★安保法制改正の背後にある「中国脅威論」

アメリカ一辺倒の外交からアジアへ軸足を移すべし

―外交政策を歴史的に見直すべき時期にあるのではないか?―


 安倍内閣は憲法違反の安保法制の改正を強引に進めている。野党がこぞって反対しようが、国民の多数が反対してもこれを無視し、衆議院で強行採決した。この暴挙に対して直後の各社の世論調査で内閣支持率を不支持率が大きく上回り、国民の三人に二人が強行採決に反対したにもかかわらず、「支持率ねらいで政治をやっているわけではない。国の安全強化のための法改正だ。」と政府首脳は高言し、その暴走は留まる所を知らない。

▼安保法制改正の背後にある「中国脅威論」

 しかしなぜ安倍内閣は、これほどまでに安保法制の改正を急ぐのか。
 国会審議などで繰り返し語られることは、「日本を取り巻く安全保障環境の悪化」であるのだが、それが何を具体的に指しているのかは、明確に語られることはなかった。
 しかし「日本を取り巻く安全保障環境の悪化」の実態が、7月21日に閣議了承された2015年版の「防衛白書」であきらかとなった。今年の「防衛白書」は、中国の南シナ海や東シナ海での海洋進出、北朝鮮のミサイル・核開発の進展などを懸念する表現を数多く盛り込み、、日本を取り巻く安全保障環境の悪化を強調した。中谷元防衛大臣は閣議後の記者会見で、「防衛白書」について「我が国を取り巻く安全保障環境が一層厳しさを増している事を記述した」と強調し、中国の軍事動向について「我が国を含む国際社会の懸念事項であり、強い関心を持って注視していく必要がある」と説明した(毎日7/22)。
 この「防衛白書」の記述は明らかに、安保法制改正の必要性を国民の意識に浸透させ、安倍内閣が進める安保法制の改正に対する根強い国民の批判を払しょくしようとの意図が丸見えである。「防衛白書」の文言で例示すれば、「アジア・太平洋地域における安全保障上の課題や不安定要因はより深刻化している。一国・一地域で生じた問題が、ただちに国際社会全体の課題や不安定要因に拡大するリスクが高まっている」のだから、「一国のみでは対応はますます困難だ」と述べ、集団的自衛権の行使が不可欠と明言しているのである。
 「防衛白書」がとりわけページ数を割いて詳しく説明しているのが中国の脅威であり、具体的には、南シナ海の南沙諸島での大規模な埋め立て実施によって滑走路や港湾建設を強行していることや、東シナ海では尖閣諸島周辺への中国公船の「領海侵犯」が日常化したり、日中中間線付近でガス田開発の新たな施設を建設していることをあげている。そしてこのことは、安倍内閣が憲法に違反していると指弾されながらも安保法制改正を強行する背景には、彼らの間に「中国脅威論」が確固として根付いていることをうかがわせるものである。

▼日本の行動が「脅威」を招いている

 しかしこのような中国の動きが本当に日本を取り巻く安全保障環境の悪化であり、同盟国ー具体的には米国との間で集団的自衛権を行使してその脅威を取り除かなければならない事態に至るものなのであろうか。
 ガス田開発は今に始まったことではない。今までに何度も浮上し、そのたびに日中相互に協議して解決を図ってきた問題である。この問題が新たに浮上しているのは、民主党政権下の日本政府が尖閣諸島を、長い間の日中間の暗黙の合意を踏みにじって国有化したことを契機に起きているのであり、この意味では、尖閣諸島周辺海域への中国公船の「領海侵犯」の日常化も同じ事件を契機に勃発した問題である。
 尖閣諸島が日中どちらの領土であるのか。この問題はそのまま周辺の地下資源豊かな東シナ海における大陸棚の領有権に繋がり、長い間の双方の懸案事項であった。それが「軍事的衝突」にも至らず、有って無きがごとく状態になっていたのは、この島々が日本人の個人の所有地であるという現状に鑑み、この島を日本が国有化しここに恒久施設をつくらないという暗黙の了解があったればこそである。この了解事項を無視し、尖閣諸島を国有化したのは、当時の石原東京都知事の買い上げ策動がきっかけであり、石原がこの計画を明らかにする直前に、アメリカで反中国の立場を鮮明にしている元政府要人と会談していたことから明らかなように、日中の対立を引き起こし、中国の脅威に震え上がった日本がアメリカにすり寄るとともに、より緊密な軍事同盟を結んで、自衛隊がアメリカ軍の一部隊としてその肩代わり役を果たすように促す動きに載せられたものである。
 日本が動かなければ起きない問題だったのだ。
 この意味でこの二つの事項は、南シナ海の南沙諸島での中国による軍事施設増強とは本質的に異なるものである。こちらはずっと長い間、フィリピンやベトナムという諸国と中国との間で領土紛争が続いているのであるから。
 こうして中国との間の懸案事項を紐解いて見ればわかることは、事態を悪化させているのは日本の側なのだ。中国政府は日本にたいする弱腰を国民に批判され、それがそのまま共産党独裁体制への批判に直結する事を恐れ、日本に対して強硬姿勢を貫いているに過ぎない。日本が事を構えず、中国との間に信頼関係を築き、話し合いを続けて妥協点を見出す努力を続けておれば何も問題は起きないのである。これこそ日本国憲法前文と第九条の精神に則った外交姿勢なのだ。

▼「中国脅威論」の歴史的背景

 ところで、石原や安倍という日本の保守政界の中での極右派が中国を嫌うのは理解できる。しかしなぜこの動きに、保守の中でもリベラルと見られる人々である、民主党や自民党の人々が乗ってしまうのであろうか。とりわけその感を強くするのは、今回の安保法制改正の先頭にたって自民党内融和や公明党との意見のすり合わせに尽力する高村副総裁の存在である。そして安倍の動きに一体となったかに見える岸田外務大臣、そして谷垣自民党幹事長の存在である。
 彼らはその系譜からして、自民党のリベラル派であり極右派ではない。その彼らがなぜ「中国脅威論」に与するのか。
 安倍も含めた極右派とリベラル派に共通するのは、卑屈といってよいほどの対米従属論とこれと対になった中国脅威論である。対米従属が、先の戦争で完膚なきまでに負けた事の後遺症であるとの論が存在する。日本は明治以来アメリカを友好国と位置付けてきた。その友好国と、その中国政策世界政策を読み間違えた果てに対立し戦火を交えた挙句の完膚なきまでの敗北。この敗北の後遺症が卑屈なまでの対米従属を生みだしたというのだ。この論が成り立つとすれば、中国脅威論もまた先の戦争で負けたことの後遺症であろう。中国も歴史的には日本の友好国であり、明治維新後はとりわけ、日本の独立を維持すすら為には緊密なる友好国としなければならないと考えられた国である。その友好国に対して戦争を仕掛けて全土を占領下に置こうとした。しかし実際には中国の抵抗によって中国を屈服させることができず、為に大東亜協栄圏が絵空事になり、アメリカの介入を招いて結果として予想通りにアメリカに負けた。日米戦争における日本の敗北は、実際にはアメリカに負けたとい云うよりも、中国に負けたことで日本がアメリカに対抗できる力を持つ事が出来ず、アメリカに負けたのだ。
 しかし日本は中国に負けたことを認めていない。それゆえに、極端なまでに中国を恐れるのではないだろうか。
 残念ながら筆者はこの解釈が正しいのかどうか、疑問を解き明かす資料を持ち合わせてはいない。

▼歴史的選択としての「脱欧入亜」路線

 しかしこの問題を、日本がどの国と緊密な関係を結ぶのかというより大きな問題としてとらえるならば、それが中国(アジア)なのかアメリカ(西欧)なのかということは、日本が江戸時代末にアメリカの圧力に屈して開国し、以後西欧文明に学んで世界列強に肩を並べて行こうとした時に、常に問題になってきたことであったことに気がつく。
 この二者択一の問題は、一般には明治以後の日本は「脱亜入欧」路線を選択したことで、これに一本化されたかのように誤解されているが、実際はそうではなかった。
 西欧の脅威に直面したとき、日本のように国土は極めてせまく人口も資源も少ない国が、一国でその脅威に立ち向かうことは無理である事は誰の目にも明らかで、したがって選択枝としては、長い間の文化交流で繋がった韓国・中国と緊密な関係を築き、この両国をも日本と同様に西欧に習って近代化させ、三国の同盟力で国土も人口も資源もそして国力も、西欧世界以上に大きなものにできると考える以外になかったのだ。一部には、最初から韓国中国を征服して西欧と対抗すべきとの論もあったのではあるが、多数派は緊密なる同盟国路線だった。
 だから開国、そして幕府に代わった新政府樹立後の日本の外交政策は、当面は西欧諸国とは事を構えず、平和裏に通商を通じてその文化を学び日本を近代化し、一方で韓国や中国とは緊密な関係を築き上げるというものでしかなかった。
 しかしこの戦略が実現しなかったのは、日本の側に偏に日本がかつてこの両国を侵略し、深刻な惨禍を及ぼしたことへの反省がなく、韓国中国の統治者も庶民も、侵略者日本への警戒と怨念が渦巻いていたからである。
 どちらの国にも、日本に倣って西欧から学び国を近代化することなくしては、西欧の植民地と化してしまうことを理解していた知識層はかなりの分厚さで存在していた。しかし残念ながら日本のように、そのような理解が、西欧と直接事を構える中で国民的合意と化し、さらにそうした新しい考え方に立った為政者で構成される新政府が樹立されるところには、韓国中国は至ることはなかった。
 このため日本の為政者の中に、韓国中国が日本が思い描いたようなペースで近代化し日本と緊密な関係を結ぶどころか、日本の動きに警戒感を以て、日本の開国要求に敵対してきたとき、西欧が日本にやったのと同じ方法でしか、頑迷なアジア人の眼を開かせることはできないとのアジア蔑視論が頭をもたげ、日本政府自身が、アジア友邦論とアジア蔑視論に引き裂かれる中で、日本の対韓国・中国政策は二転三転し、結果として韓国・中国は頼みにはならないとして、それを日本が軍事的に強制占領しそれを強制的に近代化する方向へと走ってしまった。1905年の日露戦争勝利によって遼東半島領有と満州におけるロシア権益の継承と、1910年の韓国併合がそれである。
 だがその経過を詳しく歴史的に観察してみると、明治の初めから昭和の初めまで、日本の政界は大きく見てこの二つの派に分裂していたとみて間違いない。
 一方で韓国や中国を植民地として巨大な国土と資源と労働力を手に入れて西欧と対抗できる大国を建設するという派が存在するかと思えば、他方には、日本のような小国がアジアを植民地として西欧と対抗する巨大な軍隊を維持することは無理なので、日本は軽武装の国として、西欧とは事を構えない一方で、アジアの国々とは友那として自由防衛主義で緊密な関係を築き、日本が西欧から学んだことをどんどんアジアに提供していこうとする派もまた存在した。そしてこの二つの派は政府中枢や政党という政界の中だけではなく、軍部の中にも宮中にも存在し、それぞれが領域を超えて提携し政府中枢を握ろうと争ってきたのである。
 前者の植民帝国建設派の代表格が、明治の元勲では山縣有朋であり、さらには大隈や板垣など、さらに桂太郎や小村寿太郎外務大臣などがいた。そして後者の小国自由貿易派・英米連携派の代表格が、明治の元勲では伊藤博文と井上馨、そして彼らに連なる人物として、原敬や多くの政党政治家がいた。
 そしてこの争いは第一次世界大戦とロシア革命の結果、アメリカ・イギリスを中心とした西欧と対抗するために日本が組む相手として想定されたロシア帝国が消滅したことにより、小国自由貿易派で英米連携派の立憲政友会原敬内閣ができ、さらに原敬暗殺後に政権を握った民政党も党首浜口雄幸が同じ路線を取ったことで、一旦は落着したかに見えた。
 この大正時代の二つの政権はともに、満州における日本の権益を拡大せず、それをやがて条約に従って中国に返還し、それまでの間に、中国近代化に資するように満州の近代化を進めようと云う政策をとったのだ。
 まさに明治以来の選択、西欧とは事を構えず、アジアと友邦として緊密に連携する政策が実現したかに見えた時であった。
 だがここでも問題はあったのだ。
 それは20世紀となり、遂に世界に並びなき大国となったアメリカ合衆国の存在。
 この国はその憲法とも言うべき独立宣言で、自身を神に選ばれた国と自覚し、世界をその指導下におこうとの野望を強く持った国である。大正時代の日本の政治家にも、この問題は認識されていた。すでにドイツもフランスもイギリスも対抗できない超大国アメリカの横暴を如何にして鎮めるか。第一次世界大戦後はこれが問題だったのだ。
 そのきっかけは、アメリカ主導で世界平和の実現が期待され、そのための国際組織として国際連盟が出来たにもかかわらず、アメリカの勝手によって、アメリカが世界平和の調停役から降りると云う暴挙をやってしまったことであった。
 この国をどうやったら世界に目を向けさせるのか。とりわけ小国自由貿易派で英米連携派の政治家は苦悩した。
 さらにこれが度重なる経済危機によって強国同士の権益争いが激化していくと、ここに再び明治以来の選択がまた問題になったのだ。そしてその中で次第に、アジア全体を日本の植民地として欧米に対抗し、その助けとして欧米で孤立しているドイツ・イタリアと同盟するという派が次第に勢力を広げ(政府でも政党でも、そして軍部でも宮中でも)、この派の勝利が満州事変・日中戦争・日米戦争・第二次世界大戦へと至り、世界にアジアに深刻な惨禍をもたらしたのであった。
 しかし第二次世界大戦後の日本は、世界が東西冷戦構造となって、東アジアと東南アジアとが、その冷戦構造の境目となり、韓国や台湾そして東南アジアの諸国とは同じ西側陣営として緊密に連携していくしかなくなり、そしてアジアの大国中国が冷戦の向う側に行ってしまったがために、中国(アジア)かアメリカ(西欧)かという深刻な選択は回避されて来たのである。
 共産中国の脅威にさらされた韓国や東南アジア諸国は、アメリカとの同盟と、日本による資金技術援助を不可欠とした。このためこれらの国々に対する侵略の償いは、アメリカの脅しを背景として形式的な日本にとって有利な物に切り下げられ、特にこれらの国々で日本の侵略で被害を被った個人に対する賠償は全部切り捨てられてしまったのだ。共産主義の脅威と戦うという共通の大義名分の前には、日本の旧悪を糾弾する声はしぼんでしまった。
 そして続いて起こった中ソ対立が、中国と日本・アメリカとの急接近をもたらし、これが中国に対する日本の侵略の償いについても、韓国や東南アジアと同様な形式的なものにしてしまったのだ。
 しかし1989年のソ連邦の崩壊は、東西冷戦構造を崩壊させ、共産主義の脅威という共通の課題は雲散霧消した。したがって日本にとってはまた、この時以後、どの国と緊密な関係を結ぶのかという古くて新しい問題が再燃したのである。
 したがってこれ以後、韓国や中国や東南アジア諸国における、日本の侵略に対する個人賠償請求が続いたのは、戦後の冷戦構造の中で隠されていた問題が息を吹き返し、日本に対して再度、どこと緊密に連携するのかという問題を突き付けていたのだ。
 ソ連における共産主義が崩壊し、中国もまた資本主義への回帰を果たそうとしている今、共産主義への脅威を理由に、アメリカとだけ緊密な関係を結ぶ理由は存在しない。むしろ今こそ、憲法前文に書かれた精神によって、世界のどの国とも緊密な関係を結び、友好関係を発展させるべき時期にはいっているのだ。
 
 中国政府は一方で日本に強硬姿勢を貫く一方で、日本から折れてくる事を待ち望んでいる。それが証拠に日本の政界や経済界の中国派の人々の訪中を次々と受け入れているではないか。とりわけ急速に発展している中国ではあるが、内部には解決しなければならない多くの問題を抱えている。その問題を解決にする上で、日本ほど頼りになる相手はない。
 なぜこの国を脅威と認識するのであろうか。
 日中関係を再度歴史的に問い直してみる時期だと思う。

(7/22 )


批評topへ hptopへ