島民の「自己責任」で帰島させるのは東京都が行政責任を放棄することだ!
−三宅島帰島問題に見る 行政と専門家の責任放棄−
2000年8月の大噴火によって、三宅島の全島民が避難してから4年の歳月がたった。今年2月の村長選挙において「年内の全員帰島」を公約として掲げた候補が当選して以降、三宅島民の帰島問題がにわかに現実化し、来年2月には4年半ぶりに全島「避難指示」が解除され帰島が実現される予定になっている。
しかし問題が具体化するにしたがい、島民の帰島を妨げる様々な問題が明るみに出、その困難さが連日報道されている。
▼「全員帰島」の前途多難
1つは被災して壊れた家屋の修復問題。全島で約1600世帯あるのだが、少なくともそのうちの200軒は破損または全壊状態にあり、これらの家屋の再建は個人の財力では到底無理である。
大量に降り積もった火山灰に起因する泥流で、家屋の多くが甚大な被害を蒙った。そして大量の二酸化硫黄の噴出によって屋根や壁のトタン板は腐食し、そこから雨水などが入ってシロアリ被害をも招き、多くの家屋が修繕を必要としているという。
東京都はこの間に、430億円の資金をつぎ込んで復興を図ってきたというが、それは道路や橋そして砂防ダムなどのインフラの整備に使われただけであり、個人の財産である家屋の再建には公的な援助は一切出来ないとの建前をたてに一切の援助を拒んでいる。
2つ目は、島に帰ったとしても、島の産業構造が崩壊する中で、果たして暮らして行けるのかという問題である。
三宅島は漁業と観光を主な産業として成たってきた。しかしその最大の産業である観光業の再建はまったく見こみは立っていない。何故なら、三宅島雄山の放出する火山ガスの量は依然として高レベルにあり、より高い濃度の火山ガスがいつ噴出するかわからない中では、観光客の来訪は見込めないからである。そして観光業再建のもう一つの壁は、施設の再建である。観光といっても宿泊施設はほとんど民宿である。その個人住居の多くが甚大な被害を受け、その費用は所有者である個人の肩に掛かっている現状は、観光業再建の行く手に暗雲を漂わせる。
3つ目は、三宅島コミュニティの崩壊である。全島民帰島と言っても、帰島を希望しているのは島民3200人あまりのうちの約7割、2000人あまりに過ぎない。それも「希望」に過ぎないのであって、多くはまだ迷っているのが現状である。したがって全島民帰島といっても、噴火前の島のコミュニティは復活できる見とおしは立たない。帰った所で隣近所の支えは? 医療や福祉や教育は?と、問題は多いのである。
その理由は、上に挙げた2つの問題と、4年の避難生活の中で、それぞれの家族が必ずしも今すぐ帰島できる状況になっていないということである。
もともと若者の多くは東京都心部に移り住み、島には高齢者が残っていた。4年の慣れない見知らぬ町での避難生活は、高齢者の多い島民には多大の精神的負担をかけ、心身ともに自分達だけでは生活を維持できない家庭を生み出している。また若い世代のいる家族では、ようやく都会での学校生活や新しい職場での生活になれて都会に生活の基盤を移しはじめており、子供の進学先・就職先の問題もからんで、即時の帰島を阻む要因になっている。
離島の村は、村民同士の助け合い・相互扶助を可能とする村民の人と人との関係の緊密さで成立ってきた。そのコミュニティが再建できないのであれば、帰島後の生活不安はより深刻である。
そして4つ目が、相変わらずの高濃度の火山ガスの噴出。2000年9月ごろには1日4万トンとか8万トンとかの大量の二酸化硫黄を噴出しつづけていた三宅島雄山だが、2001年夏には一日1万数千トン程度にガスの量は減り、それ以後は現在に至るも1日3000〜1万トンの量で推移している。
しかし現在でも、異常なガス噴出量であるに変わりはない。日本全体で1日あたりの人工的な二酸化硫黄の放出量は3000トンに過ぎず、これまで最大の放出量を記録していた桜島でも1日1000〜2000トンなのであるから、いかに膨大な有毒ガスが噴出しているかわかるであろう。しかもこれが何時、もっと大量の、さらに高濃度の噴出に変わるかもしれず、その時の風向き次第では住民の避難が必要になる。だがその避難先として建設された脱硫装置付き避難所の収容能力は300人に過ぎず、高齢者を中心とした島民の避難所への移送手段も確保されてはおらず、帰島後の生活は不安だらけなのである。
だからこそ島民連絡会の代表が、「帰島は島民の自己責任ではなく、行政の援助が必要だし、いざという時の対策をしっかりととってもらいたい」と発言せざるをえなかったのである。
▼帰島願望に依拠した無責任な決定
しかし島民の帰島の困難さは、立ちはだかる問題の大きさにのみあるのではない。それは帰島が決まった経緯にある。
帰島がにわかに現実化したのは、2月の村長選挙である。この選挙で、村の役場の課長であった平野氏が「年内の全員帰島」を掲げて当選し、その後帰島についての全島民アンケートが実施され、島民の約70%が帰島を希望したと言う結果に基づいて村長が帰島を決意し、来年2月の全島「避難指示」解除を目差して東京都に支援を依頼した。これに対して石原都知事は「島民の自己責任」を前提として帰島を認め、そのための準備に入ったのである。
この経緯をかえりみれば、帰島を決めた最大の要因が、島民の帰島願望だということがよくわかる。そして三宅島村役場と都庁にその帰島願望を行政の方針として実施することを決意させた根拠が、「当面は大規模な噴火には繋がらない」という気象庁と火山噴火予知連絡会の見解にあったことも想起すべきだろう。
この決定に対する批判はほとんどない。唯一筆者が目にしたのは、この間、三宅島噴火問題に積極的な発言をしてきた群馬大学教授の早川由紀夫氏だけである。
彼は自身のホームページに「島民の希望で帰島を決めるのなら、2年前にそれを決めることもできた」と指摘した。つまり火山ガスの噴出は2年前から「落ち着き」、1日3000〜1万トンの間で推移し、気象庁や予知連絡会の見解は一貫して「当面は大規模な噴火に至る兆候はないし、大規模な火山ガスの噴出につながる兆候はない」という見解だったからである。彼は指摘する。「帰島が決まったが、これで終わりではない。むしろこれから多くの問題に直面するであろう」と。
これは先に挙げたような、島での生活の再開に立ちはだかる諸問題を指しているだけではない。もう1つ大事なのは、三宅島雄山の噴火が今後どうなるのかという最も重大な問題が不問に付せられていることをも指摘していると思われる。
今回の三宅島民の帰島の決定は、「当面噴火活動に大きな変化はない」という「科学的」見解を後ろ立てにはしているが、その実質は島民の「帰島願望」にのみ依拠している。もちろんこの「帰島願望」が問題なのではない。突然の自然災害によって長年住みなれたコミュニティを奪われ、見知らぬ、しかもよそ者に冷たい無関心な都会の中でそれぞれの家族が放置され、収入の道もないまま、多くは借金を肩に背負ったままに4年の歳月を過ごしてきた。「島に帰りたい」と思うのは当然である。
しかしこの島民たちの強い「帰島願望」は天災によるものだけではなく、行政の無責任な対応によって生まれたという側面があり、それを支えたのが気象庁・予知連絡会の曖昧な見解だったことも忘れてはならない。
▼予測された長期避難と行政の無策
実は2000年8月の噴火と全島避難の当時から、この避難はかなり長期にわたることが予測されていた。
だがこれは学者のごく一部であった(後述)。役所の公式見解の基礎となる「科学的」認識を示すべき立場にある予知連絡会は、一貫して「火山ガスの噴出が収まれば帰島できる」と表明し、その期間を具体的には「2年」とか「1年」という数字を挙げた。だが事実がその予測を打ち砕くや、「当分の間」という曖昧な認識に立てこもってしまった。火山噴火予知連絡会のもっとも最近の見解は、6月30日のものだが、その冒頭では「三宅島の火山活動は、最近1年半以上大きな変化はなく、現在程度の火山ガスの放出は当分継続する可能性があると考えられます」と、どうとでもとれる「当分の間」と完全な判断停止の状態に陥っているのである。
この火山噴火予知連の曖昧な見解に基礎を置いて、東京都は全島避難の直後から「近い未来における帰島」を念頭に、膨大な税金を投入して三宅島の砂防ダムや道路や橋の再建という、なお続く泥流災害との無意味とも言える闘争に邁進してきた。
しかし長期化する避難の中で、行政がもっともしなければいけなかったことは、生活の基盤を奪われている島民の生活を支えることであった。それは住む家や仕事だけではなく、命の綱とも言えるコミュニティの維持という問題であったのだが、東京都のやったことは都営住宅の提供ぐらいで、島民は仕事を自分で見つけなければならず、しかもばらばらに都内に孤立して居住してきたことによる生活上の孤立感に対しては、行政はなんら有効な対処をとってはこなかったのである。しかも島の最大の産業である観光業に依拠する島民の多くは、その仕事の基盤である家や資材の充実のために多額の借金を負っており、その家や資材がすでに使用不能に陥っているにもかかわらず借金は返済しつづけなければならないという二重の苦しみを負っていた。だがこれも、「自己責任」ということでまったく公的援助は得られなかったのである。
自然災害で生活の基盤を奪われたうえ、見知らぬ都会に放置された島民に並外れた苦難が襲いかかり、その中で「島にさえ帰れれば昔の暮らしに戻れる」という願望が生まれたのは当然なのである。
いつ帰れるかわからない中でのコミュニティの維持は、その場所を含めてあまりに困難な問題であったであろう。しかし島民に提供する住宅を都営住宅に限らず、マンションの都による借り上げなどの策を含めて、島民たちを島の部落ごとになるべく集住させることはできたはずである。またそうして近隣に集めた人々が連絡を取り合う場を各地の行政機関の中に置き、専任の職員を配置することも可能だったはずである。
こうしたコミュニティ機能の最低限の保障を基礎に、借金の軽減措置や仕事の紹介などが為されていれば、帰島が困難であるにもかかわらず70%の人々が帰島を願うという「異常な」事態の噴出だけは避けられたはずである。いつ帰ることが出来るかわからない島のインフラ整備に430億円も投入するのであれば、その全額を上に述べたような島民の生活とコミュニティを最低限維持することに使ったほうがどんなに将来に役立つことであっただろうか。
東京都・三宅島村役場の両者は、これらの問題についてあまりに無策であったのだ。現村長である平野氏は、その村役場の中で復興支援を担当する部署の責任者であった。だからこそだれよりも孤立する島民の苦しみを知っている行政マンであったがゆえに、その島民の希望を掲げ、それを実現するために村長に立候補したのであり、島民もまたそれに応えたのである。
だがはたして、これで良かったのだと言えるのだろうか。
▼最悪のシナリオを度外視した予想
三宅島民の帰島を巡る問題の根源的問題は、三宅島雄山の火山活動が今後どのようになっていくのかという問題である。そしてこの問題の不透明さが、全島避難後の行政の対応の無策を招いている一つの原因でもあり、島民それぞれが自分の将来を設計する上で決断を下せない理由でもあり、帰島を阻む諸問題の根本的な原因でもある。
三宅島雄山の今後の火山活動の見とおしについて、火山噴火予知連絡会の見解は先にのべたように「三宅島の火山活動は、最近1年半以上大きな変化はなく、現在程度の火山ガスの放出は当分継続する可能性があると考えられます」である。これはどのような理論的裏づけに依拠しているのだろうか。
この問題を考えるには、2000年の噴火の時に立ちかえる必要がある。
実は火山予知連絡会は2000年噴火、とくに7月の山頂の陥没とカルデラの形成、そして火砕流の発生とその後の火山ガスの噴出をまったく予測できていなかった。この連絡会を構成する東大の地震学者たちは、今回の噴火を最近60年間に約20年の間隔をおいて起きた噴火、山腹での割れ目噴火の延長上でしか考えてこなかった。だから上昇が予測されたマグマが横にそれ、三宅島山腹と言っても海中での噴出となって現れたとき、それで今回の噴火は終わったと考えたのである。
しかしこの時、これで噴火は終わりではない、もっと重大な危機が迫っているという見解が2つの研究者・機関から発せられた。それが通産省の地質研究所(当時:現在は独立法人の産業技術総合研究所)と、群馬大学の早川助教授(当時)であった。
彼らの見解はほぼ一致しており、大量のマグマが山頂に向かわず横にそれて海中の山腹から噴出したり、近くの新島の方向に地殻中で移動したことで、山体の下部に巨大な空洞が生まれ、それによって山頂が崩壊して巨大なカルデラが生まれ、以降最悪の場合には再びマグマがカルデラに上昇して巨大な溶岩湖を作り、カルデラ壁を乗り越えて山腹に流れ出す危険があるという指摘だった。
この予測の一部は的中し、7月8日の山頂噴火に始まる山頂の崩壊・陥没によって、直径1.4キロ・深さ450メートルのカルデラが形成され、火砕流の噴出と大量の火山ガスの噴出に至った。
しかしこれでも気象庁と火山噴火予知連は見解を変えず、これが避難の遅滞を招いたことは記憶に新しい(2000年10月の「科学者の社会的責務の無自覚と住民・科学者の自己決定に基づく社会的連帯の可能性」を参照
)。
ではこれ以後、予知連絡会はどのような見解を表明したのか。彼らはカルデラの形成に至ったメカニズムは見とめたが、これが今後どのような火山活動に結びつくのかという問題の究明は一切せず、「火山ガスが収まれば」という言葉を呪文のように繰りかえし、地質研究所と早川教授によって提起された学問的な課題にすら答えようとはしなかったのである。
ただし問題なのは、学問として今回の噴火をどう理解するかということではない。火山噴火予知連絡会は、防災に関する見とおしを出す機関として設置されている。つまり連絡会の委員は火山学者であると同時に、行政の防災政策を支える専門委員なのである。防災の専門委員としては、今回の火山活動が今後どうなるかという長期的見とおしを出すことが使命であり、その際には最悪のケースを含めた提言がなされるべきなのである。
しかし彼らは噴火から4年たった今日においてもその責務を果たそうとはしていない。学問的に決着がついていないことを根拠にして「当分の間、大きな噴火につながる兆候はない」という逃げ口上に終始しているのである。だが三宅島雄山の火山活動はまだ続いている。そして4年前に山体の陥没・カルデラの形成を予測した科学者たちは、今後マグマの再度の上昇と溶岩湖の形成により、山頂に底の浅い高原状のカルデラが形成されるかもしれないという見解を変えていない。
いやそれどころか、従来はこのような事態はおよそ2500年前に起きた噴火の再来だと考えられたきたが、前述の早川氏は最近、これは最近では500年前に起きたことであり、三宅島は約500年を周期にして山頂の陥没・カルデラ形成・マグマの最上昇・溶岩湖の形成という一連の火山活動を繰り返してきた火山なのかもしれないという見解をホームページに掲載しており、だとすればこれは三宅島雄山火山にとっては珍しいことではなくなってくるわけである。
ということは、様々な困難を乗りこえて島民の多くが帰島したとしても、その先には山頂カルデラからの溶岩流出・大規模な火砕流の頻発による村落の壊滅という事態が振りかかる危険を意味しており、それは火山ガスの濃度の上昇どころの事態ではない。そしてこれは再度の、しかもより迅速な全島避難を可能とする火山観測態勢の整備と避難体制の整備を要求する事態なのである。
石原都知事が先般から「島民の自己責任」を云々する背景には、火山学者の多くが黙して語らない三宅島雄山の火山活動の今後の趨勢の予測の中に、上に述べた最悪のケースが存在することがあるのである。その最悪のケースが起きた時、自分の行政責任が問われることを回避することを唯一の目的として、石原の「自己責任」の発言がなされているのである。
防災責任者としての科学者が、最悪の事態を見据えた提言をするという社会的責務に背を向けてあいまいな言辞に終始し、これに乗った石原を筆頭とする行政責任者たちが「自己責任」の名の下にすべての危険を島民に押しつけ、住民の命と暮らしを守るという行政の社会的責任を回避しているのが、今日の三宅島の冬眠の帰島をめぐる問題の本質なのである。