迷走する『教育改革』
−「改革」派と「守旧」派のせめぎあい−
理念なき「批判」と「妥協」の連続


 4月から土曜日が休みになって、いわゆる「学校5日制」が始まった。そして同時に5年前に出された「新学習指導要領」が完全実施され、文部科学省のいうところの「ゆとり教育」が、小・中・高の各公立学校すべてで行われることとなった。
 しかし、学校をめぐる状況は、百家争鳴とでもいうべき混乱状況に陥っているというのが、率直な感想である。

まちまちな教育を行う学校群

 「学校5日制」が始まったといっても、全ての学校がそうなったわけではない。文部科学省の『指導』に従わない学校が無視できない数に及んでいるからである。
 私立学校の多くは土曜日でも今までどおり授業を行っているところが多いし、公立学校でも、土曜日に「補習」と称して、授業を行っている地域が多々ある。
 しかも正規の教員は土曜日は休業で使えないから、臨時の時間講師を大量に雇って「補習」を行うところや、正規教員に「ボランティア」として休日出勤させて「補習」を行っているところなど、さまざまである。
 また、授業時間が削減された中で、反復学習をする余裕がないので、朝学校に来てから授業が始まるまでの間に、子供たちはドリルを行って、「自主的」に反復学習をするという形態をとっている学校も多い。
 さらに、この傾向は、鳴り物入りで実施された総合学習の時間の中でも、「基礎基本の重視」と称して、教科学習の反復練習の時間にあて、同じく「ドリル」による反復学習を実施している学校も多い。
 したがって現在は、学校といっても、これらが全て文部科学省のさだめた「学習指導要領」に従って、または準拠して学校教育を行っていると言っても、その実施される形や内容は、極端に言えば、学校ごとに異なる事態になっているのである。

「基礎学力」の向上という主張の背景

 以上のような動きがおきる理由はただ一つ、「ゆとり教育は基礎学力を後退させる」という主張にある。
 今回の「教育改革」の目玉は、総合学習の導入と選択教科の拡大、そして学習内容の大幅削減である。
 つまり『今までの学習は内容が多すぎて、それを教師が子供の問題意識や関心の度合いに関わりなく、一方的に教え込む、いわゆる詰め込み教育になっていた』。そして、このことが『学習への関心をなくし、「受験のため」に学習することを常態化させ、考える力のない、学習意欲のない人間を大量に生み出し、これが今日の「学校崩壊」とも言える状況や、時代の変化に対応できない社会を作りだした』。
 そこで、学習内容を「精選」し、学習することを減らすとともに、学習の仕方を変え、子供たちが興味を持って学習できるようにする。すなわち、ある問題を解くための学習・いわゆる『課題解決学習』を行ったり、座学ではない『体験的学習』を行うことで、子供たちの学習への興味関心を引き出し、学習への積極的な姿勢を育てることで、学習そのものを楽しいものにしていくことで、学習への関心と意欲とを向上させ、考える力のある人間を育てるというのである。
 しかしこの文部科学省の主張に対しては、教育界をはじめ、各方面からの批判が相次いでいる。
 その批判に曰く、『学問の基礎は覚えこませるしかない。そのためには反復練習が必要である。授業時間を削減しては、反復練習ができないので、基礎学力は定着しない』。またさらには、『基礎学力をつけるには、国語力が不可欠である。もっと古典や名作を暗誦させろ。良い文章を徹底的に頭に叩き込め』など、ある意味で、きわめて「古典的」な主張になっており、この主張は徐々に、第二次世界大戦前の日本の教育のありかたに帰れという様相を見せはじめているのである。
 そしてさらには「世界の教育界は学習内容を増やし、学力向上を図っている。文部科学省のやることは、時代に逆行している」というような、海外の教育「事情」とやらを背景に批判する向きもある。
 しかし「基礎学力」をつけるための反復学習は、いわゆる「ゆとり教育」が始まる以前でも授業時間内では行えないのが常態化していた。それはすべて「家庭学習」においてであり、塾へと外注化されていたのである。
「基礎学力向上」を合言葉に「教育改革」を批判する人々はこの事実を故意に見ないようにしている。学校はもともと、その理念に反して、子供たちの中に「学力の格差」をつけるものであったのだ。
 「基礎学力向上」の主張は、学校が人間の格付けのためにあったことを隠しておきたいという思惑か、その中での学力競争に勝ち残り、「立身出世」したいという思惑の表現にすぎないのである。

腰の据わらない文部科学省

 そして以上のような批判が噴出し、学校ごとにやることが違ってきた背景には、文部科学省の方針が、右に左にと、ぶれることにも原因がある。
 文部科学省は当初は、批判に対しては、「新しい学び方でやれば、学習意欲が向上されるので、おのずと学力は向上する」という反応だったが、小泉政権の成立とともに大臣に旧文部省の官僚である遠山が就任するや、『基礎基本の定着は大事である。学習指導要領は最低基準を示したのであり、これに各学校で上乗せすることもあるし、総合の時間や選択の授業で基礎基本の徹底を行ったり、各学校の判断で補習することもありうる』などと発言し、それまでの姿勢を明確に転換させた。そして『新学習指導要領が効果があるかを調べるために全国的に学力テストを行って基礎学力の程度を測る』という動きをはじめたり、『学習指導要領の改訂が10年に一度では時代の変化に対応できない。5年に一度など、柔軟に対応する』との方針を大臣が発表し、4月から完全実施の現行学習指導要領の全面的見直しを図るかのような姿勢を打ち出している。
 このことが批判勢力を勢いづかしているし、現場でのさまざまな対応を生み出す根拠ともなっているのである。

「改革」派と「守旧」派のせめぎあい

 なぜこのような方針のぶれが起こるのか。事態はとても単純である。
 今日行われてる「教育改革」の起点は、80年代初頭の臨時教育審議会による「教育改革」の推進にあった。「戦後教育の見直し」と「民間活力の導入」を合言葉に、文部省による規制を緩和して、教育を活性化しようというこころみである。そしてこの動きは、80年代に入り、資本主義世界経済が過剰生産の袋小路に入りこみ、世界的な貿易競争の激化と技術開発競争の激化が必然化するとともに、世界的に利益確保のための紛争の激化も予想される中で、新たな時代に対応した新しい国家体制を作り上げようという動きの一環であった。
 このとき旧文部官僚の多数派は、戦後教育の理念の再検討には同意しながらも、その形態を変えることには一貫して反対しボイコットした。
 だが90年代に入ってバブルの崩壊により国家体制の改変が待ったなしになってもなお政治家や官僚などに巣くう「守旧」派の抵抗で改変が遅延したように、「教育改革」においても文部官僚の多数派は、学校教育の形を変えようとはしなかった。そしてこのことにより文部省内には、時代の変化に即応して教育のあり方を根本的に変えようとする主として省内若手官僚と、今までの形にこだわる幹部官僚との闘争が激化し、「改革」に対しては『総論賛成、各論反対』の動きと、それを排除しようとする動きが表面化した。
 それでも小泉内閣の成立までは自民党文教族の中の「改革」派議員が大臣をつとめていたこともあり、若手官僚を中心とした「改革」派が「守旧」派との妥協を重ねながらも、「守旧」派からの批判を浴びながらも、一定程度進行していたのである。
 だが小泉政権の成立とともに、新しい文部科学大臣のポストに旧文部官僚出身の遠山が就任するや、流れは変わる。
 省内「改革」派のホープであった寺脇政策課長は審議官への昇格という形で実務から隔離され、「政治家の官僚への優越」を隠れ蓑に、遠山大臣は上記のような、あいつぐ「改革」路線の変更とも言うべき発言を発していったのである。

妥協の産物たる「教育改革」

 4月から完全実施される学習指導要領自身が、ことなる二つの路線の妥協の産物なのである。
 「教育改革」で養おうとする学力についても議論は、またそのための学習の手立てについての議論もきわめて不充分なままである。
 今の「教育改革」でいわれている「生きる力の育成」とか「自分で学習する力の育成」を達成するには、子供の表現能力と感受性を育てる事が不可欠である。しかし文部科学省の進める「教育改革」ではこの点はきわめて不充分にしかなされていない。
 なぜならここで言われている力を具体的に分析せず、各教科はこの力をつけるためにどのような位置にあり、どのように教科を組み替えなければならないかが全く議論されておらず、旧来の教科の枠と内容を維持することが図られた。その結果としてでてきた妥協案が「総合学習」というものである。
 どの教科も本来総合的認識を育てるものであり、それを基盤としないと子供の力は成長しない。
 表現能力に限って言うと大事なのは「国語」と「音楽」「美術」「体育」と「外国語」。この問題は根本的には国語教育の問題である。
 よく現場で問題になる事は、数学の力や理科の力(どの教科でも同じだが)をつけるには日本語の力が不可欠と言われる。今の子供たちの大部分はその母国語である日本語を充分に表現手段として駆使することができない。
 なにしろ言葉を知らない(語彙が少ない)し、言葉を論理的につかえない(言葉が一つ一つ意味があり論理的に成り立っている事を知らない)し、わからない。
 この原因は、今までの国語教育のありかたにある。
 今までの国語教育は「文章の解釈」に偏っており、言葉を操る面白さを伝え、言葉を使って自分の感情や考えを他人に伝えたり自分自身を確認する過程をへて、表現能力としての言語能力を培うのではなく、ただただ「文章の解釈」をしているだけ。それも一人一人の子供が何の興味の沸かない文学作品の断片を。
 図書館教育では小さい頃からの本の読み聞かせが大事だといわれ、あちこちで実践されている。でもそれが国語の時間にではなく学級活動の時間に行われ、国語の時間は旧態依然とした状況。
 小学校低学年まではたくさんの本の読み聞かせが必要だが、同時にこの頃から本を自分で読みその本の面白さを人に伝えたりする表現活動が必要。それには子供に本を読み聞かせる活動(絵本や紙芝居を読むのも良い)も大切だし、感想を発表し会うのも良い。一人一人違う本を読んでそれぞれが発表するところから入って、時々は同じ一つの本を読んで話し合うのも良い。
 そしてもう一つ大事なのは、作文を書いたり詩を書いたりする活動。子供は仲間たちが書いたものにすごく関心を持つ。「他の人が何を感じているのかがわかって面白い」と彼らは言う。
 こういった表現活動をつうじて他人の言語表現を鑑賞する面白さを知り、そのことで自分の言語能力も高められていく。
 しかしそれには教科書は邪魔。
 こういった教科の目標と中身が問い直されねばならないのに、しかしこれは充分には出来ていないのが現状。今春からの新指導要領の全面実施で、上に述べたような学習形態・内容がかなり入ってきたとはいえ、授業時間を削られては、これらの子供の活動を主体とした学習は不充分にしか行えない。
 また「教育改革」に伴って「音楽」や「美術」の時間は大幅に削除されてしまった。なぜならここは受験には関係ないし、「基礎学力」の養成には関係ないと考えられているからだろう。
 でもこれはさかさまの思考であり、旧来の学習の形にとらわれた妥協の産物にすぎない。
 音楽や美術で育てられた豊かな感受性なくして科学は出来ない。そして科学的認識を深めるためにも、この表現活動は不可欠である。
 私の職場で環境教育の学習を継続的に行ったとき、認識の総合化に大きな役割を果たしたのが美術科であった。
 川を観察し生物の状態や水質の状態を調べその悪化の原因を科学的に調べ歴史的にも考えて行ったとき、最後に問題になるのはどう行動するのかということ。
 でも科学的な学習だけでは人間の心は育たない。環境の問題を、人間や他の生き物の生物共同体の生きる条件の問題として捉えて行くには、自然に触れそれに共感する体験だけではなく、そこで得たものや科学的な学習でえたものを、感情のレベルで深化し自分自身の物にする必要がある。つまり生き物に対する深い共感と、その生存の条件を壊してしまったことへの深い悲しみの感情。怒りだけでは持続的な行動には繋がるはずもない。
 その共感と悲しみの感情を作るとき、美術的な表現活動や音楽的な表現活動、そして言語による表現活動は不可欠だ。
 さまざまなところで、この表現力と感受性を高める実践が個別的になされていると思う。そして新学習指導要領の全面実施で、これらの実践はし易くなる。これらの実践を体系としてつなげ全国化する事が必要であろう。
 このように見てくるとき、総合学習は「総合学習の時間」として設けるのではなく、あるテーマを学習するためのたくさんの教科の連携としてもうけ、各教科のカリキュラムをクロスさせることで実施した方がよかったと思う。いわゆる「合科」。クロス・カリキュラム。
 今の総合学習の時間は、教科の中身や学習形態を問い直し、クロスカリキュラムを作っていく実践的経験なしに実施されている。したがってその経験のないところでは、ただ無目的に体験的学習が行われたり、その反動として、「基礎基本の定着」の合言葉のもとに、反復学習が行われたりするのは当たり前である。

金も人も物も出さない「教育改革」

 今の「教育改革」は、さまざまな取り組みを生み出し、混乱はあるが、また可能性も大きい。しかし、その教育を作り出す人的物的条件があまりにも貧困な事も問題だと思う。
 人と言えば教師の不足がすぐ思いつくが、今必要なのは教師だけではない。
 学校とは、様々な専門的技能を持った人々が子どもの学習を助ける目的で共同する共同企業体といっても過言ではない。でもその専門職種が現在のところ教師しかいないに等しい。
 例えば事務職員。
 小中学校はかなりの大規模校でもないかぎり事務職員は一人しかいない。したがって様々な仕事を教師がしなければならなくなる。例えば就学援助を受けている家庭のこどもの修学旅行の費用や遠足の費用の申請や、其の他の子供の毎月の諸会費の納入状況を調べ、支払われていない家庭に督促状を出したり、そうして集めたお金を業者に支払ったりなど、かなりの金銭出納に関する事を教師が仕事の合間にしなけらばならない。
 学校に必要な物資を調達し管理するのが事務職員の主な仕事であり、これは財務事務に関する専門的な知識と、各物品とその業者についての知識を要する。しかし人員は不足している。
 また用務員(正式には業務員)という専門職もあるが、だいたい1校に女性が一人と男性が一人である。
 校内の清掃から破損の修理。さらには庭園の維持管理から学校の訪問者の接待まで、幅広い業務を担っている。
 学校はいろいろな行事がある。体育祭・文化祭・・・・。そんなときのさまざまな看板やアーチや建築物。多くは美術科や技術科の職員の指導のもと子供が作るが、もっと専門的な工作技能がある人に教えてもらうと、もっと良いものができる。学校の用務員にはこの知識がある人が多いが、ふたりでは、そこまで手を出す余裕はない。
 さらに図書館が今まで以上に重要であるが、小中学校では図書館司書は一人も置かれていない。司書教諭というものを一人置く事になっているが、司書と違い図書館専任ではないし、図書選定・分類・整理・管理の専門的知識も有しない。そのため学校図書館はいつも未整理のままであり、雑然とした状態で資料は使いにくい。使える図書館は少し知識がある教員が勤務時間外に労働奉仕して維持している状態。
 ほかにも必要な専門職員がたくさんある。 
 中学校なら部活動の指導員と言う専門職員が必要。現在は教員が兼ねているため、放課後の時間も土曜日曜祭日も部活指導に当たるため、教員本来の教科指導の学習や研究や準備に当てる時間がないほど。しかも部活動の種目の専門的知識がないものがおおい。
 教科の学習にしても教員だけでは不充分。子供の興味を広げ深め、認識を深めるためには教員以外の専門的な知識や技能を持った人々に教えてもらう方が有効だ。
 近年職業学習のために、地域の各職業の方に講義してもらったり地域の事業所に職業体験で行かせてもらったりしているが、全て無給。
 もっと様々なひとに援助をしてもらえる体制をつくり、学校に専門的職員を多く配置するとともに、様々な専門的知識や技能を持った人々に指導料を支払って教えてもらえるようにするべきである。
 人的な面でも今の学校はあまりに貧困である。
 そして物的な面では、いまだに、インターネットに繋がるのはコンピュータ室だけという学校が多い。しかも普通の電話回線なので20台同時に使うと、インターネットの利便性はほとんど帳消し状態だし、いまだに校内のテレビは19インチが最大とか、音楽室は一つであとは教室で授業するとか、図書館は一クラスしか使えない広さであるとか、施設や設備面でも恐ろしく貧困である。
 これで「個性を尊重した」教育に変えるというのだから無理である。

 戦争に使う金やつぶすべき企業を救う金があるのなら、こういうところに投資すべきである。
 結局のところ、「教育改革」もまた、この国のあり方の根本的改造の一環としてしかありえず、構造改革の理念も理論も、そしてそれを実行する部隊もない中では、中途半端な妥協的なものにしかならないのであろう。
 しかしその中で、国家による規制が緩和されたことによって、さまざまな発展性のある改革や実践が各地でなされている。この先進的な取り組みと、それを推進する人々をいかに全国的につなげていくのか。そのことが「教育改革」においても、今日的課題として提示されているのである。


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