「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判F


 7.「改作された伝承」を無批判につかった「神武天皇の東征伝承」

 「大和朝廷による日本統一」を語ったあと、新しい歴史教科書は、その「大和朝廷」の淵源の伝承を紹介する。それが「神武天皇の東征伝承」である。ここは、「神話を事実であるかのように使った」と問題になっている所だが、「神話」を取り扱う事に問題があるのではなく、その取り扱いかたに問題があるのである。

 だがそれは、「神話を事実のようにとりあつかった」ことではない。「神武東征」は史実である。ただし「天皇」としてではなく、九州王朝旗下の一豪族の『武装植民』行動としては、事実なのである。

 この教科書でのこの「神話」のあつかいの問題点は、「神話」はそれ自体がある権力の正統性を証明するために必ず改作を経ているという古今東西に共通した命題を無視し、「大和朝廷が悠久の昔から日本を統治していた」という政治的仮構を証明する為に改作された「神話」を無批判につかって、「大和朝廷が悠久の昔から日本を統治していた」かのように、歴史を捏造しようとしていることである。

 ここでは冒頭に、以下のように述べている(p36)。

 一つの政治的なまとまりが、大きな力を備えた統一政権になるには、通常、長い時間を必要とする。大和朝廷がいつ、どこで始まったかを記す同時代の記録は、日本にも中国にもない。しかし「古事記」や「日本書紀」には、次のような伝承が残っている。

 この続きの部分に「神武東征」の伝承を載せてあるのだが、その記述のしかたを見ると、古事記と日本書紀という、性格の異なる、内容も異なる伝承を、まるで両者に矛盾がないかのようにして載せ、しかも記述されたものとしては日本書紀の「神武東征」説話を使っているのである。

  (1)神武は天照の子孫ではあるが「直系」ではない!!

 この教科書は伝承の冒頭に「天照大神の直系である神日本磐余彦命(かむやまといわれびこのみこと)は・・・」と書いている。

 たしかにその通りなのだが、古事記も日本書紀でもここに一つのしかけがある。どういうしかけかと言うと、神武に始まる「大和朝廷」が天照大神の子孫の「本流」=「直系」であるかのような記述をしていることである。

 たとえば古事記の記述によれば、天照の直系の後継ぎは「正勝吾勝勝速日天の忍穂耳の命(まさかあかつかちはやびあめのおしほみみのみこと)である。古事記には「太子(ひつぎのみこ)」と書かれている。この忍穂耳の命の子は二人おり、「天の火明の命(あめのほあかりのみこと)」と「天つ日高日子番の邇邇芸命(あまつひだかひこおのににぎのみこと)」である。この邇邇芸命が大軍を率いて「筑紫の日向(ひむか)の高千穂のくじふるだけ」に宮を築き、筑紫の支配を始めたのである。

 この邇邇芸命の名前を良く見てみよう。「あまつひだかひこ=天津比田勝彦」なのである。つまり天国(あまぐに=壱岐・対馬を中心とした海洋王国)の比田勝津=港の長官という名前なのである。では天国の王位継承者はだれか。当然、天の火明の命である。この天の火明命の名前を日本書紀で見ると、「天照国照彦火明の命(あまてらすくにてらすひこほあかりのみこと)」である。天国だけではなく陸の国も治めるという名前になっていることがわかるであろう。本流はこちらなのだ。

 古事記も日本書紀もこの「王」の事跡を書かない事で、まるで邇邇芸命が天照大神の「本流」であるような書き方をしている。正しくは「傍系」なのである。

 この邇邇芸命には二人の子があった。一人は「火照りの命(ほでりのみこと)」。もう一人は「火須勢理の命(ほすせりのみこと)」。3番目が「火遠理の命(ほおりのみこと)」である。
 この3番目の子が神武の祖父(?)の「天つ日高日子穂穂出見の命(あまつひだかひこほほでみのみこと)」だ。

 この名前を検討してみると、天国のひだか(=比田勝)の長官であるホホデミの命という名になり、父の邇邇芸命と同じ官職名である。そして長兄の火照りの命の名を見れば、邇邇芸命の兄の火明の命のまたの名である天照国照彦火明の命の名と同じく「照らす」という語が使われていることから、「火の国(=肥の国)を治める王者という意味ではないだろうか。

 だとすれば、神武の祖父(?)である穂穂出見の命は、その名のとおりの天国の一地方の港を治める長官にすぎず、倭国をおさめる王者ではないことになり、この部分の神話である「山幸彦・海幸彦」の説話は、あたかも弟の穂穂出見の命が倭の王者であった兄の火照りの命にとってかわったかのような記述なのである。古事記ですでにこの部分において、歴史の捏造が行われていると見て間違いはない。

 神武の祖父(?)穂穂出見の命は、天照の子孫の一人ではあるが、その直系ではなく、傍系のそのまた傍系なのである。

 同じことは神武の父(?)の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒダカウガヤフキアエズノミコト)にも言える。意味は比田勝の津の長官で海岸線(=波限・なぎさ)の防備隊長(=建・たける)のウガヤフキアエズの命ということであり、一水軍の長のイメージである。そして彼が住み一生を送ったのは、筑紫の日向の高千穂の宮。倭国の中心の筑紫郡の西にある糸島郡の東のはずれの山すそで、糸島水道をへて唐津湾・博多湾をつなぐ防衛上の拠点にある宮。首都を防衛する西の拠点なのである。

 そして神武は、この天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒダカウガヤフキアエズノミコト)の4男。そもそもの名前は若御毛沼の命(わかみけぬのみこと)。
 神武は天照の子孫の一人ではあるが、その直系ではなく傍系の傍系である。しかし本来の直系や傍系の主流の人々の事跡を詳しく記さないことで、古事記も日本書紀も、まるで神武が天照の直系であるかのごとき書き方をしているのである。ここに二つの書が、日本の歴史を「大和中心」に読み替えようとする意図が表れている。

   (2)東への武装集団の長は神武ではない!

 この教科書は東へ向かった武装集団の長が神武であるかのごとき書き方をしている(p36)。

 天照大神の直系である神日本磐余彦尊は、45歳のとき、日向(宮崎県)の高千穂からまつりごとの舞台を東方に移す決心をし、水軍を率いて瀬戸内海を東へ進んだ。大阪湾から上陸を志すが、長髄彦(ながすねひこ)の強い抵抗を受け、・・・・・・

 たしかに日本書記ではこう書いてある。だが、古事記ではそうなっていない。

 古事記では、高千穂の宮にて「東に行く」ことを決定したのは、兄の五瀬命(イツセノミコト)と弟の神武の2人であり、軍を率いているのも五瀬命である。河内の日下で登美のナガスネ彦の軍に行く手を阻まれ、東に向かうことを諦め南に軍をうつすことを決定したのも五瀬命である。そしてこの時の戦で傷を負った五瀬命が、紀国の男之水門で死んだので、ここで全軍の指揮が神武の手に移ったのである。

 最初から神武が指揮をとっていたかに歴史を捏造したのは、日本書記の編者であり、あくまでも大和朝廷の祖先である神武が指揮官でなければいけないとの大義名分論で書かれていたのである。

   (3)神武の出発点は日向(ひゅうが)ではない!

 さらに、神武たちが東に向けて軍を発したのは、日向(宮崎県)ではない。たしかに日本書紀はそう書いている。だが、古事記では「日向(ひむか)から筑紫へ」と書いてあり、この日向は「筑紫の日向の高千穂の峰」の日向であり、筑紫の国の中の日向である。そして神武らが向かった筑紫とは、筑紫の国ではなく、その中心である「筑紫郡」、倭国の都のあるところへ向かったのである。

 8世紀になって、大和天皇家が日本の王になってから書かれた日本書紀は、古事記に伝えられた古い言い伝えを改変し、邇邇芸命が天下ったのも宮崎県の日向の高千穂の峰で、神武が東方への移住を決めたのも日向の国の高千穂の宮というように、二つの伝承の場所が筑紫であったことを隠しているのである。それは何のためか。筑紫が長い間、日本の中心であったという事実を歴史から消し去り、大和天皇家が九州の筑紫天皇家を滅ぼして日本の王位を奪ったという事実を消すためである。

 神話は、それ自身が権力の正統性をしめすための虚構であり、その元の形そのままではないと言う原則を忘れないならば、、日本書紀が歴史を捏造していることは明らかであろう。

   (4)東征は、都を東に移すことではない!

 次にこの教科書の書き方では、「都を東にうつす」ような書き方になっていることも問題である。たしかにここでも日本書紀はそういう書き方をしている。「東に良い土地があり、青い山が取り巻いている。(中略)思うにその土地は、大業を広め天下を治めるのによいであろう。きっとこの国の中心だろう。(中略)そこにいって都をつくるにかぎる」と。

 だが古事記はそうではない。単に「どこに行けば、一国を治められよう。もっと東に行こうと思う」と述べているだけである。

 従来はこの古事記の記述の「天の下の政」と言う言葉を、「天下を治めること」と解してきたが、この「天」とは「天国=あまぐに」のことであり、天国の支配の下で、政治を行うこと、つまり一国を治めることという、当時としてはきわめてリアルな言葉なのであり、天国の統治下という大義名分を含んだ言葉で、けして全国を治めるという意味の言葉ではない。

 それが証拠に、「天の下を治めた」という神武の名前は、「神日本磐余彦の尊」である。古事記なら「神倭伊波礼毘古の命」である。どちらも「神」は「おおいなる」とか「うつくしい」とかいう美称。「日本」「倭」は、日本列島全体をさす言葉か、もしくは日本列島を治める大義名分をもった国の名。おそらく後者であろう。古事記が撰述され稗田阿礼が暗誦したときは「九州王朝」中心の「倭」の時代。日本書紀が書かれた時は、「大和」中心の「日本」の時代だからである。そして最後の「磐余彦」と「伊波礼毘古」とは、「イワレ地方を治める長官」の意味。

 神武天皇と後の世になっておくりなされているが、彼は決して日本全体の天皇ではなく、「倭国」の一地方長官」であると名乗っているのである。「天の下を治める」とは、天国(あまぐに)の統治する倭国の下で政治を行うという意味でしかないのである。

 古事記と日本書紀の記述のどちらが古態を示しているのか。当然古事記である。日本書記は大和中心に歴史を捏造している。

  (5)「倭国」の国々の援助の下で行われた東への武装植民

 この神武東征説話には、まだまだ歴史捏造のあとが見られる。 この歴史教科書は、神武がまっすぐに水軍を率いて瀬戸内海を東へ進んだかのような書き方をしている。これは古事記とも日本書記とも違っているのである。

 二つの史書では、神武たちはまっすぐには瀬戸内海を東に進んでいない。途中で何ヶ所かに立ちより、そこで何年も過ごしているのである。

 古事記によれば、以下のようである。

     (a)豊国(大分県)の宇佐

     (b)筑紫(福岡県)の岡田の宮・・・・・・・・・・・・・・1年

     (c)安芸の国(広島県)のタケリの宮・・・・・・・・・7年

     (d)吉備(岡山県)の高島の宮・・・・・・・・・・・・・・8年

 日本書記ではこの年数が半分以下におさえられているが、相当の年数、途中にいたことは明らかである。軍団だけではなく、女子供を伴った旅である。この長期にわたる滞在をどう理解したら良いのか。

 食料を補給し武装を整えるだけならあまりに長期に過ぎる。やはりその地に植民し、あらたな国を作ろうというのではなかろうか。しかしそれもかなわぬまま(そこには倭国と同じ「矛」の文化を持った国があったので)、その地の王たちの援助を得て、さらに東へと歩を進めたのではないか。

 この意味で、神武たちの子孫の王の墓が、吉備の国発祥の前方後円墳の形と円筒埴輪を持ち、墓の内部の副葬品としては、九州筑紫の弥生墓と同じく・鏡と矛と玉であることは、神武たちの東征の経過を追ってみると、それと見事に符合しているのである。

   (6)神武は大和の国を平定していない!

 そして最後にこの説話が歴史を大きく捏造している部分がある。それは以下のところである。教科書の記述を見よう(p36)。

 神日本磐余彦尊は、抵抗する各地の豪族をうちほろぼし、服従させて目的地に迫る。再び長髄彦がはげしく進路をはばむ。冷雨が降り、戦いが困難をきわめたちょうどそのとき、どこからか金色に輝く一羽のトビが飛んできて、尊の弓にとまった。トビは稲光のように光って、敵軍の目をくらました。こうして尊は大和の国を平定して、畝傍山の東南にある橿原の地で、初代天皇の位についた。

 たしかに日本書紀ではこのように書かれている。最後に長髄彦を討とうとした時に負けそうになったとき金色のトビの力で敵軍を混乱に落とし入れたという話は、日本書記だけにあって、古事記にはない話である。そして日本書紀は続けて長髄彦のもとにあった天の邇芸速日の命(アメノニギハヤヒノミコト)が長髄彦を裏切って殺し、自分の軍を率いて神武の下に投降したと記述する。まるで大和の国を平定したかのような書き方である。

 しかし古事記はまったく違う。大和盆地に入った神武は各地の王たちを倒したり従えたりしたが、ついに長髄彦(古事記では「登美の那賀須泥毘古」である)をたおすことは出来なかった。そして最後に天の邇芸速日の命が長髄彦から分かれて投降し、ここに神武の戦は終わっているのである。

 長髄彦の拠点の登美とはどこか。奈良盆地の中央を流れる大和川に北から合流する川に「富雄川」がある。その上流部で生駒山をはさんで、長髄彦と神武らが戦った河内の国の日下をひかえた大和盆地北西部の盆地群。ここが長髄彦の拠点ではなかったか。

 では神武が置いた拠点はどこか。その大和川の南側、大和盆地の東南の隅の盆地である橿原の地。神武はついに長髄彦を倒せなかったのが史実であろう。つまり神武は大和の国を平定できなかったのである。それは彼の子孫に託された。

 大和を平定し、橿原の地で初代天皇として即位した。これは大和中心史観で日本の歴史を捏造しようとした日本書紀のみに存在する、幻である。「新しい歴史教科書」の著者たちは、この日本書紀と言う造作された史書を無批判に採用し、大和中心史観に自らも染まっていることを暴露したのである。

  (7)神武東征は史実である!!

 以上のような修正を施せば、「神武東征」は史実である。詳しくは古田武彦氏の著作に譲るが、一つだけ証拠をあげれば、弥生時代後期にいたって、近畿地方を中心に広がっていた銅鐸文化が、大和盆地においては忽然と消えるのである。そして、その中心が大阪北部から京都南部にあった銅鐸文化が東西に分裂し、その中心は東海地方に移って行くのである。

 従来は謎であったこのことも、銅矛圏からの武装植民集団としての神武らとその子孫が、大和盆地の南部からだんだんに銅鐸文化圏を侵食し、ついにはその中心地も陥落させたことの結果と考えれば、たちどころに氷解する。

 しかしこれは、神武による日本の中心の征服・大和朝廷による日本征服(統一)の始まりではない。結果としてみれば、その約600年後に彼の子孫によって統一がなされるのだが、神武が大和に侵入した当時は、大和は日本の中心でもないし、銅鐸文化圏の中心でもないのである。

 それをあたかも神武による日本の中心の征服の伝承のように作り変えたのは8世紀に成立した大和朝廷の正史である日本書紀の造作(=歴史捏造)であった。

 「新しい歴史教科書」を作る会の人々は、「神話を尊重する」として、その実は、大和中心史観によって改変された神話を無批判に採用しているだけなのである。

 神話はたしかに歴史的事実を反映している。時には歴史的事実そのものでさえある。だがしかし、神話はそれを必要とした権力が、自己の権力の正統性を示すために、政治的に改作されているものなのである。

 神話がどのようになんのために改作されているのかを検討するという真に科学的な姿勢で神話を扱うことが、日本の歴史の真実を明らかにするためには必要である。

 神話を自分の歴史観に都合よく改作することも、神話を全くの虚妄として捨て去ることも、どちらも真に歴史を明らかにすることではない。

注:05年8月の新版の「神武東征」説話のあつかいは、旧版とほとんど同じである(p30)。違う所は最後に、次のような文が挿入された事である。すなわち、「大和朝廷がつくられるころに、すぐれた指導者がいたことはたしかである。その人物像について、古代の日本人が理想をこめてえがきあげたのが、神武天皇の物語だったと考えられる。だから、それがそのまま歴史上の事実ではなかったとしても、古代の人々が国家や天皇についてもっていた思想を知る大切な手がかりになる。」と。

 これは旧版の記述が神話を事実のようにあつかったとの批判を受けて書かれたものに違いない。神話はたしかに「古代の人々の思想を知る大切な手がかり」である。だが「神武神話」を「古代の日本人」全体の理想をこめたものであるかのような記述の仕方は問題である。あくまでもこれは、後に九州の倭国を滅ぼして取って代わり日本の統一王権になった大和の「天皇」家と貴族たちにとっての理想・神話でしかない。この教科書の著者たちは、あいかわらず「大和中心主義」に立っているのである。

注:この項は、古田武彦著「盗まれた神話:記・紀の秘密」(朝日新聞社1975年刊)などを参照した。


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