、当初は単身での渡英であったのが本国から家族を呼び寄せたり婚約者を呼び寄せたりして、移民制限後も増大して今日に至った。
この人々がイギリスに移住した理由は、様々である。貧困の問題以外に、二度の世界大戦でイギリス兵として参戦した人々はイギリスの豊かさを知り、イギリスの生活への憧れを持ったことも理由のひとつだ。さらにパキスタン系ではパンジャブ地方出身者が多数を占めるが、独立時のインドとパキスタンとの境界争いのため多くの農民が土地を失い、その人々がイギリスでの一攫千金を夢見たという事情もあった。さらに比較的高学歴の地域であるパンジャブ出身の人々は、パキスタンでは「自分の能力にあった職業につけない」という理由もあったのである(佐久間孝正著『イギリスの多文化・多民族教育』国土社94年刊による)。
まさに今日のイギリスが「多民族社会」になった背景には、数百年におよぶ大英帝国によるアフリカ・アジアでの植民地支配と、その結果である旧植民地の産業構造の歪み、そして本国と植民地の富の格差が背景にあったのだ。
▼「ゲットー」と化す「移民」居住地
これらのアジア・アフリカ系の人々はイングランド地方、それもロンドンからマンチェスターに至るイングランド中心部の工業・商業地帯とその周辺に住み、しかも出身地毎に集住している。そのためイギリス全体では人口の8%を占めるに過ぎないこの人々も、これらの地域ではロンドンのように人口の20%を超えることも多く、その中には人口の半数以上をも占める地区まで現れている。
この理由は二つある。ひとつは移り住んだアジア・アフリカ系の人々の事情である。
彼らは1人でイギリスにやってくるわけではない。彼らは故国では「親族共同体」の中で助け合って暮らしている。だからイギリスに移住する場合もこの「親族共同体」の資金援助によって移住するのだし、先着の共同体構成員の生活が安定してくると、今度は彼らの手引きで共同体の他の構成員が渡英し、しだいにイギリスの中に故国と同じ「親族共同体」を作り上げていった。イギリスで故国と同様の生活を送るにはこの共同体の維持が不可欠だからである。だからアジア・アフリカ系の人々の集住地には寺院もあれば民族食などの材料を提供する店もでき、この中に居ればたとえ英語が話せなくても故国と同様に暮らせるのである。
もうひとつの理由は、アジア・アフリカ系の人々を迎えたイギリス白人の側にある。
移住してきた人々は、白人とは人種的・民族的に異なる有色人種である。しかもこの人々は、白人とは全く異なった宗教の持ち主である。
前述01年の国勢調査によると、イギリスの宗教別人口はキリスト教が72%で4200万人、イスラム教が2.7%で160万人、ヒンズー教が1%で56万人、シーク教が0.5%で34万人である。そしてこれらの宗教はキリスト教とはまったく異なる習慣を伴っているし、宗教が生活全般を覆っていることも白人とは違う。さらにアジア・アフリカ系の人々が集住することから、周辺の白人との生活習慣上の様々な軋轢が頻発する。これらの理由によって白人の中に大英帝国時代に作られた「有色人種蔑視」の感覚が動員される。
この結果、白人の多くがアジア・アフリカ系の人々と同じ地区に住むことを嫌い、都市郊外に居を移し、結果的に都市中心部の古い市街にはアジア・アフリカ系の人々が集住してしまったのである。
さらに白人の差別意識の発露にはもうひとつの側面がある。それはイギリス政府が巧みにアジア・アフリカ系の人々を集住・隔離していることである。彼らが公営住宅に申し込んだ場合にパスポートの提示を求めたり、不法滞在者でないことの証明を求めるなどの嫌がらせがある。また公営住宅への入居は居住年数に基づくポイント制のため、移り住んで間もないアジア・アフリカ系の人々には不利であり、そのため環境や条件の悪いところにしか入居できない。さらに家を購入しようと金融機関から金を借りる際に、白人の2倍もの抵当を要求される。こういった行政や金融機関による差別的待遇も、彼らを居住環境の悪い都市旧市街に集める結果となっているのである(佐久間:前掲書)。
こうしてアジア・アフリカ系の人たちは、イギリス市民権を持つにもかかわらず環境の悪い地域に集められ、白人とは隔離されてしまった。まさに「ゲットー」なのだ。
▼「多文化・多民族」社会への模索
もちろんイギリス社会も彼らを受け入れようとはしてきた。
例えば教育の分野では、当初はイギリスに同化させる方法をとっていた。しかし60〜70年代にかけて、アジア・アフリカ系の人々の要求が公教育における民族的・文化的・宗教的教育の実現へと高まったことに伴い、多様な文化、多様な言語、多様な宗教を学校でも認めようという「多文化・多民族教育」の傾向が彼らの集住するイングランド中部のロンドン、リーズ、バーミンガム、ブラッドフォードなどの地域で強まった。
この地域では宗教教育や体育教育、そして制服や服飾品、学校給食などの分野でアジア・アフリカ系の父母たちの要求に譲歩する指針が地方教育局によって出された所もあり、必修である宗教教育を受けさせない権利や親が希望する宗教に基づく教育を施すために補助学級を設立するなどの措置をとり、給食でイスラム法にのっとった屠殺方をとった肉を利用するなどの措置がとられた。さらには学校内における人種的・民族的・宗教的差別に基づく言辞や行動があった場合に厳正に対処するマニュアルなども作られたのである。
そしてこれら地方教育局の方針を受けて、80年代になると中央政府レベルでもこの問題が意識されるようになり、下院に特別委員会が設けられて調査がなされ、85年には「全ての子供たちの教育」(スワン・レポート)が出されるに至ったのである(浜井祐三子著『イギリスにおけるマイノリティの表象』三元社04年刊、佐久間前掲書による)。
この多文化・多民族教育の動きには統一したカリキュラムはなく、個々の地域や個々の学校・教師の実践に任されていたため、授業の中で異なる宗教や文化を紹介する程度のものも多かったとはいえ、キリスト教を「国教」とするイギリス社会としては、アジア・アフリカ系の少数派に対する最大限の譲歩であったといえよう。
さらに政治の分野でも、アジア・アフリカ系の住民が無視し得ない社会的構成値を占めるようになった60年代以降、保守・労働の2党は「移民」社会の票を重く見るようになり、彼らを代表する地方議員や国会議員を出すようになった。しかし両党ともアジア・アフリカ系住民社会出身の議員を単なる集票マシーン扱いし、彼らの要求を政策化することに熱心ではなかった。これらの党にも「白人中心主義」という「人種主義」が強かったのである。
そこでアジア・アフリカ系住民社会とりわけイスラムの人々は、80年代になると行政当局との間に直接パイプを築こうとしたし、行政当局もイスラム社会の代表との接触を積極的に求めた。この背景には相次いだ人種暴動があったのだが、この結果、地方議会には人種問題助言団や多文化主義教育支援団などの諮問委員会が設置され、ここを通じて「改革」要求が提出されるようになったのである。この時イスラム社会の代表として行政との交渉にあたったのは、各地のモスク代表団の連合体であった。
イギリス社会もアジア・アフリカ系住民の要求を受け入れようとして来たし、住民の側もさまざまな回路を通してイギリス社会に自らの要求を提出し、それを実現しようとしてきたのである(梶田孝道編『ヨーロッパとイスラム』有信堂93年刊の分田順子著「政治的接合をめぐるムスリムの苦悩」による)。
▼「多文化・多民族主義」への攻撃
しかし「多文化・多民族主義」が広まるにつれて、それへの攻撃も高まっている。それはとりわけサッチャー政権の成立とそれ以後の80年代の「新保守主義」の高まりの過程においてであり、ここで「多文化・多民族主義」に対して「人種主義的」攻撃が繰り返され、この傾向は世界的なイスラムの興隆、そして01年のアメリカでの同時多発テロ以後の社会的不安の高まりによって持続している。
「多文化・多民族主義教育」への挑戦は白人多数者、それもアジア系住民の子供たちが多数通っているブラッドフォードの公立中学校校長による反撃という形で始まった(84年3月)。
この校長はパキスタン系のイスラム教徒に対して、彼らの文化が遅れており民主主義も解さない人々であるという差別的言辞を弄し、彼らがこの遅れた文化を捨てないかぎりイギリスでの彼らの成功はありえないと、きわめて「人種主義・白人優位主義」に基づいた多文化・多民族教育批判の論陣をはった。そしてアジア・アフリカ系の生徒が多数を占める学校では、「少数派」の白人生徒は充分な教育は受けられず必然的に学力も低下すると白人を少数派の被害者に仕立て、多文化・多民族教育を白人への迫害として断罪したのであった。
この差別的言辞に対してブラッドフォードのイスラム系住民や多文化・多民族教育を支持する白人住民は校長を罷免するよう地方教育局に圧力をかけ、結果として彼の辞職という形で勝利を得た(85年12月)。
しかしこの事件を「言論の自由=イギリス的価値観を暴力的に破壊する極左的傾向の多文化・多民族主義教育支持者」と、「イギリス的価値観を守ろうとする勇気ある殉教者」の対立に仕立て上げたマス・メディアと、当の校長をサッチャー首相の教育懇談会に「著名な教育者」として招くなどこれに追随した保守党政権の肩入れによって、多文化・多民族教育に対する反感がイギリス社会全体に広がり、多文化・多民族教育を支持してきた労働党左派は沈黙を余儀なくされるのである(この事件は校長の名前をとって「ハニフォード事件」と呼ばれる。経過および分析は浜井前掲書に詳しい)。
この事件は白人父母の間に分離主義を広げるとともに、イスラム系住民の間にも分離主義=イスラム学校の設立要求の高まりという傾向を強める結果になり、多文化・多民族教育は大きな後退を余儀なくされた。それは88年の地方選挙での労働党の敗北につながり、保守党政権が地方教育局の影響下から学校を引き離してナショナルカリキュラムの下に各学校を統制し、多文化・多民族主義的教育を排除し、イギリス臣民としての誇りと確かな学力を保証する教育の実現を目指す教育改革法が施行されたことで、さらに大きな後退を余儀なくされたのである。
このような攻撃は、88年末から89年にかけて起きた「悪魔の詩」出版をめぐるラシュディ事件によってさらに加速された。
この事件はインド系イギリス人ムスリム作家ラシュディが、自作の小説「悪魔の詩」においてイスラム教とその始祖マホメットを侮辱したとして全世界のイスラム社会から糾弾され、さらに当時、革命イランの最高指導者であったホメイニ師が彼への死刑宣告を行うことによって、全世界的にイスラム的価値観対西欧的価値観の対立を表面化させた事件であった。
この時イギリスのイスラム社会はイランとは異なる世俗派のスンニ派に属していたが、イスラム的価値観を侮辱したとしてラシュディに対する大衆的な抗議行動を行い、「悪魔の詩」の出版差止めを要求した。
これに対してイギリスのメディアおよび保守勢力は「表現の自由を守れ」とラシュディ擁護に動き、抗議行動でイスラムの人々が「悪魔の詩」を焼いたことを槍玉にあげてその抗議行動をナチズムになぞらえ、暴力的に西欧的価値観を破壊するイスラム原理主義として糾弾した。そしてこの時、長らくイギリスにおけるイスラム社会の庇護者であった労働党も「言論の自由擁護」の側に立ち、イスラム社会と鋭く対立するに至った(この事件の経過と分析も浜井前掲書に詳しい)。
このことは先に述べた、イスラム社会が地方行政との間に諮問委員会という形でパイプを形成し、それによって彼らの政治的社会的要求を実現していくという動きにも壁となって働き、イスラム社会の政治的自立化の動きを促進し、92年1月にロンドンにおけるムスリム議会の設立へと結実した。これはイギリス各地のムスリムの代表からなる上下両院からなる議会であり、イギリス社会におけるムスリムをめぐる問題を討議しイギリス議会に対応を促すことを目的にしており、これ自体はイスラム原理主義の組織ではない。
しかしイギリスのイスラム社会への白人の反感が高まるにつれて、ムスリムの間にイスラム原理主義への同調が徐々に広まっていることを背景に、ムスリム議会の主導者の中にラシュディを死刑に処すとしたホメイニ師のファトワを支持した人物がいたことから、この議会をイギリスからの分離を狙ったイスラム原理主義者の動きと捉える傾向もイギリス社会に根強い(分田前掲書)。
こうした経過を経て、イギリス社会には「イスラム嫌い」とでもいうべき傾向が醸成されていった。だから01年のアメリカでの同時多発テロ以後、モスクの襲撃や嫌がらせや殺人事件がおき、人権団体の調査ではイスラム教徒の8割以上が「年1回以上差別された」と感じているという(毎日7月8日)。そして今回の事件の後もモスクのガラスが割られたり女性のスカーフが引き千切られたり、イスラム協会のウエブサイトへの嫌がらせなども頻発した。
▼西欧でイスラム原理主義が広まる背景
70年代以降、イスラム社会の中に「イスラム復興」とも言える動きが起こっているのは、西欧も含む全イスラム社会の傾向である。
「イスラム復興」には、暴力的な権力の転覆によるイスラム国家の樹立を企てる「上からの再イスラム化」というべきイスラム原理主義の動きも含まれるが、これは少数派である。多数派は、日常生活の中でイスラム法に基づく諸習慣を実践することで社会を再度イスラム的価値観に基づいたものに再編成しようとする「下からの再イスラム化」である。これは世界のイスラム社会が世界経済の中に包摂され、ヨーロッパ的アメリカ的価値観や生活習慣や消費社会に飲み込まれる中での共同体の破壊とも言える現象に対する社会防衛の動きである。
ただイギリスなど西欧でも「イスラム復興」が起きている意味は、中東やアジア・アフリカとは少し異なる理由があるようだ。
西欧における「イスラム復興」の主な担い手は、「移民」第一世代の特に男性である。これは彼らの共同体が西欧社会の真っ只中に存在することで、彼らの第2世代や第3世代は当該の西欧の国の言語を事実上の母国語とし、西欧的価値観を身につけて社会に出て行くことを通じて、西欧における彼らのイスラム共同体が徐々に変化し、彼ら男性の家父長的権威が低下しつつあることへの危機感と、彼ら「移民」が結局は西欧の受け入れ国において「扱い易い労働力=二級市民」に位置づけられ、不況ともなれば真っ先に職を失い路頭に迷う扱いを受けてきたことへの絶望が背景にある。
この結果、西欧におけるイスラム社会ではモスクや学校の建設そしてイスラム関係の書籍を売る書店などが次々と建設され、「移民」の第二・第三世代にイスラム的価値観を広める動きが加速している。これが西欧における「イスラム復興」の意味なのである(梶田編著前掲『ヨーロッパとイスラム』の総論による)。
だからこの動き自身は、反西欧の動きでは決してない。これは西欧にあるイスラムの孤立した島の自衛行動と見るべきであろう。しかしここに、中東やアジア・アフリカからイスラム原理主義が入ってきて育つ苗床が提供される。特にイギリスは長い間、中東やアジア・アフリカからの政治的難民を多く引き受けてきた。そして「思想信条の自由・表現の自由」に基づき、彼らの中のイスラム原理主義者がモスクや学校や書店において、彼らの思想を「移民」第2・第3世代の若者に広めることも禁止はしてこなかった。ここにイギリスにイスラム原理主義が広がる背景がある。
そして若者の側にも、それを受け入れる素地がある。
今日のイギリスは、ヨーロッパの中でも比較的失業率の低い国である。しかし若年労働者(15〜24歳)の失業率は極めて高い。イギリス全体での失業率がOECD基準によれば1996年の8.2%から1999年の6.1%へと大幅に改善されても、若年労働者の失業率は96年の14.7%から99年の12.3%へと変化しただけで相変わらずの高失業率である。したがって若者の8人に1人は職を得られない。そして6ヶ月間職を得られない長期失業者の割合も40%前後と高い(平成12年度「労働白書」)。
イギリスの外務・内務両省は昨年4月、合同で「イスラム系若者と過激思想」と題した詳細な内部報告書をまとめ、ブレア首相に提出していた(読売7月21日)。そしてこの報告書は「アル・カーイダに狙われやすいのは、貧困層出身者だけでなく、中産階級出身の大学生にも多い点を指摘し」、「特定の大学内に勧誘の拠点となるサークルが点在していることを憂慮」するとともに、「イスラム系のうち、特に経済的な困窮の著しいパキスタン、バングラデシュ系2、3世の若者の不満や社会的疎外感が高まっていると指摘。『働く機会の提供や、社会参加の場を設けるなど、早急に具体策を取る必要がある』としていた」。
そういえば7月7日のテロの容疑者タンウイールは、大学でスポーツ科学を専攻したにもかかわらず良い職を見つけられず、父親が経営するファーストフード店を手伝っていた。また主導者とされるカーン容疑者は大卒の書店員であり、公立小学校に併設されたイスラム補助学級の教師でもあり、イスラム社会での人望も厚かったという。
西欧におけるイスラム2世・3世の若者には敬虔なイスラムの信者は多くはない。彼らの中で日常的な礼拝をする者は12〜18%にすぎない(タリク・ラマダン著『ヨーロッパのイスラム新世代』の注参照。98年4月ル・モンド・ディプロマティーク掲載による)。しかしそんな彼らが西欧社会に溶け込もうとしても、白人社会の白眼視や学校を出ても職につきがたい現状などから現実への疑問を生じ、これが彼らをして「イスラムへの回帰」をなさしめる。
そしてこの場合彼らはイスラムの伝統的な習慣や価値観への批判的姿勢を持っているわけだから、彼らが染まるイスラムは堕落したイスラム社会の現実を厳しく批判し、西欧的価値観とそれに基づく世界の再組織化を激しく非難し、これらと戦うことがムスリムが少数者である社会に住むイスラム教徒の義務(=ジハード)であるとするイスラム原理主義である場合が多い。
今回の一連の地下鉄爆破(相互に直接関連したものではなく、2度目は1度目の模倣である可能性が高いが)の実行犯の中の2人が、それぞれ英米によるイラク攻撃や全世界的なイスラムに対する残虐行為を非難し、これと戦い続けると発言したのには以上のような背景があったのである。
これは「文明の衝突」と言える現象であり、社会に深く広い口をあけた文化的・宗教的断層がなせるわざである。
▼「断層」を乗り越える道は何処に
ではイギリスにおけるイスラム社会と白人社会の間に横たわる巨大な断層を超え、相互が共生しあう関係をつくることは不可能なのだろうか。
決してそうではない。イギリスにおけるイスラム社会はイスラム原理主義一色に染まっているわけではない。それどころか原理主義に反対する動きが2世・3世の特に女性の間には広がってさえいるのだ。
イギリスには「原理主義に対抗する女性たち」という組織がある。この組織の目的はキリスト教も含むあらゆる宗教的原理主義に対抗することである。したがってイスラム原理主義者たちがムスリムのための女子学校を設立することや、女性を家庭内領域における守り手と主張することはコーランの規定を超えていると批判する。そして同時にあらゆる宗教的原理主義を弱める前提として、イギリスにおける政教分離の徹底をも要求しているのである。彼女たちはイスラム社会とイギリス社会の双方に属しながらそれぞれの差別的構造を認識し、それを是正し、女性たちが自分の人生を自身で決定できるような社会を目指しているのである(梶田編前掲書の笠間千浪著『イスラム系女性のイミグリチュードの地平』による)。
また、前掲の『ヨーロッパのイスラム新世代』によれば、ヨーロッパという環境に中におけるムスリムの生活のあり方としてイスラム法の再解釈が行われている。それは「@ムスリムは、自分が住んでいる国と道徳的かつ社会的な契約により結びついていると考えねばならず、その国の法律を尊重せねばならない。Aヨーロッパの政教分離の枠組みの下で、ムスリムがイスラム教の要諦を実践することは可能である。B「ダールル・ハルブ」(ジハードが義務とされるムスリムが少数派である異教徒の地帯)という呼称は、コーランから出てきたものでも預言者の伝統に連なるものでもなく、時代遅れと考えられる。Cムスリムは自分をおざなりではない市民として考えなくてはならず、みずからの価値観を尊重しながら、居住国の社会、団体、経済、政治に参加しなくてはならない。Dヨーロッパの法律の下でも、ムスリムは他の市民と同様に、みずからの信条に基づいて判断することを何ものにも妨げられない」ということだそうである。
ヨーロッパにおけるムスリムも西欧的価値に基づく社会で共存する方法を模索しつつあり、西欧社会はこの動きに断固とした支持と連帯をする必要がある。
西欧的価値観の下で西欧社会とイスラムが共存することは可能なのである。しかしこれとて今すぐに解決するものではないし、10年や20年でできるものでもない。しかし白人社会の側がそしてイギリス国家が、中東やアジア・アフリカのイスラム諸国に対する政策を変えれば、イスラム社会の憤激や不満も和らぎ共生への過程を加速できる。
その手始めは、イラクからの外国駐留軍の即時撤退とイラクのありかたはイラク人にのみ決める権利があることを承認することである。そして同時にイスラエルとアラブとの共存、とりわけパレスチナとの和解の取り組みを促進することである。これらの政策を断固としてイギリス政府が実行することがイスラムの憤激を和らげる上で最も即効果のある取り組みであり、テロを阻止するために人権を損なう恐れのある強硬策を取るよりも先に早急にとるべき対策なのである。
また次に白人社会のあり方をかえることが大事であることを宣言して取り組みを始めることも肝要であろう。
しかし白人社会を変えるというその前提にはイギリスのこれまでのありかた、特に大英帝国による植民地支配が世界や自国にどんな問題を引き起こしたかの自覚と、第二次世界大戦後のイギリスの動きがこの問題を解決する方向にはまったく進んでいなかったことへの自覚と反省が必要である。そしてこれをなす上で、教育の果たす役割、特に歴史教育の役割は極めて大きい。異なる民族の共生を目指して、人類史全体が諸国家・諸民族の緊密な繋がりによってなりたってきたことを、その負の遺産をも含めて直視する「多文化・多民族主義」にたつ歴史教育である。イギリスのイラク戦争に反対した多くの人々や左翼はこのことの重大性を認識しているのだろうか。イギリス社会において様々な民族がそれぞれの文化や宗教を保持する具体的措置は、すでにイギリス社会の中に芽生えている。これをどう統一し拡大するか、そしてこの社会改革運動を担う勢力をどう形成するか。ここが焦点なのである。ここでも主体が問われている。
(9/14)