【書評】『デモクラシーの帝国』藤原帰一著(岩波新書:2002年9月刊)

「帝国」に依存する国際秩序の脱構築へ

―「招かれた帝国」と「招かれざる帝国」の実相―


 イラク情勢が急展開している。イラク人の多くが占領とアメリカによる間接統治を望まなくなっている状況下でも、アメリカがそれをやめようとしないからである。イラク人民の要求は今や、全ての占領軍の撤退へとエスカレートし、スペインを初め次々と占領軍からの離脱を表明する国が増え、仲介に入った国連からも「占領軍の撤退」が要求されるにいたっている。
 これはアメリカによるイラク占領統治の全面破綻であるだけではなく、イラクを皮きりに中東全体を「民主化する」とした大中東構想の破綻の始まりである。
 今こそアメリカの単独行動主義を終わらせるべき時だが、それは同時に、なぜアメリカがこのような行動に出たのかをもう一度原点に立ち返って考察する必要があり、その上で国際政治の今後のあり方を明かにすることが必要でもある。

 この意味で本書は2002年9月、あの「同時多発テロ」1周年を期して発行され、イラク戦争開戦以前に書かれた書ではあるが、この問題を考察する上できわめて示唆に富む書物である。著者は「20世紀システム」全5巻(東大出版会:1998年刊)の編著者でもある日本を代表する国際政治学者である。
 本書の特色は、しばしばアメリカの単独行動主義につけられる批判的言辞としての「帝国」の概念を整理し、その概念に基づいて第二次大戦後の世界政治の特徴を整理し、実はアメリカは第二次大戦後に「非公式の帝国」として君臨していたことを明らかにした所にある。さらにその背景には、アメリカが世界政府を代行しているのであり、その「非公式の帝国」としてのアメリカに世界が依存している状況があること、そしてこの「非公式の帝国」が「公式の帝国」へと向かう動きがアメリカの単独行動主義の背景にあることを明かにした。
 また結論部分で著者は、今後の世界政治のありかたを提言しているが、以下、著者の論述を整理してみよう。

▼「非公式の帝国」から「帝国」へ

 著者はまず第一章の冒頭において、従来の論者が「帝国」の特徴としてあげたことがらを以下の3点に整理する。
 すなわち、@:他国家を圧倒するほど広大な領土と人民を支配する軍事国家であること、A:多民族の居住する広大な領土を支配する国家であること、B:広大な植民地を支配する国家であることの3点である。そしてこの3点を基準にして「帝国」を捉えるならば、表面的にはアメリカは「帝国」には見えないが、実はそうではないことを明らかにする。
 その時のキーワードとなる概念が「非公式の帝国」である。これは著者によると、マイケル・ドイルが「帝国」という書物において行った概念規定であるという。
 ドイルは「帝国」を『ある政体が他の政体の国内・対外政策、さらに国内政治の仕組み全体に対して政治的にコントロールを加え、その結果、誰が支配者となりその支配者が何をできるのかが、その国の外から統制される状況』と述べ、これを「帝国」として概念規定した【本書=22頁】。
 この定義は領土支配を帝国の定義に加えていない。したがってドイルの帝国概念には、植民地支配のような「公式の帝国」と、直接統治を行わない「非公式の帝国」の二つの概念が含まれることになる。
 第二次大戦後の国際政治におけるアメリカの位置を振り返るならば、まさにアメリカこそ「非公式の帝国」であったことが明かになる。
 アメリカは第二次大戦後に旧植民地諸国に対して数多い軍事介入を行い、自己の意思を体現する政権を作ってきた。またヨーロッパや東・東南アジアに典型的なようにこれらの国々と同盟を結び、これらの国々の政府の政策決定に大きな影響力を振るってきた。アメリカは広大な植民地こそ持たないが、意に反する政府を打倒する事を辞さない点や多くの政府の決定をコントロールできる点では、広大な国々を非公式に支配する「帝国」として君臨してきたのである。
 またアメリカ外交の一つの特徴は普遍主義を掲げることである。それは19世紀末のセオドア・ルーズベルトに始まり20世紀初頭のウッドロー・ウイルソンさらにフランクリン・ルーズベルトと継承される、「世界の平和の維持」と「世界にデモクラシーを広げる」大国としてのアメリカ外交の伝統である。
 なぜアメリカが外交の常道に反して、普遍的価値を外交目標として掲げるのかを考察してみると、そこには「多民族国家」としてのアメリカの相貌が浮かび上がる。すなわちアメリカは単一の民族に基礎を置いていないがゆえに、デモクラシーなどの普遍的価値をもって社会を統合するしかないため、それ自身として世界と同化してしまう「多民族=普遍国家」としてのアメリカが存在すると著者は言う。それゆえアメリカにとっては、国内と国外の壁がきわめて低く、国内統合の原理であるデモクラシーを国外に広げるために外国に介入することに抵抗感が少なく、他国の政治に干渉することを辞さない。この意味でアメリカは、多くの民族の住む世界に「非公式」に君臨する「帝国」として存在してきたのである。
 そして最後に著者はアメリカの軍事帝国としての相貌をあげる。
 現在アメリカは世界のどの国と比べても圧倒的な軍事力を持っていることは明白である。ということはアメリカという国家の行動を、他の国は一切軍事的に抑制できないということであり、アメリカの意向に他の国は抗うすべを持たないということである。
 この意味でアメリカは、他国を圧倒する軍事国家であり、対抗する諸国による抑制の網を脱して一方的に軍事的介入をしても他国に抑制されるリスクを負う危険がなくなり、その結果、他国に軍事的に干渉することの壁が低くなって「警察国家」として世界に君臨することが可能な状態となっている。
 アメリカは第二次大戦後すでに「非公式の帝国」として「西側同盟諸国」に対しては君臨しており、ソ連邦の崩壊によってそれは世界に唯一「帝国」として君臨することが可能となったのである。だが冷戦の終結以後の10年間は「帝国」として行動することは抑制されたが、9・11の事件を契機にしてその抑制は外れ、今やアメリカは「公式の帝国」として世界に君臨し、単独行動主義をもって外交の基本とするようになったのだと著者は指摘している【本書:34〜37頁】。

▼「世界政府」を代行したアメリカ

 ではなぜ、第二次大戦後の世界において「非公式の帝国」としてのアメリカが成立したのか。
 著者はこの問題を、ヨーロッパ、東・東南アジア、その他第三世界という各地域の政治とアメリカの関わりを振りかえってみることによって、実はアメリカは戦後世界において「世界政府」を代行していたのであり、世界の多くの国々はアメリカの「世界政府」としての行動にその存立の基盤を依存してきたことを明かにする。
 冷戦勃発後のヨーロッパでは、アメリカはソ連の脅威を取り除くとともに域内の最大の強国であるドイツの暴走を防ぐための最大の防波堤であった。軍事的にはソ連の軍事力を封じ込めるためにヨーロッパ諸国との間に北大西洋軍事同盟を結び、経済的にはヨーロッパの資本主義経済の再建を援助するとともに、域内の経済統合を進めてヨーロッパの経済発展を図ることによって、ドイツをこの構造の中につなぎとめる役割をアメリカは果たした。当時のアメリカは「招かれた帝国」だったのである。
 そしてこの構造は、冷戦終結後も続いている。ユーゴ紛争に見られるように、ヨーロッパの周辺部で危機が生じたときにも、ヨーロッパの諸国の軍隊は基本的に自国の防衛しか行えず、域外における軍事力の行使はアメリカ軍に依存するしかなかった。9・11事件に際してヨーロッパ諸国が対米支持で一致した背景には、「地域機構を確保しながら地域外の平和についてはアメリカの影響力に依存するという『アメリカの受益者』としての西欧諸国の立場がある。」と著者は述べている【本書:164頁】
 では東・東南アジアではどうか。ここは冷戦が勃発したとき、その最前線であった。ここでは冷戦は旧植民地諸国における民族独立運動が共産主義に接近し、次々と人民民主主義国家が成立する可能性として出現した。したがってアメリカは、圧倒的な軍事力を背景にそれを阻止すべく軍事介入を続ける「軍事大国」としてアジアに現れた。それはしばしば民族独立をかかげた政府を軍事的に打倒し、そこに傀儡政権を作るという形で現れ、この地域の諸国の政府はアメリカの意に添わないものは存在できないという状況になったのである。
 しかしこの「招かれざる帝国」としてのアメリカの姿は、この地域の保守勢力にとっては違う側面を持っていた。日本が典型的なように、この地域の保守勢力が伸張する共産主義勢力に抗して存続するためには、アメリカの軍事力にすがり、その影響力の下に隠れる以外の道はなかったからであり、アメリカに経済的に依存することなくして、自国の発展もなかったからである。ここでのアメリカは「招かれた帝国」だったのである。
 このアメリカに依存する構造は冷戦終結以後も続いている。分断された朝鮮・中国という紛争地域を抱えるだけではなく、域内にロシア・中国・日本という相互に紛争を起こしかねない大国が向かい合う中で、アメリカの軍事的関与が唯一その勢力の均衡を保つという状況が生まれている。米中共存・冷戦戦終結以後の過程で、東南アジア諸国連合を中心とした形で域内の経済的統合と政治的連携は進みつつあるものの、ヨーロッパと同様に『アジアにおける地域協力も、やはりアメリカの兵力と権力に頼ることに伴う制約を免れてはいない。』と著者は言う【本書:172頁】。これは北朝鮮をめぐる今の状況でも明らかであろう。
 最後に著者はその他の「第三世界」におけるアメリカの位置について考察する。
 南・西アジアからアフリカ、南アメリカの地域は世界で最も貧しい地域である。そしてここは1960年代以後、植民地の状況から次々と新しい国が独立していく地域であったがゆえに、冷戦の最前線になっていった。ソ連・アメリカ両国はその新しい国々がどちらの陣営に属するかをめぐって援助合戦を繰り広げた。また天然資源に富むこの地域の国々の政府は、この米ソ両国の勢力の空隙という位置を利用して両国からの援助を巧く使い分けながら、同時に「資源ナショナリズム」を掲げて自国経済の自立的発展を図った。この第三世界呼ばれる国々の勢力の伸張を背景に、その政治的発言の場になったのが国連であった。国連における数の力を背景にしたこれらの国々は、アメリカを初めとする豊かな国々からの援助や、それによる国連開発計画などを立ち上げて、それぞれの国の開発に邁進したのである。
 しかし冷戦の終結はこの構造を壊してしまった。冷戦の終結とともに第三世界はアメリカにとって何の価値もない地域になってしまった。特に国内経済の再建に力をおいたクリントン政権の時には、アメリカは泥沼に入りこむ危険のあるこの地域の紛争には極力介入しなくなり、この地域への関心も失った。それは国連開発計画などを通じた援助の低下という現象を伴い、この地域の飢餓と貧困は放置されるに至ったのである。冷戦終結以後のアメリカは、しだいに開発計画などの国連の活動に対する支援を削減し、その決定を無視する傾向を強めている。国連はもはや第三世界の利益を代表するものではなく、最大のパトロンであるアメリカの意向に従わねばならないものになっていった。
 そしてその一方では、世界経済の不況への突入に伴って経済的に破綻した南アメリカなどの国々は、経済再建を建前にした国際通貨基金からの経済改革勧告を強制され、より一層の市場開放策を迫られることによって、アメリカ発の多国籍資本に完全に従属する国々になってしまった(この点について本書はまったく言及しないが)。
 さらにこの地域は、ヨーロッパや東・東南アジアのような域内の主張をまとめ、協力をしてアメリカからの外圧を和らげる地域機構を持たないため、今や第三世界の国々は「帝国」としてのアメリカのご機嫌しだいでその国の命運が決められる状況になっている。その典型がイラクであったと言っても過言ではないかもしれない。
 第二次大戦以後の世界において、さらに冷戦終結後の世界において、世界各地の平和の維持と貧困の解消と言う、世界が共通してあたらねばならない課題を主に担ってきたのはアメリカであった。この意味でアメリカは世界政府を代行してきたのである。そしてアメリカの傘の下に発展を続けてきたヨーロッパや東・東南アジアの国々は、それぞれの域内では地域機構を作り上げ、地域協力を進めて平和と発展を維持しているが、域外の問題に対してはアメリカに依存したままの体質は抜けていない。
 世界はアメリカという「帝国」に依存しつづけているのである。

▼「帝国」に依存する危険

 著者は、アメリカが世界政府の代行をすることに伴う危険を次のように指摘する。
 「第一は、誰のための権力なのか、その責任の所在の問題である」と。つまり、アメリカ政府はアメリカ市民に直接の責任を負う以上、その政策に対して世界の人々はそれぞれの利益をアメリカの政策に反映させる道はない。だから、アメリカの掲げる普遍的理念である「デモクラシーの拡大」がアメリカ一国の、いやその一部の特殊利益を反映してしまうことを妨げることができないということである。
 「第二は、権力行使に対して加えられる制度的な制約がない」と。それは圧倒的な権力をもつ「帝国」が、他の諸国との合意によってつくられた法にしたがうはずもないからである【本書:52頁より】。
 この指摘は見事にイラク戦争をめぐる状況を言い当てているといえよう。アメリカは様々な国際法も無視してイラクに侵攻し、そこでの占領統治も国際法を無視した、きわめて違法で暴虐なものである。それを阻止する国際的な枠組みはまったくない。そしてイラク統治は、イラクに存在した民主主義をも破壊し混乱に落し入れているだけなのだ。
 さらに著者はアメリカが帝国に向かい、しかも世界がそのアメリカに依存したままの状況が、新たな問題を生み出す危うさをも指摘している。
 すなわち、「国際関係は軍事問題ばかりではないし、国際関係において権力を構成する要素も軍事力に限られない。貿易取引、通貨市場、労働力移動など、国際関係の様々な場面では、それぞれに有効な権力の構成要素は異なっており、軍事力が『ものをいう』領域はその一部に過ぎないのである。そのようななかで、もし軍事的優位を背景として単独行動をとろうとすれば、それほど排他的な優位を持たない他の争点領域、たとえば貿易問題や環境規制では、多国間協力によって得られるはずの利益を失う可能性がある。」【本書:32頁】と。
 ブッシュ政権になってからの世界的な環境規制や伝染病の撲滅、そして貧困の解消や先進国と途上国の経済格差の解消という世界的な問題が、アメリカ一国の利益の前にないがしろにされている状況を見事に照射しているではないか。

▼「帝国」からの脱却の道はどこに?

 ここまで著者の論述を多少の補足を交えて辿ってきてみると、著者が最後の章において「帝国」からの脱却のために何を提言したいかがはっきりとした姿をとってくる。
 著者は次のように問題を提起する。
 「今求められているのは、帝国に世界政府を代行してもらうことではない。(中略)国連機構を再編成し、その機能を強化することである。現代世界において公共性を主張できる機構とは、国連しか存在しない。』【本書:203頁】と。
 著者はこうしてこそ、「帝国」の恣意的な政策に世界の安全を依存するのではなく、最も貧しい、しばしばその存在を無視されてしまう国々をも含んだ国際的な協議の場が作られると述べ、困難な道だがこれしかないと言う。そしてそこに向かうにはまず、アメリカの外交政策を従来の多国間協調へと戻さねばならないとも主張する【本書:200頁】。
 たしかにそのとおりだと筆者も思う。

 だがこう結論するためには、本書は以下の三つの大きな疑問に答えていない。
 その一つは、冷戦後もなお10年間「非公式の帝国」であり続けたアメリカが、9・11事件をきっかけとして「帝国」へと向かったのは何故かという疑問である。
 著者は、冷戦の終結以後も「非公式の帝国」が続いたのは、ベトナム戦争での外国への介入の失敗の記憶が外国への介入行動を強く規制していたこと、アメリカ経済の再建こそが第一の課題という認識が「公式の帝国」へむかう衝動を抑制していたと説明する。
 たしかにこれで、クリントン政権の動きを説明はできる。そしてクリントンの8年を通じて経済は一応再建された。この意味で抑制の一つの鍵は外されたといえよう。では第二の鍵である「ベトナムへの介入の失敗の記憶」はどのようにして外れたのか。この点については著者はまったく答えていない。
 問題をこのように提起すると、そこにはネオ・コンと呼ばれる政治勢力が介在してくることがわかる。彼らはまさしく「ベトナム後遺症」を負ってはいない。それどころか冷戦の終結を強大なアメリカの力を背景にソ連に対して強硬な姿勢で臨んだレーガン政権の勝利として捉え、アメリカの軍事力を背景に世界を改造するという世界観を持った勢力である。このような勢力が政権の中枢を握ったことが、9・11以後の転換の背景にあることは明白である。
 ではこのネオ・コンという勢力は如何にして生まれたのか。そしてこれは現実世界における誰の利益を代弁したものなのか。これが二つ目の疑問である。この点が問いなおされねばならない。そうでなければネオ・コンは何度でも復活し、アメリカは「帝国」へと向かうだろう。
 この勢力はすでレーガン政権の時から権力中枢に巣くっており、この意味でレーガン政権登場と歩を同じくして進行した1980年代初頭以後の、アメリカ型資本主義標準の世界全体への波及というグローバル資本主義の展開とネオ・コンの台頭との関係が問われなければならない。つまり「帝国」とグローバル化する世界経済との関係である。
 ハートとネグリはその著書「帝国」において、「資本の流れに加えて情報の流れを握り、その資金と情報のネットワークに個々の主権国家を組み込んでゆく、世界規模の過程」を帝国と規定した。本書の著者藤原氏は、この規定を「経済主義に偏っている」と批判し、「そもそも世界経済と帝国はどんな関係に立っているのか」という問いを提出した【本書:18頁】。
 著者は、経済はグローバル化され市場は統合された結果各国政府がとる経済政策は選択肢が狭められているが、政治権力は多元的であるという通説に異議を唱え、選択肢が狭められているのは経済政策だけではなく、政治的多元性というこれまでの大前提が崩れているのが今の時代であるとして、帝国に向かうアメリカを提示した。世界の国々は帝国に向かうアメリカの下で政治的決定の自由度は極めて限られてしまっているのが現状である。これは、アメリカの帝国化は世界経済のアメリカ化=アメリカによる一元支配という現象と対を為しているということではないだろうか。
 藤原氏は「ウォーラーステインの『近代世界システム』では、世界経済と帝国は対抗関係に立つものとして捉えられていた。(中略)近代資本主義は、市場における交換を通じて収奪することによって、過大な政治権力の行使や財政負担なしにシステムを支えることができた、と考えるからだ」【本書:19頁】と言う。であるならばアメリカの帝国化と資本主義世界経済は対抗関係にあるのか。帝国化を進めるネオ・コン勢力は「世界の一層の市場経済化」を推進しており、これは世界経済のアメリカ一極支配を目指しているようにも見える。アメリカの帝国化とグローバル化した現在の資本主義世界経済は両立するのか、それともなお対抗関係にあるのか。
 最後に三つ目の疑問がある。なぜアメリカが世界政府の代行を求められたのか。そして冷戦終結後もこれが求められているのは何故か、それは世界経済のグローバル化とどう関係するのかという問題である。
 藤原氏の結論は、国連こそ世界政府の役割を果たさねばならないというものである。ならば、なぜ世界政府が必要なのかを示さねばなるまい。

 藤原氏の本書におけるアメリカの「帝国」化の分析は、全体的に世界経済との関係がほとんど捨象されているという欠点がある。しかしアメリカの単独行動主義の背景を考えるには、とても参考になる。ていねいな吟味が必要であろう。


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