暴走する欲望と共同体の崩壊
ー続発する少年事件に見る社会の実相ー
2003年の夏は、世の大人たちを脅えさせる少年事件が立て続けにおきた。長崎市の12歳の少年による幼児殺害事件。そして沖縄の15〜16歳の少年たちによる中学生リンチ殺人事件。さらに、東京渋谷での12歳の4少女誘拐・監禁事件。立て続けに象徴的な事件が起きた夏であった。
▼迷走する大人たち
これらの衝撃的な事件の発生を受けての世の大人たちの対応は、要約すれば「迷走」の一語につきる対応だったといえよう。
長崎の幼児殺害事件では、犯人の少年がごく普通のおとなしい、読書好きの成績も優秀な少年だったということで、同じ年頃の子どもをもつ親の「どう子どもを育てたら良いかわからない」というつぶやきが繰り返し報道され、親たちの不安感を煽った。
また、このような少年事件が起きるたびに文部科学省の役人や「専門家」と称する人たちは、「子供たちの心に分け入った指導が必要」と判で押したように同じ言葉を繰り返すが、実際の対応は、長崎県で全中学生の面接相談が実施されたように、場あたり的なことだけだった。そして「前兆をつかめといわれても、何をしたらよいかわからない」という戸惑いの声が、親や教育関係者から出てくるしまつである。
さらに世の大人たちの迷走ぶりの極限は、政治家たちの反応であろう。
鴻池祥肇構造改革特区・防災担当相(青少年育成推進本部担当)は、長崎の幼児殺害事件に関連して「少年犯罪の罰則は強化しなくてはいけない。(罪を犯した少年の)親は市中引き回しの上、打ち首にすればいい」(毎日:7/11)と発言。さらに東京の少女4人の誘拐・監禁事件に関連して、「4人の少女の話も加害者であるのか、被害者であるのか、よく分からない状況だ」(毎日:7/18)と発言した。
「青少年育成の責任者」が青少年を守る姿勢を持っていないばかりか、事態の深刻さをなんら把握していないことを露呈。さらに森喜朗前首相にいたっては、「その子供たちの両親、教師の世代は組合運動が盛んだった(時期に教育を受けた)。わかりやすく言えば日教組、そういう人たちに作られた人格だ」と述べ、「国家、地域、家族に対し責任を持つことを教わらない人が大人になっている。そういう人に育てられた子供たちが悪くなるのは当たり前だ。だから、教育基本法の改正をすべきだと言っている」(毎日:7/19)と語った。事件の背景として「左翼的思想」があると言うのである。
どちらの発言も少年・少女たちを犯罪から守るという発想そのものが見られないばかりか、犯罪の多発という現象に対して、既存の価値観や社会をただ単に防衛するという立場でしか、これらの政治家が動いていないことを明らかにしている。
▼続発する事件から学ばない社会
この迷走ぶりの原因の一つは、重大な少年犯罪が起きるたびに、事件そのものはセンセーショナルに報道されて世の不安を煽るが、その少年をとりまく環境(家族や学校や社会のあり方)は部分的に報道されるだけで、専門的な人々による調査もなされず、なされた場合でも「プライバシーの保護」の名目で一般には公開されることがないために、どのような背景があって、重大な少年事件が起こるかが、いっこうに具体的には明らかにされないことにある。
6年前の神戸の小学生連続殺傷事件の際には、精神鑑定がなされ、専門家によるこの少年の環境の調査もなされたわけだが、精神鑑定の中身は決して明らかにはされなかった。
事件が起こるたびのセンセーショナルな報道と断片的な環境情報、そして罰則の強化と当座だけのおざなりの「心のケア」と称する対応。日本社会は、少年事件の続発から何も学んではいないのである。
▼子どもを安心して育てられない社会
それではなぜ、深刻な少年事件が続発するのだろうか。
作家(米国ニュージャージー州在住)の冷泉彰彦氏は、JMM
[Japan Mail Media] No.227 Saturday Edition(2003年7月19日発行)における「十二歳の生存権」と題する文章で、以下のように述べた。
『アメリカの子供にとって、13歳の誕生日は特別な意味があります。PG13(13歳未満は保護者の同意が必要)規制の映画が自由に見られるようになるからではありません。ベビー・シッターがいなくても家で長時間留守番ができるし、商店街でも一人で歩けるようになるからです。
逆に13歳未満の子供にはそのような自由はありません。勿論アメリカの法体系は見えない社会常識を絡めて柔軟に運用されていますから杓子定規ではありませんが、12歳と13歳の間には大きな壁があります。12歳までは子供であって基本的に街をウロウロするようなことは認められていないのです。州法により多少の差はありますが、大多数の州では「13歳」というのが基準になっています。(中略)「12歳が常に大人の監視を受けていなくてはいけない」という社会はどこかが狂っています。まともではありません。(中略)アメリカのシステムは単純な前提に立っています。それは「子供の生存権を優先する」という考え方です。社会に悪があり、親も含めて大人にも間違いがあるという現実、そしてそうした悪や誤りに対して「12歳以下の子供の防衛能力には限界がある」ことから、社会全体で強制的に子供を保護しようというのが大前提です。(中略)では、どうして「子供の生存権」をそこまで社会が気にしなくてはならないのでしょうか。その背景には、そこまでしないと子供が守れない、という問題があります。1970年代以降に余りにも多くの子供がいろいろな形で犠牲になってきたからです』と。
要するに日本の社会も、子どもを社会の悪から守らなければならない時期に来ているのではないかという主張である。
これは言いかえれば、少年事件の続発の背景には、日本社会の現状が「子どもを社会の悪から守らなければいけない」ほどに悪化していることが原因だと考えられるということだろう。
この指摘は、とても鋭いと思う。
▼欲望の暴発を止められない社会
では、どのような悪が少年少女を取り込もうとしているのか。この夏の事件をちょっと振りかえってみるだけでも、それは明らかになる。
長崎の少年は今回の事件の前にも1度、幼い男の子を裸にして性器をもてあそび、刃物でその肌を切り刻むという行為をしている。今回の事件も裸にして肌を切り刻んでいたら騒がれ、発作的にビルの屋上から突き落としてしまったようである。
彼の行為は性的な倒錯といえよう。12歳くらいの少年になれば性的なことに興味を持つのは普通である。しかし普通はその手の雑誌を隠れて読んだり自慰行為に及ぶ程度で、自分の欲望を直接表に出すことはしない。ましてや幼い男の子を裸にして性器をもてあそんだり、肌を傷つけるのは異常である。
考えられることは新聞、雑誌やテレビ、そしてインターネットなどでの性情報の氾濫とそこにおける暴行シーンの氾濫である。性情報の氾濫により、性的欲望を押さえられなくなった結果ではないだろうか。
東京で誘拐監禁された12歳の少女たちは、渋谷の繁華街で犯人の男と出会っている。しかもそのうちの一人は事件の数日まえにも渋谷に行き、「部屋の掃除」という「アルバイト」を犯人の男に持ちかけられ、1万円の小遣いをもらい、そのお金はその日のうちに使ったそうだ。さらに男に「他の友達も連れてくればもっと金をやる」と言われ、良いアルバイトがあるからと友達3人を誘い、渋谷に行って被害にあったということである。
渋谷の繁華街は今や、中・高生であふれている。この年代の少年少女の好みそうな服やアクセサリーやマンガなどの店が並ぶ。平日の午後ともなると制服のままの中・高生が集まり、それらの品々を値定めし、友達と買い物をしながら歩いている。しかもその間の道路には、チラシを配ったり直接声をかけたりして「仕事」に誘う勧誘員がひしめき合う。簡単な「仕事」をすればお金が手に入り、お小遣いでは届かないような高価な品物が買えると誘うのである。
その仕事の中には女性が体を売るものもあるし、中には女子中・高生の使用済み下着を買い取るという勧誘まである。しかもその勧誘員自身が、「アルバイト」として金をもらった高校生である場合も多い。
この街のありさまやそこに群がる若者たちのありさまは、商品という形をした欲望に群がる蟻のようである。
沖縄の中学生殺人事件の発端も、お金であった。殺された少年の「友人」たちの家でしばしばお金がなくなり、犯人として彼が疑われしばしば暴行を受け、かわりに金品をせびられていたそうである。そしてこの殺人は、「盗難」に対する制裁であった。
いじめという歪んだ欲求不満の暴発が押し留められることもなく、暴走した果ての事件であったことがよく表れている。
さらにこれらの事件で特徴的なことは、少年・少女たちの行動が、大人たちに充分に把握されていないということである。
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長崎の少年が1件目の事件を起した時も、そして今回の事件を起した時も、どちらの事件も学校が早く終わった日であり、彼はいつもそういう日には、同級生と別れて塾に行くまでは、近所の幼い子たちとゲームセンターなどで遊んでいたという。しかし幼い子としか遊ばないということは中学の同級生たちは知っていても、親や教師は把握していなかったし、ゲームセンターの経営者もそれを異常とは思わずにいた。家・学校・塾という場所の移動を毎日繰り返し、勉強も優秀な彼には、周囲の大人たちは特別の注意を払っていなかったということであろう。
またこの事件では、今回と類似の事件が以前にも起きているにも関わらず、この情報は学校や幼稚園そして地域にはまったく伝わっておらず、「知っていれば子どもだけで行動させなかったのに」という被害者の家族の声も伝わっている。
事件の現場となった大型商業施設は、大人の欲望を満たすための施設である。商品選びに夢中になっている大人たちの傍らで、子どもだけで遊べる場としてゲームセンターが併設されている。このゲームセンターが犯罪の温床になったのである。
東京渋谷の4少女監禁事件では、被害者の親たちは、娘たちがどこに遊びにいったのかを知らなかった。夜になっても帰ってこないので大騒ぎとなり、その中の一人の少女の親が渋谷に行くと言っていたことを思いだし、警察官が部屋を捜索すると「仕事」に誘うビラが発見され、その連絡先の携帯電話の番号が別の売春事件の容疑者のものと一致したために、あわてて指名手配したらしい。だが犯人の行き先も少女たちの行き先もまったくつかめず、4日後に六本木のマンションから一人の少女が脱出して助けを求めるまで、まったくの五里霧中であったのである。
しかもこの少女たちは、白昼堂々とタクシーで「男たち」によって「連れ去られて」いるにも関わらず、これを目撃した人もいなければ、不審に思って届け出たタクシー運転手もいないのである。
また沖縄の事件では、被害者の少年は以前から執拗に暴行・脅迫を犯人の少年たちから受けてはいたが、この事実は親や教師はまったく把握してはおらず、暴行・脅迫の場であった犯人の少年たちの家の者も事態をまったく知らなかった。
知っていたのは近所の一人の男性だけで、この男性は被害者の少年から相談を受けていたが口止めされていたそうである。
少年たちをとりまく社会の人間関係がきわめて希薄になり、「隣は何をする人ぞ」どころか「我が子は何をする人ぞ」になってしまっていることも、事件を起させている背景であろう。
▼懐かしき昭和−共同体への郷愁ー
一体日本社会はいつからこんな状態になってしまったのだろう。
興味深い現象がある。いま巷では昭和30年代が一つのブームになっている。東京のお台場に昭和30年代の商店街が復元され、そこに多くの老若男女がより集うのだが、40年以上前のこの時代を知らないはずの若者までが「懐かしい」を連発して群れるのだそうだ。
さらに今話題のテレビドラマに、ビートたけし作の「菊次郎とさき」がある。昭和30年代、高度経済成長が始まったばかりの東京の下町で、肩を寄せ合って生きる家族の物語である。
菊次郎は、腕は良いが大酒飲みで仕事もろくにせず、家計は内職をする妻のさきの肩にかかる。家には男の子が3人と女の子が1人、そして菊次郎の老いた母がいる。この一家7人の暮らしがさき1人の肩にかかっている。しかし彼女は、夫菊次郎をも含めた家族みんなの「お袋様」として家族みんなを暖かく包み、必死になって働いて子供たち皆を学校にやる。「貧乏から抜け出すには学問だ」とはさきの口癖ではあるが、でも決して職人である菊次郎の職業を馬鹿にしたり卑下する風もない。菊次郎とて酒に溺れながらも、妻や子どもたちには彼なりに暖かい愛情を注いでおり、子供たちもそんな父と母とを暖かく見つめかつ尊敬もしている。
そしてこの家族はまた、それをとりまく「近所」という名の社会の人々によっても暖かく見つめられている。
この物語には家族という「生活共同体」の温もりと、それを支えるご近所という「生活共同体」の温もりとが、作者の暖かな眼差しの下でコミカルに描かれているのである。
そう。昭和30年代が懐かしがられるのは、この家族やご近所と言う社会の温かさのせいであろう。高度経済成長という、大量生産と大量消費のアメリカ型の経済社会が日本にも根づき拡大しはじめた時代。消費が美徳となり、消費者が王様となって生産者の心意気が失われ、労働が苦痛になっていった時代。そして「○○からの自由」がもてはやされ、既成の価値観や社会が壊れ、人と人との関係がお金を仲立ちにするだけの関係へと変わっていった時代。
この高度経済成長のはじまりの時代の日本社会には、まだ社会の温もりがあったのだ。移民からなる共同体のないアメリカとは違って、子どもは社会の宝、子どもはみんなで育てるということが自然に出来ていた、それゆえの社会の温もり。
この社会の温もりは大量生産と大量消費のアメリカ型経済社会が広がるとともに失われ、ふと気づいたら日本社会は、温かさの失われた、欲望とお金のみが氾濫する修羅の場になっていた。この温もりを失った社会。ともに支えあう「共同体」が崩壊した社会が、深刻な少年事件などの社会犯罪の温床となっていることに人々が直感的に気づいていることが、昭和30年代への郷愁となって表れているのではないだろうか。
▼共同体の復権へ
人間の共同体は、お互いが人のために働くということによって成り立っている。つまりそこにおける人間の行動は、公的な意味をもっているということである。
少年事件が続発すると「学校は何をしている」「文部科学省は何をしている」「警察は何をしている」という発言がよく聞かれる。しかしこれでは、子どもを育てるという公的な行為を、ただ役所にまる投げするだけのことではないだろうか。
学校は、社会で生きていくための知識や技能を授けるだけの場に過ぎない。警察は犯罪を取り締まる機関に過ぎず、これらの機関が社会の人々の心までに踏みこんで犯罪を未然に防止できるはずもない。本来子どもを育てるのは家族やご近所という共同体の役目であり、共同体の枠を越える問題を規制して子どもを守るのが役所の仕事である。
ではどうしたら良いのか。小さな取り組みではあるが示唆にとむ取り組みが、あの小学生連続殺傷事件の現場・神戸でなされている。
『連続殺傷事件では、地域にどんな子どもたちが住んでいるかを知らない大人が多かった。子どもたちの様子を把握できなかったことを教訓に、北須磨団地(約2600世帯)の自治会は98年4月、通学路に「友が丘防災防犯センター」(プレハブ2階建)をつくった。
自治会副会長の森機会(はずみ)さん(78歳)は開設以来、正月を除く毎日、朝から夕方まで子どもたちを見守り続けている。机とテレビとパソコンのある2階は15人が入るといっぱいになるが、子どものくつろぎの場だ。夏休み中は宿題を持ち込む子どもであふれる。森さんは「『おっちゃん、さよなら』と元気に帰る姿を見ると、この子らは大丈夫と思える。この町から二度と被害者も加害者も出してはいけない」と力を込めた。
自治会は97年5月の事件後、夜間パトロールを続けている。初めて顔を合わせる住民も多く、大人同士が集まる場を増やすことが大切との認識が強まった。自治会長の西内勝太郎さん(62歳)は「平凡だが、近所が仲良くなること。これを続けるしかない」と話す。団地内の会館では卓球、囲碁・将棋、ダンスなどのサークル活動も始まった。
凶器が見つかった池のある公園は、草木が茂り薄暗かったが、住民の要望で神戸市が改修した。秋は「夕日を楽しむ会」、大みそかには「カウントダウンイベント」・・・・。今年5月には子ども会や自治会が模擬店を出し、子どもも楽しめる祭りを開いた。西内さんは「地域と家庭は一体。大人同士が仲良くなることが近所付き合いを活発にし、地域全体の子どもの見守りにつながる」と強調した』(毎日:7/13)。
「少年事件を防ぐ特効薬はない。地域のきずなを強めることが大切」。
このメッセージを家族・地域、そして学校などの本来共同体的機能をもっている場面でじっくりかみ締め、それぞれの「きずな」を強める取り組みを広げていくことと、野放しの欲望の商品化を社会的に規制することとが今問われている。
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