●「つくる会」歴史教科書の採択
「固有の文化」論は虚構だ!
−「外国文化」を排除した「日本論」に潜む排外主義の歴史像−
▼何が「つくる会」教科書の問題か
−日本文化史の歴史観にこそ欺瞞がある−
8月末の教科書採択期限が近づき、来年度から使用する教科書の採択をめぐる闘いが激化している。これは4年前以上の採択を目指す「新しい歴史教科書をつくる会」(以下「つくる会」と表記)が、全国の多くの自治体に働きかけて、都合14の県議会に「日本の歴史に誇りをもてる教科書を採用する」という請願を採択させたからである(7月7日:朝日)。そして7月13日に栃木県大田原市が「つくる会」歴史教科書を採択し、さらに7月28日に東京都教委が、現場の選んだ教科書を無視して「つくる会」の歴史と公民の教科書をすべての都立学校で使用することを決定し、全国的な採択に弾みをつけようとした。以後各地で、「つくる会」教科書の採択をめぐる攻防が続けられている。
「つくる会」の歴史教科書を採択した二つの教育委員会がその理由を明らかにしたが、それは「つくる会」教科書が最もバランスよく記述されているということである。記者会見ではこれ以上詳しい説明がなされていないのであるが、「バランス良い記述」とは、日本の侵略の歴史を詳述し謝罪の言葉を連ねるのではなく、侵略の事実は事実として記述しながらも過度にならず、あわせて近年紛争が激化している竹島や尖閣諸島などの日本領有権を明確に主張し、「アジアにおもねらず言うべきことは言う」ということを指しているらしい。
しかしこの記述態度は「侵略戦争を美化・侵略の事実を矮小化」していると批判されており、この批判は正しい。
この記者会見で「つくる会」歴史教科書が採択された理由がもう一つ示されている。それは、「文化史を重視し、日本を誇りに思える内容になっている」ということである(大田原市教委の会見:7月13日毎日)。
しかし採択反対派の批判は最初の侵略戦争の問題に限られており、二つ目の日本文化史について明確に批判したものは筆者の管見の範囲では見当たらない。だが筆者は、「つくる会」歴史教科書の欺瞞性はこの日本文化史にこそその性格を露わにしているのであり、この日本文化史に関する歴史観をこそ批判しつくさねばならないと考える。
▼独自性を守った外国文化習得という虚構
−「大量の」渡来民と「朝鮮文化」を排除した「日本人・日本文化論」−
では「つくる会」教科書は、日本という国の文化をどう捉えているのだろうか。
この点については、巻頭の「歴史を学ぶとは」と巻末の「歴史を学んで」で明確に述べられている。曰く、「日本人は外国から深く学ぼうとしたが、それによって自国の文化的な独自性を失うことはなかった」と。
「自国文化の独自性」とは何であろうか。「つくる会」歴史教科書を通読してみると、それは外国から影響されない「固有の文化」ということのようである。そしてそれが形成されたのは縄文時代だと、この教科書は主張している。
第一章第一節の1「日本人はどこから来たか」の主張は、氷河時代に日本が大陸と地続きだった時代に北からやってきた人々と、氷河期が終わったあと、南方から丸木舟で黒潮に乗って日本列島にやってきた人々、この人々の合流によって日本人は生まれ、そこで形成されたのが「縄文文化」であるという。そしてこの時代に「日本人のおだやかな性格」と「多様で柔軟な日本文化の基礎」とがつくられたという。そしてこうしてつくられた日本人が、縄文時代の終わりに大陸から稲作の技術を学んで、新しい弥生文化の時代が生まれた。そしてそれは「縄文の文化が突然変化し、弥生の文化に切りかわったのではない。ちょうど明治時代の日本人が和服から洋服にだんだん変わったように、外から入ってきた人々の伝えた技術や知識が、西日本から東日本へとしだいに伝わり、もともと日本列島に住んでいた人々の生活を変えていったのである」(旧版29頁)と主張する。
つまり「日本文化の独自性」は、南方から丸木舟に乗ってきた人々が先住の人々と出会うことによって縄文時代に形成されたのであり、稲作農耕を伴う文化を大陸から学んだときも「日本人」は、「日本の文化の独自性」を守りつつ大陸からの知識や技術を学び、これ以後、自国の文化の独自性を守りつつ外国の文化を積極的に学ぶという日本人の伝統が生まれたのだと言う。
しかし「つくる会」教科書の描く日本人および日本文化の成り立ち像には、著しい虚構が含まれている。
日本人は主として南方からやってきた「縄文人」で成り立つという「つくる会」教科書の主張では、現在の日本人の多くが外見上は朝鮮人と瓜二つという事実を説明できない(北朝鮮特務機関による日本人拉致も、この事実を基に組み立てられていた)。
人数の多寡についてはなお諸説はあるものの、弥生文化の開始に当たっては多くの人が朝鮮または中国から渡来してきたと言う事は、学術界の共通した認識である。
例えば小学館の日本大百科全書は、「新来的、伝統的両要素が、最古の弥生文化以来、ともに存在する事実は、大陸の某文化を担った人々が日本に渡来して弥生文化を形成したものではけっしてなく、外来文化を担って到来した人々が、在地の縄紋人と合体して形成した新文化が弥生文化であることを雄弁に物語っている」と述べ、「弥生人には、渡来系の人々、彼らと縄紋人が混血した人々、その子孫たちなどの弥生人(渡来系)と、縄紋人が弥生文化を受け入れることによって弥生人となった人々(縄紋系)とが区別できる」と説明している。そして渡来系の弥生人は「北部九州から山口県、鳥取県の海岸部、瀬戸内海沿岸から近畿地方にまで及んだらしい。弥生時代I期の土器(遠賀川(おんががわ)式土器)の分布する名古屋にまで達した可能性がある。それどころか、彼らの少数が一部、日本海沿いに青森県下まで達した可能性もいまや考えねばならない」と説明しているのである。さらに渡来系の人々の故郷は朝鮮半島南部であると考えられているが、北東アジアの人々も含まれると唱える人類学者がいることも紹介されている。
また縄文系弥生人については「北西九州、南九州、四国の一部、東日本の大部分においては、蒙古人種としては古い形質を備え、顔の彫り深くやや背の低い縄紋人たちが、新文化を摂取して弥生人に衣替えした」と説明している。つまり弥生人は地域によってその人類学的形質が違い、渡来系の人々と在来の縄文系の人々、そしてその混血の人々とが地域ごとに異なる組み合せで混在しているというのが、今日の学会の常識であろう。
だが「つくる会」歴史教科書は、この大量の人々の移動・渡来の事実にはまったく触れていないのである。
では水田稲作をもって渡来した人々は、ほんとうに少数だったのであろうか。
さきほどの日本大百科全書の記述を思い出して欲しい。渡来系弥生人が分布している地域は「北部九州・中国・北四国・近畿地方」のほとんどを占め、さらに近年の水田遺構の発掘により、彼らの一部は日本海沿いに北上して秋田県や青森県にまで到達し、青森県や岩手県の太平洋側にまで広がっている。これがほんの一部と言えるだろうか。彼らの分布は日本列島の半分近くの地域を占めており、けして極少数者の渡来ときめつけることは出来ないのである。
さらに弥生文化の内容も考えてみよう。
灌漑用水路をともなう水田稲作は、自然の湿地帯などを利用した原始的農耕ではない。小河川や湧水を利用し、場合によっては川に小規模なダムを築いて水を堰きとめ、その水を水路を使って水田に導くという形が初期のころから普及していた。ということはこの水田稲作形式が成立するためには大規模な労働力の組織化が不可欠であり、そのためには小規模ながら国家というべき組織の存在を前提としているのである。
そうであるならこの渡来は国をあげた数百人から数千人におよぶ渡来、しかも何次にもわたって行われた渡来に違いない。今から2400年前ころと言えば、中国では戦国時代の末期であり、朝鮮半島では辰韓・馬韓・弁韓の三韓とよばれる諸国が分立していた時代である。どちらも戦乱が続いた時代であり、戦火を避けてより安全で豊かな土地を求めて大量の移民を送り出した国があったとしても不思議ではないであろう。
では渡来人の数はどれくらいだったのだろうか。埴原和郎氏は『岩波日本通史』の第1巻「日本人の形成」という論文で、人骨の研究から渡来人と在来の縄文人との混血はほとんどなく、両者は各地で住み分けていたのではないかとの仮説を提示した後で次のように述べている。
「紀元前3世紀から7世紀までの1000年間にやってきた渡来人の数を、縄文時代から初期歴史時代までの人口増加率と縄文末期から古墳末期にいたる頭骨の時代的変化を指標として推定してみた。(その結果は)7世紀までに渡来人の人口は日本人全体の70%から90%にたっし、とくにその割合は近畿を中心とする西日本に高かったと思われる。そうするとこの1000年間に数十万人から100万人以上が渡来したことになり、渡来人の総数は想像以上に多かったということになる」と。
600年以上続いた弥生時代とその後の古墳時代・飛鳥時代を含めた1000年間という長い時代全体の数字だが、人口の90%はすごい数である。著者の埴原和郎氏は、100万という数字に意味があるのではなく、渡来人の数は無視できないほど多数にわたるということを言いたかったと述べているが、この指摘は大事である。
つまり古代における日本人の形成は、中国や朝鮮半島そして北東アジアからの大量の人々の渡来によっていたということであり、日本人という民族は中国・朝鮮・北東アジアの人々と在来の縄文系の人々の混合によってできたが、前者の渡来系の人々が圧倒的多数を占めていたということである。しかし「つくる会」歴史教科書は、この事実を排除しているのである。
「つくる会」教科書で朝鮮半島から人がやって来たことを記述するのは、第一章第二節7の「大和朝廷と東アジア」での「帰化人(渡来人)」の項で、5・6世紀に中国や朝鮮から一族や集団で移り住んだ人々が、「中国の進んだ文化」をもたらしたという部分のみである。そしてここでも「一族や集団」という形で人が移動したことには触れても、その人数はまったく無視されているし、古代の朝廷で編纂された資料でも、支配階級である貴族の三分の一が平安時代に至っても「渡来系」と言われている(新選姓氏録)事実すらもが排除されていることは、はっきりと記憶しておいてよいだろう。
さらに外国から流入した文化を「大陸からの文化」「中国の進んだ文化」と記述し、それが実は「朝鮮文化」であった事実を排除していることも注目に値する。
弥生時代の稲作農耕をともなう文化遺跡の様相と似通った文化は、中国揚子江下流域でも紀元前1000年ほどのものが発見されている。しかし日本の弥生文化とそっくり同じ稲作遺構は、紀元前500年ごろの朝鮮半島南部では一般的であったことも確かである。稲作文化そのものは揚子江南部から朝鮮南部に伝えられたものであろう(その淵源はインドシナ半島だとも言われている)。しかしその地で数百年の月日を経て形成された新たな文化はすでに「中国」文化ではなく「朝鮮文化」というべきであろう。そしてこうした事は、古墳時代に「渡来人」がもたらした製鉄技術や金属器・土器の製法、そして絹織物の製法についても言えることである。
「つくる会」教科書は、日本文化が形成される際に大きな役割をはたした「朝鮮文化」を排除しているのである。
▼全時代におよぶ中国と朝鮮の影響
−「日本の外国化」という史実の排除−
「つくる会」教科書のこうした記述傾向はさらに続く。
古代における仏教寺院が中国には見られない独自の建物配置になっているのは、それが朝鮮の「百済様式」「高句麗様式」「新羅様式」であったことについては口をつぐみ、有名な高松塚古墳壁画の「飛鳥美人」たちの服装が朝鮮の貴族の服装そのものであることにも口をつぐむ。
また中国文化については、どの時代にも日本が学んだことを記述してはいるが、「日本の独自性は守った」というきまり文句でその影響の大きさをなるべく小さく見せている。「つくる会」教科書が「日本の古典文化」として推奨する「天平文化」そのものが、現実には日本文化の丸ごとの「中国化=唐化」であり、第二次大戦後の日本文化が全面的にアメリカ化したのと同じように、7世紀末に白村江(朝鮮百済)で唐・新羅連合軍に大敗北を喫し、その後に唐軍が九州太宰府に進駐した「日本占領」の後遺症だったこともまったく語ろうとしない。
さらに鎌倉時代の文化、特に絵画や彫刻における写実性の発展の背景には当時の中国=宋における写実文化の発展と、平安から鎌倉期の日宋貿易の発展によって多くの宋人商人や学者・文化人が日本に移住して宋人町をつくるといった動きがあり、その影響下で日本でも写実を重んじた芸術や科学的思考を重んじる学問が生まれたことも記述しない。
あるいは鎌倉幕府が宋からつたわった禅宗を重んじたことは記述するが、それらの寺の住職は宋の高僧で彼らが幕府の最高政治顧問であったという、鎌倉幕府が禅宗を重んじた歴史的背景の基礎となった事実にも口をつぐむ。また宋との交渉の中で茶の栽培や喫茶の風習など、今日につづく習慣が日本に入ってきたことも記述しない。
そしてこの伝統は、そのまま室町時代にも継続した。山水・墨絵も中国文化そのものであったし、この時代に朝鮮から渡来した竜骨車や水車の灌漑農法を伴う綿花栽培は、まさしく「朝鮮文化」だったのだ。
平安期を除いて、飛鳥・奈良期そして鎌倉・室町期の文化においても中国文化の影響は多大なのであり、日本における文化の発展とは進んだ中国文化をまるごと吸収し、日本を中国化することでもあったのである。そして同じ時期、朝鮮文化も日本に大きな影響を与え続けている。ただしこれは中国が統一されない時期においてであり、巨大な統一中国が出現すると日本に対する朝鮮の影響は弱まり、中国が分裂すると日本はまた、朝鮮の影響を受けるという具合である。
しかし「つくる会」歴史教科書は、これらすべての外国からの影響を排除して「日本文化の独自性」を叫ぶだけなのである。
▼江戸文化を支えた新技術の伝来
−磁器と印刷の「朝鮮文化」の排除−
最後に江戸文化成立に「朝鮮文化」が果たした役割をも、この教科書が排除していることについて述べておこう。
この時期は中国が明末期から清初期にいたる戦乱と分裂の時代であったので、朝鮮の影響が大きかった。
安土・桃山から江戸期の元禄・文化文政時代の文化は、これまでとは違った様相を持っている。それは文化が大衆化されたということである。
顕著な例を挙げると、これまで日本では作ることができずに中国や朝鮮から輸入するしかなかった「磁器」の生産が日本で盛んになり、長崎を通じて一時期はヨーロッパにまで輸出され、さらには日本各地の豪商や豪農たちの手にも渡って、現代に至るまでこれらの家々に伝えられている。伊万里・有田などを代表とする「磁器」の生産であり、それはある意味で近世の技術革新であった。
この点については「つくる会」教科書も、第三章第一節30の秀吉の政治の項の「朝鮮への出兵」で、「このころ捕虜として日本につれてこられた朝鮮の陶工によって陶器の技術が伝えられ茶の湯の発展にもつながった」という形で、有田焼の品物を紹介しながら示してはいる。しかしこれが日本にはそれまでなかった技術であり、以後江戸時代に各地の特産品ともなり輸出品ともなったことの指摘はなされていない(伝えられたのは「陶器」の技術ではなく肌の白い硬く薄物の「白磁」の製造技術であり、さらにはその上に色絵の具を重ねて焼く「色絵磁器」の技術であったという間違いもあるが)。
しかし江戸文化の大衆性を考えるとき、もっと大事なのは出版文化である。
江戸期は版木をつかった書物や絵画の大量出版の時代であり、「浮世草子」や「浮世絵」という大衆文学・大衆芸術が発展したことは周知のことであろう。しかしその背景には印刷技術の革新があり、これにより書物が一度に大量に印刷できるようになったことで、過去から伝えられた経典や歴史書そして文学が注釈つきで大量に印刷流布したことが、その後の大衆文学・芸術の発展をつくり、さらには学問・諸科学の発展の背後にあったのである。だがこの版木による大量印刷が生まれたのは、秀吉の朝鮮出兵によって朝鮮から大量の鉛活字がもたらされ、その鉛活字をつかって経典や歴史書・文学などが大量に出版されたことが契機になっていたことはあまり知られていない。「古活字本」と呼ばれているものである。
それは、1593(文禄2)年の後陽成天皇勅版「古文孝経」に始まり、その後の後水尾天皇による経文や歴史書の出版、さらには徳川家康の命で木活字や銅活字で作られたものがある。そして豪商の本阿弥光悦と角倉素庵による「嵯峨本」とも「角倉本」とも呼ばれる木活字による出版は、伊勢物語や方丈記・徒然草、古今和歌集など、限られた貴族の家に伝えられていた古典を復刻解説して一般に販売したことで大衆化に大いに役割を果たし、江戸期における学問研究や文学の発展の基礎を作ったのである。
活字印刷そのものは、鉛活字をつくる技術が伝えられなかったために木版に取って代わられたが、朝鮮からの銅活字の招来は日本に出版文化を生み出すきっかけとなったのである。そしてなぜ銅活字を朝鮮出兵のおりに奪ってきたかと言えば、室町時代における日朝貿易の重要な輸入品が銅活字や木版による仏教経典や医学書であり、これにより日本は進んだ文化を手に入れていたことが背景にあるのだが、「つくる会」教科書はこの点にも口をつぐんでいるのである。
日本文化は(実はどこの国の文化も同じであろうが)、長年にわたって各地から伝来した外国文化を吸収し、それが重層的に重なってまるで独自の文化をなしたかに見えるのである。しかし「つくる会」歴史教科書は、以上の事実についてはまったく口をつぐんで語らないのである。
▼現代版「尊王攘夷」思想の背景
−左右両派による「外国の影響」の排除−
ではなぜ「つくる会」歴史教科書は、外国文化の日本文化に対する大きな影響力を排除して、まるで日本には外国の影響を排除した「固有の文化」があるかのような虚構をつくりあげたのであろうか。
実は「つくる会」のような日本文化の捉え方は、歴史的にも最初のものではない。その特徴を歴史的事象と照らし合わせて見れば、これが19世紀の幕末期に西欧帝国主義諸国の侵略の危機下で生まれた、国学を思想の根幹とした尊皇攘夷運動とほとんど同じ性格を持っていることがわかる。
国学は外国と対抗するために、外国の影響を排除した「真実の日本」を捜し求め、その運動が幕府という武士政権と対立するものであったがゆえに、武士の存在しない「天皇親政」の時代を理想とし、奈良期に「真実の日本」を発見した。そして「日本文化」のあるべき姿は仏教や儒教という「外国文化」の影響を受ける以前の姿であるとし、その古典的事物として万葉集と古事記に注目したのであった。
「つくる会」の思想は、この幕末尊攘運動から始まった復古主義運動とほとんど同質である。なぜならこれは「大東亜戦争」の敗北からいまだに立ち直れず、「自国の伝統」を捨ててアメリカに拝跪しつつ、戦争責任を追及するアジアの前にも拝跪する日本の現状を憂い、それからの脱却を呼号する運動だからである。
それゆえこの思想は「日本のアメリカ化」が許せないだけでなく、「日本の中国化」や「日本の朝鮮化」も許せないのである。だからこれを徹底的に排除したところに「真実の日本」を措定するがゆえに、日本文化の成り立ちから朝鮮や中国の影響をできる限り排除しようとするのである。しかしこうしてできあがる「日本の固有の文化」は、完全なる虚像となってしまうのである。
ところでなぜ「つくる会」の民族主義的・排外主義的主張を批判する人々の間から、彼らの「日本人・日本文化論」への批判が起きないのであろうか。
実は、日本人および日本文化の成り立ちと歴史についての記述は、他の教科書も「つくる会」教科書と大同小異なのである。
先に「つくる会」教科書が、日本文化の成り立ちの歴史から朝鮮文化の影響を排除し、中国文化の影響はなるべく矮小化してきたことを批判したが、この点についてはどの教科書もほとんど同じ記述である。だから批判できないのである。
ではなぜほとんどの教科書が、日本文化の形成に常に外国文化の影響が大きかったことを直視しようとしないのか。それは排外主義の右派を批判すべき左派もまた、日本人・日本文化の歴史について「一国主義」だからである。
戦前の学問の世界における有力な日本人起源論は、日本人と朝鮮人とが同じ祖先から別れた民族であったという「日鮮同祖論」であった。そしてそれが日本を比類なき神の国とする「皇国史観」と結合することにより、日韓併合を合理化する歴史観の役割を果たしてきた。さらにこの歴史観は第二次大戦期には拡大解釈されて「アジア人はひとつ」となり、「大東亜共栄圏」の美名の下でアジア地域を侵略する思想の役割を果たした(この点については、小熊英二著「単一民族神話の起源」新曜社1995年刊を参照)。
もちろん戦後日本の左派は、敗戦時にこの侵略の歴史を深く噛み締めたが、その淵源となった思想を点検しなおすという作業をすることを避けた。「二度と侵略には関らない」という美名の下で、侵略の背景を検証するという責任を放棄したのである。
それゆえに「大東亜共栄圏」につながるものはすべて「悪」として排除してしまったのである。だからさまざまな事実が、日本文化と朝鮮文化・中国文化相互の切っても切れない縁を示しているにもかかわらず、日本人と朝鮮人がその起源を同じくしていると認めることは、再び「日鮮同祖論」の復活につながり、それが「大東亜共栄圏」の復活につながる事を恐れ、その事実を直視しようとはしなかったのだが、それが結果として「一国主義」になってしまったのである。
その意味で「つくる会」という右派と、それを批判する左派とには、歴史的事実を直視しないという点においてほとんど同じ体質が存在するのである。
▼アジアとの連携の障害物
−歴史を直視しない排外主義と一国主義−
文化というものは国境を越える。いや、地球上の自然生物としての人間にとって、国家やそれによる国境の策定は邪魔者以外のなにものでもない。国家が成立しても、商業の民はその性質上国家を超えて活動するし、海には国境が存在できないがゆえに、海の民は常にそれを超えていく。草原に生きる遊牧の民もそうであった。
もともとどの民族も、他民族や他の地域との交易なしには暮らしてゆけない。だからこそ文化は、交流し影響しあい混ざり合うのである。それは資本主義が世界を覆ってしまった20世紀においても一層加速されたし、ましてや世界が急速にアメリカ化されようとするグローバル資本主義の時代である21世紀においては、もっと加速するであろう。その新たな時代に、自国の歴史を直視しない「排外主義的」歴史観や「一国主義的」歴史観は、日本の針路を決めるときにどのような役割をはたすであろうか。
かつて尊皇攘夷運動が幕府を転覆し、復古運動としての明治国家を建設するや、これは一切の外来文化を排除する方向に動き、これが天皇を頂点とする神道にひれ伏さないすべてのものを排除するという運動(廃仏毀釈運動)となった。
しかし廃仏毀釈運動は明治国家が国是とした西欧文化の移入をも拒否する動きとなり、明治維新の大目標と矛盾するに至ったのである。だから開化主義との政治的調整が必要となり、復古主義は後退せざるをえなかった。そうでなければ西欧と対抗できる国家をつくるという大目標にとって、復古主義運動は障害物となっていたからである。
アジアの諸国との相互に緊密な関係の発展の道は、日本が今後、いやがおうにも選択せざるを得ない道である。その事は中国や韓国で排日の運動が激発したときの、日本の財界や企業そして政府の動きにはっきりと刻印されている。アジア諸国との緊密な連携が必要とされる時代に、「排外主義的」歴史観や「一国主義」的歴史観は、その必要性さえ見えないばかりか、緊密な連携の障害にさえなるだろう。
相互に緊密な影響を持ち続けた歴史を直視しない「一国主義的」な歴史観は、いわゆる「自虐史観」であろうと「新しい歴史観」であろうと、東アジア諸国相互の新たなる発展的関係の構築には、障害物にはなりこそすれなんの役にも立たないのである。
(8月8日)