君が代・日の丸闘争の限界と可能性
―強制反対・民主主義の徹底への転換を―
毎年3月の卒業期になると多くの学校で君が代日の丸の是非が問題となり、さまざまな闘いが繰り広げられてきた。しかし近年はこの問題をめぐって議論になることは少なく、闘いを続けている職場・地域も限られたものになりつつある。なぜ君が代・日の丸闘争はだんだん尻つぼまりになっていくのか。
この問題について、筆者の職場での闘いの経験に基づいて、その闘争の意味を検討しながら考えてみたい。
「自主管理」が可能な職場にて
私が以前勤務していた職場は、日教組右派が執行部を握る地域にあっても様々な職場闘争を独自に行ってきた職場であった。40数名の職場の中に左翼的思想を持った人間が10名を越える職場でもあった。
1975年にはじまる主任制度化に対しては何度も職場討議を行い、人事を組合として決定する事を決めた。来年度の人事希望は校長に出すのではなく分会長に出し、分会委員会で本人の希望を確認した上で来年度の人事構想を練り、その案を分会会議で討論して調整・変更し、そうしてできた人事案を校長に提出するという取り組みである。その結果、人事は何年もの間組合が行い校長はそれを追認するということがなされた職場であった。
生徒活動もかなり豊かに組織され、さまざまな行事が生徒の企画・運営によって行われていた。
職員会議では校長の意向よりも職員間の討論が優先され、あらゆる問題についてかなり活発な討論が繰り広げられ、校長はその討論の結論を追認するという職場であった。しかしこの職場においてすら君が代・日の丸の問題はとても重い課題であった。
この問題を討議する時はほとんど発言者が限られてしまう。君が代を斉唱し日の丸を掲げる原案に反対する者のみが発言し、校長案に賛成する発言はなし。しかし採決をしてみると原案反対が多数を占めるものの(約15名)、原案賛成も8名ほどおり、残り約20名は棄権と言う状態になるのが常であった。
結果として、君が代・日の丸に反対するものが過半数をとれず、この議題だけは校長の「原案でやらせてもらいます」の一言で決着がつくのであった。
「日本国民として当然」の壁
この状況に変化が生じたのは、1977年にはじめて学習指導要領に「君が代・日の丸を指導する」との文言が挿入され、伝達講習において式での君が代斉唱と日の丸掲揚が指示された時からである。
職員会議で公然と君が代・日の丸賛成の意見が出され、採決の結果賛成が多数という状態になったのである(それでも賛成12、反対10、棄権約20という状況だった)。以後何年も、重苦しい、しかし形式的な議論が続いた。そしてこの職場における君が代・日の丸闘争は、1982年に終止符がうたれた。
この年も、いつものように賛成・反対の意見がそれぞれのメンバーから形式的に出され、採決して原案賛成多数で終わりという雰囲気で行われた討論だった。しかし一人の若い職員の発言で事態は一変し、討論は白熱した。24才のその女性教師はこう発言した。
「日本国民なのになぜ日の丸を掲げ君が代を歌うことに反対されるのですか。日本国民なら国に敬意を払うために国歌を歌い国旗を掲げるのは当然ではないか。」と。
反対派はがぜん色めき立ち、かわるがわるこの意見に反論を試みた。日の丸・君が代が過去にどんな役割を担ったか、そして子供たちの成長を祝う場である卒業式に、いまわしい過去を背負った歌と旗はふさわしくないと。彼女はこれにこう反論した。
「日本国が過去において近隣のアジアの国々を侵略し言葉では表現できないほどの苦しみを与えた事、その時、君が代・日の丸は侵略を進める日本国のシンボルであったことはわかります。でもそれは過去の事です。日本はその過去を償ったはずです。憲法においてもそのことを明記し、二度と過ちは繰り返さない事を宣言しています。日本はここで変わったのです。日の丸・君が代もここで意味が変わったと思います。いつまでも過去の事を引きずる必要はないと思います。」と。
そしてこうも発言した。「子供たちの成長を祝う場に国旗・国歌はふさわしくないと言いますが、私たちは日本国民なのであり、日本国民として生まれ、日本国民として育ち、子供たちは将来の日本を担う国民として今巣立って行くのです。その祝いの場に国旗が飾られ国歌を歌うのは当然のことです。子供たちも含めて、私たちは日本国民として日本国を支え発展させていかなくてはならないのですから。」と。
これに対する私たちの反論は、謝罪は充分ではないことや君が代・日の丸は国歌・国旗として定められてはいないことなどを述べたのだが、彼女の「謝罪の不充分さは認識しているが、それは今後も誠意をもって謝罪すれば良いのであり、そのことが国旗・国歌を否定する論拠にはならない。国旗・国歌を否定されるということは、現在の日本国を否定することになると思う。」という発言の前に、沈黙を余儀なくされたのである。
君が代・日の丸をめぐる議論は、現在の日本国をどう認識し、それとどう関わるかという問題に直結していたのである。これは反対派の認識のレベルを越える議論であった。反対派の多くはこの時点で沈黙した。
私は彼女の議論に反撃を試みた。
過去は清算したというが、教科書検定で侵略の文言が削られ侵略の事実を詳しく記述することも否定される今日の文部省による教科書検定の動きと、君が代・日の丸の復活は一体のものとしてとらえねばならないこと。そしてこれは、再度のアジア侵略に導く最初の1歩になること。さらに国家というものは支えるべきものであるのかということを、終戦時における満州開拓民の国家による棄民の問題や韓国光州における国軍による市民虐殺、そして60年代70年代に頻発した、政府の開発至上主義に起因する公害問題における日本国民の棄民のありさまを述べ、国家というものは、果たして万民のためのものかという議論を吹きかけてみた。
彼女の反論はとても簡単だった。「民を国家が捨てるという現実があることはわかります。でもそれは時の政府の政策が誤っているのであり、そのような政府は替えるしかありません。政策は替えられます。そして政府を構成する人々もけして一枚岩ではありません。教科書検定の実態など、アジアの人々が懸念するのももっともです。でもそういう日本国の誤った政策を正すのもまた国民の義務です。私が言った国を支えるという言葉には、こういったことも含まれます。私は日本をもっと良い国にしたいと思います。」と。
私はこれ以上の反論ができなかった。この職員会議は、「議論はつくされたので原案でいきます」という司会の一言で終わった。採決もなく。
会議後、しばらく日がたってから開かれた非公式の分会委員会多数派の会合は、今後は公然とした反対はしないという結論になった。君が代・日の丸議論の予想外の深まりに戸惑い、これ以上追求することの不毛さをさとったともいえる。以後このグループの活動は教育実践に全面的にシフトされ、「生徒主体の学校へ」の合言葉のもと、校長とも地域とも異なる意見の職員とも、この学校イメージで共同できる部分で提携し、学校改革を進める方向に向かって行った。
日の丸・君が代反対の議論の脆弱さ
今あらためてこの19年も前の議論を振り返ってみて、私たちが進めてきた君が代・日の丸反対闘争の脆弱さを思う。若い女性教師との討論は、日本国家の性格とその改良の可否をめぐる議論であり、その国家との関わりかたを問われる議論であった。
私たちはいったい何に反対してきたのだろうか。それはつまるところ「天皇制絶対主義国家の復活反対」であり、「再度のアジア侵略反対」であったのではないか。それは、現実の政府の政策の展開の中に、その復活が決して意図された訳ではないのにその復活の匂いを嗅ぎ取り、それに警鐘を乱打するものではなかったか。
さらにそれは現在の日本国家、資本主義日本を否定して「社会主義日本」を希求する信念から生まれたものであり、現実の日本社会の歩みとは無関係の所に構想された闘いではなかったか。世界大戦の傷が癒されず、その責任を追及する動きがあることのみを強調し、その闘争をひとっとびに社会主義日本へと導こうという、政治主義的戦略から生み出された闘争ではなかったのか。
大戦後の日本の、40年にもわたる経済の驚異的な成長によって日本国民の多くは現状に満足し、資本主義日本の中で自らの生を育んできた。たしかに日本国内にもアジアの国々にも、戦争の傷をかかえていまなおその責任を追及する人々が多数いることは事実である。そして戦争の責任をとらず、侵略戦争を正義の戦争にしたて侵略の事実すら否定しようとする人々がいることも事実である。
だがこれらの問題は、敗戦時における天皇の戦争責任の棚上げに象徴される戦後処理の不徹底さに起因するものであり、戦争責任の追求や戦争を美化する人々や思想との闘いそれ自体が、すぐさま日本国の否定に到るものでもない。
現実には、日本資本主義はアジア諸国の資本家層との協力のもとに、アジアの資本主義的開発・発展を進め、そのアジア諸国からは、ヨーロッパやアメリカに対抗する盟主として期待されている側面もある。もちろんその過程では、日本企業による劣悪な労働条件下の搾取も問題になっているが、それはかってのような侵略ではなく資本による搾取や収奪の問題であり、アジア諸国の民主化闘争の進展とともに、資本主義の改良としても解決されうる問題であろう。
なのにこうした諸問題を「再度のアジア侵略」ととらえ、感情的な日本への反発の動きに依拠して、君が代・日の丸反対闘争は組立てられてきたと思う。
世界各地での民族紛争の激化とともに、アメリカから対等なパートナーとしての応分の負担を求められ、国家としてのアイデンティティイの確立を求められた日本が、「経済の発展」にかわる国家目標を立てられず「国民統合」の象徴を明確化できない中で、復古的な思想に頼ろうとする人々が政府部内にも多数いることは事実である。だがこの勢力は、自己の政権基盤の拡大のために地域に金銭をばらまくことしか考えていない人々と一体であり、一掃されるべき日本の旧構造である。
そしてこれと戦うことは、必ずしも資本主義日本の否定とは直結しない。むしろよりましな資本主義、より民主主義的な資本主義日本を求める闘いになっても不思議はないし、その闘いが反動的なわけでもない。
しかし従来の君が代・日の丸反対闘争は、このような事態の位相を無視し、性急にその廃棄をもとめる実力阻止を追求しようとしてきた。それは現実には、資本主義日本を否定しない人々に対して、それを否定する踏絵を強制する性格を持っていたのだと思う。だから議論は重苦しくなり、発展性がなくなって形式化するのである。
日の丸・君が代肯定の意識
現在の日本国民の多数は、君が代・日の丸を国歌・国旗とすることに賛成である。反対がかなりの数にのぼるのは沖縄だけで、ここにはたしかに、過去がなお清算されていない現実が顔を出している。しかし若い世代は、オリンピックやサッカーのワールドカップにおいて嬉々として日の丸をうちふり君が代を歌う。これは現在の日本を肯定する意識、資本主義日本で生き続けようとする意識の反映であり、それ以上の何者でもない。
20年ほど前、私の職場で日の丸・君が代が問題となっていたころ、私の地域の教職員組合が組合員全員に君が代・日の丸を肯定するか否定するかを問うアンケートを実施した。結果は70%以上の賛成であった。
特徴的なのは反対が3割程度をしめる年齢層が、当時の30代と40代であったことで、逆に20代と50代とは反対は1割程度であった。
反対が多い年代が60年安保闘争と70年安保闘争を経験した世代だけというところに、君が代・日の丸をめぐる反対の感情と「体制否定」の感情の繋がりが良く現れている。そしてそれさえも世代の中の多数派ではない所に、発展した日本資本主義を肯定する意識と君が代・日の丸賛成が直結していることが示唆されている。
これには、戦後の日の丸・君が代反対闘争が、戦争のいまわしい記憶を抱く世代と侵略の過程で見捨てられた民、あるいはアジアの人々の日本資本への反発に依拠し、日本国内では「社会主義」を求めた急進的運動に依拠してきた構造を暗示している。
民主主義徹底化の闘いとの結合
しかしいま、学校において君が代・日の丸を強制することにたいしては、かなりの数の人が疑問を持っている。その感情は「民主主義に反する」という意識である。国歌・国旗とは強制するものではなく、その尊崇の感情は自ずから生まれるのであり、日本国を誇れるすばらしい国にすることと一体であるとする感情なのである。
そしてこの感情は、憲法の強権的改悪や教育基本法の改悪に反対する感情とも結びついており、金で票を買う腐敗した政治を批判する感情ともつながっている。
さらにそれは、学校における子供の権利を無視した校則の撤廃を求める動きや、人間を数値で評価する現在の学校と教育制度を批判し、より人間的な学校を自らの手で作ろうとする動きにも繋がっている。
つまり今後の君が代・日の丸反対闘争は、このような資本主義の改良でもある「民主主義の拡大と徹底化」の意識とつながり、社会的な基準(ソーシャルスタンダード)としての民主主義の定着と拡大を追求する闘争につなげてこそ、その存在と拡大の展望はあるのではないだろうか。
私の現在の職場は10年ほど前は地域でも最も荒れた中学校だった。だが今では最も落ちついた、生徒活動の活発な学校である。
ここへと到る“闘い”は、生徒主体の学校を作ろうとする教職員や父母の協同を作り出す事であった。教師の暴力が横行する中での荒廃。これをなくす方法は、生徒を中心にした諸行事の創設と、教師の暴力をなくすための生徒観・教育観の確立である。教職員間の協同作業を行いながらの討論や父母との討論。幸いにしてこの間、歴代の管理職にも恵まれ、生徒の権利を拡大しようとする社会の流れに押された文部省が学校を変えようとする動きを始めた事とがあいまって、学校は10年間で大きく変貌した。
個人・有志でも発表できる1日自由な文化祭を筆頭に、生徒が企画運営するさまざまな行事での生徒たちの生き生きとした活動。そして教師の側からは、生徒の問題意識や興味を大事にした生徒主体の授業を進める試み。これは総合学習を核として、様々な社会問題に取り組む学習へと進んでいる。
校則は3つに削減され、その実施細則である生徒心得は毎年、生徒の手で見なおしがなされるように改正された。
そして現在卒業式の主役は、もちろん生徒である。日の丸が掲げられ君が代斉唱もあるが、中心は卒業生の、在校生、教職員、父母への呼びかけを含む30分にもおよぶ卒業の歌の合唱である。これはかなりの感動を呼び、今回の卒業式のあとの祝う会では、卒業生の呼びかけを中心にした卒業式には、仰げば尊しや蛍の光、そして君が代はそぐわない、校長が全員に証書を壇上で渡す形式もそぐわない、もっと生徒主体の、明日への旅立ちの決意を込めたものにしようという声さえ教職員の中から出てきている。
このことは、生徒主体の授業を進めながら相対評価をする馬鹿らしさや入試のおかしさなど、今の学校体制への批判が職員室で語られる事態と照応している。
今後は、生徒たちの権利を一層拡大し保障する学校へと地域の人たちや父母の協力を得て替えて行く事が課題であろう。
戦略展望の転換を
君が代・日の丸の拒否は、現在の日本国家のありかたへの拒否の姿勢と直結している。したがってそれは、資本主義的発展の可能性が完全に夢幻とはなっておらず、改良の可能性があると多くの人が考えている現在では少数派にとどまらざるをえない。
しかもこの立場と姿勢は、現在の日本国家のありかたを拒否するがゆえに、その行きつく先の日本国家の未来像を、もしくは少なくとも学校の未来像を提示しなければ、現状に不満や疑問を持ちながらも、いま行動はしない人々の心の琴線に触れる事はない。
侵略の事実を矮小化し戦争を美化しようとする勢力の跳梁は、裏返せば「誇りを持てる日本にしたい」という人々の意識、「過去は清算し未来に向かって動きたい」という現状への不満と肯定のないまざった人々の意識にその基礎を置いている。これは君が代・日の丸反対闘争を担った戦後の左翼的潮流が、現状への不満と肯定のないまざった意識をそれ自身として徹底的に発展させ、現状を改革しながらそうした意識のプラスの側面を強化し発展させる回路を提示せず、いきなり「現状の否定」をつきつけ、同調しないものを切り捨ててきた結果でもある。
明確な国家目標のもとに国民統合をはかり、単一国家日本を構想する力が旧構造の動揺とともに支配層でも衰弱し、混沌とした現状だからこそ、めざすべき目標が人々の中から求められもする。
それを希求する感情を復古主義的な民族主義の方向に走らせるのか、それとも民主主義のより一層の徹底をはかりながらそれを主体的に築きあげていこうとする方向に導き、日本国のありかたを根源的に問いなおす方向に誘うのかは、君が代・日の丸反対闘争を担ってきた人々の今後の闘争の戦略と戦術の組立て方いかんにかかっていると思う。
(2001.3.11)