【北朝鮮核問題】

北朝鮮は自国の安全を確保した!

―共同の東北アジア安定への模索と戦略なき日本外交の沈没―


▼不評な共同声明

 9月19日、北朝鮮核問題をめぐる第4回六カ国協議は、はじめて共同声明を採択して閉会した。
 共同声明の骨子は、@6者協議の目標は、朝鮮半島の検証可能な非核化であること A北朝鮮はすべての核兵器および既存の核計画を放棄し、核不拡散条約(NPT)、国際原子力機関(IAEA)の保障措置に早期に復帰することを約束 B北朝鮮は原子力の平和利用の権利を持つ旨を発言。他国はその発言を尊重する旨を述べ、適当な時期に軽水炉提供問題について議論することで合意 C米国は朝鮮半島で核兵器を持たず、北朝鮮を核兵器や通常兵器で攻撃、侵略する意図はないことを確認 D米朝は、相互の主権を尊重し、平和に共存し、関係正常化のための措置をとる E日朝は、平壌宣言に従って過去を清算し懸案事項を解決し、国交正常化のための措置をとる、というものである(毎日9月20日)。
 しかし2003年8月の第一回六ヶ国協議開始からの経過の中で、初めて出されたこの共同声明も、識者の評価は低い。その理由は、共同声明が朝鮮半島の非核化という目標を確認しあったとはいえ、そのための検証可能な過程が具体化されていないから11月に再開される次回の協議は難航し、この目標がいつ達成されるのかわからないというものである。
 そしてその評価を裏付けるかのように、共同声明が発表された直後から、軽水炉型原子炉がいつ北朝鮮に提供されるのかと言う問題、すなわち、共同声明にいう「適当な時期」について北朝鮮の認識(軽水炉提供後に核拡散防止条約復帰)と日・米・韓の認識(北の核廃棄後に軽水炉提供)に大きな違いが現れ、非核化への道の前途多難さを印象付けた。

▼北朝鮮核問題とは何なのか?

 しかし、このような評価は正しいのだろうか。筆者は、このような理解は、北朝鮮核問題とはそもそも何なのかということについての無理解から生じた近視眼的評価だと思う。
 では、北朝鮮核問題とはどのような問題なのか。それは、この問題が起きた経緯を参照すれば明らかになることである。
 この問題は、2002年10月16日に、北朝鮮がウラン濃縮型核開発計画の存在を認めたという米政府の発表から始まった。これは、94年10月にクリントン政権下で締結された米朝枠組み合意がブッシュ政権の下で破綻しかけた状況を打開するために、ブッシュ政権が始めて閣僚級高官(ケリー国務次官補)を派遣して協議を行った中で北側から出されたものであり、以後状況はさらに緊迫化した。12月には北朝鮮が凍結した核施設の稼動再開を宣言し、翌2003年1月には北朝鮮の核拡散防止条約脱退、4月の北朝鮮による「核保有」表明へと事態は深刻化したのである。
 北朝鮮核問題はこのようにして始まったのである。
 ではなぜ2002年10月になって北朝鮮は突如核開発計画の存在を認め、核保有表明にまで走ったのか。
 これはブッシュ政権になってからの両国の不仲に原因があり、とりわけ2002年1月にブッシュ大統領が年頭教書において北朝鮮を、イラン・イラクとともに「悪の枢軸」と呼び、武力による政権の打倒を仄めかしたことから直接始まったことであった。
 ブッシュ政権はさらに、「テロを世界に蔓延させる悪の枢軸」を「民主主義を守るために」先制攻撃する可能性を6月の陸軍士官学校でのブッシュ演説で明かにし、9月20日には、米国の国家安全保障政策(=ブッシュ・ドクトリン)を策定して、年頭教書以来の路線を政治的に確定し、「民主主義を守るため」に、「テロを蔓延させる」独裁国家である「悪の枢軸」国の政権を武力によって先制攻撃し転覆させることは、米国の正当な権利であるとまで宣言したのである。2002年10月という時期は、2001年9月11日の同時多発テロ以来、「テロとの戦争」を標榜したブッシュ政権が、アフガニスタンのタリバン政権を多国籍軍によって転覆したあと、次の標的であるイラクへの侵攻を正当化するためにイラクが大量破壊兵器を持っていると非難し、イラク侵攻への国際的合意を図るために動いていた時期である。ブッシュ・ドクトリンの発表によって、イラク・イラン・北朝鮮はアメリカの先制攻撃の対象となり、まずイラクへの武力侵攻が模索され始めたのである。
 その矢先に北朝鮮は核開発計画の継続を認めて94年の米朝枠組み合意を事実上破棄し、核保有表明にまで至ったのである。
この経過を見れば、北の動きの意味は明らかである。北朝鮮は、ブッシュ・ドクトリンの策定によって、イラクの次には北朝鮮に対するアメリカの武力侵攻があると恐怖し、それへの予防的対抗措置として、核開発計画の存在を明らかにし、とどのつまりは核保有表明へと至ったのだ。その目的は自国の安全の確保だったのである。
 事実、北朝鮮核開発計画の存在をアメリカが発表した直後に、北朝鮮は、この動きの目的を明確に表明している。2002年10月21日の第8回南北閣僚級会談の中で、韓国の丁世絃統一相が核兵器開発計画の中止を要請したとき、北朝鮮の金永南最高人民会議常任委員長は、「米国が『敵視政策』を撤回すれば、対話を通じて安全保障上の懸案事項を解決する準備はできている」と述べ、北朝鮮の動きは自国の安全保障の確保が目的であり、アメリカがそれを保障するならば、対話に応じることを表明している。
 北朝鮮にとって、核兵器保有宣言というリスクを伴う動きに踏み切った理由は、それによってアメリカが北朝鮮を攻撃しないという保障を確保することだったのである。

▼共同宣言合意の意味

 このように見てくれば、第4回六ヶ国協議における共同声明で、米国が「朝鮮半島で核兵器を持たず、北朝鮮を核兵器や通常兵器で攻撃、侵略する意図はないことを確認した」と文書化したことは、北朝鮮の02年末以来の動きがここにいたって、当初の目的を獲得したことを意味している。北朝鮮核問題は、その本質的な所で、米朝の合意を得たのであり、以後紆余曲折はあろうが、朝鮮半島の非核化と米朝の国交回復へとむけた動きを始めることを原則として確認したのである。
 そしてこれが94年の枠組み合意とは異なるのは、それを周辺の4ヶ国(ロシア・中国・韓国・日本)が確認し、保障するということであり、朝鮮半島の非核化にむけてこれらの4ヶ国も具体的に支援することを確認していることである。
 94年の枠組み合意は、米朝2国間の合意に過ぎない。しかし今回は、周辺諸国、それぞれの利害においても北東アジアの安定が不可欠と考える諸国が、共同でそのための枠組みの基本原則を合意したのである。つまり言いかえれば、北東アジアの安全保障を目指す共同の枠組み作りの第一歩が踏み出されたのだ。
 このことの意味は大きい。あとは時間をかけて、丁寧に合意を形成し、実行するだけである。
 第4回六ヶ国協議の合意は、それ自身、今後の最終的合意までには長期間かかることを最初から含んだ合意だったのであり、軽水炉提供の時期をめぐる意見の相違は、折込済みの問題なのである。だからこれをめぐるやりとりには以前のような緊迫感はない。したがって、11月の次回会合も予定通り開催されるであろう。

▼アメリカの戦略の転換

 ではなぜここに至って米朝の間に合意が形成されたのか。
 これは、ブッシュ政権の戦略が変わったことに原因があると見るべきである。
 ブッシュ政権は01年の政権発足時に北朝鮮を敵視しはじめ、94年の枠組み合意を北朝鮮が踏みにじって核開発を行っていると疑い、軽水炉型原子力発電所建設のための資金援助をボイコットすると言う合意違反をあえて行った。そして02年の年頭に北朝鮮を「悪の枢軸」の一つに加え、クリントン前政権の北朝鮮政策を全面的に破棄する動きに出た。
 しかし02年末以来の北朝鮮核問題の勃発以後も、ブッシュ大統領発言として日韓中ロと協調して解決していくことが明らかにされていたし(02年11月7日)、今回なされたような、六ヶ国協議において文書で北の安全を保障する案も、すでに検討されていた(03年10月19日)。今日の関係六ヶ国の協議による北東アジアの安全保障の路線は、核問題勃発の当初から明確に示されていたのである。
 ではなぜ05年の9月になるまで、この路線が実を結ぶことがなかったのか。
 これはブッシュ政権内の外交戦略をめぐる対立に原因があったと言えよう。
 ブッシュ政権の外交政策は、パウエル・アーミテージの国務省正副長官の穏健多国間主義と、ボルトン国務次官補・ウルフォウイッツ国防副長官などの単独行動主義を両極とした鋭い対立をもともと内包していた。そしてこの単独行動主義派(いわゆるネオ・コン)の勢力と政権内の伝統的な共和党右派(チェイニー副大統領・ラムズフェルド国防長官)が結びつくことで政権内多数派を形成し、一期目のブッシュ政権は、単独行動主義で突っ走った。
 しかしこの路線はイラク占領が泥沼化し、長年のパートナーである欧州との溝も深まり、アジアの安定のためにパートナーとして不可欠な中国との間もギクシャクすることで、アメリカの国際的地位が不安定化することにより、行き詰まりを見せていた。05年1月に2期目に入ったブッシュ政権は、このネオ・コン流の単独行動主義とは一線を画し、より現実主義的に動こうとしはじめた。
 その表れが、穏健派のパウエル・アーミテージ国務正副長官の辞任と、ブッシュ元大統領時代からの腹心の現実主義派である、ライス・ゼーリック国務正副長官就任であり、05年3月に相次いで発表された、ボルトンの国連大使への転出とウルフォウイッツの世界銀行総裁への転出であった。
 ブッシュ政権の外交戦略を巡る力関係は、単独行動主義派のネオ・コンの排除と穏健多国間主義者の辞任により、現実主義派優位に変わったのである(ブッシュ大統領自身も現実主義派である)。
 ライス国務長官は、ブッシュ政権発足前にフォーリンアフェアーズ00年2月号に、「国益に基づく国際主義を模索せよ」という論文を寄稿している。この論文では来るべき共和党政権の外交政策の基本を「国益に基づく国際主義」と規定し、その骨子を「@米軍が間違いなく戦争を抑止し、戦力を展開し、抑止が崩れた場合には国益を守るために闘う」「A自由貿易と安定した国際通貨システムをこの原則を支持するすべての国に広めることによって、経済成長と政治的開放を促進する=アメリカの国益にとってこれまで死活的な地域とはあまりみなされなかった西半球もその対象にする」「Bアメリカの価値を共有し、平和・繁栄および自由を育むための責任を分担できる同盟国と強固で緊密な関係を新たに構築する」「C将来の国際政治システムの性格を形づくっていく能力があり、また実際にそう試みるであろう大国との関係、とくにロシア、中国との包括的な関係を政策の焦点とする」「Dならず者国家の政府や敵対的な国家がつくりだす脅威に対して断固たる態度で臨む」と要約していた。
 すなわちネオ・コンとは、@ADにおいて目的を共有するが、その手段としては、BCに明白なように、従来の国際協調主義・多国間主義をとり、とりわけ従来パートナーとは認められなかった中国・ロシアを重視するとし、この点でネオ・コンとは明白に一線を画していたのである。
 今や、ブッシュ政権は、この政権発足前の戦略に立ちかえったと言って間違いない。
 したがって北朝鮮核危機をいたずらにあおることはアメリカの利益にならないし、中国との関係も損なうことになるのだから、早急に収拾が図られなければならなかったのだ。

▼目立った中国の主導性

 しかし今回の六ヶ国協議で、朝鮮半島の非核化の確認と、北朝鮮が核を放棄する用意があることやアメリカが北朝鮮を攻撃する意思のないことを原則として確認し、今後の交渉による危機の打開に見とおしをつけるという成果をあげるにあたって主導性を発揮したのは中国であり、その中国を不可欠なパートナーとし、中国の主導性の下で協議を成功裏に収めようとしたアメリカの動きが目立つ。
 ブッシュ政権は2期目の政権発足直後の05年2月第一週に中国に大統領特使を派遣して、北朝鮮に核放棄の圧力をかけるように要請し、中国はただちに北へ特使を派遣することを確約した。そしてその成果であろうが、05年3月には、北朝鮮外務省声明として、ブッシュ大統領とライス国務長官が就任時に北朝鮮を「圧制の拠点」と非難し、「圧制の終焉」が政権の目的であると表明したことを謝罪・訂正することが交渉の前提であることを表明。これをうけて05年3月20日に北京でライス国務長官と胡錦涛国家主席・温家宝首相が会談し、六ヶ国協議の早期再開に向けた方針を確認した。
 事態が急展開したのはそのあとである。05年5月12日に中国が「六ヶ国協議再開が成功していない根本的原因は米国側の協力の欠如である」とブッシュ政権を批判する一文をニューヨークタイムズに寄稿すると、翌13日にニューヨークの国連北朝鮮代表部で相互の担当者が会談し、この場でアメリカ側が北朝鮮を主権国家として認め、軍事攻撃をする意思のないことを伝えたとアメリカが19日に発表。これをうけて5月31日の記者会見でブッシュ大統領が金正日朝鮮労働党総書記に「ミスター」という敬称をつけて発言し、6月3日に北朝鮮外務省がこの発言に「留意する」と表明し、「六ヶ国協議の再開の雰囲気づくりに寄与する」と明言。さらに、7月9日の北朝鮮の六ヶ国協議復帰発表をうけて翌10日には再びライス・胡会談が開かれ、六ヶ国協議の「目標は協議の開催だけではなく、進展させること」と合意した。
 こうして04年6月以来中断していた六ヶ国協議再開への道が開かれ、7月26日に第四回六ヶ国協議が再開されたのであった。
 また一ヶ月半の休会の後に開かれた協議において、北朝鮮が核放棄の前提として軽水炉型原子炉の提供を要求して共同宣言文書締結が暗礁に乗り上げたときに、「6者協議の共同声明の中で北朝鮮への軽水炉提供問題を『適当な時期』に議論するとしたのは、議長国の中国の提案だったこと」や、これによって「米朝は歩み寄ることができた」(9月20日のライス長官発言:毎日9月21日)ことにも明らかなように、原則を確認して今後具体的な協議をつめていくという成果を得たのは、中国の仲介努力であったのである。
 こうして02年10月に始まった北朝鮮核問題は、中国の積極的な仲介によって、交渉による危機の打開の道へ踏み出し、中・ロ・韓・日の周辺四ヶ国の共同関与でこれを支援していく道が確定したのであった。

▼日本外交の沈没

 このことは東北アジアにおける安全保障上の危機回避の道筋が見えてきたわけであり、日本にとっても喜ばしい動きではある。しかし、この過程で明らかなことは、東北アジアにおける安全保障の確立のために、日本は何の役にも立たないばかりか、むしろその阻害要因にすらなっているという事実である。
 そもそも01年9月に小泉首相が訪朝し、日朝ピョンヤン宣言を締結する動きを北朝鮮が推し進めたのは、アメリカによる北朝鮮敵視=攻撃の危機に際して、日本にその仲介と援助を期待したからであった。だからこそ金正日は、国家犯罪である日本人拉致を認めて謝罪し、宣言の中で、朝鮮半島の非核化が目標であることに同意したのであった。しかし日本政府の拉致を知りながら長い間放置してきた自らの責任を放棄し、しかも北の拉致容認の中途半端さを容認するあいまいな態度が拉致被害家族の激しい怒りを買い、日本政府は窮地に陥った。その結果、植民地支配と先の大戦時の強制連行などを謝罪し、国交の回復と経済援助をすることによって北とのパイプを太くし、アメリカとの対立の緩和・仲介をはたすどころか、拉致被害者家族会からの強硬な突き上げとブッシュ政権の冷淡な対応に挟まれて、まったく身動きできなくなってしまったのである。それゆえ日本政府は、03年8月以後開かれた六ヶ国協議で拉致問題の全面的解決を提案せざるをえず、これによって北朝鮮との対立を激化させ、アメリカと北朝鮮との対立の緩和に何ら積極的役割をはたせないまま、今日に至っているのである。
 そして05年9月の総選挙で明らかなように、経済のグローバル化に伴う国内の経済格差の拡大とそれに対応する政治的救済策のなさに起因する大衆的不満に小泉政権が政権の基盤を置いてしまったことにより、小泉政権は対外関係において袋小路に入ってしまった。
 すなわち、その大衆的不満は、それが排外主義的方向と結びついているが故に、小泉は中国や韓国に対して強硬な姿勢を取らざるをえず、だからこそ小泉は、外務省や経済界の期待に反して、靖国神社の秋の例大祭に参拝したのだ。これにより、中国や韓国との間の溝も深まり、これらの国々との間で東アジアの安定にむけての協議を進めることすらできなくなっている。
 また、自国の植民地支配や侵略の歴史的総括をせず、いたずらに対外緊張を煽る姿勢のままで、今回の六ヶ国協議共同声明に盛りこまれた日朝国交回復への取り組みができるはずがない。北朝鮮にとっては国交回復の前提には、植民地支配と強制連行などへの謝罪と保障があるのだが、国内世論の排外主義的傾向を煽るような動きをとる政権がこれに応えられるはずもない。そして小泉政権は拉致被害家族の圧力により拉致の全面解決を国交回復交渉の前提として提起せざるをえず、交渉はおそらく入り口の所で頓挫し進展しないだろう。ということは、北東アジアの安定に向けた側面援助の役割すら日本は果たせないと言うことだ。
 冷戦が続いている限りでは、日本はアジアにおけるアメリカの最大のパートナーであった。しかしその冷戦のアジアにおける最後の残滓の一つである朝鮮半島の分断が、中国主導による六ヶ国協議による安全保障の確立に向けた動きで、緩和にむけて動き始めている今日、未だにアジア(中国・韓国)敵視の路線を取りつづけている小泉政権は、その阻害物にもなりかねない。日本はアメリカにとっても最良のパートナーではなくなりつつあり、これに代って中国が着実に成果をあげつつあるのである。
このままでは日本は、中国や韓国から見放されるだけではなく、アメリカからも見放される危険を孕んでおり、それはこれらの諸国によっても進められているアジア共同体の動きからも取り残される危険を孕んでいるのである。
 日本外交はどこにいくのであろうか。

(10月22日)


批評topへ hptopへ