「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判33


33: 幕府からの自立傾向を強める諸藩ー西南雄藩天保改革成功の歴史的意味ー

 幕府の政治改革の項 の最後に「つくる会」教科書は、「雄藩の改革」という短い項目をまるでつけたしのように記述している。しかしこの項目の記述は極めて間違いの多いひどい記述である。
 教科書はつぎのように記述している(p159)。

 財政が困窮していた薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)は、商人からの莫大な借財を帳消し同然に処理し、有能な人材を登用して、専売制を強化するなど、財政立て直しに成功した。両藩は、この成功を背景に雄藩(有力な藩)として幕末期の政治に登場し、幕府に対抗していくのである。

 (1)幕府崩壊・新政府樹立を歴史的必然とする誤った歴史認識に基づいた事実誤認の数々

 しかしこの教科書の記述には大きな誤りが幾つもある。

@幕政改革と藩政改革を同列に扱う誤り

 一つは、幕政改革と藩政改革とを同列に論じ、幕府の天保改革は失敗したが西南雄藩の天保改革は成功したと記述し、これがまるで後の幕府崩壊・西南雄藩による新政府樹立の基盤であったかのような誤りを犯していること。
 幕府の天保改革はすでに32項で見たように、西欧列強の侵略の危機を目前として、日本を幕府主導の統一国家に組み替えようとする試みであった。しかしこれは独立国である個々の藩の利益を優先する家門大名や譜代大名を含む諸藩の反対にあい失敗した。つまりこの時点においては諸大名は、西欧列強の侵略の危機を十分には理解しておらず、それに備えて日本を統一国家にしようとした幕府改革は、彼ら諸大名の賛同を得られずに自壊した。多くの人々の意識がまだ現状に追いついていなかった故に、幕府中心の統一国家樹立を狙った改革は失敗したのだ。しかし教科書の天保改革の記述は、幕藩体制は諸大名の連合政権に過ぎず、幕府といえども諸大名の賛同なくして根本的な政治改革が出来ないという事実を無視し、その上、諸大名が改革に反対した故に失敗したという捉え方をせず、単に幕府の力が弱 まったという誤った歴史認識に基づいていたことは先に見たとおりである。
 一方西南雄藩の天保の藩政改革は、その日本を統一国家に組み替えようとする幕府の政策に抗って、独立国である自国の利益をのみを追求した改革であり、藩の主権を制限しようとした幕政改革が失敗したからこそ成功したのであった。
 この二つの改革は性格の異なるものであり、これらの改革を同列において評価することは大きな誤りである。そして幕政改革と諸藩の改革は相対立するものであった ことを見逃していることは大きな間違いだ。

A何をもって藩政改革成功とするのか−西南雄藩も財政難を克服したわけではない−

 そして二つ目には、その西南雄藩の藩政改革も、教科書が記したような財政の立て直しには成功していない。
 薩摩藩も長州藩も商人からの借金を帳消し同然にしたと教科書は記述したが、その元になる研究書を詳しくみると帳消しではなく、利子を踏み倒した上で、元金を長期返済に組み替えることで、毎年の借金返済額を大幅に減らしたに過ぎない。
 毎年の借金返済額を減らして藩財政の自由度を増したのがこの藩政改革の眼目であったわけだが、それを商人に呑み込ませることができたのは、一部の有力商人にそれぞれの藩の専売制の強化によって得られた特産物の販売をその商人に一手扱いを認め、利子を踏み倒す代わりに巨額の独占利益を保証したからであった。しかしその結果両藩ともに、収入が支出に大幅に不足する状況は少し緩和されたとは言え、赤字経営であることは今までどおりで あった。両藩ともにこれまでどおりに藩士の給与の半分召し上げを続けており、藩財政の不足を補うために新たな借金の起債も行われていて、厳しい財政状況は続いたのだ。このため、これまでの巨額の借金は元金だけではあるがその多くが残り、これに新たな借金が加わって借金は天保期よりも巨額になった。そして、結局これを返済することは出来ず、これは明治維新後の廃藩置県によって明治政府に引き継がれた。 薩摩長州藩も財政改革に成功したわけではなかったのだ。
 では薩摩藩・長州藩の藩政改革は失敗だったのか。
 そうではない、この両藩は改革の過程で、特産物の売買とその利益の管理を一般会計から切り離して藩の特別会計とし、それを藩主預かりにしたり藩営の商社預かりにしてその利益を藩士には還元しないこととし、これを原資として幕末維新期に求められた軍政改革や武備の充実に宛てることができた 。つまり大坂や江戸・関東の物価が高騰することを背景とした藩専売制の利益を特別会計として、その財政基盤で幕末の政争と軍備の充実を成し遂げる基盤を確立したのだ。そして藩政改革の過程を通じて、それぞれの藩は藩政の主導権が家老などの執政層から才能によって抜擢されたより下層の中程度の藩士層に移り、藩主の下に藩全体が一丸となって動ける体制が作られた。 そして天保改革後の幕府とは異なり、これらの藩は積極的に洋学を取り入れ、西洋式の大砲や銃を備えて欧米の侵略に備える体制をとったのだ。
 西欧列強の侵略の危機に際して独立国家として国を挙げて一丸となって対応できる財源と人材と組織を他藩に先駆けていち早く確立できたことが、天保期の西南雄藩の藩政改革が成功したと判断された根拠であり、この力を得たからこそ、薩摩・長州二藩は幕末の政局において、大きな発言権を獲得したのである。

B見逃された諸藩の傾向−幕府からの自立傾向を強める諸藩−

 さらに教科書の記述の三つ目の誤りは、薩摩藩や長州藩に見られたような幕府からの自立傾向が、他の多くの藩にも見られていることを見逃したことである。
 すでに幕府の天保改革の項で見たことだが、諸藩は、外様だけではなく譜代も家門も含めて、それぞれの大名家は幕府から自立する傾向を強めていた。とりわけその顕著な現われが、それぞれの藩が藩財政の危機に陥る中で、藩財政を健全化するために「国産の奨励」を行い、その国々の特産物の販売を藩が一手に握ってその利益を独占しようとしていたことであった。この場合諸藩は、全国的な商品流通の要である大坂に自国産品を輸出する際の販売元を藩直営の商社に一元化して、その輸出量や品質を調整したり、大坂での自国産品の取り扱いを特定の商人の株仲間に限定することで、大坂での自国産品の価格をできるだけ吊り上げて利益を拡大しようとしていた。しかしこれでは大坂の諸品の価格は高騰し、大坂からの商品の輸入に頼っている江戸や関東の物価はさらに高騰する。この結果として幕府や旗本御家人の出費はかさみ、その財政難はさらに深刻化するのであった。だからこそ幕府は、天保改革の一環として藩専売制の禁止を布告したのだが、諸藩はこれを無視して専売制を維持した。独立国である諸藩の内政事項である専売制の実施を統制するには、諸藩内に幕府と共同歩調をとる強力な一派が存在しない限りできることではなく、幕府は独立国である諸藩の内政に干渉できないからであった。
 このように天保期においてすでに、諸藩はそれぞれの独立国としての利益に目覚め幕府からの自立傾向を強めていた。だからこそ、藩専売制禁止の幕府の布告を無視したのだし、直接的に諸藩の稼ぎ所である江戸や大坂周辺の諸藩領を取り上げる政策である上地令に対しては、外様・譜代・家門の区別なく諸藩が連合して反対し、幕府中心の中央集権国家である日本を作り上げようとした老中水野忠邦以下の改革派を葬ったのだ。
 しかし「つくる会」教科書は、諸藩において専売制が進行していたことと、このことが諸藩の幕府からの自立傾向の強化であったことにもまったく目が行かず、なんら説明することはなく、幕府の天保改革の項でも、幕府が藩専売制を禁止したことも記述せず、「雄藩の改革」の項で突然、何の説明もせずに専売制の実施を記述するという大きな誤りをしている。
 薩摩・長州藩の天保改革に見られる傾向は彼らだけではなく、多くの藩においても同じ傾向が見られたことを把握しないと、これ以後の鎖国維持・開国をめぐる激しい政治闘争の様相の意味するところは理解できない。

C幕府崩壊・西南雄藩による新政府樹立を歴史的必然とする誤った歴史観

 最後に教科書の記述の四つ目の大きな誤りは、以上のような幕府天保改革の失敗の原因を見誤ったり西南雄藩の藩政改革でその財政改革が成功したと事実を誤認するもととなった歴史観の問題である。教科書は、幕府の改革が失敗したにもかかわらず西南雄藩の改革が成功したことをもって、これが直接的に幕府崩壊・新政府樹立に繋がったかのような記述をした。この点の誤りはしっかり把握しておく必要がある。
 これについては詳しくは次の近代編1の幕末政争の過程を見る諸章で論じるが、幕末政争の過程を詳しく再検討すると、そこにおいては幕府崩壊・西南雄藩による新政府樹立は歴史的必然などではなかったことがわかる。
 幕府も天保期の改革は諸大名の反対で失敗したが、 寛政期以来の異国船来航に対応した改革を指向する中で、幕府内部には世界情勢にも明るく、新時代に対応した政治のあり方を考える実力をもった幕府官僚層が形成されていた。これらは主に幕臣の中の中下士層から補充されたことは、諸藩の藩政改革と同様である。幕府の中にも西欧列強のアジア 侵略に対抗するための人的資源が蓄積されていたのだ。
 この事実を背景として、実際に黒船が来航してその武力の前に開国せざるを得なくなった状況の中で、そして幕末政争が激しくなるなかで幕府は、攘夷を唱える長州藩と武力衝突を起こす 。この過程で新たに将軍に就任した15代将軍慶喜の主導の下で、積極的に幕政改革を行った。
 そこでは、西洋式の軍政改革や財政の一元化などの改革を行い、諸藩をも廃止して大統領としての将軍の下に、全国を一元的に管理した中央政府を樹立して侵略に対抗できる統一国家を自らの主導下で樹立しようと動いたのだ。こうなると幕府は、全国の三分の一を領有する巨大な国家であり、これに徳川氏の覇権の下で諸藩を統一しようと考える徳川氏の家門大名である越前福井藩や尾張藩、そして同じ考えで行動した外様雄藩である土佐藩や広島藩などを加えると、徳川氏中心の統一国家を作ろうとする大名の派(公武合体派として知られる)は大名の多数を占め、幕府を武力で打ち倒して新政府を作ろうとする薩摩・長州藩に同調する藩はなく、彼らこそが孤立していたのであった。
 だからこそ、諸藩の賛同を得て、倒幕派を少数派に陥れることを狙って、「徳川氏が諸大名会議(=公儀政体)の議長または大統領として政治の実権を握り日本を統一国家にしようとする」構想を持った慶喜によって大政奉還がなされたのだ。そしてこれに対抗して、倒幕派公卿らと組んだ薩長による宮廷クーデターが行われ王政復古の大号令と倒幕の密勅が出されて、鳥羽伏見において薩長両藩が旧幕府軍に先制攻撃を仕掛けてこれを破り、そのまま武力討伐へと既成事実を積み上げる荒業が実行されたのである。さらにこの時の旧幕府首脳陣の判断ミスがあって、徳川氏主導の国家統一は潰えた。
 従って幕末慶応年間においてさえ、政争の行方は不確定であった。それゆえその30年前になる天保の時点においては、日本の統一はどうなるかまだ判然とはしなかった。いや統一を構想していた人は極少数であったのだ。
 残念ながら「つくる会」教科書の記述は、歴史を結果を前提にして判断する誤ったものであり、これは現在の時点においては、他の多くの教科書も共有する誤りである。

(2)藩自体を巨大な商社に変貌させた長州・薩摩藩の天保藩政改革

 つぎに、長州藩と薩摩藩の天保改革を具体的に見てゆこう。

@膨大な借金の減額措置−利子踏み倒しと元金の長期返済への組み換え−

(a)藩士や百姓の暮らしを圧迫する巨額な負債
 長州藩と薩摩藩の幕末における財政状況は以下のとおりである。
 長州藩の財政状況は、田中彰著「幕末の藩政改革」に引用された三坂圭治著「萩藩の財政と撫育」という研究に基づいてつくられた財政表に依拠すると、以下のようになっていた。
 天保9(1838)年における累積の負債総額は、銀貨で9万2026貫余(金貨で147万2416両余=約1766億8992万円)。そしてこれに対する毎年の元利年賦償還額は、毎年1万2175貫 (金貨19万4800両=約233億7600円)におよぶ高額なものになっていた。これは天保11(1840)年の藩の経常歳入額と比べても、負債総額は経常歳入額の24倍、元利年賦償還額は経常歳入額の3倍強にも上る巨額なものであった。そして負債総額は天保11(1840)年になると若干減少し、総額8万5252貫余 (金貨で136万4032両=約1636億8384円)となったが、これでも同じ年の経常歳入総額3790貫余(金貨で6万640両=約72億7680円)の22倍、この年の元利償還額の9233貫 (金貨で14万7728両=約177億2736万円)は、経常歳入の2倍強である。
 天保11(1840)年の財政状況を詳しく見ると、経常歳入が銀にして3790貫余(金貨で6万640両=約72億7680円)だというのに、経常歳出は総額4843貫余 (金貨で7万7488両=約92億9856円)。差し引き349貫余(金貨で5584両=約6億7008万円)の赤字となり、これも累積債務に加えるしかなかった。この上に、長門の国の商人や大坂の商人などからの借金の当年の元利年賦償還額(特別支出)は先に見たように、9233貫 (金貨で14万7728両=約177億2736万円)と巨額に上っているのだから、長州藩財政は完全に破綻していたと言わざるをえない。
 そこで長州藩はこの財政状況をなんとか補うために、特別支出の補填分として、家中の侍の給与の半分を召し上げたり、さらに百姓等に一軒あたり5升の米を上納させたりした分として、銀5244貫 (金貨で8万3904両=約100億6848万円)ほどを用意し、さらに、江戸屋敷の支出や国許の支出を倹約してひねり出した575貫余(金貨で9200両=約11億400万円)をつくって、この年の元利年賦償還額の補填として計上していた。
 しかしこれほど藩士や百姓を締め上げて捻出した金額を合わせてもその年の元利年賦償還額には及ばす、3413貫(金貨で5万4608両=約65億5296万円)が不足していた。ということはこの不足分がさらに新たな借金として計上されていたのだ。
 一方薩摩藩の財政状況はどうであったのか。原口虎雄著「幕末の薩摩」によって見ると以下のとおりである。
 文政10(1827)年の借金総額は、銀で32万貫余、金に換算して512万両(約6144億円)にもおよぶ巨額なものであった。そして当時の通常の金利の1割2分から考えると、毎年の利息だけでも61万両 (約732億円)にはなる。
 ところが薩摩藩の経常歳入は資料によって多少異なるが、12万両(約144億円)から18万両(約216億円)。これでは利息だけでも歳入の3〜5倍。これに元金の年賦返済額を加えたら膨大な返済額になっていたことであろう。
 従ってこの巨額な借金返済のために、藩士たちは悲惨な生活に陥っていた。
 藩士の給与は恒常的に半分藩に召し上げられ、さらに毎年の禄米の遅配が起こる。このため例えば江戸詰めの藩士が雇う奉公人に対する給与が支払えず、ひどい時には13ヶ月も支払えないというありさま。このため国の家禄を売り払って(家禄をもらう権利を他人に譲渡して)その金で奉公人に対する給与を支払うしまつ。おなじことは大坂詰めの藩士や国許の藩士も同様であったため、人夫を雇っても手間賃を支払わず、日々の買い物の支払いもしないため、薩摩藩士の家には誰もよりつかなくなったそうな。このため人も雇えないので屋敷の掃除もできず、表門と玄関だけを家人で掃除していたため、屋敷中に雑草が生い茂って馬の秣場にできるほどの荒屋敷になってしまったそうだ。
 また藩財政も窮乏の極にいっていたため、例えば参勤交代の費用すら捻出できない。このため藩士の家禄からさらに特別徴収も行い、百姓や町人にまでも借上げと称して臨時徴収をかけ、それでやっとの思いで江戸への参勤に出たものの、途中で路銀が不足して宿代を支払えなくなり、大坂藩邸のものが走り回って借金をしてようやく宿代を払って江戸に出立するというありさまであった。

(b)返済圧力を減らすための財政改革−利子踏み倒し元金長期年賦返済返済への組み換え−
 どちらの藩も、完全に藩財政は破綻していた。しかもこのままでは毎年借金は膨れ上がり、毎年の元利返済額も増えていくだけであった。これにたいして長州藩・薩摩藩はどのように対処したのか。
 長州藩がとった方策は以下のとおりである。
 天保11(1840)年、藩主相談役として藩政を動かしていた村田清風は、藩の上下の官僚から意見を聴取し、その意見に基づいて、毎年の借金返済圧力を減らすために思い切った方策をとった。
 一つは天保11(1840)年に行った藩の借金に対する利下げ要求であり、これによって天保13(1842)年には、総額8万貫(金貨で128万両=約1536億円)から9万貫(金貨で144万両=約1728億円)もあった借金のうちの3万貫(金貨で48万両=約576億円)を償却し、毎年の借金返済額を減額することに成功した。
 さらにもう一つは、藩士救済策であって、天保14(1843)年に実施した、37ヵ年賦皆済仕法と呼ばれた方策である。
 藩士が藩から行った借金については、銀1貫目(銭1000枚=1000目)に対して毎年30目の割合(すなわち毎年3%)で37年間納入すれば、これをもって皆済とし、藩士が藩内商人から行った借金の返済は藩が肩代わりし、藩士は藩からの借金と同様な方法で返済するというものであった。
 そして藩が藩士から肩代わりした藩内商人からの借金の返済条件は、37年間元金据え置きにしたうえで、その間は利子として年に2朱を支払い、37年目に元金を皆済するという方法であった。 つまりこれは、銀1貫に対して2朱を毎年返済するというもので、銀1貫は金16両、1両は16朱だから16両は256朱。つまり毎年の返済額はなんと元金の0.8%弱というひどい返済条件だった。
 またこの場合、これ以前に元金の償還を希望するものには、年に銀5朱 (約3万7500円)ずつ下付することとし、元金の早期償還を希望するものが多い場合には抽選によって処理するというものであった。 しかしこれでも銀1貫に銀5朱なのだから、毎年の返済額は約2%弱に過ぎず、しかも抽選というのだから、藩士に金を貸した商人は大損であった。
 藩が主に借金した大坂商人に対しては利下げという方法で対処したのに対して、藩内の商人には、元金返済を37年間据え置いて、その間は僅かばかりの利子しか支払わないという過酷な条件を押し付けたのだ。その上この財政改革の見返りとして、大坂商人には毎年「合力米」と称して数俵から百数十俵におよぶ扶持米を下付したが、藩内商人には、こうした優遇措置はとらなかった。
 藩の専売制によって集められた国産商品の大坂での売りさばきに支障が出ることを恐れて大坂商人には、利子減額に対する反対給付を行ったが、藩内商人には大幅な利下げと元金返済猶予を行った上に何の援助もなく、その上、藩専売制の強化によって、藩内商人の利益を奪い取ったわけだ。
 こうして長州藩は巨額の借金返済額を減らして財政をより自由が利くものに変えようとしたのだが、これによって毎年の赤字体質がなくなったわけではないので、藩士に対する家禄からの召し上げや諸事倹約令は続行され、藩士の暮らしも決して楽になったわけではなかった。そして百姓等に対する臨時の借り上げも続いたし、藩専売制の強化によって、商品作物栽培に伴う百姓の利益も大いに奪い取られる状況には代わりはなかったのだ。  
 一方薩摩藩がとった方策はどうであったのか。この藩も思い切った方策を実施している。
 家老として藩政を動かしていた調所笑左衛門(広郷)は、江戸や大坂の商人や薩摩の商人に対する新古を問わず全ての借金を250年賦の無利子償還という思い切った方策を実施した。天保6(1835)年と天保7(1836)年の実施である。この方策をとると薩摩藩の毎年の借金返済額はおよそ銀にして1280貫、金で2万両余(約24億円)となり、今までの利子だけでも年に銀で3万8400貫・61万両(約732億円)返済となっていたのを大幅に減額する方法であった。
 しかもこの無体な方策の実施の仕方が無法であった。
 古い証文を書き直すからと偽って借金証文を差し出させ、これを全て焼き捨てた上で先の条件を申し渡したのだから、商人たちの憤懣はいかほどのものであったか。この結果大坂商人は、このような仕法の 元締となって動いた薩摩藩出入りの商人・出雲屋孫兵衛(彼は文政年間に薩摩藩が巨額の借金に苦しんでいて新たな借金もできない時に、藩の懇請に応じて新規の貸主となり、多くの大坂商人をその仲間に引き入れたことから、その褒賞として藩士とされ、浜村孫兵衛と名乗り、藩専売の黒糖などの専売権を得ていた)を大坂町奉行所に訴え出たが、藩はお咎めを受けることなく、処罰されたのは出雲屋だけで、それも大坂三郷所払いに過ぎなかった。
 こうして薩摩藩は犯罪すれすれの方法で借金を減額することに成功したのであったが、これによって藩士の家禄召し上げや百姓への特別徴収がなくなったわけではないことは、長州藩と同様であった。 

A藩自体を巨大な商社へ変貌させた藩政改革

 以上見たように、長州藩・薩摩藩の天保改革は、財政改革という点から見ると、「つくる会」教科書が記述したように、財政建て直しに成功したわけではなかったのだ。 両藩が取った措置は、莫大な借金を減らし、毎年の返済額を減額するものに過ぎず、藩財政の苦しさは継続していた。
 ではこれらの藩の天保改革の眼目は何であったのか。何を持ってこれを従来成功したと評価してきたのか。この点を明らかにせねばならない。
 まず長州藩の場合を見ていこう。

(a)藩財政とは別枠の資本増殖を目的とした部局の設置−長州藩の場合−
 長州藩では天保時代よりかなり以前から、藩財政とは別枠で資本増殖を目的とした部局が設置されていた。これが撫育局である。
 撫育局は、宝暦12(1762)年に完了した検地で新たに打ち出された高4万1600余石(以前の検地以後に新たに増大した田畑の取れ高)を財源として、従来の藩財政とは独立した別途会計として宝暦13(1763)年に設置された長州藩の機関である。撫育局はこの資本を元手にして、あるいは専売制に、あるいは新田開発に、あるいは越荷方ないしは貸銀所という藩外に対する金融・倉庫業を営んで資本を増殖した。越荷方は下関に設置され、下関を経由して大坂〜北国・蝦夷地を経由する西廻り航路を航行する北前船を相手に金融業や倉庫業を営んでいた藩の部局であり、貸銀所も藩外に対する金融業を行っていた藩の部局で、その起源は、撫育局設置に伴ってその資本増殖を目的として設立されたものと思われる。
 撫育局の資本増殖は好調で、18世紀末の寛政年間以後は大体毎年3〜4000両(約3億6000万円から4億8000万円)ないしは4〜5000両 (約4億8000万円から6億円)を蓄えたといわれており、宝暦13(1763)年から安永7(1778)年には、撫育局から藩財政に対して補助や貸与として移動された資本金総額は銀9740貫 (金貨で15万5840両=約187億80万円)にものぼり、安永7(1778)年のそれは銀2000貫(金貨で3万2000両=約38億4000万円)、寛政12(1800)年のそれは銀5323貫 (金貨で9万3168両=約111億8016万円)にも及んでいた。この撫育局から藩財政への補助金額は、先に見た天保年間の毎年の藩財政歳入額がおよそ3700貫余 (金貨で5万9200両=約71億400万円)で毎年の不足額が350貫余(金貨5600両=約6億7200万円)であり、毎年の借金返済のための特別会計における不足額が3400貫 余(金貨で5万4400両=約65億2800万円)であったことを考えれば、長州藩にとっては撫育局の黒字が、これらの赤字を埋める重要な財源であったことがよくわかる。
 従って毎年の借金返済額を大幅に削減できれば、従来これらの赤字額を補填する役割を担っていた撫育局の資本金は、藩が自由に使える財源となったことは明らかであり、この自由裁量の財源があったからこそ、長州藩は天保改革以後、大規模な兵制改革にともなう武器の購入や蘭学の導入などを行えたのである。
 さらに長州藩の天保改革では、この撫育局の資本などをさらに増殖させるために、下関の越荷方を拡大強化している。
 すなわちここでの貸付は一口銀3貫目または金50両を最低とし、それ以下の小口の貸付は許可せず、利子は月に9朱(つまり利率は月1分1歩ほどで年利1割3分ほどの高金利)として期限は3ヵ月。期限内に返納しない場合には、利上げと質物追加を命じるかなり藩に有利なものであった。質物は、酒・醤油・油などの水物類と売券・証文・古手形や油種などの禁制品は一切受け付けず、米や綿・塩・干鰯などの主要貿易品をとって、借金が返済できないときはこれを藩が大坂で売って利益を上げる仕組みになっていた。
 そしてこの実際の運用は、下関や長府などの有力商人数名を頭取として選任して運用にあたらせたが、運用にあたっての損失の全責任は頭取に負わせ、藩は利潤のみ得る仕組みになっていた。ただし、利子9朱のうちの2朱は頭取に与えられ、残りは別に貯蔵する仕組みとなっていた。
 藩そのものが有力商人と組んで、巨大な商社となっていたわけだ。
 天保期におけるその財政状況は不明であるが、文久元(1861)年に、嘉永3(1850)年より10年間の平均を標準として将来の歳出入予算を算定した予算書によれば、歳入は米2万5996石余・銀250貫余で、歳出を差し引いた利益は、銀304貫余(5073両余 =約6億876億円)となっている。そして幕末維新期においては撫育局はおよそ4000貫(金貨で6万4000両=約76億8000万円)の資本を有し、これを回転して資本増殖を図りながら、増大する武器購入や藩外交費用を弁済して行ったのだ。そして幕末維新期においておよそ100〜150万両 (約1200億円〜1800億円)を費やしてもなお100万両(約1200億円)前後残っていたといわれている。

(b)国産物の藩外移出を許可制とし生産に高額の税金を貸す−長州藩の場合−
 また長州藩の天保改革では、国産品の藩専売制度に改革を加えている。
 長州藩ではすでに18世紀の中ごろの宝暦年間以後藩外の産物の移入の統制と国産奨励が行われ、さらに、19世紀前半の文化・文政年間には各地に産物会所を設けて国産の特産物を百姓からこの会所が一手に買い取って藩外に販売する藩専売制度を取って来た。しかし藩が商品作物の利益を独占するこの制度に対する百姓や藩内商人の反発は激しく、これが天保2(1831)年の各地の産物会所などを焼き討ちした大一揆を起こす結果となった。
 この藩内情勢を背景として、長州藩は天保改革において、藩専売制に大幅な改革を行った。
 藍の専売については天保大一揆を受けて、天保2(1831)年8月に事実上藍専売制を廃止した。また綿織物についても、天保14(1843)年には専売制ではなく、藩内および藩外への流通には全て「綿布口銭」をかけて流通させるよう改革し、綿織物の流通はすべて藩の「制道場」経由にして流通税を課すこととした。この綿織物流通税は、天保14(1843)年のそれは総額46貫余 (金にして約736両・およそ8832万円)にもおよび、藩の純益は39貫余(金にして約624両・7488万円)にも及んだが、その後幕末までの綿織物生産高は増大したのに口銭は増えていないので、藩による流通統制はうまくいっていなかったことがわかる。
 また天保12(1841)年には櫨蝋専売制も中止し、以後は櫨蝋の国内販売は勝手とし運上銀も廃止した。しかし櫨蝋の藩外への販売は禁止され、藩外への販売を許可された手形を持った者のみへと変更した。
 これに伴って従来は櫨蝋の生産は請負制であったのを廃止して勝手次第としたが、その際、運上銀を一面木について1貫200目(約19両強・およそ230万円)徴収することとし、それ相応の質物をとって運上銀未納に備えることとした。また、今後は櫨実の豊凶による運上銀の増減は、絞り種が平年の半減にでもならないかぎり原則としてなしとし、生産者がどんなに困っても借銀はしないと、厳しい条件をつけている。この新制度の運上銀は、文政年間のそれの一面木について500目に比べれば二倍強となり、櫨蝋の生産と国内販売を自由化した代わりに、高額の税金を化して藩の収入を増やそうとするものであった。
 国産物への高額の税金を課したり国外移出を原則として禁止したことは、藩それ自体が巨大な商社へと変貌したことを示し、こうした国産物への課税から得た利益や国産物の藩外への販売で得た利益を、越荷方や貸銀所へ投資して、さらに増やしていたのであった。
 しかし天保期だけではなく、1853(嘉永6)年のアメリカ使節ペリー来航以後はこれまで以上に新しい軍備の充実などに巨額の財政投資をせねばならず、別会計の撫育局の財政は黒字であってもこれを全て武器購入や幕末政局での活動費用に当てねばならず、藩財政の巨額の借金はそのまま残されてしまった。
 長州藩の財政資料によると、1871(明治7)年の廃藩置県時における長州藩の負債は、天保15(1844)年から慶応3(1867)年の分が3万1390貫(約50万2240両、およそ602億6880万円)、以後の新規の負債が1万1381貫(約18万2096両、およそ218億5152万円)、合計で総額4万2771貫(約68万4336両、およそ821億2032万円)と、巨額なものであった。この借金はこのまま明治政府に引き継がれた。

(c)国産物の藩専売制を強化し利益を藩が独占する体制をとる−薩摩藩の場合
 薩摩藩では、長州藩とは異なって、天保改革においては国産物の藩専売制が強化された。
 この藩は百姓・町人人口に対する武家人口が他の藩の場合の5倍にも達し、明治維新時の調査によると、全人口の26%余にも及ぶ20万人余もの多くの武士がいた。薩摩藩の平民の人口は57万人余だから平民と士族の人口比は2.8、平民3人弱で武士1人を養っている格好であった。この比率は全国平均では16.5で、平民17人弱で武士一人を養う勘定だから、薩摩藩の武士人口は他藩のそれに比べて5倍もの高率であった。
 薩摩藩ではこの膨大な武士人口を城下町に集住させることは少なく、外城と呼ばれるいくつかの行政区域毎に集住し、さらにそれぞれの行政区域内の村にも多くの郷士と呼ばれる最下層の武士が住んでいた。この郷士たちが行政区域の行政を司るとともに村の行政にも携わっているのだから、百姓の藩行政にたいする不満の多くは、それぞれの村の中で処理され抑えられて外には出にくい仕組みになっていた。
 このため薩摩藩では、他藩に比べて国産物の藩専売制に対する百姓一揆などはほとんど起こりえない状況になっていたのであった。
 このような特異な環境を背景にして、薩摩藩では天保年間以前から国産物の藩専売制をとっていた。 しかし土質の悪い生産力の低い地方で過酷な専売制を敷いた為に百姓は困窮し、多くの百姓が村を捨てて離散していた。従って国産物の藩専売制を強化するといっても、ただ単に収奪を強化するわけには行かなかった。
 薩摩藩天保改革を主導した家老・調所笑左衛門は、国産物専売制を基礎にしてその収穫を増やすために、思い切って資本投下したり、当該の先進地域から進んだ技術を導入したり、さらには 個々の産物の開発担当として有能な商人を抜擢して、産物の増産に当たらせた。
 米については、20名余の受持ち郡奉行を任命して農事の指導監督にあたらせた。そして、施肥除虫に骨粉・鯨油を用いるようにさせたり脱穀にはじめて唐箕を導入したりと技術を改善し、俵の胴を機械で締めた丈夫な米俵を導入したりして、収穫高の増大と大坂での米販売増を図った。
 菜種子では、唐箕や千石通しなどの先進的な道具を導入して菜種子の精選を進め、紙袋に入れた上で俵に詰めたため、大坂市場では極上品の評価を得て高値で売買された。さらに菜種子の藩直買い入れ制度を廃止して自由販売として百姓の生産意欲を向上させ、藩に「牛馬鯨骨方」という役所を設けてこれを商人に運営させ、藩の資金を導入して安値で骨粉を百姓に配布して菜種子を買い上げさせたので、藩の直買い上げ制当時よりも生産量を増やし藩に入ってくる菜種子を増やすことを可能にした。
 さらに、薬種についても、藩の「薬種方」に有能な商人を任命して薬種の栽培・買い付け・販売を請負わせ、大坂には専任の販売担当者を置いて大坂での薬種取引事情を調べさせたりしたため、大坂での薬種の販売実績は増大した。
 また特にこの改革で力を入れたのは、櫨蝋の増産と品質向上であった。
 櫨蝋についても有能な商人を担当に任命して先進地の中国地方を視察させ、かの地の進んだ技術を導入して国産品の品質を向上させた。そして先進地の筑後松崎から接櫨の上手を招いて櫨木栽植の指導に当たらせ、櫨蝋の増産に励んだ。
 さらに薩摩だけの特産物である琉球欝金の価格を上げるため、琉球以外の地域での栽培を禁止するとともに、密売を厳しく取り締まり、大坂での欝金の販売価格を上昇させることに成功した。
 このように薩摩藩天保改革においては、藩内の多くの国産品の藩専売制を強化するとともに、商人の力を借りて先進技術の導入などによって国産品の増産と品質向上を図って、大坂での販売価格を上昇させて独占的利益を図ろうとしたのだ。 ここでも薩摩国内の産物については、藩専売制と言っても従来の藩一手買いではなく自由販売にして、藩の商社が栽培技術の向上指導や安値での肥料提供などの利益誘導策を講じて、百姓の生産意欲を向上させた上で、事実上の一手買いを実現していることが注目される。
 この点で武家人口の多い辺境薩摩でさえも商品経済の発展は押し止めがたく、百姓の利益を根こそぎ取る方法はすでに取れなかったのだ。この点が事実上の植民地である奄美諸島と琉球とへの対し方と異なるところである。

(d)植民地としての奄美諸島と琉球からの巨大な利益を基盤とした−薩摩藩の場合
 しかし薩摩藩の天保期における「殖産興業」政策を見るときに忘れてはないないことは、この藩は日本国内の藩で唯一、植民地を持っており、この地から得られる特産品の貿易で巨大な利益をあげていたことである。
 薩摩藩の植民地としては、奄美諸島と琉球とがある。このうちの奄美諸島で栽培されるサトウキビから得た黒糖が大坂市場で巨大な利益をあげており、琉球については、琉球と中国との貿易を通じて得た外国産品を長崎を通じて販売することを認められたおり、ここから薩摩藩は大きな利益を上げていた。
 奄美大島でサトウキビの栽培が始まったのは、17世紀後半の元禄年間のことであり、薩摩藩も当初からこれに目をつけ、利益を絞り上げる体制を築いた。その当初の体制は、「黍横目」(サトウキビを人頭に割り当てて苗を植えさせ、黒糖の増産を図る監督官)・「津口横目」(黒糖の密輸を監視する港の監督官)・「竹木横目」(黒糖樽用の木などの繁殖を図り乱伐を監視する監督官)を置いて黒糖の増産と密貿易を監督させるものであり、徳之島にもやがてこの制度が施行された。しかし、これらの監督官には奄美大島の有力者を当てており、黒糖生産の利益の全てを薩摩藩が搾り取るものではなかった。
 しかし18世紀中ごろの宝暦年間にはこの方針が変更され、島民の黒糖生産を厳しく監視するとともに黒糖一斤を米三合と交換させる厳しい搾取法が施行された。この結果奄美諸島の百姓が黒糖生産によって得た利益の多くは薩摩藩が取り上げ、暮らしに困った百姓たちが一揆を起こすに至った。
 さらに安永6(1777)年には黒糖専売制度が設けられ、奄美大島・喜界島・徳之島では黒糖の売買が禁止されて、島民の日用品は薩摩藩が支給する体制がとられた。 そのうえ、黒糖生産を妨害すると考えられた島民の風習の全てが禁止された。
 すなわち島民の信仰の核であるノロ(巫女)の活動を制限し、多くの神事を廃止してその権威の破壊につとめた。ノロが神山であることを理由にしてサトウキビ栽培のための開墾を禁じたことなどがあったためである。
 さらに百姓が農作業を休む「遊日」を禁止し、一年を通じて全てサトウキビ栽培に専念させることとした。
 すなわち、「遊日」は全部で年間35日におよび、正月元旦・2日・16日、2月火玉遊び・稲置、3月3日、4月初午、5月5日・アスクネ遊・虫カラシノ遊、6月稲刈の日、7月7日・16日、8月節句・柴サシ・鈍賀、9月9日・庚申日・種カシの翌日、11月折目・ぞうり遊などの全国の何処の農村でも見られた、季節季節の農作業に応じた骨休めの休日であった。
 これらの休日を全部禁止し、一年中黒糖生産に励めというのが薩摩藩の政策であった。
 だが厳しい財政難に直面した薩摩藩は、さらに奄美諸島に対する収奪を強めていった。これが天保改革での第二次砂糖専売制である。
 藩は藩の部局として三島方を設け、奄美諸島を統治させた。
 この改革ではまず島民に田を干してサトウキビ畑にかえさせ、稲作を禁止した。そして15歳から60歳の成人男子を基準として女はその半分として耕地を支給し、冬に地ならしをして正月にサトウキビの苗を植えつけさせ、違反者は処罰。さらに、サトウキビ収穫時の刈株が高いと札をつけてさらし者にし、砂糖を指先につけてしゃぶっただけでも鞭で打った。さらに砂糖の製法が粗雑であったりしたら、首かせや足かせをつけて罰するなど、島民が精一杯サトウキビ栽培と黒糖生産に勤しむことを強制した。
 その上で島民に商売を禁止し、年貢として差し出した黒糖の残りの黒糖を薩摩藩が支給する日用品と交換して差し出させ、島民が作った黒糖の全てを薩摩藩が収納する制度を設けた。これが第二次砂糖専売制であった。このため、禁を犯して黒糖を売買したものは死刑に処し、売買に同意したものも遠島にするという過酷な刑罰が定められた。
 しかし日用品と黒糖の交換にはカラクリがあった。
 すなわち例えば、米1升と黒糖5.07斤を交換する仕組みであったが、大坂での天保年間の黒糖の値段は5.07斤で米6.2升に相当する高価なものであったのに、奄美諸島では米1升と大幅にぼられていたのであった。薩摩藩は日常品と黒糖の不等価交換を行って島民の富を徹底的に奪い取ったのだ。
 このため改革後の10年間に、黒糖1億2000斤を得て、代銀として235万両(約2820億円)と、それ以前の10年間の売り上げ額136万6000両(約1639億2000円)から大幅の収入増を実現したのだ。
 琉球は奄美諸島とは異なって、薩摩藩は直接支配を行わなかった。それでも琉球は薩摩藩にとって藩の収入を補うドル箱であった。
 薩摩藩は琉球王国に薩摩藩が入用な唐物を多数中国から輸入させることができ、それを大坂で販売して巨額の利益を上げることが出来た。
 江戸時代当初から主な輸入品は中国産の生糸と高級絹織物が中心であったが、次第にこれに加えて、薬種や羅紗などの羊毛の織物、さらに染料や鉛などが加わり、これらは日本で産出しないものであるから、大坂市場で売買すれば高値で売れるものばかりであった。これに加えて薩摩藩は、琉球から多量の黒糖を手に入れることができた。これは中国との貿易決済は銀で行われるのだが、銀を産出しない琉球は、薩摩藩から銀を借りるか、薩摩藩の信用を背景にして大坂商人から銀を借りて貿易決済を行うしかなかった。このため琉球の借銀は膨れ上がり、1652年に琉球王府が砂糖の専売制度を敷くと、黒糖で借銀を返済するようになり、薩摩藩に多量の琉球産黒糖が手に入るようになったのだ。
 また琉球を経て手に入る唐物を長崎で売って利益を増やそうとした薩摩藩は、文化7(1810)年には幕府にむこう3ヶ年に限ってこれを認めさせ、緞子・羅紗・唐紙・臙脂や花紺青などの染料・鉛などに限って長崎で販売するようになった。そしてこれを足がかりにして長崎での唐物販売期限を次々と延長させ、薩摩藩は巨額な利益を上げていったのだ。この琉球を通じて手に入れた唐物を長崎で販売した利益は、この年に設けられた両隠居御続料掛の財源とされた。
 これは天明7(1787)年に隠居しても以後天保4(1833)年まで藩政の実権を握った第25代藩主重豪と文化6(1809)年に隠居した第26代藩主斉宣の二代にわたる隠居の経費を賄う部局であり、藩財政からは独立した部局であり、後にこれは「琉球生産物方」(通称唐物方)と改称され、奄美諸島の黒糖を扱う「三島方」と並ぶ、薩摩藩のドル箱となっていったのだ。
 しかしこれでも薩摩藩の財政の借金体質は改まらなかったようで、天保年間には、一分金や二分銀の偽造が大量に行われた。
 こうして薩摩藩は、藩内国産物の専売制度と、奄美諸島の黒糖の専売制、さらには琉球貿易で手に入れた黒糖や唐物を、大坂や長崎で販売して多額の利益を手に入れ、 さらに贋金まで作って利益をあげて、これを元手にして、天保11(1840)年には、藩庫に予備金として50万両(およそ600億円)を蓄え、さらに諸営繕費用として200万両 (およそ2400億円)を蓄えることができたのだ。この諸営繕費用は藩内の河川治水や道路建設などに利用され、藩内産業の発展をささえ、備蓄金は、第28代藩主斉彬の下で積極的に行われた、軍備の西洋化と武器の購入、さらには藩営の武器工場等を建設する資金に利用され、薩摩藩が幕末政治に大きな発言権を持って動く背景となったものである。
 しかし薩摩藩もまた巨額な負債は明治にまでそのまま持ちこされた。
 薩摩藩の負債は、文政10(1827)年では、銀で32万貫余、金に換算して512万両(約6144億円)にもおよぶ巨額なものであり、毎年の利息返済額だけでも61万両 (約732億円)であった。これを天保6(1835)年と天保7(1836)年実施の250年賦の無利子償還法によって毎年の借金返済圧力を減額し、毎年の借金返済額はおよそ銀にして1280貫、金で2万両 余(約24億円)へと減らした。これを1871年の廃藩置県の時まで毎年きちんと返済していたとはいえ、残された借金は巨額なものであった。
 正確な財政資料が手元にないが、1836年から1871年まで35年間実施したとみて、この間に返済した総額は銀にして4万4800貫(約71万6800両、およそ860億1600万円)でしかない。文政10(1827)年で負債総額は約500万両あったのだから、天保7(1836)年までの約10年分の返済額を引いても、明治初年において残額は400万両(約4800億円)以上あったことになる。
 この巨額な負債もまた、明治政府にそのまま引き継がれたのだ。

 以上見たように、長州藩と薩摩藩はそれぞれに異なったやり方ではあったが、藩それ自体が巨大な商社となり、藩の特産物の専売制度によって手に入れた産物を大坂や長崎で高値での販売を行ったり、金融・倉庫業などに進出して、年貢収入とは別個の財源を確立して行った。
 そして、天保年間までに積みあがった巨額な借金の全てを償還することは出来なかったが、こうした専売制度によって手に入れられる巨額な利益の一部を大坂の特権商人や藩内の有力商人にもそれを担わせることを通じて分配し、これを背景として巨額の借金の一部償還や利子の踏み倒しなどを行い、借金返済圧力を減らすことが可能になったのだ。
 このような藩それ自体が巨大な商社となって手に入れた力が、これらの藩が幕末政治に大きな発言権を持った背景であった。

B藩挙党体制の確立

 しかし、長州藩・薩摩藩の天保改革の成功は、こうした財源の確保だけではなかった。数次にわたる改革が断行され、その方向性を巡って藩内に激しい戦いが繰り広げられる中で、欧米列強のアジア 侵略の危機に対応して、独立国家としての藩を運営し、さらに日本それ自体の政治のあり方まで変えなければならないという強い意識をもった強力な藩官僚層をつくりあげたことも、これらの藩の藩政改革の成功した点であった。
 幕末の長州藩の藩政改革を主導した人々の多くは、中級藩士であった。
 長州藩天保改革を主導した村田清風(1783‐1855)は、藩主から任命されて藩諸掛の改革担当者となったのだが、彼の家禄は後に161石となったとはいえ、任命当初はわずか91石に過ぎなかった。そして彼とともに改革に当たった者たちも、多くても100石程度少ない場合は48石程度の中下士層に属する藩士であった。そしてこれは、改革担当者に対しては、その役儀に見合った額の家禄になるように足高が実施されていたことでも確かめられる。
 そしてこのことは、後に村田らの天保改革に対する不満を背景にして藩政の実権を握った坪井九右衛門一派にしても同様であった。
 長州藩においては、藩財政が逼迫したことによる国産物の専売制の強化にたいして、百姓・町人らによる専売制反対一揆が激発するという状況に対して、これまで藩政を担ってきた家老などの上士層に代わって、従来藩機構の下部において藩政の実務を担当しそれに習熟していた中下層に藩政改革への熱意が生まれ、藩政改革の必要性を認識した藩主によって彼らの代表者が改革担当に引き上げられ、このことによって多くの中下層が責任ある部署の責任者に任命されて藩政改革を実施していったのだ。
 彼らの中には藩政改革を実施するうえでの様々な意見の違いが存在した。それは藩の借金を減らすために商人や町人・百姓層や藩士層にどの程度負担を転嫁するのかを巡る意見の違いであったり、西欧列強のアジア 侵略を目前としたなかでの藩の軍政改革の是非や、さらには西欧列強の開国要求に対する対応の仕方についてなど、さまざまな対立があった。そして、これが藩内における激しい権力闘争・権力の度重なる交代を生み出したのだが、藩政の危機に際してその対策を巡って藩内に激しい論争を生んだことは、その中から、藩政改革を実際に担っていく有能な官僚層が生まれたことを意味している。
 このことは薩摩藩では多少状況が異なっていた。
 薩摩藩天保改革を主導した調所笑左衛門(1776‐1848)の家は、鎌倉以来の由緒のある家柄であったが、実際には藩士の中の最下層の御小姓組に属する下士であり、彼も彼の父もそして祖父もまた茶坊主に過ぎなかった。ただその職掌故に藩主の側仕える機会が多く、その才能を見込まれて藩政を預かる家老へと立身したに過ぎない。そして彼の腹心の部下として動いた人々の多くもまた最下層の下士であった。
 この点は、彼を重用した藩主・重豪や斉興の後に藩政を担った斉彬や久光を支えた層が、多くは上士層出身であったこととは大いに異なる。
 これは重豪の治世が、彼が「蘭癖大名」と呼ばれたことからも明らかなように、いち早く西欧列強のアジア侵略に備えて、藩学に蘭学を取り入れたりして洋学の研究に浸り、藩営の薬園を作って薬種の開発に努めたり綿羊の飼育と毛織物生産を試みて新しい産業の育成に努めたりしたことに示されるように、薩摩隼人の後裔であることを誇りにして、質朴勇武を尊ぶ古い薩摩武士気質を改革しようとしたことに関係していた。
 そして、重豪の藩政改革は極めて進取の気性に富むとともに、巨大な財政支出を伴うものであったため、旧来の薩摩藩政を是とする上士層には評判がよくなかった。そして巨大な財政支出によって藩財政が窮乏化したことで、藩財政の構造改革や藩政の構造改革が必要になってきたわけだが、このような旧制を変革することには、保守的な上士層は、彼らが旧制に依拠して利益を貪っていた故に批判的であった。このため藩政改革には、藩主の側近に 仕えていて気心が知れて才能のある、調所のような下士層出身者が起用されることになる。
 したがって重豪の政治に批判的一派は上士層を中心にして形成されることになるので、重豪と対立して斉興を擁立しようとした層や、重豪の死後、斉興にかわって斉彬を擁立した層などは、調所のような下層ではなく上士層であったわけだ。
 だが上士層を中心としたとはいえ、斉彬や彼の死後藩政を事実上握った久光の下でも、下層出身の有能な人々が多数登用されたことは、西郷隆盛(1827‐77)や大久保利通 (1830‐78)の例を見ても明らかであった。
 薩摩藩においては藩政に対する深刻な百姓一揆などは存在しなかったとはいえ、藩政の危機と西欧列強に取り囲まれた日本の危機とが同時に進行していたわけだから、上士・下士を問わず、多くの藩士層に危機意識を醸成したことは長州藩と共通しており、次第に実務に精通した中・下士層がその能力に応じて登用されたわけだ。
 こうして長州藩・薩摩藩においては、天保改革以後の数次にわたる藩政改革と藩内権力闘争を経て、危機の時代に藩政を舵取りしていく藩官僚層が形成されたわけである。ただしこれはこの両藩だけのことではなく、他の諸藩においても同様であったし、幕府においても、数次にわたる幕政改革を通じて、新たな時代に応じて幕政を動かしていく官僚層が形成されたことは忘れてはいけない。

C西南雄藩は洋学の摂取で軍事力の増強に努めた

 そしてもう一つ長州藩・薩摩藩の藩政改革で特徴的なことは、幕府の天保改革とはことなり、天保以後の時代において、洋学を積極的に学び、軍備を洋式化することで、積極的に欧米列強のアジア 侵略に対応しようとしたことである。
 一方幕府の場合では、アヘン戦争に象徴される欧米列強のアジア侵略の危機に積極的に対応して幕府中心の強力な中央集権国家を作り、積極的に洋学を学んで西洋式軍備を増強しようとした水野政権が諸藩の反対によって潰された後には、家門大名や外様大名を問わず雄藩の意見を気にしながらそれとの協調で幕政を進めようとする阿部政権が成立した 。しかしこの政権は前政権とはうって変わり、洋式軍備を整えようともせず、オランダが欧米列強の進出に対応した国づくりを応援しようと申し出てきた時にすら、これを拒否してしまう消極的な政権へと変化した。このため幕府は、嘉永 6(1853)年のアメリカ使節ペリーの軍艦による開国要求にすら、軍事力をもって対抗することができず、ペリーの翌年の再来航に備えた沿岸防備に際しては、いち早く最新式の鋳鉄製の大砲を唯一つくることが出来た佐賀藩に大砲200門を注文しこれで対応しようとした。依頼 を受けた佐賀藩は一度に200門は無理なのでまず50門を作って収め、この鉄製大砲は品川台場に据えつけられ、ペリーの再来航に備えた。天保改革以後の幕府は、このように欧米列強のアジア 侵略に対する対応は、西南雄藩に比べて遅れたのである。
 しかし西南雄藩はその地理的位置が、黒船が出没する地域にあり、近世日本の対外的な窓口に近いという特殊な事情を背景として、洋学を積極的に取り入れて西洋式軍備を着々と整えていたのであった。
 薩摩藩では、天保改革以前から洋学を取り入れていたが、弘化3(1846)年の琉球へのイギリス・フランス艦隊の来航を外圧として真剣に受け止め、翌弘化4(1847)年から大規模な軍政改革に着手した。
 しかもこれは、最新式の洋式の武器を購入し、大規模な洋式の銃砲を備えた軍隊の編成を行い、洋式の火器や戦術を取り入れる水準には留まらず、嘉永4(1851)年に島津斉彬が藩主につくと、洋式技術の導入により、銃砲・火器を製造する藩営の工場を設け、さらにはその元となる反射炉や溶鉱炉を建設し、さらには蒸気機関や蒸気船の建造など、積極的な洋式技術の導入と工業の導入を背景とした軍事力の増強へと道を開いていった。
 薩摩藩では安政2(1855)年には洋式帆船の建造に成功し、さらに佐賀藩の協力を得て安政3(1856)年には鉄製の大砲の鋳造に成功した。
 一方長州藩では、天保改革で洋学をすでに導入していたのだが、弘化2(1845)年には、青木研蔵を長崎に派遣して洋学情報を収集させ、弘化4(1847)年には、西洋書翻訳掛を置いて洋学を積極的に取り入れ始めた。そして嘉永元(1848)年には海岸防備を一層厳重にするために海防部署を定め、西洋砲術の研究を進めるとともに、嘉永2(1849)年には、見島軍用方を強化して、百姓や漁民の中から身体強健なもの百数十人を選びだして警備隊とした。そして嘉永6(1853)年には、一門以下全家臣団をして海岸防備を担わせ、沿岸を8区の部署に分けてそれぞれの兵員の数も定めた。
 ただし長州藩においては、自前の鉄製大砲の鋳造は行われなかった。
 安政2(1855)年に藩士が佐賀藩に出向いて大砲製造技術を実地に研修し、帰国後に反射炉の建造に着手したがうまくいかず、安政3(1856)年には早くも鉄製大砲の鋳造を諦めてしまった。このため長州藩では、元治元(1864)年の四カ国連合艦隊との馬関戦争においては、連合艦隊の高性能の鋳鉄砲に対して、旧式で性能の劣る青銅砲で対するしかなく、当然のことながら手痛い敗北を喫した。この点は文久3(1863)年の薩英戦争において、自前の鉄製大砲でイギリス艦隊に対して善戦した薩摩藩とは好対照であった。
 こうした洋学の積極的な摂取によって西洋式の軍備を備えた長州藩・薩摩藩は、この点において一歩遅れた幕府を差し置いて、嘉永6(1853)年のペリー来航以後の幕末政局に大きな発言権を得たのである。

(3)自立を強める諸藩−その他の藩の藩政改革

 また天保期やそれ以前から、長州・薩摩藩以外の藩でも、幕府からの自立を強める改革が行われていた。その全てを検討することはできなかったが、幕末における諸藩での国産品専売制施行の様子と、幕末政争にはそれぞれの立場で介入しえたいくつかの藩のこの時期の藩政改革について検討しておきたい。

@佐賀藩の藩政改革

 明治政府を担った雄藩の一つである佐賀藩の場合はどうであったか。
 この藩の場合も、藩財政は火の車であった。文化10(1813)年の場合でいえば、この年の藩の収入のうち46.3%が借金によるものであった。この理由として他の藩の場合とは異なる特殊な理由をあげれば、佐賀藩は隣接する長崎の警護を担当する藩で、19世紀ともなると周辺での異国船の出没が増える中で、武器の増強や防御施設の増設などに臨時の出費がかさんだことが挙げられる。さらに佐賀藩は、他の九州の諸藩と同様に諸産業の発展が遅れており、藩の国産品としては、佐賀平野の米と有田の陶器しかない状態であり、大坂市場で売買して巨利をあげる有力な国産品の乏しい藩であったことも挙げられる。
 このため佐賀藩では、かなり以前から殖産興業政策がとられていた。
 すなわち18世紀の後半の宝暦・天明年間からすでに、武器や農具や生活用品の国産化奨励策がとられており、天明3(1783)年には、里御山方・御山方・搦方・陶器方・牧方・貸付方の六つの部署を設け、米や陶器などの国産物の藩専売制を強化するとともに、蝋や石炭などの新たな国産物奨励政策が実施された。しかし米・陶器以外の産物が根付き、大坂などで佐賀産物として認知されるには長い時間を擁し、これがようやく実現したのは、第10代藩主鍋島直正(号は閑叟 :1814‐71)が藩主となった天保年間以後のことであり、天保年間における藩政改革は、小作料を制限して小農の没落を防いだり、蝋・石炭・陶器の国産奨励と輸出に努めたものであった。
 そして佐賀藩における兵制改革は、天保年間中に始まった。
 すなわち天保3(1832)年から6(1835)年にかけて佐賀藩では、藩士を相次いで長崎の高島秋帆に弟子入りさせて洋式砲術を学ばせ、秋帆は彼自身が鋳造した西洋式青銅砲を佐賀に持参し藩主に贈っている。さらに天保8(1837)年には秋帆を通じてオランダに各種兵器(鉄製の大砲や銃など)を注文すると共に兵書も注文し、天保11(1840)年には正式に高島流砲術を藩として採用する所まで行った。これは水野忠邦主導下の幕府のそれに比べて10年早い措置であった。
 さらに弘化元(1844)年にオランダから注文した鉄製の臼砲が届くとその性能に注目した佐賀藩主は、藩内に火術方を新設し、鉄製大砲製造の研究に着手した。嘉永3(1850)年には幕府の了解を得て、長崎湾口を守る砲台を新設するとともに、そこに最新式の鉄製大砲100門を作って配備する計画を開始した。この計画に要した費用は、20万両 (およそ240億円)と言われている。
 そして1826年出版のオランダ大砲鋳造書を手に入れて研究し、反射炉を建設し鉄製大砲の製造に取り掛かったのだが、西洋製に対抗できる性能の鉄製大砲が完成したのは嘉永5(1852)年のことである。この年以後次々と鋳造された鉄製大砲は、長崎湾口を守る佐賀藩砲台二ヶ所に据えつけられ、嘉永6(1853)年7月のロシア使節プチャーチンの艦隊の長崎来航に間に合ったのである。
 こうして佐賀藩は、幕末期において、日本有数の大砲製造藩として大いに活躍することとなり、佐賀藩が幕末に鋳造した鉄製大砲は300門をはるかに越え、幕府を始めとして、津軽藩や対馬藩などで、全国各地の海岸防備を担った。
 またさらに佐賀藩では、蒸気機関と蒸気船の研究にも取り組み、安政2(1855)年には蒸気機関で動く精巧な蒸気船の模型を作り、慶応元(1865)年には自前の蒸気船を作り上げている。
 しかしこうして佐賀藩は鉄製大砲や蒸気船を作れるところまで行ったのだが、蒸気船や小銃は充分な軍備を整えるに必要な数はつくる事は出来ず、これらは外国からの輸入に頼らざるを得ず、このため軍備拡充のための巨額な費用を要したため、藩財政を立て直せなかったことは他藩と同様であった。
 最後にこの佐賀藩の藩政改革はどのような人々によって主導されたのか。
 佐賀藩の場合は薩摩藩と同様に、天保元(1830)年に藩主に就任した第10代藩主鍋島直正(号は閑叟)(1814‐71)の主導の下で行われた。
 彼は自らの近臣であった儒学者などの優秀な官僚を用いて藩政改革を行うと共に、大坂などで蘭学を学んできた藩士を、たとえそれが下層藩士の出であっても積極的に登用して藩の重職につけて改革を進めた。このため下級藩士の出であったが、後に明治維新でも活躍することとなる江藤新平 (1834‐74)・副島種臣(1828‐1905)や、大隈重信(1838‐1922)・大木喬任(1832‐99)などの優秀な人材が育っていった。

A土佐藩の藩政改革

 幕末政局において、一時期は薩摩藩と組んで公武合体運動を進めたり、最後は幕府の大政奉還を企画するなど大きな役割を果たした土佐藩の場合はどうであったか。
 この藩も他の藩と同様に、近世江戸時代初期からその財政は借金体質になっていた。
 各年度ごとの会計資料が存在しないので江戸時代を通じての借金状況などは不明だが、すでに元和6(1615)年において、その負債は銀3000貫 (銀1貫=1000匁、金1両=銀50匁として、およそ6万両)を越えていた。また資料が存在する年度で収支を検討してみると、 宝永2(1705)年では、収入銀5330貫400目、支出銀5528貫800目、不足額は銀198貫400目に及んでいた。これが約30年後の享保18(1733)年には、収入銀3533貫、支出5951貫400目、不足額は大きく増えて2418貫400目となっていた。近世初期から土佐藩の財政は、深刻な借金体質となっていたのだ。
 このため藩は、借金を返済するためにも、近世初期から国産物の藩専売制を敷き、藩が一手に集めた国産物を大坂に運んで換金し、借金返済にあてることとなった。その国産物とは、紙・茶・漆・材木などであり、国産方役所を設けて豪商に請負わせ、藩内の産物を一手に集めさせた。しかしこれは百姓の利益を奪い取るものであったため、しばしば激しい百姓一揆を引き起こし、藩はこの圧力に負けて国産方役所を廃止し、ほとぼりがさめたころにまた設立して、まもなく再び一揆の圧力で廃止するということの繰り返しであった。
 それゆえ藩は、しばしば藩士に対して、その家禄の半知を命じ、家臣の家禄の半分を召し上げて藩財政にあてていた。
 記録によればそれは安永元(1772)年1月が最初で、この時は6月に四分の一に改められ、これは天明元(1781)年にも再度命じられ、寛政5(1793)年に免除されている。そして再び文化14(1814)年に半知が命じられ、この年には、借滞払方延期令すらだされている。あまりの財政困難に直面して、家臣の家禄の半分が召し上げられ、藩の借金の返済延期が強行されたのであった。またこの状況は幕末にも続き、 安政4(1857)年にも半知令が三度出されている。
 そして弘化元(1844)年には、藩士の下曽根信之に西洋砲術を学ばせ、この藩でも洋式の軍政改革の端緒が開かれた。
 しかし、欧米列強の進出に対応するためにこの状況を改善し、強力な藩をつくるための藩政改革は、アメリカ使節ペリーが来航した直後の嘉永6(1853)年11月に中士の吉田東洋 (1816‐62)が参政に登用されてから始まった。 そして彼の下で、後藤象二郎(1838‐97)や福岡孝弟(1835‐1919)・岩崎弥太郎(1834‐85)など中下士層からも優位の人材が輩出した。
 だが土佐藩においては上士層と下士層の身分差別が大きく、彼らの対立によって藩論は統一せず、これがため土佐藩は幕末政局においてそのもてる力にも関らずあまり積極的な役割を果たせなかった。 
 この安政期の藩政改革においては、国産物の統制が再び企画されて藩の役所が一手に国産物を集荷し長崎や大坂で販売するようになった。この形を集大成したものが、慶応2(1866)年の開成館設置であり、ここには軍艦局・貨殖局・捕鯨局・勧業局・税課局・鉱山局・火薬局・鋳銭局・医局・訳局が置かれ、藩そのものが巨大な商社へと変貌し、国産物の専売によって得た資金で、膨大な武器を購入した。
 しかしこの時においても近代的装備を導入する資金は巨額に上り、慶応2(1866)年から3(1867)年にかけての総購入高は、42万6000両(約511億2000万円)にも達し、結局これもまた借金に頼るしかなかったようである。このため土佐藩でも大量の二分金の偽造が行われた。
 偽の二分金の鋳造総額は不明だが、明治2(1869)年に土佐藩が政府に自己申告した額は、5万4400両(約65億2800万円)もの巨額なものになっていた。また土佐藩が発行して明治4(1871)年までに回収できなかった藩札は総額で220万両(約2640億円)であり、これも藩が抱え込んだ借財と考えることが可能で、厳しい倹約と国産物の専売によっても、新たに必要とされた西洋式軍備の拡充に要した費用があまりに巨額であったために、この藩の財政もついに健全化することはできなかったことを示している。
 廃藩置県の時の土佐藩の公式の借金総額は、189万8700両(約2278億4400万円)にも達していた。この巨額な借金もまた明治政府にそのまま引き継がれたのだ。

B福井藩の藩政改革

 幕末政局において、徳川将軍家の家門大名(親藩と言われてきたもの)の雄として、公武合体による徳川氏の覇権の維持を図る路線をとって大きな発言権を持った福井藩の場合はどうであったのか。
 この藩もご多分に漏れず、深刻な借金体質に陥っていた。
 天保7(1836)年に福井藩は、幕府に対して旧領48万石(当時は32万石)の回復を要請し、これによって深刻な財政難を乗り越えようとした。この願書には当時の福井藩の財政状況が示されている。
 それによると、福井藩は年々2万6000両余(約31億2000万円)の赤字を出し、この年までに借財総額90万両余(約1080億円)を背負っていることが示されている。
 そしてこれは誇張ではなく、後の天保末年から嘉永・弘化年間の藩政改革時においては、総額95万8454両(約1150億1448万円)の巨額なものとなっていた(弘化元 ・1844年)。しかも藩内の村々は、天保の大飢饉に見舞われ6万人の死者を出して荒廃の極に達していた。このためこれまでに福井藩が発行していた総額にして銀高2000貫目 (金で3万2000両・約38億4000万円)の藩札は、藩の財政事情の悪化によって正貨との引き換えが困難になって、その価値は天保10(1839)年末には、1両につき銀120匁 (正規の交換レートは1両が銀65匁)となり、実にその価値は半減していた。
 この福井藩の藩札は福井領内だけではなく、近江国(滋賀県)や加賀国(石川県)まで広がり、越前国内に多く広がる幕府領でも大いに通用しており、これらの地域での年貢収納の際にも使われるほどであった。この福井藩藩札の価値が、藩財政の危機によって暴落したのだから、藩札が流通する地域は混乱し、次々と福井藩の札所に藩札を持ち込み1両について銀60匁ほどでの交換を申し込んでいった。このため福井藩が持つ正貨が次々と流出し、藩財政は一層困難な状況に陥ったのだ。
 これに対して福井藩は、天保10(1839)年11月から藩発行銀札の両替を時価に応じた変動相場へと変更して赤字両替を止めて藩からの正貨流通を防ぐとともに、藩札の価値下落に伴って領内の物資が他領に流出する事態を防ぐために、他国との交易拠点である三国港を封鎖した。周辺の他藩や幕府領の代官所や、これらの領内に住む人々は福井藩の藩札を不利な相場で両替することを強制され、福井藩領の国産物の売買を事実上禁止されてしまった。
 このため周辺諸藩や幕府代官所からは幕府に対して福井藩の藩政に介入すべき上申書が度々出され、幕府領の百姓は、幕府の飛騨代官所出張陣屋に対して1両銀60匁ほどの正規の交換レートで藩札の両替を行うよう幕府から福井藩に命令をだすことを請願し、陣屋がこれを拒否するや、飛騨代官所に強訴におよび、さらに江戸での駕籠訴を行う 動きすら見せたのである。
 かくして天保11年(1840)12月に幕府は福井藩に対して命令を出し、天領や他領の福井藩藩札を正規のルートで両替することを命じ、さらに発行しすぎて価値の下がった藩札を整理することを命じた。
 こうして福井藩の藩政改革は、天保14(1843)年の藩主松平慶永(1828‐90)の初入国を契機として、その側近の側用人・中根雪江(1807‐77)が主導して始まった。
 課題の一つは藩札の両替の件で、当面両替のレートは1両=銀103匁で行い、その後このレートを4年間ほどかけて正規のレートである1両=銀65匁に戻すものであった。そして他領札と自領札は区別して扱うので他領の人々の両替はなるべく正規ルートになるまで控えてほしいという対策をとった。しかしこれでは他領の人々は不利に扱われるので反発が起こり、幕府領を管轄する飛騨郡代も反対を表明した。その結果、両替レートは、自領札は時価とし、他領札は103匁にと改められ、他領の人々に有利なものとすることで、ようやく福井藩の藩札を巡る混乱は当面鎮まった。
 しかし大事な問題は、藩札の価値低下を生み出した、藩財政の危機をどう克服するかであった。
 福井藩ではかなり以前から国産物の藩専売制を敷き、主な産物である越前和紙や絹織物などの販売を統制しようとしてきたが、これに反対する百姓・町人などの反対にあってたびたび撤回せざるをえなかった。天保9(1838)年にも産物会所を設けて、糸類や紙そして蝋などの専売制を実施しようとしたが、これも激しい反対にあって撤回せざるを得なくなっていた。 このため嘉永2(1849)年には、藩専売制を廃止している。この地域における商品経済の発展は、その利益を藩が独占することを許さない段階にまで進んでいたのである。
 このため藩の財政改革は、徹底的に倹約を進めるとともに、藩士の家禄の半知を強行するものでしかなかった。そして 弘化元(1844)年には新たに「清債方」とよばれる部局を設けて借金返済の方法を探った。
 この借金返済にあたってはこの藩でも、利息支払いの拒否という強引な政策が取られたり、借金を献金という形にして破棄させる強引な対策も取られたのである。例えば大坂の鴻池の場合では、、天保14(1843)年に滞納利息6876両 (およそ8億2512万円)が支払われて以後、嘉永4(1851)年まで貸借関係は凍結された。また福井藩に対してしばしば金を融通してきた京都の医師で金貸しである新宮家も、1万5682両 (およそ18億8184万円)の貸金を、弘化3(1846)年に献金という名目で破棄された。
 この結果、福井藩の借金は、弘化元(1844)年には90万5380両(約1086億4560万円)あった借金を、弘化4(1847)年には84万8259両 (約1017億9108万円)へと減少した。
 しかしこれで福井藩の財政の借金体質は解消されたわけではなかった。
 嘉永6(1853)年に出された福井藩の勝手係の書類によると、嘉永5(1852)年の収支は4445両(約5億3400万円)の不足、翌6(1853)年には1万6631両 (約19億9572万円)の不足が見込まれるという。この理由は、アヘン戦争以来増大した海防費であり、大砲の鋳造や台場の建設などに多額の出費を強いられたからであった。
 一方福井藩が洋式の軍備を取り入れ始めたのは、弘化4(1847)年のことであった。
 この年に砲術師範の西尾源太左衛門に命じて江戸に赴かせ、西洋流砲術を取得させた。そして翌嘉永元(1848)年には、江戸から洋式大砲の鋳物師を招き、西洋式の大砲や野戦砲をつくらせ、さらにこれを三国の沿岸に築いた台場に据えつけさせたのは嘉永3(1850)年であった。さらに福井藩では、嘉永2 (1849)年には蘭学者の市川斎宮を招いて兵学書の翻訳と藩士への講義を行わせ、嘉永5(1852)年にはその成果に基づいて新たな洋式大砲を鋳造させ 、各地の台場に備えた。
 一方軍政改革では、嘉永5・6年、さらに安政元(1854)年と続けて弓組や槍組を鉄砲組に編成替えを命じ、新たな銃器としては新式のゲベール銃を定めた。そしてこれによって需要の増えたゲベール銃を江戸の藩邸内で製造することに着手したのは嘉永6 (1853)年のことであった。
 このように福井藩も天保改革以後、着々と軍備の西洋化を進め、強力な軍備を備えつつあったのだ。
 一方、福井藩それ自身が巨大な商社と化し、藩の国産物の販売を一手に担う国産商社を設立したのは、幕府が鎖国をやめ、長崎や横浜での貿易が活発に行われるようになった安政5(1858)年のことであった。藩の商社化は福井藩においてはかなり遅れた時期のことであった。
 しかしこれでも福井藩の財政の危機は解消しなかった。
 福井藩の幕末明治維新期の財政資料がないので詳しいことはわからないが、明治元年における銀札相場は1両=350匁であり、正規の価値の六分の一に低下し、さらにこうした価値の低下した藩札の発行総額が11万3730貫(金にして189万両余 :約2268億円)であったことは、福井藩財政が依然として危機的状況にあったことを示している。 
 福井藩の藩政改革は、御三卿の田安家から養子に入って藩主となった松平慶永の強力な指導力の下で、彼の側近グループを中心として推進された。
 彼は天保14(1843)年に入国すると、先代から藩政を牛耳ってきた家老らを罷免し、奉行を勤めてきた鈴木主税を藩側向頭取に抜擢し、その下に中根雪江など近習小姓など藩主の身近に使えてきた有能なものを抜擢して藩政を動かしていった。この中から後に幕末維新期に活躍する三岡八郎(由利公正 :1829‐1909)や橋本左内(1834‐59)らが育っていった。
 この意味で、福井藩の藩政改革を支えた人々は、長州藩と同様に中下士層だったのだ。だがこれに加えて、代々家老を務めてきた家柄のものでも、若く能力のあるものは次々と登用し、藩主側近層と合わせて藩政を動かせるようにしたことは注目に値する。どの藩も中下士層だけで藩政改革が行われたのではなく、藩主の主導の下で、上士下士を超えて有能な者が抜擢されて藩官僚層を形成した状況は変わらなかったのだ。

C水戸藩の藩政改革

 徳川家家門大名にもかかわらず、その藩学では尊王論を強く主張しており、幕末政局において尊王攘夷論の先陣を切って動いた水戸藩の場合はどうであったのか。
 この藩は、徳川家家門大名の中の御三家の一つとして高い家格を誇った藩であったが、その領地は北関東の土地の痩せた地域であり、公称35万石の領地といってもそれだけの実力は持たない藩であった。しかも水戸藩主は他の藩主と異なって江戸定府であって常に江戸城下に住んで将軍家を守る役割を担っており、このため藩主が領国に下るには、幕府の許可が必要であった。
 このため他藩に比して大量の家臣を江戸藩邸に置かなければならず、物価の高い江戸に常駐する家臣団にはそれを補填する特別支給を行わねばならず、これが藩設置の当初以来、藩財政を悪化させる根本的原因として存在した。その上、もともと土地の質の低い低収量の地域に過酷な年貢を 課したことによって百姓の離散は他の藩より激しく、そこに定期的に襲ってくる飢饉によって、藩の人口は暫時減少し、これがさらに収量の低下を引き起こして藩の収入を減らし、藩の財政難をさらに悪化させる悪循環に陥っていた。
 水戸藩の人口は、享保11(1726)年の31万8000余人をピークにして以後は減少し、安永4(1775)年には25万人を割り、寛政4(1792)年以後は22万人台を横ばいする状況となっていた。このため年貢収納高は、元禄年間のおよそ30万石から寛政年間の20万石へと激減し、天保10(1839)年から弘化元(1844)年まで15年の歳月をかけて行った検地では、水戸藩の実高は25万石 余しかないことが判明した。ために藩財政は逼迫して、ついに寛政4(1792)年には、家禄100石以上の藩士の家禄の半知召し上げを実施し、さらにこれは文化4(1807)年にも実施され、その後も天保10(1839)年には、同じく100石以上の家禄のあるものの半知を向こう三ヵ年と定めた。
 水戸藩の財政資料が手元にないので天保期の水戸藩の借金総額はわからないが、藩財政がかなり逼迫し危機的状況にあったことは、他藩と同様であった。
 このため水戸藩でも早くから国産物の藩専売制が行われ、発展しつつある商品作物販売の利益を藩が独占しようと企んだ。
 この藩の専売制の実施は早く、紙専売については貞享5(1687)年に行われたが、これは生産者の反対によって宝永4(1707)年には廃止され、寛保2(1742)年にも再度紙専売を実施しようとしたが反対にあって中止した。また水戸北部では蒟蒻の栽培加工が盛んであったので、明和7(1770)年には蒟蒻玉会所を江戸に設け、水戸産の蒟蒻の一手販売を行ったが、これも生産者の反対にあって天明3(1783)年には廃止された。
 この時期の藩専売制は、後年の他藩でのような藩自身が商社と化して行うのではなく、江戸や大坂の豪商と組んでその販売権を豪商に譲り渡し、藩はその利益の一部を受け取る体制であったため、 豪商らが暴利を貪るために生産者が窮迫し、かえって国産物の生産が減少するにいたり、生産者の反対と藩の実入りの低下によって藩専売制が中止に追い込まれたのであった。
 このような豪商と組んだ専売制ではなく、藩営の物産方・産物会所を設けて藩そのものを商社と化して、水戸の国産物だけではなく広く他領の産物の江戸や大坂での販売を藩が行うことで利益を上げる計画は、天保改革の始めの天保元(1830)年に行われたが、計画が具体化しないまま中止された。水戸地方は江戸に近く、農村から江戸に産物を出荷することは比較的容易であるので、藩が商社と化して国産物販売の利益を独占することには無理があったのであろうし、家門大名の権威を背景として水戸藩が江戸や大坂に産物会所を設けて諸国の国産物を販売することは、江戸や大坂の豪商の利益にも反し、江戸や大坂の物価上昇を招くことでもあり、幕府の利益にも反することであったので頓挫したのであろう。
 こうして商品経済の進んだ地方に存在する水戸藩では、藩自体が商社と化して国産物販売を独占して利益を上げるという方法は取れなかったのだ。
 従って天保元(1830)年に激しい跡目争いを制して藩主に就任した徳川斉昭(1800‐60)の主導下で行われた水戸藩の天保藩政改革では、藩財政の再建のための方法としては、先に見た100石以上の家臣の家禄の向こう三ヵ年半知や、生活の細々としたことにまで口を出しての厳しい倹約令の実施、そして江戸藩邸の経費を減らすために江戸常駐の藩士100戸・家族ともどもを水戸に戻し、古い屋敷跡を整地してこれらに畑を含めた家屋敷を分配し、水戸で自給させるなどの非常措置をとった。さらには天保検地において実高は公称表高の35万石に遠く及ばないものであったが、これを表高にできるだけ近づけて藩財政を潤すために実施した。しかし、すでに連年の過酷な年貢収納に疲弊した農村をこれ以上苦しめることは激しい百姓一揆を招くこととなり、検地も村の申告に従って行うほかなかった。従って増収を期待したにも関らず、増収幅は小さく、25万石の実高を29万9068石に増大するのが関の山であった。しかし、商品作物栽培の盛んな畑からの金納での年貢を、従来の1両・2石5斗代から1両・1石2斗5升へと二倍に引き上げたので、藩の財政収入は従来とほぼ変わらないものであった。
 水戸藩はこうした形で、百姓が商品作物栽培で得た利益を奪い取ろうとしたのである。
 また一方で水戸藩は、天保11(1840)年に棄捐令を出し、藩から藩士に貸し出した金穀をすべて帳消しにし、返済の当てのない藩士の藩への借金を帳消しにした。これに伴い、藩士が藩内の商人や百姓にした借金は全て、無利子永年賦として、事実上帳消しにしてしまった。水戸藩でも借金返済に際しては、こうし た無謀な政策が取られたのだ。
 一方水戸藩での軍政改革はどうだったのか。
 天保3(1832)年に水戸藩では蘭学者を招いて大砲術・砲艦書の翻訳を命じ、天保7(1836)年には太田村の鋳工に大砲を試作させ、那珂湊に建設した砲台に備え付けた。さらに天保9(1838)年には藩主床机廻りと称する藩主直属の親衛隊を創設し、お目見え以上の藩士の嫡子の中から100人を選び、彼らに騎乗・鉄砲・大砲術・航海術などの徹底した洋式訓練を施している。
 しかし水戸藩においては洋式軍備と軍隊は浸透しなかった。
 藩校において洋学を教授する動きは洋学を嫌う藩主斉昭の圧力で潰され、試作された大砲も鋳鉄製ではなく、従来の青銅砲に過ぎず、実際に砲台に配備されても欧米の優れた鋳鉄砲とは対抗できない代物であった。またお目見え以上の藩士の嫡子から選抜された親衛隊に洋式訓練を施した背景には、鉄砲などは足軽のものだとして、藩士全員の銃隊・砲隊への編成替えに抵抗する古い武士の考え方が水戸藩では強かったことを物語っている。
 それはなによりも藩学である水戸学が、国学の流れを汲む尊王論に依拠して強固な攘夷論を展開したことに見られるように、その思想的基盤は「神国日本」という考え方であ ることの反映であった。
 水戸藩では天保改革において仏教を弾圧して神道を広める動きが行われ、寺の青銅の鐘や仏像を鋳潰して大砲を造ったり寺を廃寺にしたり、道端の庚申仏や地蔵仏まで撤去し、1郷1社の制度を定めて鎮守を整備し、村ごとに氏子の制度を定めて、従来は寺の僧侶が行ってきた人別改めなども神官の管理へと移行した。これは明治維新以後吹き荒れた廃仏毀釈運動の先駆けであり、過激な神国思想・攘夷思想が藩内を覆っていたことを物語っている。
 このように過激な神道によって藩内を思想的に一元化しようとする動きは、水戸藩がもともと内部に深刻な分裂を抱えていたことを物語っている。
 江戸の北の守りを任された家門大名水戸徳川家は、全国の大名の中でもっとも幕府の統制下に置かれた特殊な藩であった。
 先に見たように藩主は江戸定府を命じられ、ほとんど生涯水戸藩領に足を踏み入れることはなかった。このため藩政の実際は将軍家から目付役として派遣され、万石を有して藩政を牛耳った付家老家の中山家を始めとして、同じく万石を有し水戸徳川家の分家である一門の家老や分家大名によって握れられてきた。その一方で江戸に定府する藩主の周りに近侍する近臣層が形成され、この両派の対立は、藩成立以来のことであった。
 そして天保元(1830)年に藩主に徳川斉昭が就任するに際しては、病弱で子のいない藩主に代わって将軍家斉の第20子である清水恒之丞を藩主にと推す付家老家や譜代家老家そして分家大名が幕府と結んで有力となっていた。前藩主の庶子に過ぎない斉昭は藩主血脈にも関らず、幕府との結合を重視する重臣層によって葬り去られようとしていた。
 これをひっくり返したのは、藩校に結集する中下士層が藩主弟を次の藩主に押して無断で大挙上洛し、幕府へ直訴する非常手段によってであった。
 従って水戸藩では、斉昭が藩主に就任しても、水戸藩政を牛耳る門閥譜代層と、藩政の危機を打開するために藩政改革をしようとする中下士層との深刻な対立が続いた。藩主斉昭は側近の士である藤田東湖 (1806‐55)や会沢安(1782‐1863)などを疲弊した郷村を担当する郡奉行に登用し、藩政の基礎の改革から行おうとしたが、依然として藩の執政たちは従来からの過酷な年貢収納にこだわる門閥層が握っており、このため藩内は激しい派閥闘争の渦が巻き起こり、次々と役人が解任されたり藩政の変更につぐ変更が行われ、一貫した藩政改革が行われなかったのだ。
 斉昭に近侍した藤田東湖は、彼の父は商家の息子であったが学問の才があり、藩主によって藩儒者に登用された者の息子で下士の身分の人物である
 こうした分裂した水戸藩を統合する唯一の精神的支柱が、神国論に依拠した尊王論であったのだから、水戸藩が欧米列強のアジア侵略に対抗できる強力な西洋式軍備を備えた強力な国家へと変貌できなかったのは当たり前とも言える。しかも藩主斉昭はしばしばその危機感に依拠して幕政に介入するため、幕府には嫌われ蟄居謹慎を命じられることがしばしばであった。そしてそうなると水戸藩政においては幕府と繋がった門閥譜代家老層の勢力が増すことになり、藩内の派閥闘争は火に油を注がれる事態となったのだ。
 こうして水戸藩は、藩領が商品経済の進んだ地域のために藩による国産の専売を貫徹できず財政再建はまったく進まなかった。そしてこの藩が将軍家の北の守りであるという特殊な位置から、藩内の抗争は激しく、他の藩のように藩政改革を通じて、強力な国家を運営する有能な官僚層が形成されなかった。このため水戸藩は攘夷論において先鞭をつけたものの、その後は藩内の派閥抗争に明け暮れ、幕末政局にはほとんど関れないこととなったのである。 

D諸藩における国産品専売制施行−幕末において自立を強める諸藩

 以上、いくつか幕末政局に様々な形に関わり指導的な位置をしめてきた諸藩の藩政改革を詳しく見た。
 この検討を通じて分ることは、幕末天保期においては、長州藩・薩摩藩だけではなく、他の多くの藩もその財政は危機に瀕していたのであった。このため諸藩は藩の利益を上げるために、他藩や幕府の利益と衝突したり、従来商品流通を握ってきた三都の問屋商人などの利害とぶつかることを恐れず、次々と藩の国産品の藩専売制を実施し、さらには藩営の商社である国産会所などを設立して、藩そのものが巨大な商社となって国益を追求するようになったのだ。
 しかしこの動きは上に見た諸藩だけの動きではなかった。
 江戸時代を通じての専売制度の推移を全国を通じてまとめた、吉永昭の好著「近世の専売制度」によれば、全国の多くの藩が遅くとも天保期までに、国産品の藩専売制、それも藩内の有力商人に販売権を一手に委任するだけではなく、国産会所や産物会所という藩営の商社を設立して、藩そのものが巨大な商社へと変貌しつつある藩も多々見られる。
 諸藩がその藩の財政危機が深刻化する中で、それぞれの国益を図って動き、他藩や幕府の利益など一顧だにしない姿勢をとり始めていたのだ。
 しかしこの動きを放置しておけば、天下の台所である大坂の問屋商人の力は弱まり、大坂に集まる商品の量が急激に減ることは、それはそのまま幕府領である大坂と江戸の諸商品の物価が高騰し、幕臣のそして幕府の財政事情が一層悪化することを意味した。だからこそ水野忠邦指導下の幕府天保改革においては、諸藩の藩専売制を禁止するに至ったのだ。
 こうして諸藩と幕府との相互の利益はぶつかり始めていた。
 そして次第に諸藩は、藩域を超えて藩相互で結びつき、互いの国産品を融通して利益を図ったり、共同で独自の流通経路を開拓したりして、幕府から独立する動きを示していった。またこの動きの中で藩専売制を支えたものとして、諸国の商人だけではなく、三都の特定の豪商、後に明治維新においては新政府と結びついて財閥と呼ばれて日本の産業を屋台骨を支えていくことになる豪商が、幕府から独立傾向を強める諸藩と緊密に結びついて、大坂の問屋組合を排除しつつ、諸国産品の独自販売ルートを築いていったことは注目に値する。
 大坂城・江戸城周辺の大名領などを幕府領とする上知令に対する諸藩の反対を契機にして幕府天保改革を推進した水野忠邦政権が崩壊したことは、こうした背後で進んでいた諸藩の経済的自立と連携の現われであったのだ。
 だが諸藩が幕府と対立するにも関らず国益を重んじて国産物の藩専売制を強化して藩財政の健全化を努めたにもかかわらず、諸藩の財政は好転しなかった。
 明治維新後の状況ではあるが、多くの藩が財政破綻に瀕していた。明治元(1868)年から明治4(1871)年にかけて諸藩の支出は歳入の合計を毎年15%ほど上回り、およそ35%の藩で、また10万石以上の藩の四分の一で財政赤字が1年分の歳入額を超えるほどになっていた。
 明治6(1873)年の諸藩の負債総額は、国内債(藩内)7400万円(およそ7400億円)、外国債(藩外)400万円(およそ400億円)、さらに藩札は4700万円(およそ4700億円)で、総額1億2500万円(およそ12兆5000億円)にのぼる巨額なものであった。そして諸藩は平均して歳入の3.5倍以上の債務を負っていたのである。
 これはもともと諸藩が借金財政体質であったことに加えて、幕末における対外戦争に備えての軍備の近代化や、幕末の諸戦争での膨大な経費によって赤字が増えて借金がかさんだことに加えて、開国以後や、さらに戊辰戦争以後のインフレによってこれがさらに深刻化したためであった。
 時はすでに欧米列強のアジア侵略が進み、世界の大国清はアヘン戦争でイギリスに敗北し、欧米列強の矛先は、次第に日本にも向いてきた時期であった。
 次の近代編1で見るように、嘉永6(1853)年のアメリカ使節の来航と、軍艦の力で無理やり開国させようとする砲艦外交の実施は、こうして次第に対立を含み始めていた幕府と諸大名を飲み込み、深刻な政治的対立を引き起こしていく。この幕末政争・幕府崩壊・明治維新と続く激動期の基本的な経済的政治的基盤は、すでにアヘン戦争期である天保期において醸成されていたのだ。

:05年8月刊の新版では、この項目は「飢饉の発生と天保の改革」に吸収されて独立した項目ではなくなったが、記述は注を含めると少し詳しくなっている。p119に掲載された本文は旧版とほぼ同じ表現で「薩摩・長州両藩は藩財政の建て直しに成功して発言力を強め、幕末には幕府に対抗する勢力になった」という趣旨の記述である。記述の変わったところは、旧版が「専売制を強化」と書いたところが「特産物の生産を奨励」に変わっているところである。しかしこれでは特産物の生産を奨励したことがどのようにして藩財政の建て直しに貢献したかということの、方法論と道筋が明らかにはならず、幕府と藩との対立の根本にあった、国産物の藩専売制による(藩)国の利益の重視という問題が完全に落ちてしまう欠陥は、旧版より更に酷くなっている。注において「薩摩藩では調所広郷が改革にあたり、多額の借金の整理、砂糖の専売の強化、琉球との貿易などで強引に藩財政を立て直した。長州藩では、村田清風が指導力を発揮し、海運で大きな利益を上げた」と一歩踏み込んだ詳しい記述をしたが、ここにも問題点は多い。薩摩藩の記述において専売制を挙げた点は良いが、長州藩の場合では海運に関る金融業で利益を上げたことだけに限定され、ここでも国外への国産物の販売は藩専売制によったことや、国内流通には厳しい口銭(流通税)がかけられたことはまったく記述しなかったので、この両藩が国内の商品経済の発展による利益を強権的に絞り上げたことが分らないものになっている。そして事実は藩財政を立て直したのではなく、商品経済からの利益を別会計にしてこれで軍備増強に当てたことや、この両藩の藩政改革の「成功」による力の強大化が幕府天保改革の失敗と表裏の関係として記述されたことで、それがそのまま幕府の崩壊に繋がっているかのような記述をしている誤りは、旧版と全く同じである。 

:この項は、 田中彰著「幕末の藩政改革」(1965年塙書房刊)、田中彰著「幕末の長州−維新志士出現の背景」(1965年中央公論新書刊)、 平尾道雄著「土佐藩」(1965吉川弘文館刊)、北島正元著「幕藩制の苦悶」(1966年中央公論社刊・日本の歴史代18巻)、 原口虎雄著「幕末の薩摩−悲劇の改革者、調所笑左衛門」(1966年中央公論新書刊)、吉永昭著「近世の専売制度」(1973年吉川弘文館刊)、藤田覚著「天保の改革」(1889年吉川弘文館刊)、仲田正之著「大塩平八郎建議書」(1990年文献出版刊)、 山川菊枝著「覚書 幕末の水戸藩」(1991年岩波文庫刊)、松岡英夫著「鳥居輝蔵」(1991年中央公論新書刊)、藤田覚著「幕末の天皇」(1994年講談社選書メチエ刊)、 鈴木浩三著「江戸の経済システム」(1995年日本経済新聞社刊)、深谷克己著「18世紀後半の日本−予感される近代」(1995年岩波書店刊・日本通史第14巻近世4所収)、藤田覚著「19世紀前半の日本−国民国家形成の前提」 (1995年岩波書店刊・日本通史第15巻近世5所収)、藤田覚著「近世の三大改革」(2002年山川書店刊・日本史ブックレット48)、藤田覚著「近代の胎動」(2003年吉川弘文館刊・日本の時代史第17巻「近代の胎動」所収)、 真栄平房昭著「琉球貿易の構造と流通ネットワーク」(2003年吉川弘文館刊日本の時代し18「琉球・沖縄史の世界」所収)、三上一夫著「幕末維新と松平春獄」(2004年吉川弘文館刊)、マーク・ラビナ著浜野潔訳「『名君』の蹉跌−藩政改革の政治学」(2004年NTT出版刊)、 赤嶺守著「琉球王国」(2004年講談社刊)、乾宏巳著「水戸藩天保改革と豪農」(2006年清文堂出版刊)、 井上勝生著「幕末・明治維新」(2006年岩波新書刊・シリーズ日本近現代史@)、藤野保著「江戸幕府崩壊論」(2008年塙書房刊)、毛利敏彦著「幕末維新と佐賀藩−日本西洋化の原点」(2008年中央公論新書刊)、 高木不二著「日本近世社会と明治維新」(2009年有志舎刊)、小学館刊の日本大百科全書・平凡社刊の日本歴史大事典・岩波歴史辞典の該当の項目などを参照した。


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