自立・連帯・共同への共感
―ハリー・ポッターブームの背景― 


 ハリー・ポッターという魔法使いの少年を主人公としたファンタジーが爆発的な人気である。日本では、全4巻で1600万部も売れ、年間書籍売上高のトップを走り、各種の読書調査でも、男女を問わずハリー・ポッターシリーズがトップを占めている。しかもこのブームは青少年に止まらず大人たちにも及び、このシリーズの映画も大人気である。
 そしてこれは日本だけの現象ではなく、原作が出版されたイギリスを中心としたヨーロッパやアメリカでも、同様な現象が起こっているのである。

個化する社会と孤独な少年の物語

 作家の村上龍氏が主催するメール・マガジンのJMM194号土曜日版(2002年11月30日発行)で、アメリカ在留の作家の冷泉彰彦氏が、ハリーのことに触れている。「凍てついた感謝祭」という一文の中でだ。
 この中で氏は、2001年の9月11日以降のアメリカの状況を素描した。そこでは「強いアメリカ」がアピールされるとともに「古き良きアメリカ」が見なおされ、伝統的な大家族の良さが吹聴され、アメリカ合衆国はその大家族にたとえられる風潮があるという。しかし現実のアメリカ大家族はすでに崩壊の過程に入り、その古き良き家族の見せ場であった田舎の家での一族そろっての感謝祭という風景が一変している。すなわち昔ならば週末の数日を田舎で過ごし、感謝祭のあとは、村の市場に出かけ、祖父母が孫たちを映画に連れていくという風景が一般的だったが、今は帰省は「日帰り」であり、田舎で七面鳥を食べるや急いで高速道路をUターンして、夜には都会の我が家で過ごすという形になっているという。
 冷泉彰彦氏は、アメリカの大家族が崩壊して核家族化し、さらにその都会の核家族すら崩壊しはじめ、若者たちの多くは家族と感謝祭を祝うのではなく、友達や恋人と祝うという形へと変わり、人々が孤独な個として社会の中に放り出されつつあることを指摘した。そしてこの文脈の中で、ハリーポッターのブームを、以下のように読み解いたのである。

 「この『ハリー・ポッター』は考えてみれば、里帰りした子供たちが「グランパ、グランマ(祖父母)」に連れて行ってもらう「いわゆるお子様映画」ではないのです。孤児の悲哀に耐える主人公が、殺された両親から魔法使いの資質を受け継ぎ、学校では善悪入り乱れる中で、例外に次ぐ例外という事態に巻き込まれながら成長する。そんなストーリーは、勧善懲悪ときれいごとが、歌で彩られたディズニー映画とは全く別のものです。(中略)勿論、この『ハリー・ポッター』には反体制的な毒もなければ、虚無的な要素や粗暴な点もありません。ですが、メッセージの核にある「キミも本当は魔法が使えるかもしれない。でも、回りの大人たちはそれに気づかないし、気づいても受け入れてはくれない」という、ある「悲しみ」が人気の秘密なのでしょう。その不思議な孤独感は「家族の価値」とは裏返しですし、「おばあちゃんの家へ里帰り」ということとも結びつきません。
 911以降、言われていた「家族の価値」というのは本当は何なのでしょう。その実態は実は「はかない」ものなのかもしれません。子供たちも親の世代も、みんなある種の孤立感というものがあって、911のような大きな衝撃をきっかけにその反動があっても、実は大きな孤立の流れは止められないのかもしれません。
日本では、大家族主義が崩壊した途端、核家族イデオロギーの成立を通りこして、人々が孤立してしまった、そんな「解説」を良く耳にします。その結果としての非婚少子化や、家族の崩壊があるのだと。その流れは実はアメリカも同じなのでしょう。(中略)『ハリー・ポッター』ブームの背景にあるものは、実はアメリカも日本も、そして英国でもあまり変わらないように思います。」

連帯と共同の物語

 冷泉彰彦氏の指摘は、多くの論者が見過ごしている部分をついていると思う。
 ポッターは孤独である。両親を闇の大魔法使いヴォルデモートに殺され、預けられた母の姉の家では邪魔者あつかいされ。しかしその彼が、魔法使いの学校であるホグワーツに入学するや、復活をたくらむヴォルデモートのたくらみに対して英雄的な戦いを繰り広げる。「孤独な君にも、もしかしたら魔法を使える才能があるのかもしれない」と、孤独な人々に語りかけ、その魔法の才をつかって、人々が絶対克服できない問題を克服し、一躍ヒーローになれるかもしれないという夢を、人々に与えている。このように冷泉彰彦氏は指摘したいのだろう。
 だがちょっと待って欲しい。
 ポッターは決して孤独な少年などではない。
 確かに彼には両親がいない。そして両親との楽しい思い出もない。しかし魔法界での彼は、多くの暖かい『愛』に包まれている。そして彼がヴォルデモートと戦う時には、彼は彼を愛してくれる人々と共に戦っている。
 いつも彼を心から受け入れてくれる親友のロンとハーマイオニー。ハリーは戦いの時にはいつも、この二人と共にあり、彼らの励ましと彼らの智恵とに助けられながら戦っている。そして彼は同時に、多くの魔法使いによっても守られているのだ。彼の寮監のマクゴナカル。ホグワーツの森番のハグリット。彼を憎みいたぶっているかのように見えながら、いつも見えないところで守ってくれるスネイプ。そして彼の名付け親のシリウス。さらにはホグワーツの校長で、ヴォルデモートが唯一恐れる魔法使いであるダンブルドアなど。
 これらの名うての魔法使いが、彼の周りを固め、闇の魔法使いの魔の手から彼を守り、それと戦う智恵を授けてもいる。
 いやハリーと共にあるのは、彼らだけではない。ハリーの周りには次々と新しい仲間が出来ていく。ロンの両親やロンの兄たち。この家族は、家族の暖かさを知らないハリーにとって、家族以上の存在である。さらには第3巻で彼を助けた屋敷しもべ妖精のドビー。さらには第4巻の3校対抗魔法大会で競争相手であったセドリックやクラムやフラー。ハリーに出会った人の多くが、彼の味方になっていく。それはハリーがいつも類まれな自己犠牲の精神や優しさを発揮し、同時に闇の魔法使いに敢然と立ち向かって行く勇気を示すからだ。
 そう、ハリーは決して孤独ではない。彼の優しさと勇気とが、多くの仲間を作り出し、彼のヴォルデモートとの戦いは常に、これらの人々との連帯と共同の戦いであったのである。そしてこれらの人々の結びつきは、ハリーへの『愛』であるとともに、闇の魔法使いのヴォルデモートが復活し、再び世界が暗黒の世の中に戻ることを阻止しようとする共同の目的があるからである。
 ハリー・ポッターの物語は、暗黒の世界復活を阻止せんとする人々の、連帯と共同の物語なのである。

新しい戦いのあり方=自立と連帯

 ハリー・ポッターの物語を、連帯と共同の戦いの物語と規定すると、1つの物語が連想される。それはNHKテレビで火曜日に放送されるプロジェクトXである。
この番組は、日本の繁栄を築いた多くの人々の戦いの物語であり、これもテレビ番組としては異常な人気を博している。「この番組を見て元気になった」という声を良く聞く。「日本人もこんなすごいことをやってきたのだな」という感慨を人々に与え、今に立ち向かう勇気を与える物語だからであろう。
しかしプロジェクトXとハリー・ポッターの物語とは決定的な違いがいくつかある。
ハリーの物語は、第1に、少年の成長の物語である。そして第2に、『愛』に結ばれた物語であり、第3に、「カリスマ的なリーダー」が存在せず、一人一人が自立している物語である。
 ここでは第3の違いこそ重要だと思う。
 ハリーの戦いには、企業戦士の戦いのようなカリスマ的なリーダーがいない。強いていえば、登場人物全員がリーダーなのである。それぞれの場面で、それぞれのメンバーが、誰かに命令や指示されることなく、それぞれが自発的に自分の役割を見つけて、それを果たして行く。これは主人公のハリーにとっても同じことが言えるのである。だから成長の物語でもある。
 だがハリーの物語には一人、リーダーとでも言うべき人物がいる。
 それはダンブルドアである。
 彼はハリーの教師でもあり、魔法界全体の庇護者でもある。だがダンブルドアというリーダーは、決して皆の先頭に立って指示したり、奮闘したりはしない。いつも静かに戦う人々のそばに寄り添い、彼らの成長に併せて必要なヒントを与え、その実彼は、戦う人々の見えないところで決然と闇の魔法使いとの戦いを遂行しているのだ。
 彼の役割は伝統的には「護民官」である。しかしこの護民官は、いつも人々を暖かく見守り、援助が必要であればいつでも待機しているという護民官である。企業戦士のリーダーのように、身を削って戦い過労死するような人ではない。人生を楽しみつつ、かつ己の役割を自覚し、戦う人々に、その時々に必要な目標を与え、戦い方のヒントを与える。しかしその指示は一方的なものではなく、戦う人々一人一人の自発性と共同を重視し、この人々の戦いの中から生まれてきたものである。
 ハリーの物語は、このダンブルドアをも含めた、それぞれが自立した魔法使いたちの連帯と共同による戦いの物語なのである。

 ハリー・ポッターの物語が、少年少女だけではなくたくさんの大人たちにも熱狂的に受け入れられているのは、この物語が空想的非現実的世界の冒険物語の要素と、少年の成長の物語の要素、そしてはらはらさせる推理小説のような戦いの物語の、これら全ての要素を併せ持つ物語であるとともに、ハリーたちの人間関係の結びつき方や戦いの遂行の仕方に、現代の人々が無意識に求めているものと同質の物があるからこそなのであろう。
21世紀にはいり、何が起こるかわからない時代の中で、少しずつ歪んだ世の中の姿が見え始め、先端的な戦いの姿が見える中で、誰とともに何に向かって戦ったら良いのかを模索する人々の心が、ハリー・ポッターのような人間関係と戦いのあり方に共感しているのである。

 最後にハリー・ポッターの第4巻の中で気になったことを記して、この小論を閉じることとしよう。
 それは何か。
 ハリーの血と下僕の肉と父の骨とで肉体を作り出し復活したヴォルデモートが、ハリーを滅びの呪文から守った母の魔法の力をハリーの血を通じて自らの体内に入れ、それゆえ強くなったとの話をハリーから聞いたとき、何ゆえダンブルドアは、勝ち誇ったような表情を見せたのか。そしてハリーの母がハリーに施したという最も古い魔法とは何であったのか。
 筆者の想像だが、その魔法とは、母の無償の愛ではなかったのか。眠りにつく我が子に「やすらか眠りを」と祈る母の愛ではなかったのか。死の危機にさらされた母が無意識にハリーの額にしたおやすみのキッス。これがヴォルデモートの滅びの呪文を跳ね返して彼を亡ぼすとともに、今また彼に復活の力を与えたのではないのか。
 不幸な生い立ちゆえに自身も母の愛を知らないトム・リドル(ヴォルデモートの本名)。彼の体内にハリーの母の愛が入ったことによって、彼の魔力はいつの日にか無化されてしまう。
ハリー・ポッターの物語を書いたローリングの描く物語の結末は、こんなものになるのかもしれない。

(2002年12月17日記 )


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