競争主義ではなく一人一人の子どもの興味と理解を大切にする教育への転換を!
−「いじめ」問題根絶の課題とは何か−
昨年夏、滋賀県大津市の中学生が「いじめ」を苦にして自殺した問題で、当該の学校と教育委員会がいじめの実態を親にも隠し、事件が発覚して以後もその態度を続けたことが明らかとなって以来、「いじめ」問題を解決するための取り組みが、全国で展開されている。
しかしその多くは、「いじめ」に対する対症療法に過ぎず、「いじめ」を早期に見つけて深刻化する芽を摘むとかその程度を軽くするための対策に過ぎなかった。筆者の目には、これらの対策は、「いじめ」を行っている子どもの心に寄り添って、彼らを「いじめ」に走らせる原因を特定しつつ、加害者へのケアをおこなうことが欠けているし、「いじめ」を生み出す背景にある真の原因を明らかにし、それを根絶する対策ではないと見えていた。
どこからかこの疑問に答える対策が出てこないものか。こう感じていた矢先に、日本共産党が「『いじめ』のない学校と社会を」という提言を11月28日に発表した(29日赤旗掲載)。
この提言は真に的を射た良い提言だとおもうが、筆者の経験に鑑みて、まだ一歩具体的な踏み込みが足りないと思える。
この観点から共産党の提言を紹介かつ批判的に検討してみたい。
▼ 共産党提言の概要
提言は二つに分かれている。
提案の1は、「いじめ」から子どもの命を守る−「いじめ」対応の基本原則の確立と題して、「『いじめ』への対応を後まわしにしない−子どもの命最優先の原則(安全配慮義務)を明確にする」という提案と、「『いじめ』の解決はみんなの力で−ささいなことに見えても様子見せず、全教職員、全保護者に知らせる」という提案、さらには、「子どもの自主的活動の比重を高めるなど、いじめを止める人間関係をつくる」、「被害者の安全を確保し、加害者には『いじめ』をやめるまでしっかり対応する」、「被害者、遺族の知る権利の尊重」、「『いじめ』の解決にとりくむための条件整備をすすめる」の六つの提案から成り立っている。
提案の2は、子どもたちに過度のストレスを与えている教育と社会を変えると題して、「いじめ」の背景には、子どもたちに過度のストレスを与える競争社会が存在しており、「いじめ」をした子どもたちの「いじめてスカッとした」「自分のみじめな状態を救うために誰かを否定したくて仕方なかった」との「いじめ」をする側の子どもの心の叫びを手掛かりにして、受験競争の低年齢化や全国一斉学力テストの実施にともなうテストの日常化、そして一切問題を起させない管理教育の横行などで、子ども達が追い詰められている情況を指摘する。さらにはこうした学校を取巻く情況として、新自由主義的な構造改革により労働や社会のあり方が激変し、貧困と格差が広がるとともに、「自己責任」論が横行したことで、大人も含めて過度の競争にさらされ追い詰められている情況が指摘されている。
提案の2はこのような情況認識に基づいて、「子どもたちが、人と人との間で生きる喜びを感じられる教育と社会を」と題して、「子どもの声に耳をかたむけ、子どもの社会参加を保障することで、子どもの成長を支える社会や教育を」と提言し、さらに「競争的な教育制度そのものからの脱却を急ぐ」ことを提言している。
これが共産党の提言の概要である。
▼ 提言の優れた点@:「いじめ」る側のケアと子どもに目が届く環境整備
提言の見出し語を追ってみただけだが、提案の1で語られたことは、「いじめ」る側の子どもの心のケアの必要性を説いたことと、「いじめ」に取り組むための条件整備として、教員の多忙化の解消と35人学級の完成、さらには養護教諭やカウンセラーといった心のケア専門職員の増員を提言した所以外は、この間に全国で進められた優れた実践をまとめたものである。
「いじめ」は「いじめ」られる側に原因があるのではなく、「いじめ」る側の心に原因がある。
集団の中で他と少し違った面を持った子どもが、「他と違う」ということを理由として多人数で虐待される。これが「いじめ」である。
従って「いじめ」の芽を小さいうちから見つけて深刻化することを防ぐ対応は絶対に必要であるが、その際に、「いじめ」る側の子どもの心に深く分け入って、彼らを虐待行動に走らせる原因を、個々の子どもに添って明らかにして、その原因を取り除く取り組みが重要である。
なぜならこれをしないと、この子どもはまた場面が異なれば再び「いじめ」を繰り返すからだ。
そして「いじめ」に走る子どもを虐待に誘う要因は様々であるが、全体的に共通していることは、彼らに対する親の虐待、つまり親の過度の期待や暴言や育児放棄などがあるとともに、この共産党の提言が明らかにしたように、学校において日常的に競争させられ、授業内容が完全に分らないままに放置されたままで、テストによって「賢い子」「馬鹿な子」と分けられ、「賢い子」は教師からちやほやされ目をかけられて、「馬鹿な子」は、ひどい場合には教師からも罵声を浴びせられ馬鹿にされる。教師がこのような行動に出るくらいであるから、とうぜん子どもの間でも同じことが起きる。
こうして子ども達は、家庭でも学校でも日常的に心を苛まれる環境にあるわけだ。
従って「いじめ」られた子どもの心のケアをすることも大事だが、「いじめ」る側の子どもの心のケアも大事である。多くの場合では、「
いじめ」る側の子どもは、教師に厳しいお説教を食らい、さらに父母にも同様にされ、酷い場合には社会からも指弾され、学校から追放と言う処置を取られる。
ここの改善を提言し、学校が子どもたちにもっと目をかけられるような環境整備を提言したところに、共産党提言のまず第一の優れたところがある。
▼ 提言の優れた点A−「いじめ」の原因を競争主義教育と社会に特定したこと
そして共産党提言の第二の優れたところは、「いじめ」の原因を指摘したことにある。
筆者の30年におよぶ教師経験からわかることは、「いじめ」を引き起こす子どもには二つのタイプがある。
一つは家庭的に恵まれない子。
もう一つが成績のトップクラスの子。
最初のタイプは、親の暴力や育児放棄という虐待にさらされている子。二つ目のタイプは、親の過度の期待という虐待にさらされている子。
最初のタイプが共産党提言にいう「貧困と格差」の犠牲になっている子どもだ。そして二つ目のタイプが、過度の競争的教育制度の犠牲になっている子どもだ。
しかし「いじめ」にはもう一つの特徴がある。
それは、集団の中で「いじめ」られている子ども以外の多くの子どもが「いじめ」に何らかの形で加担してしまうことだ。「いじめ」を見てみぬふりをしてしまう子。さらには「いじめ」に加担し、自分も暴言を吐いたり暴力を振ったりする子。酷い例では、教師すらここに加わったりする。
ではなぜ集団の多数の子どもが加担してしまうのか。
加担した子どもの言によると、「加わらないと自分が今度はいじめられる」「加わると自分が強くなったみたいでスカッとする」と言ったことのようだ。つまり、「いじめ」を起す子ども以外の多くの子どもも、日常的に自分が虐げられているとか、自分は劣等生であるとかいった、なんらかのストレスを抱えているということである。
ではなぜ多くの子どもがこうしたストレスを抱えているのか。
親の過度な期待は、多くの子どもが抱える問題である。「貧困と格差」が拡大する中でも、今でもそこからの脱出の鍵は、良い成績をとって良い上級学校に進学し、良い職業にありつくことが、唯一の解決策であると、社会の多くの人が未だに思っているからだ。
なんと人が職業につくのは、その仕事が好きだからとか、その仕事を通じて社会に貢献したいとかではなく、より物質的に豊かな生活を獲得するためなのだ。
だから親は子どもに過度の期待をしがちである。
そして学校は、こうした親の期待を背負って、また一方では法律で規定されて、子どもを、社会を担う「基幹エリート」と単純労働を担う「下層労働力」とに振り分ける機能を担ってきた。
昔からよく言われることだが、小中学校の学習内容をほぼ理解している子どもは、子どもの10%から15%程度だと。これらの子どもは自分の力で理解したか、一度教えられたことを理解したかであり、他の多くの子どもは、より手厚いケアを受けなければ理解には達しない。しかし学校はこのケアをしない。ケアしないままどんどん授業は進み、そうしてテストでその理解度を測って成績をつける。
その成績の付け方も、例えば1〜5の五段階評価で、それぞれの段階の人数は集団の数に対して一定のパーセントを定められる方式の相対評価だから、どの程度課題を理解したかが問題ではなく、他の人に比べてどの程度理解したかの評価になっている。人と比べてというわけだ。
10数年前にこの方式が改められ、学習課題の理解度に応じた絶対評価に変更されたが、中学校などでは高校進学の資料には使えないとのことで、再び各段階の割合を固定した相対評価に戻ってしまった。
教育の場の実態は、子どもが学びたくなるような仕掛けもなく、子どもの多くが課題をきちんと理解したかどうかを点検し、不充分な子どもには更なるケアを施して目標とされる理解度に到達させることもせずに、日々人と比べられ競争させられ差別される毎日なのだ。
ここが問題であると、共産党の提言は指摘し。この点でこの提言は優れたものである。
なお教師が「いじめ」を引き起こしたり「いじめ」に加担する例だが、これは教師もまた過度の競争に晒されていることに原因がある。
教員には今では幾つかの階層が設定され管理者による日常的な評価査定と、それに基づく給与差別が導入されたからだ。そして「だめ教師」 は、日常的に「いじめ」られる。
共産党提言の「上からの教員評価」や「中間管理職の新設」がこれにあたる。
▼ 提言の欠点−競争的な教育制度からの脱却の具体像がない
しかし残念ながら共産党の提言は、最後の解決策のところが抽象的なままに終っていることに問題点がある。そこでは先に見たような抽象的な言葉が羅列されているだけである。
いわく、「子どもの声に耳をかたむけ」「子どもが学校運営に参加するなどの社会参加を実現」することで、子どもの自己肯定感を高めよう。「高校受験の存在、一点差できまる個別の大学入試」など子ども達の創造性や思考力を歪める制度からの脱却を。
これは間違いではない。
子どもが学校運営に参加する。とても大事な提言である。でもこれが、現在行われている、児童会や生徒会を通じたものとどう違うのか。ここが明らかではない。
現在ではこれは単なる参考意見であり、それも教師の指導下に置かれ、これに逆らうことは許されない。ここをどう変えると、子どもの自己肯定感が高まるのか。
児童会や生徒会は、教職員会や地域の人や保護者からなる学校運営委員会と対等でなければならない。子ども達は、学校の運営のありかた、行事や規則や費用の問題にまで、教師や保護者と対等の立場で意見を述べ、その実施に責任を持たせるべきである。そしてこう制度を変えるには、今の、文部省−教育委員会−校長という縦系列の教育行政も廃止せねばならない。学校は公選制の教育委員会による条件整備の下で、子ども・親や地域の大人・教職員の三者による自治的運営に委ねよ。
高校受験や大学受験の改善。これも正しい。ではどうするのか。
しかしはっきり言うべきである。高校までを義務教育化せよ。公立・私立を併せて全員入学制度にせよ。そして大学は、高校卒業程度の学力を認められた者が全員受験できる全国一斉資格試験に合格できれば、あとは各自が行きたい大学を選べる制度にせよと。
しかしこれとともに、子どもたちの日常における競争主義と成績差別主義を排除することが最も重要であるが、提言はここには一言も触れていない。
テストはいらない。段階評価もいらない。相対主義であれ絶対主義であれ、段階をつけること自体が差別である。
子どもは学習においては、わかるまで教えられる権利がある。従ってクラス編成はもっと少人数にし、できれば一クラス10数人に。こうすれば一人の教師でも全員の理解がどの程度か、一人一人に目が届く。
学習課程は必修のものに加えて、子ども一人一人の興味に応じて選択できるものを大幅に増やす必要がある。
なぜなら子どもの興味を大事にしない学習はありえないからだ。
さらに提言が一言も触れていない大事なことがある。子どもたちを締め付け心を破壊するもう一つの元凶。学校の規則である。
義務教育に制服は要らない。従って髪の毛の長さやスカート丈や、はたまたシャツのボタンと外すななどの瑣末な規則は廃止せよ。学校で大事なのは、他人の学ぶ権利を侵すなということと、互いを尊重しようということだけだ。
これらは絵空事ではない。すでに先進国の一部で、とりわけ世界レベルの学習テストで常に好成績を取っている国で実施されていることである。
こうした具体的な措置を取ることが教育の競争主義からの脱却である。ここに進むことが、究極の「いじめ」対策であると考える。
(11.29 )