「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判38


38: 補遺1: 武士道と忠義が称揚されたのは明治以後のことであったーコラム「武士道と忠義の観念」の誤りー

 「社会の変動」の二つ目の項目「幕府財政の悪化と享保の改革」の途中に、「『葉隠』と赤穂義士」と題した小さなコラムが挿入されている。そしてこれは05年8月刊の新版では、「コラム・武士道と忠義の観念」と改題され、赤穂事件の内容が詳しく述べられ、さらに武士道という考え方についても詳しく展開された。
 次の近代編1で詳しく見るように、「つくる会」教科書は 、近代日本を作り上げた精神は武士道であったとして、近世武士の精神に高い評価を与えている。
 たしかに明治維新を始めとして日本の近代化の過程で活躍した人々の多くが武士層であり、近代日本人の精神に、武士の精神が大きな影響を与えていることは事実ではある。しかし武士道とはこれまでも多くの誤解があったし、「つくる会」の武士道理解にも多くの誤りが見られる。教科書の本論とは少し離れるが大事な問題であるので、ここで一項を設けて検討しておこう。
 このコラムの構造は基本的には三つの構成要素から成り立っている。一つ目は、武士道を示す例の@としての「赤穂事件と忠臣蔵」。二つ目は、武士道の例のAとしての「葉隠」。三つ目は、「武士道とは何か」ということと、武士道が武士道として歴史の表面に現れた背景について説明した部分。この三つの構成要素から成り立つのが本コラムである。
 この構成要素を一つ一つ旧版と新版とで記述の違いを点検し、その後に、その記述の正誤を論じていこう。

(1)赤穂浪士の行動を単純に武士道の鑑とするのは如何か? コラムの構造@−赤穂事件と忠臣蔵−

 武士道を示す事件として教科書が最初に示したのが、赤穂事件と忠臣蔵の問題である。
 旧版の教科書は次のように記述した(p151)。

【『葉隠』と赤穂義士】
 江戸城中で吉良上野介に斬りつけたため、切腹させられた赤穂藩主浅野長矩の家臣たちが吉良への仇討ちに成功して評判になり(1703年)、のちに「忠臣蔵」という芝居となって後世に伝えられた。 

 非常に短い記述であるが、赤穂事件における赤穂旧臣の吉良邸討ち入りを「仇討ち」と表現している所が特徴的である。
 これに対して05年8月刊の新版の記述はずっと詳しいものになる。
 新版の教科書は次のように記述した(p114)。

●赤穂事件●
 1702(元禄15)年12月4日、赤穂藩の浪士が江戸の吉良邸に討ち入りし、江戸の庶民の喝采をあびた。前年の3月、朝廷からの使者の接待役をつとめる赤穂城主・浅野内匠頭が、作法指南役の吉良上野介に江戸城内で斬りつけるというできごとがあった。幕府は内匠頭に切腹を命じ、お家取りつぶしの処分をくだすが、吉良にはおとがめがなかった。
 浅野家の家老大石内蔵助らは、他家に仕官する道をすて、同志47人が苦心の末、1年半後、吉良邸に討ち入り、主君の恨みを晴らす。そして、幕府の命に従い切腹して果てた。これが、赤穂事件のあらましである。
 赤穂浪士に人気が集まったのは、主君への忠義をまっとうするためにみずからの命をすてたその行動が、金銭万能と思えた元禄時代に、昔ながらの武士道(武士の道徳)を人々に思い出させたからだった。赤穂事件は、その後、「忠臣蔵」として歌舞伎や映画の題材となり、今日にいたるまで、日本人の心に深い感銘をあたえる物語となっている。

 新版の記述では、赤穂事件のあらましと、それへの江戸の人々の評価がより詳しく記述され、何故この事件が長く人々の記憶に残されてきたかを物語っている。
 しかし、新版の記述を含めて、教科書の記述には幾つもの疑問点がある。
 一つは赤穂旧臣の吉良邸討ち入りは「仇討ち」であったのかということ。
 さらに二つ目には、赤穂旧臣が討ち入ったのは「主君への忠義をまっとうするため」だけであったのか。もっと異なる心情があったのではという疑問。
 そして三つ目には、この事件への人々の評価であるが、この事件に喝采を浴びせた同時代人の中で、武士と庶民とでは異なる心情から、赤穂旧臣の行動を賞賛したのではないかという疑問。
 このそれぞれはことの本質に関る疑問であり、教科書の赤穂事件にたいする評価の本質に関ることである。
 以下それぞれを少し詳しく検討しておこう。

@赤穂旧臣の討ち入りは仇討ちであったのか?

 「つくる会」教科書の旧版は赤穂旧臣の討ち入りを「仇討ち」と記述し、新版ではこれを改めて「仇討ち」の言葉そのものを削除し、仇討ちという評価そのものを否定した。
 この教科書の記述変更は正しい。なぜならば赤穂旧臣の討入りを「仇討ち」と評価したのでは、この事件の本質が見えなくなるからである。
 たしかに「仇討ち」という評価は、事件の直後から当時の人々に共通した捉え方であったが。

(a)近世における仇討ちとは?
 しかし仇討ちとは一体なんであろうか?
 辞書を引いてみると、仇討ちとは、「主君、親、夫などが殺されたとき、その家臣、子、妻などが、殺害者を殺して仇を返すこと」と規定される。そして「仇」とは、「自分に向かって危害を加えようとするもの、かたき」とされ、もしくは「うらみ、怨恨、遺恨」とされる。また近世江戸時代は一般に仇討ちが認められた時代であり、それは近世後期になると武士だけではなく、百姓・町人にも認められるようになったことが知られている。
 だが実際に仇討ちが許可された例を詳しく検討してみると、それは一般に殺害された場合ではなく、殺害された者になんの落ち度もなく、殺害そのものが違法なものと認定され、しかも殺害者が行方不明のため、公的な処罰を課すことが不可能な場合にのみ、仇討ちは許可されていたことが明らかとなる(この詳しい検討は、谷口眞子著「武士道考−喧嘩・敵討・無礼討ち−」の第3章近世の敵討を参照のこと)。
 このように仇討ち(敵討ち)の近世における実態を調べてみると、仇討ちが許される法的根拠や状況があきらかとなる。
 近世においては、個人が怨みに任せて他人を殺害することはすでに違法な行動と定められており、不法にも人を殺害した者は、その状況に応じて、公的権力が処罰することとなっていた。しかし殺害者がその場を逃れ身を隠してしまったために、公的権力による処罰が執行できない場合には、公的権力による処罰そのものが私的制裁の代行の側面を持っていたが故に、今度は公的権力に代わって当該のものが処罰を執行することを許すと言う意味で、仇討ちが許可されたのだ。
 この近世における仇討ちの法的根拠やありかたを考える時、赤穂旧臣の討入りを仇討ちとすることは妥当ではない。そしてこのことは、事件直後からの幕府での赤穂旧臣の裁定をめぐる論争の中でも明らかになっていたのだ。

(b)浅野内匠頭が死んだ理由は?−公儀の権威に傷をつける違法な行動故の切腹−
 だいいち吉良が直接手を下して浅野を殺したわけではない。
 事件はよく知られているように、江戸城における正月を祝う勅使拝礼の儀式の場で、その儀式直前に起きたものであった。
 廊下で立ち話をしていた吉良の背後から突如浅野が切りつけたのが事件の発端で、吉良と話していた役人や周囲の目付などが浅野を取り押さえたので吉良は軽い傷を負っただけで命は助かった。
 この際、吉良と立ち話をしていて浅野を組みとめて抑えた役人の証言として、浅野は「この間の遺恨覚えたるか」と叫んで切りつけたとあり、さらにその後も浅野は「上野介にはこの間から意趣があるので、殿中、しかも大事なときに、恐れ入ることだが刃傷に及んだ」と繰り返し叫び、後の目付の吟味に際しても「私の遺恨、一己の宿意をもって前後を忘れてしたことである」と、彼が刃傷に及んだ理由を話していた。
 だがこの遺恨の内容については浅野は何も証言せず、彼の証言を踏まえて目付が吉良に「何の恨みをうけて刀傷をうけることになったか」と聞いた際の吉良の返答も「拙者には何の恨みをうける覚えもなく、浅野の乱心とみえる」とあった。
 この遺恨が事実であり、恨みをうけるだけの問題行動を吉良がとったと認定されれば、この事件は「喧嘩」と認定されて、当時の法に基づいて両者ともに処罰されたはずである。
 しかし処罰されたのは浅野だけであり、その理由は「吉良上野介に意趣あるとのことで、折柄と申すに殿中をも憚らず理不尽に切りつけたことは重々不届き至極」というもので、これによって切腹を申し付けられ、お家取り潰し領地没収となった。一方の吉良は、「場所柄をわきまえ手向かいもせず、神妙の至りである。よってお構いなし」として退出を許され、幕府奥医師に治療が命じられている。
 これは言い換えれば幕府は、浅野の遺恨には何の根拠もなく、一方的な思い込みであると認定したということである。
 従って浅野を殺したのは幕府そのものであり、幕府の法そのものなのだ。
 ここで一つ疑問が出てくる。
 それは幕府はなぜ、浅野内匠頭が「上野介に意趣あり」と言っているのその背景を詳しく問いただしたり調査したりせずに、ただちに浅野を切腹と決め、吉良はお構い無しとしたのかという疑問である。この点が従来から疑問とされてきたところでもある。
 これについては、当時の将軍綱吉の政権がどのような政治を推進していこうとしていたのかという問題を見る必要がある。
 綱吉政権の歴史的性格とその政策の意味については、近世編2の【27】「生類憐みの令は清浄なる国土創出の方策だった」の(2)で詳しく検討しておいたが、要するに綱吉政権は、東アジアの激動が収まるなかで日本も戦国時代の後塵も収まり、新しい法の下に統治される平和な国家建設の時期に差し掛かる中で生まれた政権であった。このためこの政権は、平和な時代に相応しい法制度を定めるとともに、武士や百姓・町人の生き方や道徳を指し示し、今なお残る戦国の遺風を一掃しようとしていた。その中で綱吉政権は、将軍家と天皇家のより緊密な結びつきを強化すると共に、幕府の典礼などにも京風を取り入れることで自らの権威を強化し、次第に朝廷の持っていた権能を吸収しようと図っていた。新たな法の下に統治された清浄なる国土を治める「聖君主」へと将軍綱吉は上り詰めようとしていたと考えられる。
 綱吉政権とはこういう性格の政権であった。
 だとするならば、勅使の年賀拝礼の場は、この綱吉政権と朝廷との緊密な結びつきを諸大名に見せることによってその権威をさらに高めるための重要な舞台装置であったのだ。
 この幕府・公儀の権威を高めるための神聖な場において、浅野内匠頭は、その典礼の最高責任者である吉良上野介に刃傷におよび、その神聖な場を血で汚してしまった。これが先の浅野に対する処分理由の「折柄と申すに殿中をも憚らず理不尽に切りつけたことは重々不届き至極」の「折柄と申すに殿中をも憚らず」の意味であった。浅野は公儀の権威に血を塗ってしまったのだ。
 だからこそ幕府はその場を取り繕い、穢れた場を清めるためにも、下手人の命を奪い、この場を清める必要があった。こうして浅野に対する取調べはなおざりにされ、性急に彼に対する切腹の処置がとられたわけである。
 つまり幕府は、吉良には何の落ち度もなく、一方的に切り付けた浅野の行為は理不尽であるとともに、勅使拝礼の場を汚し、幕府の体面を傷つけた咎で浅野に切腹を申し付けたのであった。
 しかしこのあまりに性急な措置は、当時の幕府閣僚にも役人たちにも、そして諸大名やその家臣にとっても、腑に落ちない片手落ちの処置として目に映る。
 なぜならば未だに戦国の遺風に染まったままの彼らは、勅使拝礼の場の意味することを理解しておらず(これは浅野の言を見れば明らかだ)、性急な措置をとった幕府(将軍と彼の政治を意欲的に推進していた側用人柳沢吉保)の意図するところを充分に理解していなかったからだ。だから幕府の中からも様々な意見が出てくる。
 こう考えてくると、赤穂旧臣の討入りは仇討ちではなく、幕府の措置への不服従、幕府の法そのものへの不服従。幕府を敵と狙う違法行為と認定されることとなる。
 したがって当時赤穂旧臣の行動を裁定するに際して、幕府の認定そのものを前提にした者は、赤穂旧臣の行動を違法行為と認定し、処罰を下すべきと断じた。
 一方、浅野が語った遺恨に根拠があったと考える者は幕府の裁定そのものに疑問を呈し、彼らを処罰すべきではないとの意見を出した。つまりこの人々は、一国の大名がその地位も名誉も領地も棒に振ることを覚悟の上で刃傷に及んだのだから、その裏側には腹に据えかねるほどの吉良の横暴があったに違いないと判断したのだ。
 こう判断した人には、浅野を取り調べた幕府目付もいたし、赤穂旧臣の裁定に加わった老中や幕府重職の中にも多くいた。
 そもそも吉良邸に討ち入った赤穂旧臣自身が、こう考えていたからこそ、幕府の裁定に疑問を呈し、幕府が吉良へ処罰をするそぶりも見せず、はたまた浅野家再興にも関心を寄せないことがわかった時点で、彼らは吉良邸に討ち入って吉良を討ち、主君の遺恨を晴らしたわけであった。
 つまり赤穂旧臣の行動を仇討ちと判定した人たちは、吉良にも落ち度があったと考えたし、いや吉良こそが殺されるだけの原因をつくった張本人であると判断して浅野の行為を庇い、 赤穂旧臣の行動を賞賛した人たちであったのだ。
 だから赤穂旧臣の行動が長く「義士」として褒め称えられたということは、吉良こそ悪人であり浅野の恨みを晴らした家臣たちの行動は、賞賛されるべき仇討ちであると考える人が多かったことを物語っている。
 旧版の記述は、浅野の側についたものであったが、新版の記述は、より客観的な幕府裁定にそったものに改められたわけである。

(c)遺恨には背景はあったのか?−大名同士の不和が直接の原因である可能性
 赤穂旧臣の行動には当時から共感する人々が多かった。
 しかし彼らの行動を擁護するには、幕府の裁定が片手落ちだということを証明せねばならず、それには浅野が遺恨を抱いた背景を明らかにしなければならない。それはすなわち、浅野と吉良との間に何があったのかを明らかにし、浅野が吉良に遺恨を抱いた理由を追求することである。
 しかし当事者双方が何も語っていないので、当時も今も、これを判定する確証がなかった。このためさまざまな類推・憶測が幅を利かせることとなった。
 赤穂事件についてのもっとも早い見解の一つで極めて実証的なものは、室鳩巣の見解(『赤穂義人録』1703年)である。これは幕府の公的な儀式を主催しそれを指揮する立場である高家の筆頭である吉良家は、その職能の高さに奢って賄賂をとるようになった、しかし無骨者の浅野はこれを拒否し、吉良は儀式作法の教授を拒否した。これを怨んだ浅野が吉良に切り付けたというものであった。
 この説は今日でもまださまざまに流布され、吉良は官位は従4位上侍従であり、これは老中よりも高い家格であるが禄高はわずか4200石に過ぎず、その高い家の格式を保つためにも多くの賄賂を要求することは、当時の風習としても頷けるというものである。
 さらに主な遺恨の理由を挙げると、赤穂の製塩技法は進んだものでこれを導入しようとして失敗した吉良との間に確執が起こり、これが原因で吉良が浅野につらくあたり事件となったというもの もある。
 また遺恨など何もないという考えを進めたものには、浅野には以前から深刻な持病があり、それは「痞え(つかえ)」というものであったというもの。それが勅使御馳走役の激務によって悪化し藩の医師が薬を処方して押さえていたのが、当日抑えきれずに爆発したというもの。事件の後に浅野家の記録に書かれたもので、そこには切腹を命じられて後に預けられた屋敷において浅野が 「痞えの持病があって、ことを取り静めることができない。それゆえ今日も、殿中をわきまえず不調法の仕形に及んだ」と語ったと記述された。つまり幕府や当事者の吉良が当初考えたように、浅野は乱心したと考えての説である。

:痞えとは、胸にさしこみの発作が起こる病気。しゃくとも呼ばれている。

 しかしどれも同時代の資料が存在しない億説である。
 だが最近、この問題に新たな視点からの発言が行われている。
 それは問題の背景には、浅野内匠頭とともに院使御馳走役を仰せつかって浅野の相役を勤めた、伊予吉田藩主・伊達左京亮宗春と浅野の間に問題があって、それを咎めた吉良がとばっちりを受けたのではないかという説である。
  これを唱えた古川愛哲はその著書で、そもそもの発端は幕府成立以前から不仲であって江戸城で同席しても挨拶もしない伊達家と浅野家を和睦させようと時の老中の稲葉と林大学頭が画策し、年賀拝礼の勅使・院使御馳走役に、対立する伊達・浅野両家の分家を当てたことが原因であると述べている。そして事件が起きてから数十年後に、この二人が再び両家の和睦を試みたと。
 この本ではその根拠が述べられていなかったので、彼が依拠した学術論文を見てみると、たしかに浅野・伊達両家の和睦を18世紀初期に林と稲葉が画策し両家に図ったが、伊達家の国家老たちの反対で和睦が流れたという資料が存在することが示されていた。
 そしてことの発端はかつて二人が会った時に(この時期は資料にも明記されていない)浅野・伊達両家の不仲をどうにかしたいと考えたことが発端であり、両家の和睦を林と稲葉が進めた文書の中に、幕府の役目で相役となった場合に不都合が生じると言及され、この文言は赤穂事件を指している可能性は排除できない。そして両家の不和の原因は豊臣政権時代に遡ると。
 このように江戸時代において大名家同士が不仲であった事実を詳しく紹介し考察したのは、歴史家の松方冬子である。
 松方は、「日本歴史」の1994年11月号において「『不通』と『通路』」という論文を発表して、大名家にはお互いに季節の挨拶を交わしたり互いに行き来したりという親しい関係が保たれており、この状態を「通路」と呼んでいた事、そしてさまざまな祖先に遡る軋轢を原因として、「通路」を行わない不仲の状態の大名があることも紹介し、この状態 が「不通」と呼ばれたことを紹介した。そして同じく「日本歴史」の1999年10月号において、「浅野家と伊達家の和睦の試みとその失敗」と題する論考を発表し、「不通」の解消に失敗した例を提示して、大名同士が「通路」することの意味を問い直した。この論文で例示された のが、18世紀始めに「不通」を解消しようとして失敗した浅野家と伊達家の例であり、前記の古川が依拠したのが、これであった。
 これによるとことの顛末は以下のようであった。
 1712(正徳2)年、6代将軍家宣が死去して幕府がまだ幼い将軍の統治の下で再出発したときのことであった。
 伊達家とも深い姻戚関係にあった元老中の稲葉正住と幕府大学頭である林信篤が相談して、長く不通であった浅野・伊達両家の和睦を仲介することを決めた。そして浅野を林が、伊達を稲葉が説得して両者の和睦を図ろうとしたのであった。
 両家の不通の理由は伊達家によると、1596(文禄5)年8月に、伊達政宗が当時豊臣政権の指南役であった浅野長政に、11ヶ条の「絶交状」をつきつけたことが発端で、原因の一つは、秀吉の小田原攻めに際して伊達が遅れて帰順してきたときに、浅野が無理やり伊達にその全所領を秀吉に進上するという書付を書かせたことで、他には、秀吉の二度目の朝鮮攻めの晋州城攻めの際に、伊達が浅野に叱責されて軍を引いた事を政権によって臆病と評価されてしまったことなどが上げられていた。要するに江戸幕府成立以前の大名家の軋轢がそのまま100年以上も持ち越されていたというのだ。
 しかも林と浅野の交渉の中で明らかになったことは、広島藩主浅野自身は伊達家に対しては何の遺恨もなく、浅野家の側には両家が不仲である理由がつたえられておらず、政宗の絶交状も現存していないこと。そして浅野は時節柄からも和睦は必要であるが、先祖からの不通だから容易には和睦できないと考えていることだ。一方稲葉と伊達の交渉の中で明らかになったことは、 仙台藩主伊達自身は浅野に対して何の遺恨も持っていないが、長い間両家は不通であると家来までも認識してきたことだし、政宗が今後は自分の方から付き合いをしない旨の手紙を先方に出し、先方からも同様の書状をもらっているのだから、浅野の側から折れてでも来ないかぎり、和睦は難しいと考えていたことだ。
 そして両家の和睦に向けては以後もなんども説得が行われ、浅野は和睦のことを何人もの親戚大名にも相談して和睦の意向を固めた。
 この際に、和睦を勧めた林や同じく和睦を進めた浅野家親戚大名が出した和睦を勧める理由の中で興味深いことは、先祖が決めたことを破るのは先祖に対する不孝ではないかと案じる浅野に対して、浅野と伊達は江戸城中において同席だし手伝い普請や火消しなど公儀の役儀で同席した折に不通状態では支障があると和睦を説得したことだ。ここでは支障があった例は示されていないが、赤穂事件が浅野・伊達両家の不通にその発端があったとすれば、この事件が教訓化された可能性はある。そしてもう一つ興味深いことは、先祖代々不通であった家でも和睦した例があるとして 、すでに加賀前田家と肥後細川家が和睦して「通路」したことなどを示して、和睦を勧めていることである。
 このことは江戸幕府が成立しておよそ100年たった18世紀初頭においては、多くの大名家で年来の不仲が解消され始めており、それは幕府の統治下でそれぞれの国を治めるとともに、幕府の指揮下で全国統治にも関る相役として共同作業を行ってきた経験がしからしめたものであって、大名の中に、大名が互いに「通路」することが望ましいという観念が広がっていたことをも示している。また「不通」を解消しようと多くの大名が考えた背景の一つに、赤穂事件があった可能性はある。
 しかし浅野と伊達の和睦は、双方の当主が乗り気であったにも関らず、最終的には成立しなかった。
 理由は、最後まで伊達家の国元の家老衆が和睦に納得しなかったからであった。
 そして国家老たちが反対した理由は、藩祖伊達政宗が強い遺恨を浅野家に対して持っており、藩祖の意思を継承して国を統治する家老衆としては、藩祖の遺恨を共有するがゆえに、この時点での和睦には納得しないというものであった。戦国の世とその統一 過程における大名家同士の対立から発した遺恨は、単に大名自身のものではなくて、大名家家臣総体に共有された根深いものであったのだ。
 松方はこのように、資料に基づいて、大名家同士の「通路」と「不通」の状態を提示し、18世紀初頭においては大名の中にも「通路」が通常のありうべき状態と認識する傾向が広まっており、幕府としてもそれを進める傾向があったことを示した。しかし戦国の世が終って100年経ったその時点においてもなお、戦国の余燼はまだ覚めやらず、太平の世の中において、大名家同士が如何に付き合うかもまだ模索の時代であったことも明らかにした。
 18世紀初頭においてもそうであったのだから、その30年ほど遡る元禄の世においてこそさらに戦国の余燼は覚めやらず、大名家同士の遺恨はさらに深かったことは想像に難くない。
 したがって勅使・院使御馳走役に相役となった浅野内匠頭と伊達左京亮とが本家同士の「不通」を理由として、勅使・院使接待の打ち合わせの場で角を付き合わせた可能性がないとはいえない。そして幕府高家筆頭として儀式全般を統括し、細事に至るまで気を配っていた吉良上野介が両者の対応を叱責した可能性もないではない。この吉良の叱責を深く恨んで浅野内匠頭が殿中での刃傷に及んだと言う可能性も、仮説としては充分に成り立つ。
 またかように赤穂事件の浅野の遺恨の背景を考えてみると、浅野内匠頭が遺恨の内容を問われて口をつぐんだ理由もわかるし、幕府目付が抗議したように、遺恨の背景を充分に吟味せず、悪いのは浅野だと一方的に決め付けて事件を処理した幕府の対応も頷ける。
 ことは浅野・伊達という外様大藩同士の対立である。ここを問題にすれば、広島浅野本家や仙台伊達本家にも咎は及ぶ。そして吉良の息子は、米沢上杉家の当主でこれもまた外様大藩である。
 浅野の遺恨の背景が戦国以来の浅野・伊達の遺恨にあったとすれば、それを咎めようとすると幕府の根幹を揺るがしかねない大問題になったであろう。それゆえ幕府閣僚は、触らぬ神に祟り無しと、洞ヶ峠をきめこみ、浅野内匠頭に全ての罪を着せてことを収めようとし、類がその身に及ぶことを恐れて、浅野本家も伊達本家も知らぬこととして、この件に介入しなかったと解釈できる。だからこそその事情を知っている目付の抗議を幕府は受け入れなかった のだ。
 そしてこれはさらに、後に幕府の裁定に納得しない赤穂旧臣が吉良を討った際に、上杉が何も行動しなかった背景もまた納得させる解釈である。
 また一方で、切腹を命じられた浅野の護送の時に、浅野家臣が奪い返しに来ることを恐れて厳重に警備したり、浅野家臣が吉良を討ちに来るのではないかと、しきりに気を使って警備した吉良や上杉の対応や、後に吉良を討った赤穂 旧臣を諸家に引き渡す際に、上杉の報復を恐れて充分に合戦に及べるだけの準備をしろと命じた幕府閣僚の措置や、それを当然と受け止めて久しぶりに合戦の準備に胸躍らせた諸藩留守居役の老武士たちの存在は、元禄時代においてなお戦国の余燼はまだ覚めやらず、たとえ幕府の裁定であっても納得の行かない理由で恥をかかされたときには、実力をもってして報復するのが武家として当然であるという観念が、まだ広く残っていたことを示し、戦国以来の遺恨が、いつでもまた爆発する可能性を秘めていたことをも物語っている。
 このように赤穂事件の背景には、戦国期に発する大名家の「不通」状態があった可能性が示唆される。
 しかし古川がその著書で述べたような、幕府老中が浅野・伊達両家の不通を解消しようとして、その分家同士を相役としたという仮説は、18世紀初頭の正徳の時代になって浅野・伊達両家の和睦を画策した元老中の稲葉と大学頭林が、赤穂事件の当時において老中・大学頭であったという事実のみに依拠して想像の翼を伸ばしすぎた億説にしかすぎない。恥をかかされたときには実力で報復するという観念がまだ強かった元禄の世において、そのような危険がある冒険を試みるとは到底思えないし、 元禄の世において浅野・伊達両家の不通を幕府が解消しようと動いたことを示す資料も、そして浅野内匠頭の遺恨の背景が両家の不通にあったということを示す資料もまだ見つかっていない以上、古川の仮説は、億説と断定するしかないのである。

A赤穂旧臣は主君への忠義をまっとうするためだけに討ち入ったのか?

  赤穂藩の47人の旧臣が吉良邸に押し入って吉良上野介の首を取って、泉岳寺の亡き主君の墓前にそれを供えた行動は、しばしば忠義の心に発したものだと説明され、彼らの行動は、忠義を道徳の柱とする武士道の鑑として賞賛されてきた。「つくる会」教科書の記述は、この伝統的な捉え方に添ってなされたものである。
 しかし47士の行動を、忠義という観念だけで理解して良いのだろうか。
 谷口眞子はその著書で、47士の社会学的考察を行い、討ち入り前の彼らの手紙を分析することで、この問いに明確な答えを与えている。

(a)主君との人間的交流の深い家臣が討ち入った
 谷口によれば、47士のうちの24人が、浅野内匠頭が江戸城内で吉良に刃傷におよんで切腹を命じられたとき、江戸に在住していた。そのうちの12人は江戸詰めの家臣で、他の12人は内匠頭の参勤に近侍して江戸へ来た者たちであった。
 そして彼らの多くの役職は、内匠頭の側近く仕える中小姓や用人、そして馬廻りの職にあったものたちで、赤穂藩の家臣団の中でも、常に内匠頭の側近くに仕え、日常的に内匠頭との人間的な接触の深いものたちであった。
 この内匠頭に日常的に接していた人々が多いということは、吉良邸に討ち入った47人の役職分布からもわかる。
 47人の役職構成は、家老・物頭格が3人(6.4%)、用人〜馬廻りが19人(40.4%)、中小姓近習が11人(23.4%)、隠居した親と部屋住の息子が9人(19.1%)、横目以下の下級武士と足軽が5人(10.6%)である。大部分が内匠頭に近侍する者たちであることは明瞭である。
 また隠居した親や部屋住の息子を除く39人のうちの13人が、実父が赤穂浅野家の家臣ではなくて本人の代で取り立てられたり、赤穂藩士の家に養子に入ったり藩士の娘と結婚して家臣になったものである。討ち入りに参加したもののおよそ三分の一が、その来歴からしても内匠頭と個人的なつながりを持っていたのだ。
 さらに47人を親族関係で分類すると、26人(55%)はなんらかの親族関係を持って討ち入りに参加しており、このうちの19人は、大石・吉田・小野寺・奥田の四つの家に属するものである。
 このように見てくると、吉良邸に討ち入った赤穂藩旧臣は、赤穂藩藩士300数十人(足軽以下を除く)の中で、常に殿の側近くに仕えていて極めて浅野内匠頭と個人的な人間的交流をもった家臣や、江戸での衝撃的な事件を共に江戸で体験したものが多数を占めていたのであって、赤穂藩家臣団の中でも、特殊な位置を占める人々であったのだ。
 ということは、この人々が討ち入りするに至った心情もまた、他の家臣とは異なったものがあったことを示唆している。

(b)君臣一体の心情と強烈な名誉意識
 吉良邸に討ち入った赤穂藩旧臣たちに共通する心情としては、「憎き吉良を討ち果たせなかった殿の鬱憤を晴らす」というものがあったことは従来から知られていた。
 これは内匠頭が殿中での取調べに対して「以前から強い遺恨があった」と述べ「必ず討ち果たしたい」と述べていたことから、殿の吉良への鬱憤を家臣が身代わりとなって果たすと、討ち入りに参加した者たちが考えていたことは理解できる。だからこそ赤穂旧臣の吉良邸討ち入りは従来から、「仇討ち」と理解されてきたのだ。
 そして討ち入ったものたちがこのように考えていたことは、彼らの討ち入りにあたってその行動を説明・正当化した「口上書」に明白に述べられている。
 彼らは、亡き主君が家をも捨てて上野介に刃傷に及んだということは、その理由は不明だとはいえ、それだけ強烈な遺恨を抱いていたのであり、主君の鬱憤は吉良を討ち漏らしたことで晴らされずに残った。この主君の鬱憤を晴らすことこそ臣下の務めであり、それゆえ討ち入ると述べている。つまり彼らは、吉良への幕府の裁可の可否を論じることなく、これとは別の、主君との心情的一体関係にある家臣として、主君の鬱憤を代わって果たすことが臣下の務めであるとしたのだ。
 しかし47士が討ち入ったのは、こういった感情だけではなかった。
 彼らの手紙から読み取れるものは、主君の鬱憤を晴らしに討ち入る行動に参加することの武士としての強烈な名誉意識であり、自分がそのように行動することで、自分の家および自分の先祖・子孫にもその名誉は及ぶと言う意識である。
 ここには長い戦乱の世の中で形成されてきた、武士とは、主君および主家のために命を懸けて戦うものであるという伝統的な武士観と、そのように行動するものこそ名誉ある武門のものであるという名誉意識が端的に反映されている。
 そして主君や主家のために命を懸けて戦うという行動は、すでに戦国の世が終って半世紀以上もたち、世の中はすでに法の下に統治されていて、どの大名家でもお家の継続と安泰が主たる目的となっており、家臣団の務めは、日々の家職をつつがなくしおおせ、我が家の安泰とお家の安泰を図ることが目的となっていた元禄の世にあっては、けっして取ることのできないものであった。
 赤穂藩の家臣団の中で、吉良邸討ち入りを敢行したものたちは、この太平の世にあって、武家としての自家の名をあげる千載一遇のチャンスを物に出来ることの喜びに打ち震えていたのであった。
  そして赤穂藩家臣の中で彼ら47名だけが最終的に吉良邸に押し入って亡き主君の鬱憤を晴らす行為に参加することを選択したのは、彼らが主君と個人的にも深い関係を結んでおり、それゆえに主君の思いを自己の思いとして受け止めることが他の家臣よりも、可能であったからだ。彼らはこの主君と一体となった 心情を基礎に、生きて自己のそして自分の家の継続と繁栄を図るという他の家臣が選択した現実的選択肢を捨てて、亡君の思いを実現するための命をかける行動を選び取ったのだ。
 こうした彼らの心情そのものは、武士の発生から戦国期にまで続く武士道が示していたものと同一である。
 旧来の武士道の雰囲気を色濃く反映している、大久保彦左衛門の「三河物語」や山本常朝の「葉隠」では、家臣が主君のために死ねるのは、主君が家臣に対して深い情愛をかけている故だと断言している。
 常日頃主君の側近く仕えている譜代の家臣は、主君にとっても歴戦の同士であったり、幼い時から一緒に暮らした家族同然のものであった。それゆえ単なる主君−家臣の主従関係を超えて、お互い人間としての情が生まれてくる。その情を、主君が日常において何気ない一言や態度で示し、その家臣が主君にとって掛け替えのないものであると考えている心情を吐露された場合、家臣は主君のために命を投げ出す覚悟ができると、これらの書は力説している。もちろんこれは譜代の家臣の方が主君との間に、このような人間的関係を築きやすいということであって、新参の家臣にもこのような例があったことは多言を要しない。
 亡君浅野内匠頭の心情を汲んで主君の仇を果たそうと最後まで命をかけた浅野家中の侍が、このような人間的交流に基づいた忠義の心情を持っていたということは、従来武士道・忠義の言葉で説明されてきたものの内実 をよく示す事実である。

(c)盟約に参加しながら討ち入りから離脱した人々の事情
 吉良邸に討ち入ったものたちは、こうして戦国以来の武士の行動の鑑となる行動を取ることによって、自分および自分の家の武家としての名誉を挙げられるとの喜びに浸って討ち入りに参加して目的を果たし、この意味では喜んで死んでいったと言えるであろう。
 しかしこうした場面に遭遇し、殿の鬱憤を晴らす盟約に一度は参加しても、武士の鑑として討ち入りに参加し死ぬことのできなかった赤穂藩家臣が多数いた。
 1701(元禄14)年の赤穂城明け渡しの前後(4・5月)と、その後大石が江戸に下って討ち入りを三月に行うと決めたあと(14年12月)に、大石と行動を共にするとの神文を提出していた旧藩士は120名ほどいた。つまり赤穂藩士300数十名のうちの三分の一が、この時点では大石と盟約を交わしていたのだ。
 この120名ほどの内訳を検討すると、そこには相対的に下級武士が抜けていることがわかる。
 そして、そこから討ち入りまでにさらに80数名が離脱するわけだが、その離脱した人々の内訳を検討すると、120名ほどの盟約者の中からさらに比較的高禄の者が離脱したことがわかる。
 つまり下級武士たちの多くは、武士をやめて町人となって生計を立てたり、他家に仕官することで生計を立てようとしたのであろう。
 そして大石が討ち入りを決断して120名の盟約者の一人一人にあって神文を回収し、討ち入りへの明確な参加の強い意思を持ったものを選別する過程で離脱した80数名の比較的高禄の者たちの心情は、大石の討ち入りを決意させた要因である、内匠頭弟の浅野大学が赦免され広島本家へのお預けになったことと、これでお家再興が絶たれたとは彼らが考えなかったことと強い関連があったものと思われる。
 つまり彼らは、浅野家再興によって再び浅野家に仕えることを目的として盟約に参加していたのだ。生きて自家の継続を図ることが目的なのだ。
 たしかに浅野大学を持ってお家再興という彼らの望みはまだ実現していない。しかし大学は赦免された。
 ということはここにわずかではあるが、浅野家再興の望みはまだ残されている。そして彼らの新たな主君となる可能性をもった浅野大学がいる。浅野大学を盛り立てて、浅野家再興を果たし、再興されたお家に再度仕官することが実現する可能性はまだある。
 彼らはこう考えたことであろう。
 皮肉なことに、浅野大学によるお家再興は、47人の旧臣による吉良邸討ち入りが実行されたことで実現されたことではあるのだが。
 そして、討ち入りが選択されたときに離脱した人々が、浅野大学への忠義とお家再興に望みを託していたことや、彼らが生きて自分の家や生活を維持することを優先したことは、離脱した彼らの書状に記された離脱の理由から確かめられる。
 そこには、一つは浅野大学が赦免されてお預けになったことで彼の一分が立ったのであるから、討ち入りは彼に対する不忠になるとして離脱したものがいた。 つまり彼らは浅野大学を新たな主君として頂き、主家再興にいまだ望みを託したということであった。
 さらには、国に老いた母親一人を残していくわけにはいかないから、親への孝を実践するために討ち入りに不参加とするというもの。さらには、親族が幕臣であったり広島の浅野の本家に仕えていて自分が討ち入るとこれらのものにも類が及ぶと考え、行動をためらったもの。さらには、伯父の家に養子に入ったが、その伯父が自分に仕官を勧めており、親としての伯父の言には逆らえないと考えたもの。 これらは、亡き主君と行動を共にし命がけで主君の思いを実現するよりも、現実に目の前にある老親の介護や家としての存続を現実的な道として選択したということなのだ。
 盟約を離脱したものたちにも、それぞれの家の、個人の事情があった 。そして同じ事情は討ち入りを選択した者にもあったのだが、彼らはこの選択肢を捨てて、亡君と共に行動するほうを選択したということなのだ。
 全体として盟約を離脱したものたちの事情は、生きてそれぞれの家を立てることを優先したということである。
 ここには、命を懸けて自分の家や主家のための尽くすという戦国の世の武士の習いがすでに不可能となった元禄の世における、武士の迷いが見て取れる。

 このように討ち入りに参加したもの、離脱したものの双方の心情を検討してみると、太平の世となった中で、戦乱の世の中で形作られた武士道と忠義の観念そのものが変質を迫られ、一人一人の武士が、その武士としての新たな生き方の模索を迫られていた事情がよくわかる 。そして、近世武家社会全体としても、ありうべき武士道の姿が模索されていた事情もよくわかる。それを簡単に武士道とか忠義とかの観念で括ってしまうと、時代の様相が見えなくなる。
 このような武士と武士道の転換期であったからこそ、戦国の世の習いにそって行動した47士の行動が高く賞賛されたのだ。

B赤穂旧臣の討ち入りを賞賛した人々の心情の裏側は?−武士と庶民とで異なる心性−

 さらに、47士の行動を賞賛した当時の人々の心情を考察しておこう。
 これは言うまでもないことだが、武士と庶民とでは異なるはずである。しかし「つくる会」教科書はここを明確に区別せず、すべて武士の心情で同時代人の心情を代弁させる記述をしたことは、先に見たとおりである。

(a) 揺れ動いた武家社会の反応−賞賛と困惑のはざまに垣間見る武家の生き方をめぐる模索
 まず武家社会の反応を見ておこう。
 当時の武家社会の全体としての反応は、浅野内匠頭が切腹を命じられ一方の吉良がお咎め無しと決まったときから、浅野びいきであった。つまり浅野が言う遺恨の背景を幕府がきちんと吟味しなかったことへの疑問である。
 したがって武家社会の多数派は、当然赤穂藩の旧臣たちは幕府の裁定に抗って亡君とともに行動するに違いないという反応であった。それは、赤穂の旧臣は赤穂城を枕に討ち死にするに違いない、もしくは彼らは吉良邸に押し入って吉良上野介の首を取るに違いない、というものであった。
 だから旧来の武士道を支持するものたちは、当然赤穂旧臣が吉良邸に討ち入るものと判断していた。
 このため、江戸城呉服橋門内の大名屋敷が連なる地域にあった吉良邸周辺の大名たちからは、吉良上野介がこのままこの屋敷に住み続けることへの不満が数多く幕府に寄せられたようである。そして吉良邸に赤穂旧臣が討ちいった場合、つまり隣家で騒動がおきた場合どう行動したら良いかと幕府にお伺いを立てた大名すらいたのである。
 しかし浅野家の縁者につらなる大名たちの反応はこれとは違ったものであった。
 彼らは、赤穂旧臣がこのような行動を取っては、類は自分たちにも及ぶと判断し、赤穂藩旧臣が過激な行動をとらないように、幕府の意を受けて積極的に行動し、赤穂旧臣に陰に陽に圧力をかけた。そして当の赤穂藩旧臣もまた、亡君とともに行動するのか、それとも幕府裁定に従ってそれぞれの家の存続と暮らしを大事にするかが、事件の当初から重い選択として突きつけられたのだ。
 江戸城での刃傷事件が起きた直後においてすでに、武家社会の反応は分裂していたと言わざるをえない。
 しかし当事者を除いた多くの者たちの反応は、当然赤穂藩旧臣は亡君の恨みを晴らすに違いないという、旧来の武士道に沿ったものだったのだ。自分の家に類が及ばぬ限り、高みの見物と いうわけである。
 従って赤穂の旧臣が吉良邸に押し入った時点で、武家社会の反応は赤穂旧臣に同情的になるのは当然であった。
 まず吉良邸の隣家の旗本などの反応がそうであった。
 隣家の旗本土屋主税邸では、吉良邸との間の土塀越しに高提灯を多数掲げて邸内を照らし、赤穂旧臣の行動を助けたことは、芝居などにも描かれた有名な事実であった。そして同じく吉良邸隣にあった本多孫太郎邸(これは幕臣ではなく、福井藩松平家の付家老・本多氏・越前府中2万石の江戸屋敷であった)でも土屋邸と同様の行動をとったと伝えられている 。
 さらに、討ち入りが終ったあとで赤穂旧臣の一人の武林唯七が本多邸に挨拶に訪れると、「何か記念に請い受けて長く諸士の忠節を伝えたい」と請い、彼が被っていた兜頭巾を頂いて家宝にしたと 、本多家の医師の子孫で東大医学教授の土肥慶蔵の著書「鸚軒遊戯」に伝えられている。また本多孫太郎邸の江戸屋敷勤番の侍であり赤穂旧臣の一人の堀部弥兵衛・安兵衛父子と親戚関係にあった忠見扶右衛門の子孫のところには、父子が討ち入りに使用した槍と絵図面と書置きが明治まで残されていたが、これは討ち入りの後に塀越しに投げ入れられたものであって、長く忠見氏の家宝として大切にされていたという記述が、幕末の随筆「宮川舎漫筆」にある。さらに赤穂旧臣が吉良上野介の首を挙げて亡君の墓所泉岳寺に行く際、彼らは他藩との軋轢を避けて、本所から品川まで裏通りをなるべく通っていたが、丹後宮津藩の藩邸の前を通ったときに藩邸の武士から身分と理由を問いただされ、これにきちんと答えたところ、宮津藩士は丁重に礼をしたうえで何の咎めもなく一行を通したという。
 このように幕府裁定に逆らって吉良を討った赤穂旧臣の行動は、武家社会一般から賞賛と同情の念を持って迎えられたのだ。
 そして赤穂旧臣への賞賛と同情は、幕府首脳部においても同じであった。
 最初に吉良邸に討ち入った赤穂旧臣を取り調べた大目付仙石伯耆守の反応自体、極めて好意的であった。
 事情聴取をした彼は、赤穂旧臣が討ち入りの際に吉良の小者をつかまえてロウソクを出させて火を灯し吉良を探したことは、随分落ち着いたやり方だと賞賛したと伝えられている。そして当時の老中筆頭の阿部豊後守正武自身が「こんにちこのような忠義の士が出たことは、まさに国家の慶事というべきである」と喜び、老中がそろって将軍綱吉に謁見しその処分を請うたという。その上将軍綱吉自身もまた大いに喜び、即決を避けるために当分赤穂旧臣を大名に預けるようにと指示したという。
 さらに幕府が評定を重ねて赤穂旧臣の処分を決める際にも、もっと赤穂旧臣に同情的な強力な意見が出されたことは注目に値する。
 それは幕府評定所一座の意見書である。
 この評議に参加したのは、大目付4人・寺社奉行3人・町奉行3人・勘定奉行4人、都合14人の幕府閣僚たちである。
 この評定所の意見は概ね次のようなものである。
 一、上野介の養子の吉良左兵衛の処置はあまりに手抜かりであり切腹を申し付ける。
 一、吉良の家来で赤穂旧臣と手合わせしなかったものは全て斬罪。多少とも戦って手傷を負ったものは親類に引き取らせ、小者・中間は追放。
 一、上杉綱憲(吉良上野介の実子)とその子吉憲は赤穂旧臣が泉岳寺に引き上げる際に何もせず傍観したのは言語道断。領地を召し上げても良い。
 一、亡君の志をついで一命を捨てて吉良邸に討ち入ったことが真実の忠義か否かについて赤穂旧臣の処分の評議は二分された。彼らの行為は武家諸法度にある文武忠孝に励み礼儀を正すべきとの条目にまさに合致すると評価するものがある一方で、大勢で申し合わせて兵具を着して討ち入った行為は徒党禁止の条目に違反するという意見があった。しかし赤穂旧臣に徒党の意思があれば城領地召し上げの際に何か行動を起こすべきものであったがそれがないのだから、彼らには徒党を組む意思はないとの意見もあった。したがって彼らは大名家に当分お預けのまま処分保留とし、後年になって処分を仰せ付けられるべし。

 この評定所の見解は、徒党を禁止した幕府法との整合性や、ここには明言していないが、浅野と吉良との処分を決めた先の幕府裁定との整合性の問題に苦慮してはいるが、極めて赤穂旧臣の行動に同情的であり、まるで旧裁定を修正するかのように、赤穂旧臣と戦って数多くの吉良家臣が死んだにもかかわらず、吉良当主と家臣を重く処罰するとともに、赤穂旧臣の行動に対して明確な報復措置をとらなかった上杉家を断罪するという極めて急進的なものであった。
 当時の武家社会一般は、極めて赤穂旧臣の亡君と生死を共にする行動に同情的であり、戦国の世の遺風である武士道を支持する傾向が強かったのである。
 だが同時に、この幕府評定所の意見書に見られるように、一方では赤穂旧臣の行動を賞賛しながらも、すでに太平の世となり法に基づいて天下が統治される時代において、幕府の決定に抗うかのような赤穂旧臣の行動は法に基づけば処罰に値する犯罪ではないかと いう考えも強く、対応に苦慮する側面もあった。
 これは幕府首脳陣だけの問題ではなく、赤穂旧臣を受け入れた諸藩の対応にもよく示されている。
 赤穂旧臣を受け入れた4藩の中で、彼らを忠義の士として褒め称え、破格の厚遇で迎えたのは、熊本藩細川家であった。
 熊本藩では、赤穂旧臣17人が到着するや、深夜にも関らず藩主細川綱利自身が出迎え、彼らの行動を賞賛して幕命では監視の侍を置くことを命じていたが当藩はそうは思わないが、幕命に従わないわけにはいかないので了承してほしいと、極めて赤穂旧臣に同情的な姿勢を示した。従って熊本藩における待遇はとても行き届いたものであった。
 受け入れた翌日からは新たな建物をわざわざ普請して赤穂旧臣を住まわせ、料理もずっと2汁5菜が三度の食事に出続け、あまりの厚遇に赤穂旧臣の方から、浪人暮らしが長く粗末なものばかり食してきた我等にはあまりに重いのでもっと軽い粗末なものにしてくれと要望が出されるほどであった。そして熊本藩では赤穂旧臣はきっと赦免されると信じていた節があるし、彼らが切腹して果てたあとで、奉行所がその跡を清めるために僧侶を呼ぼうとしたところ、藩主自らが「17人の勇士は御屋敷のよき守り神であるから清めるには及ばない。そのままにしておくように」という対応があったと伝えられている。
 しかし熊本藩のように赤穂旧臣を忠義の士として厚遇した藩ばかりではなかった。
 松山藩と長府藩は赤穂旧臣を番小屋に置き、罪人として扱った。岡崎藩もまた長屋に彼らを収容し厳しい監視の下においた。また熊本藩以外の藩は、赤穂旧臣が外部と交信することを禁じていた。これら3藩の待遇は、幕府から預かった罪人としてのそれであったのだ。
 興味深いのは岡崎藩の対応である。
 この藩では赤穂旧臣を罪人として庭の一隅に押し込め厳しく監視したのであるが、後世に書かれた岡崎藩の記録では赤穂旧臣は「赤穂烈士」と記録され、「藩主の思し召しによって尋常の預かり人とは異なる丁寧な扱いをした」と、わざわざ事実と違 う記述がされている。岡崎藩は幕法に違反した赤穂旧臣が幕府自身によって死罪ではなく名誉の死を賜り、彼らが忠義の士として賞賛される事態に遭遇して、あわてて彼らを厚遇したかのように記録を偽造したのだ。
 このように吉良邸に押し入った赤穂旧臣の行動に対する武家社会の反応は分裂しており、複雑なものだったのだ。
 旧来の武士道に沿えば彼らの行動は賞賛されるが、幕府法を基準にして彼らの行動を見れば、それは法律違反であり、幕府の裁定に抗って徒党を組んで大身の旗本を討ち取った犯罪であったからだ。
 しかし、率直に彼らの行動を賞賛した武家の心情は、単純に武士道を規範とする賞賛の念であったのか。
 というよりもむしろ、この赤穂旧臣の行動への同情と賞賛は、このような行動にめぐり合えた人々への憧れとともに、このような行動をとる機会に恵まれなかった武士たちの自己への哀れみと武家としての生き方への迷いが背景にあったと見るべきであろう。
 そしてこのような赤穂旧臣への憧れと自己への哀れみを、押し隠すことなく明白に示した武士もまたいたのである。
 それは一つには、吉良上野介を討った赤穂旧臣を受け取る際の他藩の武士たちの行動であった。
 赤穂旧臣を引き取った大名家は4家であった。熊本藩細川家・松山藩久松家・長府藩毛利家・岡崎藩水野家。
 この4藩から赤穂旧臣受け取りのために大目付仙石館に繰り出した人数は、熊本藩875人・松山藩286人・長府藩229人・岡崎藩120人余、総勢1500人余。彼らの多くは武装し、中には鉄砲までも備え、長戦さに備えての兵糧なども携えての物々しい出で立ちであった。吉良上野を討たれた米沢藩上杉家が軍勢を繰り出して赤穂旧臣を奪いにくることを想定しての備えであった。
 この軍勢の中で、松山藩久松家の軍勢を指揮していた波賀清太夫朝宋という武士は、自藩がこのような役儀を承った幸せに酔い、上杉勢が襲ってきた場合の軍略まで立てて大量の兵糧を用意させ、先陣争いよろしく仙石邸まで自藩の軍勢を疾駆させた。そして引取りが無事終るまでの12時間寒気に震えながらも上杉勢の来襲を今か今かと待ち受ける心情をその手記に明確に述べていた。
 そしてこの波賀清太夫朝宋は、松山藩邸における赤穂旧臣の生活を詳しく記録したのだが、もう一人、さらに赤穂旧臣に同情的な視点から彼らと積極的に交わり、彼らの話を詳細に記録した人物がいた。
 それは熊本藩において赤穂旧臣の世話をした堀内伝右衛門である。
 彼は家老から17人の赤穂旧臣とあまり話をしないようにと注意を受けていたが、「今回のことは古今に聞き及んだこともないほどの忠臣の功名話である。それを聞き逃すいわれはない。若い者にもぜひ聞かせたいので、自分としては何かと機会を捉えて、あらまし様子を聞いておきたい」と考え、努めて彼らの話を聞き、討ち入り当日の詳しい話から、討ち入りに至る彼らの心情、そしてさまざまな逸話まで細かに記録したのだ。この堀内伝右衛門の姿勢にも、太平の世において、武門の家に生まれた誉れを立てる栄誉に預かった人々に少しでも近づきたいという心情が透けて見えている。
 こうして赤穂旧臣に同情的な武士たちもまた、太平の世にいかに武士として生きていくべきかという悩みを持って生きてきたがゆえに、つよく赤穂旧臣の行動に惹かれる側面があったのである。

(b)綱吉の悪政への怨念の噴出−江戸庶民の赤穂「義士」礼賛の裏側にある心情−
 江戸庶民もまた、殿中での刃傷と浅野内匠頭の切腹以後、赤穂旧臣が吉良邸に押し入るのではないかと大いに期待していたことは、さまざまな資料に示されている。そして彼らが本懐を遂げたあとの江戸庶民の反応はおしなべて彼らに同情的であった。
 この点が武家が賞賛と困惑とに対応が二分したことと異なるものだ。
 赤穂旧臣の吉良邸討ち入りは、1701(元禄14)年の12月15日の日の出前のことであったが、翌16日になると早くも、浪士たちが浅黄色の股引をはいて鑓を手にし、勝どきを上げて上野介の首を引っさげていったという噂が江戸中を飛び交い、江戸庶民がこの事件に大いに注目していたことは、江戸の出店で働いていた商人が山城の本宅に宛てた手紙などに記されている。また赤穂旧臣の一人の小野寺十内の1702(元禄15)年2月3日の妻あての書状にも「世の聞へともにいにしえも日の本にためしすくなきほどの忠義之事とほうびの由にて候、死出の思い出此上有るべからず候」とあり、世の貴賎を問わず、人々が彼らの行動を賞賛しているとあった。
 しかし武士はともかく、江戸庶民が彼ら赤穂旧臣の行動を「忠義の士」として褒め称えたというのは本当であろうか。
 江戸初期のこの時代において、主君の仇をうつ行為を忠義の行いとして賞賛する観念が庶民に行渡っていたとは思えない。しかし江戸庶民が赤穂旧臣の行為を褒め称えたことは事実であり、その行為を褒め称える道徳規律としては武士道の忠義しかないから、庶民はそれを使って褒め称えたのではないかと推察される。
 この江戸庶民の心性の裏側を鋭く照射した説としては、文芸評論家の丸谷才一の説が興味深い。
 丸谷は1688(元禄元)年正月に江戸三座が曽我兄弟の仇討ち話を揃って上演して以来、以後毎年のように曽我物が歌舞伎演目として登場し、それが1709(宝永6)年の正月にもまた三座が一斉に上演して以後は、江戸三座の正月春の興業はすべて曽我物になったという事実と、曽我兄弟の仇討ちの話と赤穂旧臣の「仇討ち」の話が極めて構造的に類似している事実を背景にして、彼の説を展開している。
 丸谷は、曽我兄弟の仇討ち話は、父の仇を討つと同時に、父の仇を庇護してきた将軍頼朝を彼らの主敵と仮想し、父の敵を討つことを通じて、頼朝の政道に異議を唱え彼を呪う話であると分析する。従って1688(元禄元 )年の正月の江戸三座春興業での曽我物上演は、打ち続く天災は綱吉の悪政が原因との認識に基づき、前年に生類憐みの令が強化され、些細な罪で人が断罪死罪に問われ、さまざまな江戸庶民の楽しみすら奪われたことへの怨嗟の気持ちが後押ししたものだと推測する。
 つまり丸谷は江戸庶民は曽我兄弟の仇討ち話を正月に華々しく興行して正月に華を添えるとともに、綱吉の悪政が、怨霊・鬼神として祭られている曽我兄弟の霊力によって打ち倒されることを願ったのだと推測した。
 だから以後もしばしば曽我物は江戸歌舞伎で上演されたのだが、その曽我兄弟の仇討ちと極めてよく似た事件が現実のものとして起きたのが、殿中での刃傷・浅野内匠頭切腹・赤穂旧臣の吉良邸討ち入りの一連の事件であると江戸庶民は捉えたのではないかというのが、丸谷の推測である。
 赤穂旧臣は用意周到にもこの行為は幕府(将軍)の裁定に異を唱えたものではなく、亡君の意趣を臣下として放置できない忠義の真情に発したものだと公言しているが、誰の目にも彼らは幕府の裁定に異を唱えたものと認識される。だからこそ江戸庶民は、赤穂旧臣の行為を、江戸庶民が怨嗟の目を注ぐ相手である幕府・将軍への異議申し立てであり、将軍を仇として討つ行為として喝采を送ったのではないか。つまり江戸庶民にとって赤穂旧臣は曽我兄弟であったと丸谷は言う。
 そして1709(宝永6)年正月に江戸三座が再び揃って曽我物を上演したそのときとは、江戸庶民が怨嗟の声をぶつけてきた将軍綱吉その人が暮れから風邪を引いて臥せっていたまさにそのときであった。
 綱吉の悪政は一向に改まらず、1703(元禄16)年11月には南関東を大地震が襲い、1706(宝永3)年4月には再び江戸を地震が襲い、翌1707(宝永4)年10月には関東から四国にまでおよぶ太平洋岸を大地震が襲い大津波が沿岸の村や町を襲って大被害が出た。その上、11月には富士山が噴火して江戸の町はその降灰で昼すら暗く、この打ち続く天災は、天が綱吉の悪政を呪っていると、江戸の人には思われたことであろう。そして1704(宝永元)年には綱吉の一人娘も死に彼の跡継ぎはまったくいなくなり、翌1705(宝永2)年には綱吉生母も死去。綱吉の治世はようやく終わりが見えてきていたまさにそのときであった。
 1709(宝永6)年春正月の江戸三座での再びの曽我物興業は、こうした天と地と人の動きを背景として、江戸庶民が正月興業に名を借りて将軍綱吉を呪い殺そうとした企てであったのではないか。そしてこの時の曽我兄弟には、綱吉の裁定に異を唱えて死を賜って鬼神となっていた赤穂旧臣も重ねあわされていたに違いないと丸谷は言う。
 はたしてその正月10日に綱吉の容態は急変し彼は死去。諸大名に彼の死はすぐに伝えられたから江戸庶民もすぐにこの事実を知ったであろう。そして新将軍就任に先立って生類憐みの令は廃止され、悪貨の通用も停止され、さしもの長きにわたって江戸庶民を苦しめた綱吉の悪政も終った。
 江戸庶民は曽我兄弟の怨霊が綱吉を呪い殺したと受け止めて、以後、正月の江戸三座の興業は曽我物と定番化し、同時に曽我兄弟と重ねあわされた赤穂浪士もまた神格化される。
 浄瑠璃作者の近松門左衛門が1706(宝永3)年に書いた「兼好法師物見車」の続編として「碁盤太平記」を書いて、前作の主役の名を大星由良介と改名して話の筋書きそのものを赤穂事件に著しく接近させた作品に仕上げたのは、丸谷は1710(宝永7)年のことという説を紹介し た。つまり彼は、将軍綱吉の死をきっかけにして初めて、赤穂浪士は曽我兄弟と同様に怨霊・鬼神の類として賞賛され芝居の演目に登場することとになり、後年の忠臣蔵上演に道を開いたとしているのだ。
 以上のように丸谷は、江戸庶民が赤穂旧臣の吉良邸討ち入りを賞賛したのは、それが将軍綱吉の悪政に異議を唱えたものであると彼らが認識したからであり、曽我兄弟仇討ちと瓜二つの彼らの行為が、綱吉の悪政に対する天の罰となるのではないかとの予感に後押しされたものだと推定した。これは、今とは異なって神や怨霊の存在を深く信じていた当時の人々の心性に依拠したとても興味深い考察である。
 このように、江戸庶民は赤穂旧臣の行動をけっして忠義の面でのみ賞賛したわけではなかった可能性が強い。
 従ってこの悪霊を払ってくれる鬼神・怨霊としての側面が江戸時代の比較的実際的な科学的な心性の発展とともに薄れるに従って、赤穂旧臣を描いた忠臣蔵そのものも、次第に討ち入りそのものよりも、討ち入るか否かを巡って逡巡し迷う旧臣とその家族の心情に注目した人情話的側面が強くなっていったのである。
 忠臣蔵が忠義の観点から注目されたのは、次に見るように、明治になって近代国家日本を担う国民精神の創出が問題になってからのことであった。
 この意味で、「つくる会」教科書が、「赤穂浪士に人気が集まったのは、主君への忠義をまっとうするためにみずからの命をすてたその行動が、金銭万能と思えた元禄時代に、昔ながらの武士道(武士の道徳)を人々に思い出させたからだった」と記述したのは、武家社会にのみ当てはまるものであり、それすら、武家社会全体のものではなく、多くの武士は、命を懸けて奉公することよりも、自分の生活と家の存続を第一としたことは、赤穂旧臣の大部分が討ち入りを選択しなかったことに端的に示されていた。主君や国家(藩)のために命を投げ出して仕えるという意味での忠義の観念は、あくまでも建前としての武士道徳に留まって行ったのだ。
 「つくる会」教科書の赤穂事件の記述は、明治以後に武士道としての忠義の観念が注目されて以後の捉え方にそのまま依拠した誤ったものである。

C「忠臣蔵」と武士道の称揚の歴史−危機の時代がそれを生み出した

 最後に赤穂事件を媒介に武士道とその忠義の道が称揚された歴史を簡単に振り返っておこう。
 「つくる会」教科書は先に見たように、赤穂事件と赤穂旧臣の行動に人々の賞賛が集まったのは、彼らの行動が武士道を再び世に知らしめ、これに人々が共感したからだとした。そしてこの延長線上にそのまま、歌舞伎や小説で忠臣蔵が長く人々に親しまれ感銘を与え続けていると、現在に至るまで「忠臣蔵」が人々に親しまれているのは、武士道とその忠義の道をまっとうしたことのすばらしさへの共感であると断言したに等しい記述をした。
 だが赤穂旧臣への庶民の共感とその物語である「忠臣蔵」への庶民の強い関心が、丸谷才一が推論したようなものであった場合には、この断定はまったくの間違いとなる。そして「忠臣蔵」がのちの時代に如何に受け止められたかの歴史を詳しく振り返ってみると、それは「つくる会」教科書が描いたような単純なものではないことが明らかとなってくる。
 結論的に言えば、「忠臣蔵」が庶民の大きな関心を受けているのは、その忠義の心にあるのではなく、現実の自分たちの生活の維持と忠義との間で揺れる彼らの心情とそのありようが、日常の破綻という現実に直面する自分たちの心情と瓜二つであり、そこに人間的な葛藤を見るからである。そして社会的に、そして国家的に「忠臣蔵」と赤穂浪士の行動が賞賛された背景には、近代日本が辿った複雑な道があるのだ。

(a)庶民の間の「忠臣蔵」ブームの実態−人情物・世話物としての「忠臣蔵」−
 赤穂事件は、事件の発生直後から浄瑠璃や歌舞伎にも描かれて演じられたが、当初は幕府を憚って討ち入り場面を全く異なる芝居の中に取り入れるなど、きわめて禁欲的なものであった。これは、講談などの話芸でも演じられて「義士伝」の形で本になり、そこには赤穂旧臣が実名で登場し、殿中刃傷から討ち入りまで、事件の詳細が描かれているのとは大違いであった。
 この傾向が崩れ、芝居の世界で赤穂事件がそれと知れる形でその全体像が描かれるようになり、江戸の人々の間に広く親しまれていったのは、1709(宝永6)年に将軍綱吉が死去し、その大赦によって浅野大学が許されて旗本として新規に知行地を賜って赤穂浅野家の再興がなり、討ち入った旧臣の子供たちで遠島となっていた者たちも罪を許された後のことであった。
 以後浄瑠璃でも歌舞伎でも、そして講談の世界や「義士伝」としても、赤穂事件は広く描かれていった。
 しかしその当初から赤穂旧臣の描かれ方は単なる「忠義の士」ではなく、殿中での刃傷から吉良邸への討ち入り、そして赤穂旧臣の切腹に至る話の本筋以外に、赤穂旧臣それぞれの伝記として、それぞれが如何なる苦労をして如何に悩んで討ち入りに至ったのかという形の外伝ものが多数付随する形で流布して行った。
 この浄瑠璃や歌舞伎や講談や「義士伝」などの先行作品を集大成して出来たのが、1748(寛延元)年8月に大坂の人形浄瑠璃芝居小屋の竹本座で初演された「仮名手本忠臣蔵」であった。
 そしてこの浄瑠璃は大当たりをし、早くもその直後に大坂の歌舞伎芝居として上演され、さらに1749(寛延2)年の2月には、江戸の森田座で歌舞伎として上演され、3月には京都で、そして5・6月には江戸三座でそろって歌舞伎芝居として上演され、秋には伊勢でも忠臣蔵が上演されたのであった。
 以後「仮名手本忠臣蔵」は歌舞伎のもっとも人気の芝居として、江戸時代を通じてさまざまな脚本によって上演され続け、幕府の改革などで不景気風が起こると必ず、起死回生の演劇として忠臣蔵が上演されるなど、江戸庶民の間に根強い人気を誇ったのであった。
 しかしこの「仮名手本忠臣蔵」の人気は、これが義人伝・忠義の武士の話としての側面によるものだけではないことは、この戯曲の詳細を見れば明瞭である。
 実は「仮名手本忠臣蔵」は、恋に始まり恋に終るという、当時の江戸庶民に絶大な人気を持っていた世話物戯曲の体裁を色濃く持っていた。
 事件の始まりそのものが、塩谷判官(浅野内匠頭)の妻の顔世御前に横恋慕して断られた高師直(吉良上野介)が、塩谷判官に辛くあたったことが殿中刃傷の理由として描かれている。また殿中で高師直に切り付けた塩谷判官を後ろから抱きとめて止めた人物として塩谷の相役であった桃井若狭守の家老・加古川本蔵(幕臣梶川与惣兵衛)という人物が描かれているが、彼の娘の小浪と大星由良之助(大石蔵之助)の息子の大星力弥(大石主税)とが恋仲であったという設定がされている。
 そして塩谷判官が憤死したのは加古川のせいだということでこの縁談は破談となるが、加古川の後妻は小浪をつれて山科にわび住まいする大星を尋ね、娘を力弥の嫁にと懇願するが 、加古川の首と引き換えならという条件を出されて往生する。折節この話を、大星に高師直邸の図面を持参することで娘の縁談を実現しようと尋ねてきた加古川が物陰で聞いていて、彼はにわかに力弥に切りかかって討ち取られ、自分の首と引き換えに娘の縁談を晴れて実現するとともに、高師直邸の図面もこうして大星の手にわたる。
 つまり討ち入り成功の陰には、こうした力弥・小浪の悲恋があり、それを実現させようとした親の命を懸けた行動があったと戯曲は描いている。
 さらに「仮名手本忠臣蔵」には、これ以外にも恋の話が重要な要素として組み込まれている。
 それは、お軽・勘平の物語である。
 早野勘平(萱野三平)は塩谷判官のお供として足利館(江戸城)に来ていたが、仕事を放り出して恋人のお軽と逢引している最中に殿中刃傷が起きてしまい、切腹して果てようとする 。しかし、恋人に止められ、彼女の実家の京・山崎に二人で落ち延びる。一方のお軽は塩谷家の腰元で、顔世御前の高師直宛の手紙を持参してその足で勘平を足利館(江戸城)から誘い出したことで、恋人にすまない気持ちをもっており、二人は手に手を取って京・山崎に駆け落ちしたのであった。
 この二人の道行きも「仮名手本忠臣蔵」の重要な場面である。
 そしてその後猟師をしながら暮らしていた勘平は、どうにかして仇討ちに加わろうとして金策に苦心したが、それを見た女房のお軽は祇園の遊女に身売りすることにし、その代金50両をお軽の父親が家に持って帰る途中で強盗にあう。その強盗を猪と間違えて猟銃で撃ってしまった勘平は、死人の懐の大金に目がくらみ 、大金を盗んで討ち入りを計画する仲間に届けて仲間入りを願う。ところが、彼が家に戻ったところに祇園からのお軽の迎えが来合わせて、勘平が盗んだ金が女房の身売りの金であったことが知れ る。それとともに彼は、女房の父親を殺してしまったと勘違いする。そこへ勘平が届けた金を不審であると突き返しにきた同志が現れ、詰問された勘平は、思わず脇差を腹に突き立てて自害。苦しい息の下で 、実は舅殿を撃ち殺して手に入れた金だと白状。しかし彼が殺したのは舅を殺した盗賊であったことが知れ、彼は舅の仇を取ったゆえに仇討ちの一味に加えられて後、彼は死ぬ。
 この勘平は、47士に次ぐもう一人の義士として、彼の身代わりにその財布が大星によって現場に持ち込まれ、霊となって仇討ちに参加するのだ。
 さらに勘平の死後遊女となっていたお軽は、祇園・一力茶屋で密書を読んでいた大星を鏡で盗み見し、それに気付いた大星に身請けされて殺されそうになる。しかし、このことに気付いたお軽の兄の寺岡平衛門(寺坂吉右衛門)が妹を殺そうとするのを大星は許し、討ち入りの盟約入りを願っていて足軽故に許されていなかった兄の参加を認めると共に、勘平の代わりに手柄を立てよと、縁の下から密書を盗み見ていた高家の密偵斧九太夫をお軽に殺させる。
 こうして事件のきっかけをつくった勘平・お軽の恋は、勘平の死とお軽の行動によって浄化され、仇討ち成就の複線として描かれているのだ。
 「仮名手本忠臣蔵」は、忠義の士の仇討ち話だけではなく、その登場人物たちの命をかけた恋物語としても描かれ、さらには登場人物たちの親子・兄弟の情愛の物語としても描かれている 。「仮名手本忠臣蔵」は、歌舞伎や浄瑠璃の世界で一世を風靡した、人情物・世話物の形態も取り入れた、極めて多元的な物語なのだ。
 そしてもう一つ特徴的なのは、武士の忠義の話と並んで、この忠義を、町人の間の義理・人情の話に転化する仕掛けが仕組まれていることだ。
 それは、大星のために命がけで武器を調達した大坂商人・天河屋義平の物語が創作され たことで、この段は江戸時代においては、「仮名手本忠臣蔵」の中でも屈指の人気を誇った段であった。
 江戸時代の庶民に愛された「忠臣蔵」は、単なる義士の仇討ち話ではなくて、上は将軍から下は足軽・町人・遊女までのさまざまな階層の一人一人が魅力ある人物が多数登場し、その人々が織り成す人情話・世話話としての側面が極めて強いのである。そしてこの点にこそ、「忠臣蔵」の魅力はあるのであり、「仮名手本忠臣蔵」の上演と大当たり以後は、歌舞伎でも浄瑠璃でもそして講談の世界でも、ますます「忠臣蔵」は、殿中刃傷から討ち入り・切腹に至る史実としての赤穂事件の骨格からなる本伝よりも、それに関る人々の一人一人の人情話としての外伝の方が肥大化していった。
 その極地をなす作品が、幕末の1836(天保7)年に初編が出版された、為永春水著の「正史実伝いろは文庫」であった。
 この作品は初世為永春水と二世為永春水によって明治初年にかけて書き続けられた18編の諸章から出来ているが、その話は終始外伝に徹していて、本伝にあたる部分がほとんど出てこないところに特徴があ る。そして、この話は読み本としても多数の版を重ねるとともに、講談のネタ本としても一世を風靡した。
 また幕末に江戸庶民に愛され多数講演された「忠臣蔵」物の戯曲としては、1825(文政8)年に初演された、鶴屋南北の作品の「東海道四谷怪談」がある。
 この作品は赤穂事件に題材をとりながらも、色悪の塩谷家浪人の民谷伊右衛門を主人公として、「今時分、親の敵もあんまり古風だ」とうそぶいて、色と欲の二道の果てに自滅する姿を描いたことで、大星らの大義を笑い飛ばした作品である。
 この作品が、「仮名手本忠臣蔵」とともに二日がかりで上演されたことは、幕末の江戸庶民の赤穂事件を見る目線が、単なる忠義の士の物語としてのそれではなく、人情物・世話物としての物語を楽しむそれであったことを示している。
 そして「仮名手本忠臣蔵」と「東海道四谷怪談」はセットとなって、幕末から明治の長州戦争・鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争と続く戦乱と変革の時代においても、大いに庶民の間に愛されて多数上演されたし、その講演に、一兵卒として戦いに借り出された百姓・町人だけではなく、故郷を離れて慣れない戦暮らしをする下級武士たちの多くも、木戸銭を払って、中には「官軍」としての権威を嵩にきて木戸銭を踏み倒して芝居に熱中したありさまは、野口武彦の幕末評論に活写されている。
 そもそも江戸時代の大衆文化として今日では認識されている浄瑠璃や歌舞伎は、実は階層を越えて支持された娯楽なのだ。
 江戸時代文化が、雅としての伝統的な貴族文化を一方で花開かせるとともに、俗として大衆文化をも花開かせ、この雅・俗の二つの文化は相互に影響しあい絡み合って、二つで一つの江戸文化を形作っていた様については、近世編2の 【24】「『雅』と『俗』の文化の交流で成り立つ江戸文化」で詳しくみたところである。それゆえ、大衆文化と捉えられている浄瑠璃や歌舞伎も、武士や公家層にも大いに親しまれ、彼らはお忍びで公演に通っていた。そしてなかなか公演に通えない上層武士である大名などは、浄瑠璃や歌舞伎の好きな家臣や女中に屋敷でこれを演じさせたり、中には屋敷にまで役者を招いて、自分たちのためだけに演じさせていた大名もいたことは、彼らの日記類からも証明されている。
 このような江戸時代文化の特徴を考え合わせれば、人情物・世話物としての「忠臣蔵」は、庶民だけではなく、武士の多くにも親しまれたものであり、武士層もまた、「忠臣蔵」を見て、忠義の士の行動に胸躍らせただけではなく、登場人物たちの様々な人生の綾に涙したはずである 。そしてこのことはまた、「忠臣蔵」の戯曲や小説本が義士伝とともに武士層にも受け入れられていたことを想像させる。
 このことは、のちの明治初年になって、1880(明治13)年にアメリカで為永春水の「いろは文庫」を英訳して、「The Loyal Roninsーan Historical Romance」として出版した齋藤修一郎が、その序文において、日本の優れた文学作品を西洋の人々に紹介し、その作品に示される機知と哀感を充分に鑑賞してもらおうとしてその英訳を思い立ったと述べると共に、「日本の優れた作家のうち、もっとも著名なのは馬琴と春水である」として、春水の作品の「いろは文庫」を翻訳することに決めたと語っていることにも示されている。
 福井松平家の付家老・越前府中(武生、後に越前市)本多家の医師の息子として1855(安政2)年に生まれ、武士としての教育を受けたのちに、14歳で 西欧式教育方式で設立された沼津兵学校付属小学校に行って英語を学び、さらに15歳で福井藩貢進生として東京の大学南校に入り、以後開成学校において英学や法学を修めて、1875(明治8)年にアメリカのボストン大学法学校に留学して卒業した齋藤修一郎。武士として幕末の天狗党の一党が越前に侵入した際(1864・元治元年)には、討伐軍の一員に志願しようとし、さらには1869(明治2)年の版籍奉還にともなって 、主家本多家が福井松平家によって大名扱いされずに、250年間統治してきた越前府中の地を福井藩に奪い取られたとき、主家再興を願って誓詞血判して、本多家をないがしろにする松平家の家老を討つべしと気炎を挙げた若き武士。その彼の愛読書の中に馬琴や春水の読本があったということは、武士層においてもまた、「忠臣蔵」は忠義の士の仇討ち話であるだけではなく、登場人物たちの人情話・世話話としても愛されていたことを物語っている。

:「日米文学交流史の研究」を著した木村毅は、その著の「忠臣蔵とシオドア・ルーズベルト大統領」の項において齋藤修一郎の先の言葉を引用したあと、こうした馬琴と春水を愛好する傾向は、明治前期の若者たちに共通した特徴であると記している。

 そしてこうした人情物・世話物としての「忠臣蔵」は、明治初年以後の「史実」としての赤穂事件に即していこうとする傾向によって、歌舞伎においても外伝の部分が大幅に削られ、本来の殿中刃傷から討ち入り・切腹に至る本伝に収斂される傾向が強まったことで、次第に演劇としての 「忠臣蔵」ブームは下火になっていった。
 だが、明治以後は歌舞伎に代わって、様々な大衆小説や大正時代以後になると映画にも赤穂事件が取り上げられることで、大衆小説や映画としては、一人一人の「義士」の人間味溢れる姿が取り上げられるだけではなく、特に大正時代以後は、討ち入りに参加しなかった、もしくは途中で盟約を抜けた「不義士」一人一人の人間味あふれる描写が増えることで 、次第に「忠義の士」の話としての側面が後景に退いていった。
 そして、その果てには、今まで戯曲において悪役であった吉良側の人々の「義士」ぶりや人情味溢れる描写がなされることで、さらに人情物・世話物としての側面が前面に出て行ったのだ。 さらにこれは映画においてもこの傾向が続き、現在に至っている。
  江戸時代から続いた「忠臣蔵」ブームを見るとき、その性格は、「つくる会」教科書が描いたような、武士道と忠義とを人々に思い出させる物語などではなかったのである。

(b)明治以後、政治に利用された「忠臣蔵」 −国民国家日本に忠義を尽くす国民性の創出のための物語−
 しかし赤穂事件が武士道の忠義によって引き起こされた事件でもあったことは、これに基づく戯曲の「忠臣蔵」が、忠義の観念の下に政治的に利用されることは避けがたいものであった。
 それは早くも幕末の長州において現れた。
 宮澤誠一によれば、1865(慶応元)年4月に幕府が再び長州征討令を出したことに対抗して、長州の指導者高杉晋作が出した「長防臣民合議書」は、 赤穂旧臣たちのことに触れているという。そこでは、赤穂の浪人たちが主君の私怨を晴らすために忠義をつくしたように、長防の士民は、毛利家歴代の高恩に応えて、皇国のために行動した故に朝敵となった長州藩主父子に忠義を尽くすべきだと説かれていた。
 この書は、公称で36万部も印刷され藩全体に配布されたものと言われているが、武士だけではなく百姓・町人をも「お国」としての長州藩防衛に駆り出す必要に迫られた長州藩が、「お国」の臣民としての民に忠義を尽くす例として赤穂事件を引き合いに出したのである。
 これが赤穂事件・「忠臣蔵」が政治的に利用された始めであった。
 この流れは、1868(明治元)年に東京に行幸した明治天皇が、11月に泉岳寺に勅使を派遣して大石らを忠臣として賞賛した動きに繋がり、これは明治政府が幕末以来の講談の隆盛に着目して、1872(明治5)年に教部省を設立して、神道家や僧侶とともに講談師をも教導職に任じて、講談を通じて「尊王愛国」の天皇制イデオロギーを流布させようとした動きに繋がった。
 しかしこれは、明治初年の文明開化・欧化主義の中で一旦は断ち切られ、講談において「赤穂義士伝」が大々的に復活してくるのは、自由民権運動と政府の死闘が演じられていた明治10年代後半のことである。
 しかしブームとしての「忠臣蔵」現象が起きたのは、もう少し後の話。日露戦争後の国家主義が高揚して来る中でのことであった。
 その一つが、大陸浪人宮崎滔天や右翼の大物・玄洋社の頭山満らに支援された浪曲師桃中軒雲右衛門の「義士伝」語りであったが、これも近世の講談の伝統を引いて、「義士」一人一人の逸話を重視する外伝の様相を呈していた。彼の興業が大当たりしたのは1907(明治40)年のことである。
 そしてもう一つが、1909(明治42)年に出版された、福本日南の「元禄快挙録」である。
 この本は、玄洋社の機関紙九州日報に連載されたものの単行本化であった。
 この本で福本は、赤穂浪人の義挙に高禄の士だけではなく中流以下の下士が多くいたことを指摘して、彼ら元禄時代の義徒にならって明治現代の忠臣義士は、帝国の富強と日本の「隆昌」に向かって邁進すべきと説いた。 これは幕末の危機の中で長防の士民に高杉が説いたのと同じ論理である。
 こうした国粋主義の側からの「赤穂義士」の称揚の動きは、ただちに政府要人にも注目された。
 日本主義を唱えていた政教社の機関誌の「日本及日本人」が1910(明治43)年1月に特集した「47名士之47義士観」に、総理大臣や外務大臣などを歴任してきた元勲・大隈重信は、「我が国民性と義士」と題する一文を寄稿した。
 そこで大隈は、「我が国民には忠孝・節義・勇気・廉潔を尊ぶ特性があり、それが赤穂義士の行動にみごとに体現されたので、昔から現代に至るまで太平の時も国難の時も赤穂事件を理想化した忠臣蔵文芸が人々から愛好され、国民教育上偉大な感化力を発揮したのである。だから日露戦争当時、外国人の記者が日本国民の性格は不思議であるといったので、自分は国民性を表現する芝居を見、義太夫を聴けばよいと答えた」と書いた。
 要するに大隈は、日露戦争において発揮された国民の義勇を尊ぶ精神は、江戸時代以来の忠臣蔵のような文芸によっても培われてきたのであり、国民はこの義勇の精神を自覚して世界に活躍せよというのである。
 この大隈の言明は、 日清・日露と相次ぐ大国との戦争に勝ち進み世界の一等国へと邁進していく日本の現状をどう理解するかにおいて、欧米の知識人がやったのとおなじ思考の回路である。
 実は「忠臣蔵」は、かなり早い時期に欧米の人々に伝えられた。その始めは、1871年にロンドンで出版された「Tales of Old Japan」という本で、この本の中に「四十七人の浪人」と題して、赤穂事件が紹介されたことである。この本を書いたのはイギリスの公使館員として日本で働いた経験のある外交官ミッドフォードであるが、彼は序文で「われわれは、サムライの精神にいまだ生きている大和魂、すなわち旧い日本の魂に対して不埒に思ったり罵倒したりするかもしれない。しかし、愛国心に向かって進む自己犠牲への称賛を抑えることはできない」と述べ、愛国心の文脈から、赤穂旧臣たちの行動に共感と称賛を与えていた。
 この本は欧米で好評を博したために、以後欧米で次々と「忠臣蔵」が紹介され、日本という国と日本人の精神を理解する材料に「忠臣蔵」が使われる元をつくったのである。
 この流れに掉さして欧米人に「忠臣蔵」をより詳しく知らしめた作品として、先に言及した齋藤修一郎とイギリス人作家エドワード・グリーとの共著の「The Loyal Roninsーan Historical Romance」がある。この本は、1880年にニューヨークで出版され、以後版を重ねると共に、イギリスでも再版された上にフランス語にも翻訳されて、欧米の人の間に、忠義のために命を投げ出す勇敢な日本人のイメージを植えつけたのである。
 そしてこうした流れを基礎にして、さらに日本人の精神の高みはヨーロッパのそれに劣るものではないことを高らかに宣言した書が、1899(明治32)年にアメリカで出版された新渡戸稲造著の「Bushido-The Soul of Japan」であることはよく知られている。
 この書は、近代日本人の精神が西欧文明の根幹であるキリスト教精神と同じ高みにあることを示し、日本が黄過論でいうような野蛮な国ではなく文明国である事を論じたものだが、近代日本人精神の根幹が武士道で成り立っていることを示すことによって、1882(明治15)年の軍人勅諭発布と1890(明治23)年の教育勅語発布によって武士道が近代日本人精神そのものへと組みかえられたことを追認した。

 こうして武士道が近代日本人精神と同じものとされたことによって、「国家への忠義」を中核とする武士道の好個の事例である「忠臣蔵」は、国民国家日本を支える国民として、国家へ忠義を尽くし、世界の一等国へと邁進する国を支える国民道徳の中核をなす事実として認識されるに至った。

:齋藤修一郎の著書「The Loyal Roninsーan Historical Romance」を若いときに読んだから日本贔屓になったのだと、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトがポーツマス講和会議のために彼を訪ねた小村寿太郎外務大臣に語ったという「伝説」が最近流布されている。これは外交史家の松村正義が「日露戦争100年」においてこの話を取り上げたことがきっかけであるが、残念ながら根拠のはっきりしないものである。松村は先行研究である木村毅の「日米文学交流史の研究」に依拠して、木村が典拠として引用した昭和初期の外交史家の信夫淳平の「明治秘話二大外交の真相」(1928・昭和3年萬里閣刊)をそのまま典拠として力説したが、信夫の著書でもまた根拠となる史料は明示されていない 。現在の所では日米双方の当事者や随員などの証言がないので怪しい話である。第一 、一流の外交官が、「なぜこれほど日本のために尽力してくれるのか」とルーズベルトに聞くことはありえない。ルーズベルトは講和斡旋に先立って満州は日露双方の植民地ではなく中立地帯とし、国際的な自由市場とすることを提案していた。これは他の追随を許さない安価で品質の良い製品を供給できるアメリカにとっては極めて利益の大きい提案なのだ。つまりルーズベルトが日露講和を提唱したのは、アメリカにとって有利な状況を作るために日露双方が決定的に勝ったり負けたりしない状況を作り出し、あわよくば満州を自由市場とすることであったのは明白である。一流の外交官である小村がこれを理解できないはずはない。従ってこの「伝説」の小村がルーズベルトに日本贔屓の理由を尋ねるという前提そのものがありえないのだから、どう見ても後世に作られた「伝説」なのだ。その上、この話を著者の齋藤修一郎が知らないことは、彼が1910(明治43)年の前記の「日本及日本人」の「赤穂浪士」特集に寄せた論文「いろは文庫の英訳」でわかる。彼は出版されてまもなくアメリカを離れたのでその後の評判はほとんど知らず、「先だって津田梅子女史がルーズベルトにあった時、彼は『あなたは忠義浪人という本を知っておらるるか。余はこの本によって日本を知り、日清日露両戦役の大勝の起因を知っている 』と語ったという事を新聞で見たことがある」と語っていた。ルーズベルトがこの話をしたのは小村寿太郎ではなくて津田梅子だというのだ。もしかしたらこれが真実かもしれないし、日米対立が激しくなる中で根っからの親日家であるとルーズベルトが流した情報であったかもしれない。齋藤修一郎と小村寿太郎は開成学校で同期であり、共に文部省の第一回留学生としてアメリカに渡り、帰国後に先に外務省に入って井上馨外務大臣の片腕となっていた齋藤の後押しで小村は外務省に入り 、その後外務大臣にまで出世した。そして二人は終生の友であった。二人の交遊は、修一郎が明治40年に多額の借金のために破産してもなお続き、小村は修一郎の家族がちゃんと暮らせるように友人たちが作った基金の参加者であり呼びかけ人として、齋藤の死後もその家族を支えた人物である。そして小村と齋藤は、ポーツマス会議の前と直後に、当時の留学生仲間と共に会食をしている。ルーズベルト が小村に齋藤の訳書である「忠義浪人」のことを話したことが本当であれば、当然小村からこの話は齋藤に伝えられたに違いない。だから齋藤が知らないということは、この話が後世に作られた「伝説」であることを明示している。その「伝説」が形作られたのは、1910(明治43)年から信夫淳平の本が出版された1928(昭和3)年の間である。この時期は、満州を巡って日本とアメリカとの対立が次第に激化し、日米戦争にと突入していく過程の時期である。ルーズベルトが忠義浪人を読んで日本贔屓になったと小村に語ったという「伝説」は、アメリカ大統領であるルーズベルトが根っからの親日家であるというイメージを流布させるために、この時期に作られたものではないかと著者は考えている。詳しくは齋藤修一郎の伝記的研究の中で明らかにしたい。

 だがこの時期の「忠臣蔵ブーム」は、政府によってつくられたのではなく、民間の国粋主義的傾向によって作られたものであり、政府はまだこれに依拠して積極的に国民教化を行わなかったことは、この時代の国定教科書においては、赤穂事件は歴史や国語の読本で簡単に扱われるだけで、修身の教科書には出てこなかったことによく示されている。
 なぜなら史実としての赤穂事件は、幕府の裁定に際して死をもって抗議した側面があるからである。
 大隈が言うように尚武の気性を日本人特有の美点として称揚することは可能であるが、赤穂旧臣の行動が、幕府の片手落ちの裁定に対する命がけの武力をもってする行動であったことは明白であり、これは幕末に、井伊大老の政治に反対してその暗殺を敢行した水戸の浪人らが、その行動を赤穂義士に擬していたことにも見られるように、両刃の刃であった。
 そしてこのことは後に、1931(昭和6)年の5.15事件の当事者たちが赤穂事件を強く意識していたことに示された。
 赤穂事件と忠臣蔵が詳しく教科書に掲載されたのは、人間的な視点で赤穂義士を見直そうとする傾向の強かった大正時代の第二のブームのさなかの1920(大正10)年に出された「尋常小学国史上」であった。
 この教科書の「大石良雄」の記述では事件の経緯が詳しく記されると同時に、事件が起こった時代背景である元禄の様子も詳しく描かれ、その緩みきった風潮を赤穂浪士の復讐によって人心を新たにして士民の義心を励ましたと述べられた。まさに赤穂浪士に代表される尚武の心と忠義の心こそ、太平に浮かれきった士民に必要であったとすることで、大正デモクラシーによって高揚する民主主義の風潮を堰きとめようとするものであった。
 さらに詳しく教科書が赤穂事件と忠臣蔵を載せたのは、ずっとあと、日中戦争に至る昭和10年代のことであった。
 日中戦争が始まった1937(昭和12)年に刊行された「小学国語読本」巻10には、「国法と大慈悲」という題で赤穂事件が取り上げられた。
 この教科書の記述の特色は、「浪士の行動に対する賛否両論があって幕府はその処分に苦慮し、その結果将軍綱吉は浪士に切腹を申し付けた。その後それを悩んでいた将軍は輪王寺宮が登城した際に助命したいがどうしたらよいかと尋ねたが宮は何も答えず退出した。そのことを将軍が不思議がっているとの噂に宮は、『将軍の気持ちはよく分り、仏の慈悲で助けたいと思ったが、それは彼らの本心ではないであろう。散ればこそ花は惜しまれる。彼らを立派に国法に従わせるのが仏の大慈悲だと思って、将軍には何も申し上げなかった』と語った。その後浪士は潔く切腹し後世に名を高めた」というものである。
 なんと浪士の行動は忠義の観点からは称賛されるべきではあるが、徒党禁止の国法を犯した大罪人であるとの理由で切腹を命じられたのであり、どんな大義であっても国法を犯すことはならず、それでも武士の名誉である切腹を命じられたのは仏の大慈悲であるとする視点で描かれたのだ。
 やはり赤穂旧臣の行動を称賛することは両刃の刃であると認識されていた。
 5.15事件・2.26事件を経た時期の赤穂事件の政府の認識は、かようなものであった。
 こうして近代においては、赤穂事件は忠義の心が日本国民にとって大事であるという文脈で大いに称賛されたが、それは決して政府のキャンペーンとしては展開されることはなかった。事件そのものの二面性故であった。
 このため赤穂事件を忠義のすばらしさを称える逸話として宣伝する行為は、常に「民間」から発するという形でしか行われなかった。またそうすることが、国民の自発性を高め、自発的に国難に対処する気風を養うものであるとも考えられたのであろう。忠義の士の義挙としての赤穂事件は、講談や赤穂浪士を顕彰する団体の活動として流布されたので、昭和10年代の戦争の最中においてもそれは、中央義士会の雑誌や国民講談振興会の「義士銘々伝」という形で流布されたのである。

 すこし長々と論じすぎたかもしれない。
 しかし江戸時代から昭和前期までの時期の赤穂事件と「忠臣蔵」の受け止められ方の変化を見ていると、これが「つくる」会教科書が記したような単純な忠義の義挙としての受け止められ方ではなかったことは明白である。

(2)太平の世における「奉公道」宣言の書:コラムの構造A−葉隠の真実−

 教科書が武士道を示す二つ目の事例としてあげたのが「葉隠」である。
 旧版の教科書は次のように記述した(p151)。

 また、肥前(佐賀県と長崎県の一部)藩の山本常朝は、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉で有名になる『葉隠』という談話集を残した(1716年ごろ成立)。

 非常に短い記述ではあるが、「葉隠」冒頭の有名なことばをあげて、武士道を極めて簡単な言葉で提示したところに特徴がある。
 これに対して05年8月刊の新版の記述はもっと詳しいものとなっている。
 新版の教科書は次のように記述した(p114)。

 元禄時代に佐賀藩で編纂され、武士の心得を説いた『葉隠』という書物には、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という一文がある。赤穂事件にもみられるように、武士は主君への忠義のために死を選ぶことがある。だが、この言葉は、単純に死を求め、死を美化しているものではない。死ぬ覚悟をもって主君に仕え職務をまっとうして生きることを求めているのである。だから、たとえ主君の命令でも、まちがっていると思ったときはどこまでもまちがいをただそうとするのが忠義の道であると説かれていた。

 「葉隠」の著者名を削除してはあるが、旧版がしなかった「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な衝撃的な言葉の意味を、詳しく解説していることにその特徴がある。

@「葉隠像」の虚像と実像ー生き抜くことを宣言した葉隠

 新版は、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な一句で始まる文の意味を、単純に死を求め死を美化しているものではないとし、死ぬ覚悟を持って主君に仕え職務をまっとうして生きることを求めていると解説したが、これは極めてまっとうな、正しい解釈である。むしろ旧版の記述はこの注釈がないために、旧来の葉隠理解、つまり武士道とは主君のために、国家のために死ぬことも恐れずに命がけで戦うことだとする、単純に死を求めて、死を美化する論理を説いた書だという理解に基づいて書かれたものと言え、こう誤解される危険を回避したことは正しいものである。
 「つくる会」教科書が先に示した「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な一句ではじまる一文は、極めて誤解されやすいものである。
 この文は以下のように続いている。

 武士道というは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。図に当たらぬは犬死などどいう事は、上方風の打ち上がりたる武道なるべし。多分すきの方に理が付くべし。若し図にはずれて生きたらば、腰抜けなり。この境危うきなり。図にはずれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めて死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越(落)度なく、家職を士果たすべきなり。(「葉隠」聞書第一の二)

 前半だけ読むとまるで、武士道とは主君のために死ぬことだと言った文だと誤解する。しかし後半を読むとき、この理解は否定される。
 毎朝毎夕、死ぬ時のことを考えその覚悟をしておれば、出世せねばとか手柄をあげねばなどという欲心から自由となり、こうなれば一生落度なく家職を果たすことも可能になるのだと説いたのが、この文の後半である。いわば前半は、戦国以来の武士の生きる覚悟を説いたものであり、それと同等の覚悟をもって太平の世に臨めば、奉公人としての一生も落度なく生ききれると説いたのが後半の文章なのだ。ここまで読まないと葉隠は理解できない。
 そしてこの理解は、この一文に続く次の文を読むとさらに確信となる。
 葉隠は、先の文に続いて次のように語っている。

 奉公人は一向に主人を大切に歎くまでなり。これ最上の被官なり。御当家御代々、名誉の御家中に生まれ出で、先祖代々御厚恩の儀を浅からざる事に存じ奉り、心身を擲ち、一向に歎き奉るばかりなり。この上に、智恵・芸能もありて、相応相応の御用に立てば猶幸いなり。何の御用にも立たず、不調法千万の者も、ひたすらに歎き奉る志さえあれば、御頼み切りの御被官なり。智恵・芸能ばかりを持って御用に立つは下段なり。(「葉隠」聞書第一の三)

 ここでは武士道ではなく、奉公人道が明確に述べられている。
 智恵も芸能もなくお家のために何の役にも立たない家臣であっても、一心に主人を大切に思い、その思いのみでひたすら奉公する志さえあれば、それは智恵や芸能があって主人に役立っている家臣よりも上であるとまで極論している。まさに「滅私奉公」の思想である。
 だからこの思想は明治以後、国家に忠節を尽くす国民のありかたとして称賛され、戦後も、企業に忠節をつくす社員の生き方として称賛され推奨されてきたのだ。
 この意味で、葉隠が説く武士道は、「死ぬ覚悟をもって主君に仕え職務をまっとうして生きることを求めている」との新版の理解は、正しい。
 だが、新版の解説で、このあとに書かれた一文は舌足らずである。
 たしかに葉隠では、「主君の命令でも、間違っていると思ったときにどこまでも間違いを正そうとするのが忠義である」とは書かれている。そしてそのように武士道を実践した者たちが多数いたことは、笠谷和比古著の「主君『押込』の構造−近世大名と家臣」で実例を持って説かれているように、しばしば藩・お家を潰しかねない藩主を、家老・年寄りたちが中心となって実力で押し込め、藩を守るために主君を隠居させて新しい主君を押し立てたことに見事に示されている。
 しかしこのように、主君に異見することは、一般の武士に出来ることではない。近世大名家においては、その権限を持っているのは、家老や年寄りと呼ばれた藩政を預かる重臣たちだけであることは、葉隠で著者・山本常朝がなんども説いていることである。

:「異見」であって「意見」ではない。当時の武士は「異見」の文字を使用した。文字通り、主人に対して主人の考えと異なる考えを申し上げ、主人の考えの変更を迫るものであった。

 従って身分の低い家臣は、主君の政治が間違っていると思った場合でも、直接主君に異見することはできない。できることは、主君に異見する権限を持った重役に自分の考えを述べ、それを主君に伝えてもらうことだけである。
 だが藩重臣に自分の異見を共感を持って受け止めてもらうには、常日頃から自分の同輩や直接の上司ともうまく付き合って懇ろになり、彼らに信頼されるようになって、彼らの口から直接藩重臣に、自分のことを信頼のおける仕事のできる奴という評価を伝えてもらわなければならない。そうでなければ、下層の家臣が、藩重臣に会うことすら可能とはならない。
 要するに、主君の政治に異見を挟むためにも、身分の低い家臣は、常日頃の仕事振りや、仕事における人間関係を大事にしないといけないということになる。
 その結果、主君に異見をする権限を持たない下層の家臣は、日々の家職をつつがなくこなし、仕事上の付き合いも上手にこなして人間関係も円滑にしておかなければならないということになり、それはそのまま、組織の一つの歯車に過ぎない「奉公人」が、いかに生きるかという生き方の指南になっていくのである。
 山本常朝の葉隠は、つまるところは、このしがない下級の「奉公人」に過ぎなかった彼自身が、長年の職務を通じていかに武士として生きるかを悩んだ結果とし、太平の世の中における武士の生き方を会得し、「武士は(奉公人)は、死ぬ覚悟を持って主君に仕え、職務をまっとうして生きることだ」との「奉公人」道を宣言した書なのである。「つくる会」教科書の新版が示したような、主君に異見を言うことが忠義であるという建前を実践できない下級武士の「奉公人」としての生き方こそが、山本常朝の言いたいことであった。
 彼にとっての忠義とは、ただひたすらに主人とお家の安泰を願い、日々の家職にせいをだし、それを一生つつがなく勤め上げることだったのだ。
 この意味で「つくる会」教科書新版の、忠義とは主君の命令であってもそれをどこまでも正そうとすることだ、とする理解は、葉隠の中では理想像としてのそれであって、建前であり、現実にこの忠義を実践することの出来る武士は少数であった。下級の家臣にはそのような忠義は視野のうちには入ってこない。ただひたすらに日々の家職をまっとうすることだ。ここには死ぬことなどは除外され、お家の安泰だけが目的となった「奉公人」としての「悲しい」姿があるのみだ。
 江戸時代の武士とは、かような「奉公人」としての一生しかありえなかった。
 ここに、現代の、過労死に至るような過酷な職務を押し付けられながらもなお、ひたすらに企業のため(お家のため)に仕事に邁進するサラリーマンと同種の悲哀を感じるのは、著者だけであろうか。
 以下、小池喜明の著書に依拠しながら、詳しくみておこう。

A名誉ある武門の家に生まれたことを悩み武士としての生き方に悩んだ山本常朝

 まず葉隠を理解するためには、著者山本常朝の一生を通観し、彼の生きた時代を理解しておかなければならない。

(a)山本常朝の生涯
 山本常朝は、1659(万治2)年に、佐賀藩の武士の次男に生まれた。
 父山本重澄は島原の乱(1638年)で奮戦して重傷を負った誉れ高き武士であり、彼の実家の中野一族は、佐賀でも名高い武門の一族で当主は代々家老を勤めていた家であった。
 常朝は父の70歳の時の子供で、生来病弱であり戦の役には立たないと噂されていた。このことが彼の意識には強い劣等感となっていた。
 さらに常朝が10歳のとき父が死亡し、彼と姉と母とは、山本の本家を継いだ兄の家に移り、常朝は兄およびその息子(常朝の甥)に養育されることとなる。
 そして名誉ある武門の家に生まれた常朝の武士としての務めの最初は、9歳の時に藩主のお側小僧となって出仕し、14歳で小小姓、20歳で元服して御書物方手伝いとなって歌書などを書写、さらに21歳にして初めて禄として切米20石をたまわり、24歳でお側御小姓役となるなど、常に藩主の側に 仕えてその私用を勤める奥務めであった。しかも彼は幼少の時から利発であり、和歌に才能を見せていたので、和歌を好んでいた佐賀藩二代藩主鍋島光茂にも可愛がられていた。
 だがこうした常朝の家臣としての歩みは、武門の家である中野・山本一族からは蔑まれ、父や兄などからは、和歌などは武士が嗜むものではないときつく叱られ、和歌の書を焼かれるなどの仕打ちを受け、好きな学問や和歌の道に進むことを諦めさせられた。
 山本常朝の武士としての旅立ちからして、彼は主人の馬前で命を懸けて戦うことが武士の本分とする一族の冷たい視線を浴びていたのであった。
 このため主人に叱責されて出仕を止められた時期に武士としての生きる道を見失った常朝は、一時は仏道に魅かれ、21歳のときに仏法の血脈を受け生きながらにして葬式を挙げるという、現世からの逃避を図る行動にも出ていたのであった。
 しかしその後主人の勘気も解けて再度出仕した常朝の仕事は、やはり殿の身近に仕える奥向きの仕事であった。
 1686(貞享3)年、28歳の年に、彼は江戸藩邸での書写物奉行を命ぜられ、やがて京都御用を命ぜられ、藩の京都藩邸において藩主が懸命に励んでいた歌道の道で、公家に藩主の歌を見せて添削・指導を申請したり折衝したりする役についた。幼少からの彼の和歌の才能が藩主に認められたわけである。
 その後一時役からはずれることはあったが、1696(元禄9)年38歳の時には再び京都役となり、前藩主光茂が熱望する古今伝授を受けるため、公家の間を奔走することとなった。おそらくこうした功績が認められたものであろうか。1699(元禄12)年41歳の時に、前藩主のお側役として現米50石・知行125石の身分となった。
 和歌に命をかけ、戦国の武士が戦で戦功を立てて名を挙げたように、太平の世の武士は、武士としては細川幽齋しかいない古今伝授をうけると豪語した前藩主光茂は、常朝の奔走もあって、その死の直前に待ち望んでいた古今伝授を受けた。
 そして1700(元禄13)年5月に前藩主光茂が69歳で死去すると、常朝は、42歳にして隠居・出家して隠棲することとなった。
 以後はその地で、佐賀藩の昔を知る古武士として人々に尊敬され、やがて1710(宝永7)年52歳の時には、彼を慕う田代陣基(藩主お側役)が彼の元を訪れ、山本常朝の話を聞き、それを書き留めていくこととなる。この聞き書きが、後の「葉隠」である。
 田代陣基による「葉隠」全11巻の編集が終ったのは、1716(享保元)年9月。常朝が58歳の時であった。その間にも常朝は、神代主膳(後に佐賀藩第5代藩主・鍋島宗茂)のために、藩主たる心得を書いた「乍恐書置之覚」(常朝書置)を書いて上程するなど、佐賀藩において武士のあるべき姿を説くことのできる古武士として遇せられていた。
 山本常朝が死去したのは、その三年後、1719(享保4)年10月、61歳のことであった。

(b)戦国乱世と近世太平の世の過渡期に生きた侍
 このように、山本常朝の生涯を振り返ってみるとき、彼の生きた時代が、太平の世そのものであったことがわかる。
 彼が生まれたのは、近世太平の世の始まりである1615(元和元)年からは40年余後、近世初期最後の戦闘である島原の乱(1638年)からは20年ほどあとの時代であり、彼の青年期・壮年期はまさに、世の中が太平を謳歌した時代であった元禄時代そのものであった 。
 この元禄時代の最後を飾ったのが、先に見た赤穂事件。
 浅野内匠頭の殿中刃傷事件は1701(元禄14)年、常朝が42歳のとき。そして赤穂藩旧臣が吉良を討ったのは、翌1702(元禄15)年の暮れ、常朝43歳。さらに討ち入った赤穂旧臣が切腹したのは、1703(元禄16)年の2月のことであった。
 まさに山本常朝が生きた時代とは、先に見たように、戦国の余燼まだ冷め遣らず、武士とは主人の馬前で命を懸けて戦い死ぬのが名誉であるという観念がいまだ強かった時代。しかしすでに戦が行われた時代は遠く、主人の馬前で死ぬことも適わない時代であった。しかもそれでも主人のために命をかけられる唯一の場として残されていた主人の死に際しての殉死も、佐賀藩では、1661(寛文元)年に早くも二代藩主光茂の命で禁止され、幕府も1663(寛文3)年には殉死禁止令を布告した。
 山本常朝が生きた時代は、武士がすでに主人のために命がけで働き、主人の前で死ぬことが適わない時代であったのだ。
 しかも彼の家は、佐賀藩でも高名な武門の家。
 彼の高齢の父は島原の乱を戦った古武士であったし、彼の兄や親族たちも、その余燼の中に浸っていた。
 だがしかし、常朝の武士としての歩みを見るとき、彼は武門の家に反して、殿のお側近く仕えてその私用を努めるお側役に過ぎなかったし、武士にもあるまじき歌道の知識で持って殿に仕える身分であった。
 常朝の心は穏やかではなかったであろう。心では殿のために命がけで死ぬ覚悟ではいても、そのような場はすでにない。しかも彼の仕事は武士にあるまじきお側御用。それも歌道の才を見込まれてのもの。親類縁者からの嘲りは激しいものであったろう。
 どのようにして名誉ある武門の家に生まれた者として、自身の名を挙げることができるのか。
 彼の心は、武士としての名誉ある死を望む彼の武士としての心とそれを望む親族と、現実としてのお側役・歌道の道での勤めとの落差に揺れたはずである。
 「葉隠」とは、このような武士として揺れ動く心を抱えての、山本常朝の60年にも及ぶ生涯の苦闘の果てに勝ち取った、太平の世を生きるしかない武士のための、新たな生きる覚悟を述べた書なのである。
 だからこそ彼は、戦乱の世のいつでも死ねる覚悟で生きてきた武士の心構えで持って、畳の上でのご奉公、それぞれの小さな家職をまっとうしろと叫ぶ。これが新しい忠義のあり方であると、彼は叫ぶ。
 それゆえ彼の言葉には大きな落差がある。
 戦国の世の常住死身の覚悟こそが武士のありうべき姿だと声高に叫んだあとで、その覚悟をもって、日々の家職をつつがなく勤め上げるために、同僚や上司や後輩にも気をつかい、人間関係も大事にしながら生きよと、現実の武士の生き方に目を向ける。前半は建前であり心の目標であり、後半の現実にこそ、リアリティはある。
 「葉隠」の冒頭にある有名な言葉、「武士道とは死ぬことと見えたり」に続く言葉の中で彼が、武士とは死ぬべき時に死ぬのが武士であり、その結果などを気にするものではないと声高に叫んだあとで、一転して、この覚悟があれば一生落ち度なく家職を生きぬけると言明したのは、こういうわけであった。
 武士の生き方を考える書としての「葉隠」には、興味深い一節がある。それは赤穂旧臣の「義挙」についてのものである。
 山本常朝は、こう述べている。

 浅野浪人夜討も、泉岳寺にて腹切らぬが越度なり。又主を討たせて、敵を討つこと延々なり。もしその内に吉良殿病死の時は残念千万なり。上方衆は智恵かしこき故、褒めらるる仕様は上手なれども、長崎喧嘩の様に無分別にすることはならぬなり。(聞書一の五十五)

 ここでの常朝は、戦国以来の武士の感覚でものを言っている。殿の遺恨や無念を我が事として引き受け、見事敵を討って死に花を咲かせようという、戦国武士の観念で物をいっているのだ。ここで言及された、早く敵討ちをしないと吉良が死んだらどうするのだという意見は、当初からの敵討ちを主張していた急進派の頭目・堀部安兵衛がしばしば口に出していたことと瓜二つである。
 その上で常朝は、赤穂旧臣は、吉良の首を殿の墓に供えたらすぐに全員で切腹すべきであったと言い切る。
 死ぬべきときに生きながらえたから、幕府の裁定がどうのこうのと世間を混乱させたし、赤穂旧臣はもともと死ぬ気などなく、名を挙げて他家に好条件で再就職したいがために討ち入ったなどと、あらぬ疑いをかけられることになったと、常朝は言いたいのだ。
 そう。死こそ武士の美学であり、名誉ある死こそありうべき武士の死に様であるとする、旧来の武士道からすれば、常朝の断言したようになる。
 殿の遺恨を晴らすことだけに死に物狂いになれと言いたいのであろう。吉良邸に討ち入ることこそが目的である。そこで吉良の首を取れずに皆で討ち死にしても、恥にはならない。まして運良く吉良の首を取れたのだから、それを亡君の墓前に据えれば、それで目的は達したはずだ。その後彼らの行動を世間がどう評価しようが、浅野家がどうなろうと、その結果はどうでも良い。常朝はこう言いたかったのだ。
 だが、藩の存続やお家の再興を最高の価値とする近世の新しい価値観においては、結果を考えない行動は暴挙として非難される。
 ここがお家再興を考えた赤穂旧臣が悩んだところであった。
 そしてこの悩みはまた、山本常朝の悩みでもあったことであろう。
 山本常朝は、自身が仕えた二代藩主光茂が死去したとき、彼としては殉死したかった。しかし許されない。だから殉死に代えて、隠居・出家するという形で、世間から身を引いたのだ。
 この時はまだ、彼自身は、家来は主人に殉じるものであるという認識にたっていたであろう。
 しかし隠棲後の彼の認識はさらに深まる。
 小池喜明によれば彼は、藩主自身もまた藩という武家共同体の一機関に過ぎない。藩主自身もまたお家の存続という目的を負った個人に過ぎない。従って藩主は、その目的のために生きなければならず、その目的に反する藩主に対しては、家老や年寄などの重臣は、命がけで殿を諌め、その政治を正さねばならないと考えていったそうな。
 この観点から見ると、晩年の山本常朝の目には、浅野内匠頭の行動は、どう映ったであろうか。そして仇討ちを声高に主張する赤穂旧臣の急進派やお家再興を優先させた大石蔵之介の行動は、どう映ったであろうか。
 山本常朝自身の、もう一つ深いところの見解を聞いてみたいところである。

B「葉隠」のその後−この書が広く知られたのは昭和初年であった−

 最後に山本常朝と田代陣基の共同著作というべき「葉隠」のその後のことを記しておこう。
 1716(享保元)年9月に完成してからも、「葉隠」は、佐賀の地方で書写され、藩士の間に読まれたにすぎなかった。そして江戸時代中・後期にかけて佐賀藩ではかなり読まれた書物ではあったが、ついに藩校でこの本の講義がなされたり、出版されることはなかった。
 それにはこの本の性格に理由があった。
 「葉隠」は、著者山本常朝が見聞きした隣国や佐賀藩の武士たちの実例を基にして、武士のありうべき生き方を説いた書である。従ってそこで常朝の鋭い批判を浴びていた人々の多くは、彼と同時代またはその少し前の佐賀藩の重役や藩士たちであった。このためこの本は完成したときから、その後の取り扱いについては慎重を期する必要があったのだ。あまりに実在の佐賀藩士を、その罪状の数々を挙げて批判しすぎた故に。
 「葉隠」は、著者山本常朝によって、「この十一巻、おって火中すべし」と書かれていた。読んだら焼き捨てよと。
 おそらくこれが理由となって、田代陣基自筆の「葉隠」は現存しないし、出版されることも、藩校で講義されることもなかったのであろう。
 「葉隠」が世に出るきっかけをつくったのは、幕末の動乱であった。
 幕末の佐賀藩主鍋島閑叟(1814‐71)によって読書会が開かれ、藩校教師で東の藤田東湖と並び称された儒学者である枝吉神陽(副島種臣の兄、1822-62)によって「葉隠聞書校補」が編まれ、これは「葉隠」全巻のなかに見られる人物について調べたものであった。そして枝吉神陽とともに「葉隠」の熱心な愛読者として知られているのは、佐賀藩きっての秀才で明治維新で活躍した江藤新平(1834‐74)であった。
 こうして「葉隠」は幕末から明治にかけて人に知られるようにはなったが、まだその範囲は佐賀を出るものではなかったという。
 「葉隠」が始めて活字化されたのは、1906(明治39)年3月に小学校教員の中村郁一が自費出版したものによるが、これは部分的な抄録であった。
 「葉隠」全文が活字化されたのは、1940(昭和15)年の栗原荒野校訂の「校注葉隠」であったが、同じ昭和15年に、岩波文庫に、和辻哲郎・古川哲史校訂の「葉隠」が入ったことで、広く全国に知られることとなった。時は、日中戦争から太平洋戦争に突入する時期であり、この時初めて「葉隠」は、国家に命を懸けて忠義をつくす日本人の精神の真髄を示す武士道の書として称揚され、広く読まれることとなった。
 だがこの読まれ方は、先に見たように、太平の世においていかにお家安泰のために働くかということを説いた本書の真髄を誤解したものであり、処々にちりばめられた戦国期の武士道への常朝の歯切れの良い言及を、 「葉隠」が称揚する武士道そのものと誤認したものであった。
 戦後は一時期武士道を称揚し戦争を賛美した書として嫌われたときもあったが、その後、近世江戸時代の地方の武士の意識を示す資料として復権した。
 そしてこの書を、戦時中の青年時代に愛読していた戦後の純文学を代表する三島由紀夫(1925‐70)や、戦後の大衆文学を代表する時代物作家の隆慶一郎(1923-89) が、「葉隠入門」(三島由紀夫・1967年刊)と「死ぬこととみつけたり」(隆慶一郎・1990年刊)とを出して、彼らの思想の背景に「葉隠」があったことを明らかにしたことから、 「葉隠」は再び広く知られるようになった。
 しかし 「葉隠入門」は、華美で浮ついて平和主義的な戦後の風潮を忌み嫌い、これに痛打を浴びせたいと願っていた三島が、元禄の華美で怠惰な風潮に批判的な山本常朝の姿勢に共感し、常朝が、これと正反対の戦国の世の武人の潔い死を目指す傾向を時代に対する批判として提起したのだ誤解して書いた書であった。また「死ぬこととみつけたり」は、学徒動員で戦地に赴いた隆が、「葉隠」の中にフランスの詩人ランボーの詩集を隠して持ち込み、暇に任せて「葉隠」に記された戦国と江戸初期の戦人の死に様を読んでこれに共感したことを背景に、特に江戸初期の佐賀鍋島藩の武人たちの死に様に注目して書いた小説である。
 従って、これらの「葉隠入門」の書は、戦国時代と江戸初期の戦国の余燼さめやらぬ時期の武士が「死に狂い」する姿に注目して書かれたため、今でも、「葉隠」が死ぬことを勧めた書であると誤解している人が多いのである。
 「つくる会」教科書の「葉隠」についての記述は、以上に詳しく見たように、旧版のそれは古い誤解に基づいたものであった可能性が強いが、新版のそれは、かなり「葉隠」それ自身に添った正しいものに訂正されている。

(3)武士道の「公」は「武家共同体」を指すものである:コラムの構造B−武士道とは何か−

 最後は、この教科書が提示する武士道とは何かということと、その武士道が歴史に与えた影響についてである。
 旧版の教科書は次のように記述している(p151)。

 戦いの機会が遠のき、武士たちも平和な生活に慣れていったが、その半面で、自分たちの本来の姿を示したいという欲求もあった。

 これが旧版のコラムの冒頭の部分。旧版では武士道とは何かを一言も解説せず、葉隠の一節を例示しただけであった。
 ただ旧版のコラム冒頭の記述は、近世江戸時代において武士道が問題になった時代的背景を簡潔に述べている点が貴重である。そして新版ではこの時代背景の記述が詳しくなるとともに、武士道とは何かということの説明が詳しくなされる。
 05年8月刊の新版の教科書は、次のように記述した(p114)。

●主君への忠義とは何か●
 武士道は、戦場で戦う武士の行動のおきてとして生まれたが、その理念は、戦争のない江戸時代に仏教や儒教の影響を受けて体系化された。武士道の要素としては、質素、正直など、古くから、武士の発生の基盤となった地方の農村生活の中で伝統として育まれてきたものも少なくない。勇気、惻隠(なさけ)、克己(おのれにかつこと)、名誉、誠、礼など、武士道にはさまざまな徳目が考えられる。しかし、武士道において、最も特徴があるのは、忠義の観念である。
                         (ここに「葉隠」についての記述が入る)
●公のために働く●
 このように、忠義とは、主君のいいなりにひたすら従うことではなく、それを越えて藩や家を守る責任をもち、その存続のために武士として最善をつくすことを意味した。
 のちに幕末になって日本が外国の圧力にさらされたとき、武士がもっていた忠義の観念は、藩のわくをこえて日本を守るという責任の意識と共通する面もあった。このような、公のために働くという理念が新しい時代を用意したともいえる。

@「公」のためには主君すら排除する武士道の忠義

 「つくる会」教科書の新版が、忠義とはたんなる滅私奉公ではなく、主君個人への忠節をこえて、藩やお家と呼ばれるものへの忠節を尽す価値観であることを示したことは、正しいし、従来の忠義=滅私奉公という考え方を訂正したものである。
 江戸時代までの武士道における忠義とは、主君の言動や政策が、藩やお家と呼ばれる「武家共同体」の存続を危機に突き落とす可能性が強い場合には、主君を諌めたり、諌めても改まらない場合には、家臣団の中核である家老衆の合意に基づいて親戚大名の同意も取り付けた上で、家臣団の総意として主君を押込め、新たな主君を迎える行動を是認するものであった。そしてこの「押込」には初期においては藩主暗殺すらそこに含まれた行動であったし、近世後期に至るまで、その実行は、藩主に対して藩の武力の発動を行使するものですらあった。
 そしてこのことは、「葉隠」で著者の山本常朝が何度も確認したことであったし、笠谷和比古が「主君『押込』の構造」で実例を挙げて論証したような、近世江戸時代を通じて存在した「主君押込慣行」によっても証明されることである。
 この意味で江戸時代までの武士道は、主君・家臣の関係が本来は個人と個人との契約関係であり、双方向の義務によって構成されるものであった性格をよく示している。そしてそこにおける武士個々人は、主君も家臣も共に、彼ら個々人を越えた「公」とでも言うべき、藩やお家の存続のために働く義務を負った個人として捉えられており、西欧における個の自立と社会契約にも似た構造をしめしていることは注目に値する。
 しかし、江戸時代までの武士道における忠義の対象である藩やお家は、近代的な意味での国家などの「公」とは、かなり異なる性格を持つものであることも忘れてはならない。
 藩やお家とは、そこに所属する武士たちの生活共同体である。
 それがかなり大規模の物になったとしても、その個々の構成員は、お互いの顔や名前や家族を見知っており、日常の生活や業務において、常に具体的に協同してその藩なりお家を守る仕事に従事している、文字通りの仲間であり、互いに幾重にも重なった婚姻関係や師弟関係によっても、緊密に結びついた集団であった。そして藩主といえども、家臣からは一個の人間として捉えられており、藩主との日常的な人間的接触を通じて主君−家臣の情愛が育まれ、同じ「お家」を守る仲間としての親愛の情が形成され、それがこの生活共同体としての藩やお家の構成員を硬く結びつける紐帯でもあった。
 この意味で武士にとっての藩とかお家というものは、近代的な意味での国家などの「公」と呼ばれる抽象的なものとは異なる、極めて属人的な個人的な性格の共同体なのである。

A「日本」という「公」は外国からの圧力の下で形成された

 したがって江戸時代の武士にとっては、「公」である「お国」とは、自分が所属する武家共同体である藩やお家でしかなかった。
 だからこそ、すでに18世紀後期から19世紀前半の西欧諸外国の日本接近と開国要求に際して、日本が西欧の植民地とならないためには、統一された日本国家の建設が不可欠であるにも関らず、個々の藩や最大の藩としての幕府の利害ばかりが優先されて、統一した外交方針や国家建設方針が打ち立てられるどころか、日本人同士(「日本人」という観念自体がないのであるが)の間で、激しい争いが起こってしまったのだ。沖縄と北海道(蝦夷地)を除く日本列島は、260余にも分かれた藩によって統治されており、その個々の藩は独立国家であったために、統治階級である武士たちは、こぞって欧米の圧迫に立ち向かうのではなく、個々の「公」である「藩=お家=お国」のために動き、互いに戦いあうしまつであったのだ。
 このことは幕府主導の統一国家形成を指向した幕府の天保改革において、その統一政策が諸藩の利害と対立したために、その改革政治そのものが潰されていったことや、幕府内においてすら、開国要求を突きつけてくる欧米諸国に対する外交方針が、内部の鋭い対立によって二転三転するありさまによく示されていた。
 しかし「つくる会」教科書新版は、江戸時代までの「公」と近代的な意味での「公」の違いを完全に無視している。
 「日本が外国の圧力にさらされたとき、武士がもっていた忠義の観念は、藩のわくをこえて日本を守るという責任の意識と共通する面もあった」と教科書が記述したとき、藩という武家共同体と、いまだ存在しない幻でしかない日本という国家との間に、超えられない深い溝があった事実は完全に忘れ去られている。
 幕末・明治維新の激しい戦いの中で、どれだけの人間が、日本および日本人という意識で動けたか。この意識のレベルで動けた人物が極少数であったことは、次の近代編1の各章で具体的に見ることになるだろう。幕末の政争において、日本を守るという意識で動いた人々は、そして統一国家日本を築こうとした明治の政治家たちは、この従来の「公」である藩とかお家とかいう武家共同体を超えたレベルでの「公」である「日本」を、国家機構・社会機構としてだけではなく、具体的に人々の心に深く結びつく「共同体」として仮構することに腐心したのであった。その腐心の成果の一つが、天皇を家長とする「共同体」としての「日本」を構想し、その下での軍人の心構えを説いた軍人勅諭であり、その下での日本国民一人一人の心構えを説いた教育勅語であった。
 明治になってこのような国民の心を「公」としての「日本」に結び付けようとする様々な努力がなされたこと自体に、江戸時代までの「公」としての藩やお家が、近代的な意味での「公」である「日本」とは、全く異なったものであることを反証している。
 江戸時代に日本列島に住む武士にとっては、自分は日本人ではなく、それぞれの藩が統治する一地方の人間(例えば長州人とかは薩摩人)でしかなく、自分が忠義を尽すべき「公」は、長州藩・ 毛利家であり薩摩藩・島津家であり、「日本」などではなかった。そしてこれは百姓や町人にとってはなおさらであり、彼らは藩にすら忠義を尽すという観念ががなかったことは、幕末において幕府と戦うことになった長州藩が、藩の町人や百姓に対して、赤穂事件における旧臣たちの行動にならって長州藩主のために忠義を尽せと宣伝するしかなかったことによく示されている。百姓や町人にとって守るべきものは、その家族であり地域共同体である村や町でしかなかった。
 「日本」という「公」は、幕末から明治維新そして明治国家形成の過程という、外国からの圧力に抗しての戦いの中で形成されたものであったのだ。

B明治武士道は武士道ではない

 「つくる会」教科書は、先に見たように、武士道の忠義に見られる「公」のために働くという観念が新しい時代を用意したと断定した。
 そしてここに端的に表現されたように、「つくる会」教科書は、後に近代編で見るように、日本がアジアの中で唯一つ、欧米諸国の植民地にならなかった理由として、日本が武士道という「公」のために働くと言う観念を持つ統治階級・武士によって統治されていたことを誇らしげに宣言している。
 しかしこの論の立て方は、完全に論点のすり替えである。
 先に見たように、江戸時代までの武士道の忠義に見られる「公」とは、個々の武士が所属してきた共同体としての藩でありお家でしかなかった。その性格は極めて属人的であり、個々の構成員の互いの情愛によって結び付けられたものであり、近代的な意味での「公」の一つである国家とはまったく違ったものであった。
 武士がお国のために命をかけるというとき、それは具体的には個人である主君のためであった。また「主君押込」の際の主君を越える「公」としての藩やお家でさえも、それは長く続いた主君の血筋からなる家であり、その下で暮らしを成り立たせてきた家臣たちの個々の家であり、これも個々の具体的な人間の集団であった。しかも武士道の忠義が主君のために自らの命を投げ出すと言っても、先に見た赤穂藩旧臣が主君の遺恨を晴らすために吉良邸に討ち入ったときのように、それは亡き主君のためであると同時に、命がけで戦う自分自身の名誉のためであり、自分の子孫も含めた、武門の家としての自分の家の名誉のためでもあった。
 江戸時代のまでの武士道における忠義は、極めて個人的な動機や利益と深く結びついたものだったのだ。
 だから主君やお家に忠義を尽しても、それが自分や自分の家にとって利益とはならないと見るや、主君やお家への忠義は放棄される。
 そしてこれは、武士における君臣関係や上下関係や同輩関係が、本来は個々人間の契約に基づく、個人的な利益を図るためのものであったことに由来している。
 だから軍団としての藩においても、軍団の構成員である個々の藩士は、その役職などの上下関係に基づいて、日常的に人間的な触れ合いを通じた情の交わしあいが不可欠であり、上に立つものは下のものの深い信頼を獲得するような人格を持ち、それを示す言動を普段から行えるものでなければならなかった。軍団自体が、個々人の利益 によって結び付けられ形成されたものであったがゆえに、構成員相互の情愛にその集団としての強さ自体が規制されたのだ。
 これは近代国家の組織、とりわけ軍隊の構成原理とは異なる。
 近代国家の組織、とりわけ軍隊においては、上官・指揮官の命令によって、それに疑義を差し挟むことなく一糸乱れぬ行動をとれる組織、機械のようなシステムとしての組織でなければならない。そこにおいては、部下による上官の命令への不服従や批判、ましてや個々人の兵士が、個々の利害に従って、場合によってはより利益が得られると見られる敵方に投降するなどということは、想定すらされない部類の行動であった。
 しかし江戸時代までの武士道を生み出した藩やお家という軍団においては、個々の兵士は個々の利害に従って動くのであって、指揮官たる上官や主君の采配が悪ければ厳しい批判に晒され、場合によっては軍団の一部がそれに従わずに戦闘に入らずに形勢を観望して有利なほうに寝返ることすらある、極めて流動的な個々人の利害に基づくものであった。
 従って近代明治日本の国民道徳となった武士道においては、「公」に忠義を尽すことは称揚されても、「公」の名の下に、上官や指揮官、いや国家の指揮をとる政府や天皇を批判したり「押込」たりする権利は認められなかった。ここでの忠義とは、文字通りの滅私奉公であったのだ。 つまり明治になって国民道徳として称揚された武士道は、文字通り武士を否定したものであり、江戸時代までの武士道とは根本的に異なるものだった。
  そしてこれは、明治憲法においても教育勅語においても、西欧の個の自立・社会契約論と対をなしていた国民の革命権が慎重に排除されていたこととにもつながり、これは注目に値する。
 「つくる会」教科書における武士道の忠義の捉え方は、武士道そのものが、江戸時代までのそれと、明治になって国民道徳そのものとなった武士道とでは、全く性格が異なったものであることを無視した、論点をすりかえたものだったのだ。
 したがって日本がアジアの中で唯一欧米の植民地にならなかった理由は、武士階級による統治や、その精神である武士道に求められるのではなく、もっと別のところに求められるべきである。そしてそれは、近世編1・2・3の各章において詳しく論じてきたように、近世江戸時代の日本の経済・社会・政治の仕組み全体の性格と、その世界史的なレベルでのおかれた位置に求められるべきである。
 言い換えれば、18世紀から19世紀にかけてのアジアの欧米による植民地化とは、それまで世界の中枢であったアジア、世界中の富が集まってくる豊かな地域であったアジアが、世界の辺境にあって、中枢との貿易によってのみその存在を確保してきた地域が、これまで中枢との貿易によって手に入れていた資材を自国で供給するように産業を改編させたり(日本の場合)、その資材を産出する新たな地域(アメリカとアフリカ)を植民地化したり(これがヨーロッパの場合)して、この新たな富を背景にして中枢の諸国との貿易競争を勝ち抜き、その間に作り上げた卓越した産業力と軍事力で、それを征服していった過程であった。
 植民地とされた日本以外のアジアの国々は、その中枢に属する大陸国家であったがゆえに、貿易に頼る度合いがより少なく一国的に自足する傾向が強く、その意識も一国的に完結するものであったが、日本はその辺境に位置する海洋国家、中枢との貿易によってしか食料や様々な資源や工業製品を手に入れられない地域に属するものであったために、その経済・社会・政治の仕組みが、世界史的変動により敏感に対応できるように作られていたし、世界史的変動を逸早く認識し対応できる意識が形勢されていた。
 このそれぞれの国々の世界史的空間での位置の違いに、それぞれの近代における運命の変転の根拠は求めるべきであると考える。

:このことは近代編1において、詳しく検討したい。

:この項は、 土肥慶蔵著「鸚軒遊戯」(1927年改造社刊)、和辻哲郎・古川哲史校訂「葉隠」(1940年岩波文庫刊)、田原嗣郎著「赤穂四十六士論−幕藩制の精神構造」(1978年吉川弘文館刊・2006年再刊)、 木村毅著「日米文学交流史の研究」(1980年講談社刊、1982年恒文社より再刊)、丸谷才一著「忠臣蔵とは何か」(1984年講談社刊)、笠谷和比古著「主君『押込』の構造−近世大名と家臣団」(1988年平凡社刊・2006年講談社学術文庫再刊)、赤穂市総務部市史編纂室編「忠臣蔵 第1巻」(1989年赤穂市刊)、野口武彦著「忠臣蔵ー赤穂事件・史実の肉声」(1994年ちくま新書刊・2007年ちくま学芸文庫再刊)、松方冬子著「『不通』と『通路』−大名交際に関する一考察−」(1994年吉川弘文館刊・日本歴史11月号所収)、 新渡戸稲造著・須知徳平訳「武士道」(1998年講談社インターナショナル刊)、松方冬子著「浅野家と伊達家の和睦の試みとその失敗−正徳期における近世大名社会の一断面−」(1999年吉川弘文館刊・日本歴史10月号所収)、小池喜明著「葉隠−武士と『奉公』」(1999年講談社学術文庫刊)、宮澤誠一著「近代日本と『忠臣蔵』幻想」(2001年青木書店刊)、松村正義著「日露戦争100年−新しい発見を求めて」(2003年成文社刊)、平井誠二著「吉良上野介と赤穂事件」(2003年吉川弘文館刊・日本の時代史15「元禄の社会と文化」所収)、 山本博文著「武士と世間−なぜ死に急ぐのか」(2003年中央公論新書刊)、菅野覚明著「武士道の逆襲」(2004年講談社現代新書刊)、笠谷和比古著「武士道と日本型能力主義」(2005年新潮選書刊)、 小澤富夫著「歴史としての武士道」(2005年ぺりかん社刊)、谷口眞子著「赤穂浪士の実像」(2006年吉川弘文館刊)、大石学著「元禄時代と赤穂事件」(2007年角川書店刊)、谷口眞子著「武士道考−喧嘩・敵討・無礼討ち」(2007年角川学芸出版刊)、古川愛哲著「「忠臣蔵も不通か」(2008年講談社刊・「九代将軍は女だった!−平成になって覆された江戸の歴史」所収)、 服部幸雄編「仮名手本忠臣蔵を読む」(2008年吉川弘文館刊)、小学館刊の日本大百科・平凡社刊の日本歴史大事典・岩波歴史辞典の該当の項目などを参照した。


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