【自衛隊イラク派兵のバランスシート】
日米同盟と対アジア戦略の再検討こそが問われている
―自衛隊のイラク撤退は何を明らかにしたのか?―
6月20日、小泉首相はイラク南部サマワに駐留する約600人の陸上自衛隊の撤退を決定し、内外に発表した。撤退の理由は、5月にイラク新政府が発足し、7月中にもサマワが属するムサンナ県の治安権限が、イギリス・オーストラリア軍から県当局・イラク治安部隊に委譲されることが19日に明かになったことである。
04年1月の派兵から2年5ヶ月。憲法上の制約から武力行使のできない「軍隊」が、特別措置法という玉虫色の時限立法で「海外派兵」されるという異常な事態は、とりあえず終結した。
本小論では、自衛隊のイラク派兵と撤退という事態が何を提起したのかを、イラク情勢を通じたアメリカの国際戦略のありかたと、これとの関係で、今後の日本の外交姿勢や自衛隊の位置付け・憲法のありかたなどについて概略を描写しておきたい。
▼「泥沼のイラク」からの「撤退」
小泉首相は、イラクへの自衛隊派遣は一定の役割を果たしたし、正しい選択であったと述べている。ではどのような役割をはたしたのか。イラクの平和と安定のためという自衛隊派遣の公式の目的から見ると、何の役割を果たさない中での撤退である事は、撤退を表明した記者会見でのやり取りの中に、たくまずして示されている。
首相は記者の「今後のイラク復興支援は、NGOや民間企業を通じて行うのですか」との質問に、なんと答えたか。
「それはまだ無理でしょう。まだそういう情勢にはない」と。さらに、「首相はイラクを、在任中に訪問されないのですか」との質問にもこう答えている。「日本独自の態勢で私が行って、安全面、他国に余計な配慮を使わせるのではないかと考えると、現時点で訪問することは考えていない」と。そう。とても危険で首相がイラクを訪問することなどできない。イラクには平和は訪れていないし、安定もしていないのだ。
自衛隊が駐屯していたサマワが属するムサンナ県の治安権限が、県当局・イラク治安部隊に委譲されることは、多国籍軍撤退に向けたモデルケースとされている。しかしサマワ自体もけして治安は安定していないし、ムサンナ県も、さらにはイラク南部一帯の治安も、安定どころか悪化の一途をたどっているのが現状だ。
イラク南部の主要都市バスラは、5月31日に1ヶ月間の非常事態宣言が出された。連日、10件以上も暗殺事件が起き、その背景にはスンニ派とシーア派の宗派対立だけではなく、シーア派内での行政部門や警察、そして石油利権をめぐる争いや対米政策をめぐる争い、さらには地元部族内の争いまで複雑に絡んでいるという(5月31日・毎日)。
そしてイランと国境を接し、ムサンナ県の次に治安権限委譲が行われる予定のミサン県アマーラでは、駐留するイギリス軍基地がロケット砲で攻撃され、容疑者を探して市街を捜索中のイギリス軍と武装集団が銃撃戦を展開、市民に多数の犠牲者を出した。そしてイギリス軍の軍事行動に反発した県当局が、イギリス軍への協力を拒否する事態にまで発展し、県知事は「権限委譲など幻想」と述べている(6月21日・毎日)。
サマワ自体も、今は比較的治安が安定しているとはいえ、治安権限が県当局・イラク治安部隊に委譲されると、逆に治安が悪化することが懸念されている。対米強硬派のマフディ軍の浸透によってスンニ派との軋轢が激化する一方、警察・治安部隊の腐敗により日常的なチェックが甘くなっているからだ(6月21日・毎日)。
イラク中・北部では、治安はさらに悪化している。バクダッドでは、5月の新政府発足以来、イラク治安部隊5万を投入して武装勢力の掃討を図っているが、連日のように爆弾事件が発生している(6月27日・毎日)。そしてバグダッド北東部のシーア派とスンニ派の混住地域では、イラク連邦議会のスンニ派女性議員と警護官7人の計8人が、武装集団に拉致された(7月2日・毎日)。
スンニ派住民の多くは、警察内部に浸透したシーア派最有力組織「イラク・イスラム革命最高評議会」の民兵組織・バドル軍が「暗殺部隊」を率い、スンニ派を無差別拘束し、拷問と殺害を繰り返していると主張する。この点については、移行政府のジャビル内相が5月7日、司令官とそれに連なる17人を市民の誘拐・殺害容疑で逮捕したことを明らかにし、警察内の特定の部隊が市民の殺害に関与してきたことを認めた(5月21日・毎日)。
しかしこのような衝突は跡を絶たない。さらにイラク北部では、国内有数の石油生産基地キルクークをめぐって、クルド人居住区への編入を主張するクルド人勢力と、アラブ系スンニ派住民や少数派のトルクメン人が対立し、各民族間の緊張が高まってもいる(6月14日・毎日)。
これでは、多国籍軍が権限を県当局に委譲して、治安回復はイラク国軍に任せるなどというシナリオは、今だ実現不可能であろう。事実、今回権限委譲が行われた南部ムサンナ県に駐屯していたイギリス軍150人は、他県に移動するだけで、イラク南部に駐屯するイギリス軍7000人の体制は今後も維持される。そのイギリス軍は近く、バスラにおいてバグダッドと同様な掃討作戦を開始する。イギリスは年内に1000人、来年秋までに大半の部隊を撤退させる計画だと言われるが、まさにこれは絵に描いた餅だ(6月21日・毎日)。
自衛隊も、昨年6月に車列の側で爆弾が破裂してからは、移動時間を除いて、外部での援助活動は1時間までに制限し、宿営地に篭っていただけなのだ。まさに今日、自衛隊があわただしくイラクを撤退する理由は、これ以上駐留を続ければ武力を行使をせざるをえない状態に追いこまれ、そうなれば日本国内での紛糾は免れないからである。イラクは泥沼状態なのである。
▼国民融和が不可欠なイラクの現状
以上のような混乱状態を背景にして、6月25日、マリキ首相が連邦議会で「国民融和プラン」を発表した。
これは(1)スンニ派武装勢力との対話、(2)拘束中の武装勢力の恩赦、(3)民兵組織や違法な武装集団の問題解決−など24項目から成るもので、同首相は、旧政権与党のバース党職員の追放を定めた「脱バース党法」を再検討する方針も示した(6月26日・毎日)。
かつてフセイン政権は、豊かな石油資源で得た富をつかって、多数の貧困者を公務員(役人・軍人)として雇用するという社会政策をとってきた。「脱バース党法」で公職追放となっている人々の多くは、実はこういう人たちなのである。職を失った彼らは武装勢力へと流入し、アメリカ傀儡政権に抵抗することになったのだ。
イラク情勢の混乱は、すべて宗派対立が原因であるかのような報道がずっとなされている。しかしこれは嘘だ。バース党政権下においては、この政党が純粋な世俗政党であるがゆえに、人々は各地で宗派を超えて混住してきた。スンニ派が優遇されているかのような観を呈していたのは、イラクが地域門閥で支配されている国であり、各地域の部族の連合として国家が成り立っている現状を反映している。つまりフセインが基盤とするバクダッドを中心とした中部イラクの諸部族が優遇されていたのだが、この地域がスンニ派主体の地域であったために、スンニ派優遇のように見えただけである。フセイン政権下においてイラクは、それなりに国民的に統合され「安定していた」のである。
アメリカ軍によるフセイン政権の暴力的転覆と、占領政府による政権与党の公職追放とスンニ派弾圧は、フセイン政権下で安定していた統一イラクの紐帯を破壊し、各地域の部族対立を政治の表面に押し出してしまった。それが宗派対立やさらには宗派内の対立のように見えているのだ。
この状況を終息させ、少しでも安定に向けて動き出すためには、「民族の融和」「宗派の融和」を図るしかない。そしてこれは、政権の構成に部族や宗派の人口比を反映させることに留まらず、バース党員の公職追放の解除や、武装勢力との対話と赦免・吸収など、一般国民レベルにおける民族の融和・宗派の融和処置がとられねばならない。
だがこれは、3年前の多国籍軍進駐の直後に必要とされたことであった。
▼イラク占領政策の根本的な誤り
アメリカ政府は、イラクが各地域の部族連合で成り立っていること、そしてバース党という官僚機構がそれを統合し、かつ20世紀におけるイラクでの資本主義の発展を背景とした部族社会の解体と、新たに生まれた貧富の格差をこの官僚機構が緩和してきたことを充分に理解していたとは思えない。さらに国内の対立で深刻なのは地域部族の対立であり、宗派はむしろこの対立を緩和する装置であることも理解していなかった。
地域部族連合の段階にあるこの国でも、ヨーロッパ・アメリカ的な民主主義の基盤は育っていた。それが存在していたのはバクダッドなどの大都市であり、この地域を拠点とした中産階級と公務員がその基盤であり、その背景は石油産業を中心とした近代産業の発展と社会政策であった。だがその中でようやく芽生え始めた都市中産階級は、長引く経済制裁によって資本主義的経済システムが破壊され統制経済化が進展する中で、ほとんど解体されてしまった。
日ごとに増す生活苦の中で、余力のある人々は国外に脱出し、脱出できなかった人は資産も地位も失い、再び部族社会や貧困層へと吸収されていった。
こうしてフセイン政権下では、貧困層を吸収する有力な反対派であった共産党が弾圧された後は、国内に有力な反対派は存在しなくなった。だからイラクの外部にしか反対派はおらず、それも国内に基盤を持たず出身部族の違いによる対立でバラバラであり、フセインに替わって政権をとれる亡命勢力は存在しなかったのである
そもそもフセインは、イラクの国家的統合の要であった。第二次世界大戦後のアメリカによる日本占領に比較して言えば、彼の地位は天皇裕仁にも近いものであった。
そのフセインを傀儡にすることができなくなっていた以上、アメリカのイラク占領政策は、フセインら少数の政府高官を「戦犯」として処断し、バース党を基盤とした国民的統合システムはそのまま温存して、既存の官僚機構を利用しながら統治を行うことが追求されて当然だった。イラク戦争開戦前に、「反フセイン派のクーデター」の試みが報じられたが、それはアメリカもまた当初は、こうしたイラク占領政策を模索していたことをうかがわせるものである。
しかも他国を占領して自国に都合のよい政府を作るには、新たに作られる政府が占領軍の傀儡ではなく、国民的統合を体現できる権威を持たなくてはならない。
第二次大戦後、アメリカによる日本占領が成功裏に行われたのは、占領軍政府が天皇裕仁を頂点とする日本の官僚機構をそのまま温存して占領統治機構として使い、さらにアメリカによる占領が、長い間日本国内でも待望され模索されてもいた様々な民主化を実現するチャンスであると、日本国民の多くが認識したためであった。
イラクを多国籍軍の占領統治下においたとき、バース党官僚機構は、その要であるフセインが排除されたことで解体されたが、ここに集められた人的資源はまだ無傷であったし、部族連合を代表する各宗派組織も無傷であった。さらにイラク国民の多くは、長い戦争と経済制裁下の統制経済に厭きており、平和が到来して資本主義的な経済機能が回復し、議会制民主主義が復活することへの期待もまた強かった。
このイラク国民の期待を占領軍政府に集めるには、イラクの国民的統合を体現してきたバース党官僚機構と宗派統治機構とを温存し、両者を基にした「民族・宗派融和」の「国民政府」を作る必要があったのだ。
戦争直後の3年前にこうした占領政策が遂行されていれば、甚大な犠牲をともなう今日のイラクの混乱はなかった可能性は強いが、ブッシュ政権はこうした政策を追求しなかったのである。
▼揺れ動くアメリカの世界政策
こうした「占領政策の破綻」は、イラク情報の精度と質の悪さのせいでもあるが、どうもこれだけではないようだ。
占領する国の社会・経済・政治状況をつかんで、その国の国民的統合の権威をもった新政府をつくることに失敗したという点では、アフガニスタン占領もそうであり、いま進行中のパレスチナ自治政府をめぐる問題でも同じだからだ。近年のアメリカ政府が行う「民主化」政策は、どこにおいても現地の歴史や現状を無視したものである。
しかし一方でアメリカ政府内には、こうした政策を修正して世界の安定的秩序を構築しようと言う動きもある。これは政権内ではライス国務長官に代表される一派であり、与党共和党と野党民主党の双方に歴史的に存在する、伝統的な共和主義者・国際主義者の一派である。
したがってアメリカの国際政策は、ジグザグである。アメリカ政府は、各地の事情を無視した「民主化」を武力を使ってでも押しつける路と、外交的努力とその国の内的な発展を通じて行う路との両極端の間を漂流している。そしてイラク占領政策は、前者の路線の申し子であった。
従ってアメリカがどちらかの路線に特化すると考えて、アメリカ政府に盲従したり反発したりするのでは、同盟国は身が持たない。ここはアメリカから自立して、国際情勢を主体的に分析し、外交戦略を練った上で、アメリカとも着かず離れずの関係をとらなければならない。
この意味で小泉政権の5年間は、前者の路線をとったブッシュ政権に密着した外交政策を選択したのであり、この中で自衛隊のイラク派兵がなされたのである。
ではなぜアメリカの外交政策は、2つの極の間をぶれるのか。ここはもう一度、イラク開戦時にうるさいほど言及されたネオ・コンと呼ばれた勢力が、今日の情勢をどう判断して、あのような武力による「民主主義の押し付け」を行ったのかを整理して考察してみる必要があろう(別稿にゆずる)。
▼「普通の軍隊と国家」への衝動
つまり多国籍軍の占領による「イラクの民主化」は失敗であり、そこに自衛隊が参加したことは、何の意味もなかったのだ。これ以上アメリカの顔を立てて、イラクに駐屯しても危険がますだけである。アメリカもすでに路線転換を始めている。
小泉政権はこう判断したのであろう。戦闘状態が継続しているイラクに、戦闘を禁止された「軍隊」が居た所で何の役にも立たないのだ。
それでは自衛隊は、何のためにイラクに赴いたのか。1つはアメリカとの同盟関係を維持するためだが、もう一つは、自衛隊の幹部を初めとした日本の保守派の一部が待望してきた、戦争ができる普通の軍隊に自衛隊を飛躍させ、戦争のできる普通の国へ日本国家を飛躍させるためである。
後者の目的があったことは、自衛隊派兵を決めた時の責任者であった先崎一統合幕僚長の最近の発言に如実に示されている。彼は言う。「有事に近い体験をしないとモノにならない。(イラク派遣で)国際社会で通用する人材、自分で解決し対応する人材が育ってきた」。「事実上の戦地に行くための訓練はそれまでとは全く違う気持ちで取り組んだ。いるのか分からない仮想敵を相手にした訓練とは訳が違った」と(6月22日・毎日)。
自衛隊のイラク派遣は、自衛隊を海外で戦争のできる軍隊へ昇格させる第一歩だった。04年12月に閣議決定された防衛大綱は、国際平和協力活動を国土防衛と並ぶ自衛隊の活動の柱と位置づけた。若い隊員らの国際志向も進み「制服を着た外交官」の意識が広がる。海外での人道復興支援や災害援助、輸送活動を希望する自衛官志望者も増えている(6月22日・毎日)。これを是とする国民的世論を作るためにこそ、自衛隊は「犠牲を覚悟で」派遣されたのだ。
自衛隊のイラク派兵は、主として自衛隊を戦争のできる普通の軍隊にするという目的を持った保守派の一派が、小泉の「日米同盟堅持」という外交方針に乗っかって実現したことなのである。
しかしこの派遣は、特別措置法という臨時の法律で行われた。自衛隊が海外で戦争もできる普通の軍隊になり、たとえば最近、北朝鮮のミサイル発射に伴って主張されている「敵地への先制攻撃」を実現するためには、自衛隊の海外派兵へ向けた恒久法が必要になってくる。だからこそ、イラクからの撤退を発表した記者会見で、記者からは「海外派遣の恒久法はつくらないのか」という質問が、小泉首相に対してなされたのだ。小泉首相はなんと答えたか。「(恒久法は)これからの議論だ。さまざまな問題が出てくる。今の時点で、私の内閣で恒久法を作るということは考えていない」と。
そう。さまざまな問題が出てくるのだ。
海外派兵の恒久法をつくるためには、憲法9条そのものを変えなくてはならない。憲法の条文に、自衛権の行使のための軍隊の保持を明記することにより、自衛隊をまず軍隊として法的に公認する必要がある。その上で、海外派兵のためには集団的自衛権の行使も明記する必要があるからだ。
だがこの改正は至難の技である。なぜなら1つは、これは戦後日本のありかたの根本的変更であり、保守派内部にも根強い反対が存在する。日本の保守派が描いた戦後日本の国家像は、自衛のためだけの軽武装を有する、経済活動を中心とした国家。もちろんアメリカの核の傘に守られたそれなのだから、海外派兵ができる国家になることは、コペルニクス的転回だ。
そして2つには、日本国民の多数派が容認する自衛隊の活動が、日本防衛という自衛のレベルに留まっており、海外派兵でも、武力行使を伴わない国連主導下での「平和活動」の範囲内に留まっている。したがって憲法への集団的自衛権の明記によって、アメリカ政府とともに泥沼の世界に踏み出す事までは容認されていない。イラク派兵ですら、国論は二分されていたのだ。
さらに3つ目には、この根本的改変には、アジア諸国の根強い反対が存在する。中国や韓国が小泉首相の靖国参拝に強硬に反対するのは、これが大東亜戦争の正当化に繋がり、そして自衛隊がアメリカ軍の不可欠の一部分として、「民主化」の尖兵としてアジアに派兵される危険性を恐れてのことである。アジア諸国が自衛隊を容認する範囲は、これまた自衛武装のための軍隊の範囲であり、海外派兵を容認するとしても、それはアメリカの世界政策のブレが修正され、日本を含むアジアの経済・政治共同体樹立の目処が立ってのことであろう。
自衛隊が海外に派兵され戦闘も行うには、まだまだ超えなければならない高いハードルがいくつも存在するのだ。
だから小泉はこの課題を先送りし、当面のアメリカ外交政策の転回に対応して、日米同盟の強化のために特別措置法という形で対応した。戦えない自衛隊は、この同盟の強化の象徴としてのみイラクに存在し続けた。そしてアメリカの世界政策は揺れている。自衛隊の海外派兵恒久化はまだ早い。情勢を見極める必要がある。これが小泉が問題を先送りした理由であったのではないか。
▼問われる日本の国際戦略
自衛隊のイラク派兵と撤退の過程をふりかえって見て明かになることは、この間の日本の対応が、事態の変化に対応した緊急的な対応でしかなかったことである。
今でも日本には、アメリカの傘の下で安全を保障されながら自衛のための軽武装軍を持ち、アジアを含めた世界の国々との良好な経済外交関係を築く中で経済的な繁栄を追及するという、そうした国家像しか存在していない。したがって外交方針としても、これ以外にないわけである。
しかしこの国家像・国家戦略が基盤としていた冷戦の継続と、資本主義の持続的拡大発展という世界の情勢は、今や根本的に流動化し、この中で当初アメリカは、武力行使をしてでも世界を再統合する方向に動いた。これがブッシュ政権1期目の動き方であった。これに対応してどう日米同盟堅持を貫くか。これが小泉の対応であった。
しかしアメリカ政府の世界政策は、右に左にとぶれている。そして経済のグローバル化が進展する中で、世界各国をその経済システムの下の従属させようとするアメリカの動きに対して、世界の多くの国はそれと着かず離れずの関係を持ちながらも、各地域で国家の枠を超えた経済的政治的な地域共同体の設立に向けて動き出している。ヨーロッパ共同体がその先駆けであり、アメリカ大陸におけるラテン・アメリカ諸国を中心とした共同体結成の動きがそれに続いている。
東南アジア諸国を中心としたアジア共同体へ向けた動きもこの流れの中にあり、アフリカもまたこれを推進しようとしており、ヨーロッパ共同体は、アフリカにできるであろう共同体との協働も視野に入れている。
小泉政権の5年間は、これまでは消極的であったアジア共同体への動きを、日米同盟を強化することとセットにした形で、明確に一歩踏み出した時期でもある。これも地域共同体の形成という、新しい流れに小泉が対応したものであろう。
この結果、小泉政権の外交政策は相矛盾する性格を孕み、その矛盾の爆発点が日・中・韓三国の国際関係の悪化ではないのか。
こう見てくると小泉首相の外交政策は、冷戦と資本主義の継続的拡大発展という、戦後日本を支えた世界構造が明かに変化していることへのそれなりの対応であったと思う。しかし一貫した、情勢の変化に対応した根本的な日本の世界戦略の練り直しは棚上げにされたままであり、急激に変化する情勢には、まったくついていけなかったというのが実情であろう。
小泉首相は、国内的には世界戦略の練り直しをする状況にない中で、対症療法的に主体性を維持しようとしてきたのだと思う。だからこそブッシュ政権の意向に反しても、北朝鮮と直接交渉をはかろうとしたのだ。しかし根本的議論がない中での急激な転換は、国内に大きな軋轢を生んだ。そして日本をとりまくアジアにも軋轢が生まれた。
日米同盟堅持と言っても、アメリカの世界政策はまだぶれつづけている。小泉のように、日本の主体性を維持しようとして、自衛隊をアメリカ軍の有機的な一部分として組み込んでしまうような日米同盟の強化は、あまりに危険である。関係は維持しながらも、自衛のための軽武装の国家で、平和的に経済的に文化的にハード面やソフト面から世界に寄与して行くという独自の路もまた存在できるはずである。
大事なのは、世界が各地に建設される地域共同体の緊密な連合体へと変化する中で、日本がそれとどのように関るかということである。日本はアジア共同体の盟主として期待されている。この期待に応えてアジア諸国と、そして世界の盟主として君臨するアメリカとどのような関係を持ちつづけるのか。この点についての戦略的な再検討が今もとめられている。そしてこの観点から、自衛隊の問題も憲法改正の問題も考えられねばならない。自衛隊の存在を、日本国民の多くは、そしてアジア諸国はどこまでしか容認しえないのか。この現状を踏まえつつ、アジアとの共同という大きな視野に立って、路線を確定していく作業が必要であろう。
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