沼津兵学校付属小学校の齋藤修一郎−青楼下宿説の虚妄−

 

川瀬 健一

(東日本英学史研究第12号:2013年3月刊 掲載)


 

1:問題の所在

 

 齋藤修一郎(18551910)は、郷里・越前国府中(現福井県越前市)を立って、1870(明治3)年春に沼津に向かった。静岡藩(旧幕府)の沼津兵学校に入学するためであった。齋藤はそこで兵学校の予備門である付属小学校に入り、同年10月に福井藩の貢進生として東京の大学南校に入るまで約八ヶ月在籍し始めて英語を学んだ[i]

 この時代の齋藤について日本英学史学会会員の山下英一氏の論考がある。それは「沼津兵学校の福井藩員外生」(1993・平成5年「若越郷土研究」第381号掲載。後に『グリフィスと日本−明治の精神を問いつづけた米国人ジャパノロジスト』1995年近代文藝社に掲載)で「6.齋藤修一郎」の項に次のように記されている。

 

そこでの生活については、「他の幕臣子弟が駿河半紙でさえ思うように買うことができなかったのに対し、高価な西洋紙を惜し気もなく使い、服装や持物からして貴公子のようであった」と書かれていたり、さらに、「彼が兵学校時代に沼津本町の花柳界に沈湎して芸者買ひの味を覚え身を持崩したから也」と書かれていたりする。とくに後者は彼の政治家としての失脚と不遇な晩年は、この沼津生活にその兆しを見ている。また員外生について「されど独り福井藩人と云はず之等の所謂留学生は、給与の豊富なりし為に自ら放縦に流れ贅沢に赴くの嫌ひあり、一般資業生の規律厳正なりしに比し屢々風紀を紊したりとの評判もあった」とも書かれている。これでは「福井藩修業規則」の質素節倹、奢侈の戒めに大いに反する生活といわざるを得ない。修一郎についていえば、彼の性情に規則に縛られたくない面もあったと思われるが、毎月10円の遊学費を貰っていたというから、案ずるところ修一郎少年に他の生徒にない風雲児のおもかげがあったと思ってもいいようだ。むしろ彼が自叙伝で触れていない所もわかって面白い。

 

山下氏がこの論で述べているように、山下氏が依拠した史料に見られる沼津での修一郎の生活は、後年の彼の自叙伝『懐旧談』[ii]で述べられていたことと全く趣を異にする。『懐旧談』の「17.沼津在学時代の余」で語られたことは、新居屋に下宿して杉田玄端の甥・杉田武の塾に通って『スペリング・ブック』を使って英語を習う毎日だったと。そして明治38月の武生騒動で叔父・大雲蘭渓が福井の獄に繋がれたときもなすすべはなく、日々『スペリング・ブック』に首っ引きであったと。

どちらが真実なのか?

山下氏が参照した史料は、伊東圭一郎『東海三州の人物』(静岡民友新聞社1914・大正3年)と金城隠士「沼津時代の回顧」(「静岡民友新聞」1913・大正27月掲載)、さらに、大野虎雄『沼津兵学校と其人材 附属小学校並沼津病院』1939・昭和14530日)のp114-115であることが判明した[iii]

史料を検討したところ、山下氏の史料批判に問題があることがわかった。

 それぞれの史料が語るところとその性格を、発行年代順に考察してみたい。

 

2:史料批判(1):伊東圭一郎『東海三州の人物』

 

 最初に山下氏が引用した史料の全文を提示しておこう。

 

 官僚派の錚々たる人物として将た実業界の腕利きとして知られたる故齋藤修一郎も兵学校出身の一人也。彼は福井の産にして遥々同輩20余名と笈を負ふて沼津に来たれり。

  齋藤は都築馨六、藤田四郎、中上川彦次郎と共に井上侯の四天王と称せられ、嘗ては後藤伯の下に農商務次官として幅を利かし又た帝国党の総務委員として才腕を振ひ、順当に行けば大臣位になれる人物なりき。

  然るに彼はわずかに金時計一個を東京米穀取引所より収受して脆くも青雲の梯を踏み外せり。その後実業界に鞍替し鉄道業、移民業に手を出し又中外 商業新報社長たりしもいづれも失敗し生涯ウダツ上がらずして今春不遇に逝きたり。

 是も畢竟するに彼が兵学校時代に沼津本町の花柳界に沈湎して芸者買ひの味を覚え身を持崩したから也。当時、彼は僅かに十四五の少年に過ぎざりしと云えば花柳学には非常の早学と云うべし。

 

実はこの史料は一見したところ、いくつもの誤りを含んでいる。

 齋藤修一郎は福井の同輩20余名とともに沼津に来たとあるが、福井藩の員外生は、1869(明治2)年10月に沼津に来ており[iv]、齋藤が沼津に来たのは1870年の春である[v]。彼は福井藩士ではあるが厳密には元福井藩家老の府中本多家家中であり、福井藩の有力者の子弟が沼津に遊学していることを知った本多家家中の主だったものが本多家の家格回復を福井藩に陳情する手段の一つとして私費で齋藤を沼津に送り込んだ[vi]

 さらに齋藤の農商務省退官後の民間での仕事を「いずれも失敗」としているが、これは誤りである。中外商業新報社長を退いたのは帝国党結成に専念するためであり、皇国殖民会社専務を退いたのは帝国党結成の際の他人の多額の借金が降りかかったためであった。この会社は齋藤が退社前に手がけていた第一回ブラジル移民を行ったことで後世に名を残している[vii]

 また齋藤を、都築馨六、藤田四郎、中上川彦次郎らとともに維新の元勲の井上馨(18351915)の四天王としている。これは誤りではないが、この四人それぞれが井上の下でその腹心として活動した時期もその内容も異なる[viii]。伊東の記述はこの実態をつかまないまま、当時世間に流布していた風説に依拠して書いたものか。

 山下氏が直接依拠した伊東圭一郎『東海三州の人物』は、以上のように史料価値に問題がある。これは事実というより齋藤に関する風説に依拠しているからだ。従って齋藤が沼津時代に「花柳界に沈湎して芸者買ひの味を覚え身を持崩した」との記述も、風説に依拠して書いた可能性がある。

ではなぜ伊東は齋藤のことを風説に依拠して論じたのか。

 

1)『東海三州の人物』とは

 『東海三州の人物』は、1912(明治45)年5月から1913(大正2)年7月の間に「静岡民友新聞」に掲載された記事(これが「東海三州の人物」と題して順番を入れ替えてまとめた)に、同じく「静岡民友新聞」に掲載されたのであろう「歴代知事評判記」と「静岡県政史論」をあわせて、1914(大正3)年9月に静岡民友新聞社が発行したもの。齋藤についての記述がある「沼津兵学校の人材4」は、19136月の掲載。ただし文中に「今春不遇に逝きたり」とあることから、1910(明治43)年に伊東が静岡民友新聞に書いたものを転用したものか。

 この本は静岡の著名人の伝記だが、根拠が明かでない新聞記事の集成にすぎない。

 

2)伊東圭一郎とは

伊東圭一郎著『復刻版 人間啄木』(1996年岩手日報社)から略年譜を引用する。

 

1885(明治18)年盛岡市加賀野生まれ。父は自由党代議士伊東圭介(1896年没)。

1896(明治28)年盛岡の下の橋高等小学校入学。石川一(啄木)と出会う。

1898(明治31)年4月に啄木とともに盛岡中学に入学。

1903(明治36)年盛岡中学卒業。磯鶏(そけい)村の小学校代用教員として赴任。

1904(明治3710月黒沢尻小学校に赴任。

1905(明治38)年辞職し上京。国民英学会に学び「中外商業新報」校正係となる。

1909(明治42)年2月、「静岡民友新聞」社会部に入社。

1915(大正4)年12月、「東京朝日新聞」整理部員となる。以後、通信部次長・同部長・調査部長・編集局顧問兼記事審査部長を歴任。

1947(昭和22)年9月に盛岡に戻って岩手日報社の常任顧問となる。

1957(昭和32)年1124日死去。72歳。

著書『人間啄木』(岩手日報社、初版19595月・改版19741月)。

 

 これだけでは彼の思想傾向などはよくわからない。盛岡中学在学中には啄木と共に、足尾銅山鉱毒事件に悲憤慷慨したようであるから、思想的には人権派・民権派か。

 しかし齋藤修一郎を失脚させた「金時計事件」(1893・明治26年)のときはまだ9歳。彼が小学校教員となりさらに新聞社に入った時期(1903・明治36年から1905・明治38年)にはすでに齋藤修一郎は官界を退き、皇国殖民会社専務となった時代。官僚だった時代のように日々新聞紙上を賑わすことはなくなった。

従って伊東圭一郎には齋藤という人物と彼の業績について詳しく知ることはなかったのではないか。彼が新聞記者となった後に知った、新聞が書きたてた汚職官吏としての齋藤像だけではないだろうか。「金時計事件」当時の新聞を複数丁寧に読み返してみれば、後に見るようにこの事件は捏造された疑獄事件であったことは明白であるが、明白にこの事実を明らかにしていた本は、1908(明治41)年にサンフランシスコで発行された齋藤の『懐旧談』だけであった。

後に見るような、静岡民友新聞と齋藤との関係から、伊東が齋藤について彼の自伝を取り寄せ、「金時計事件」当時の新聞を精査するなどの調査をしたとは思えない。

 

3)静岡民友新聞社とは

静岡民友新聞の後継である静岡新聞の社史(『静岡新聞40年史』1981年)によると、伊東圭一郎が在籍し『東海三州の人物』を出版した静岡民友新聞社は民権派の新聞であった。この新聞社は、1891(明治24)年1020日に創刊。社主・社長の井上彦左衛門は、前年の総選挙で衆議院議員に当選し、以来1902(明治35)年まで連続五期当選し、立憲改進党の政治家として活躍。静岡民友新聞は、以後1928(昭和3)年まで静岡における立憲改進党およびその後身の政党の機関紙であった。

そして改進党にとっての齋藤は、次に見るようにその政敵であった。

 

4)「金時計事件」と改進党

齋藤が農商務次官だった1893(明治26)年12月に、「金時計事件」は起きた。

当時の衆議院議長星亨(18501901)と農商務省首脳の大臣後藤象二郎(183897)と次官齋藤修一郎が、賄賂を貰って取引所認可に手心を加えたと、改進党と国民協会を中心とした野党6派が伊藤内閣を攻撃して星を議員除名し、さらに農商務省官吏の腐敗粛清を明治天皇に上表して、翌1894(明治27)年1月に、齋藤および大臣・後藤象二郎を辞任に追い込んだ事件である。正式には「農商務省官紀振粛事件」と呼ばれる。この事件は、自由党と連携して民権派の攻撃を避けて議会を乗り切ろうとした第二次伊藤内閣を崩壊させるべく、改進党と国民協会(山県有朋系の官僚派)が、展開した疑獄事件である。

1890(明治23)年の第一議会開会以後は、自由党と改進党などの議会の過半数を占める民党は、「民力休養」を掲げて、地租の軽減と政府費用の削減、さらには軍事費の削減を掲げて、朝鮮を確保するために清国との戦争を構えようとして軍艦の建造など軍拡路線を走る政府と対峙し、その予算を拒否した。

対する政府は明治2311月に招集された第一議会においては、民党の一部と連携して政府費用の削減を一部行うなどの妥協を行って、従来執行されてきた予算だけは確保した。しかし189111月に召集された第二議会においては、海軍の圧力に押された松方内閣は大規模な軍艦建造を含む予算案を提出し、第一議会で成立した政府費用の削減から生れた余剰金の大部分は軍艦建造費に回され、民党が期待した「民力涵養」のための公共投資はほんのわずかであった。このため議会で多数を握る民党は、この予算案を大幅に削減した案を可決。窮した松方内閣はただちに議会を解散し、品川弥次郎(18431900)内相は、各県当局や警察を総動員した暴力的選挙干渉を行い、民党の勢力を殺ごうとした。

しかし選挙の結果は、品川率いる官僚出身議員でつくる中央交渉部(後の国民協会)が83議席と躍進し、自由党は130から94議席に、改進党は46から37議席にと民党は議席を減らしたが、民党は民党寄りの中間派無所属議員が集まった独立倶楽部の31を加えて過半数を握り、1892(明治25)年5月に召集された第三議会では、松方内閣を激しく攻撃した。すなわち開会直後に内閣に対する選挙干渉批難決議が可決され、前年末の解散で不成立の25年度予算案は憲法71条による前年度予算の執行で取り繕ったものの、前議会で否決された軍艦建造費などの新予算を再度提出したが、またも全額削除され、再度の解散強行もままならない松方内閣は完全に行き詰まった。そこで事態打開のために松方内閣は総辞職し議会との協調を掲げる前枢密院議長の伊藤博文(18411909)を総理大臣として維新の元勲総出で第二次伊藤内閣が出発した。

伊藤内閣は第四議会召集の前に、自由党の星衆議院議長とも関係の深い陸奥宗光(184497)を外務大臣に、同じく自由党とも関係の深い後藤象二郎を農商務大臣に据えて自由党との連携を模索し、選挙干渉を行った府県知事や内務省官僚を更迭した。

これに応えて11月に召集された第四議会では自由党は政府との連携に動く構えを見せたが、またも政府が巨額の軍艦建造費を含む新予算案を追加し、しかも地租軽減分を酒税・煙草税・所得税の増徴で賄う案のため自由党内は硬化し政府支出にも大幅削減を加えた上で軍艦建造費を否決した。またも政府と民党の対立が激化し、議会が紛糾しかねない情況が起きた。これを救ったのが、自由党の衆議院議長星亨であった。

星は改進党との連携を、議会設立前から改進党が政府と手をとって自由党を攻撃してきたという「過去」を理由に打ち切り、政府の弾圧に抗して多大な犠牲を払いつつも議会開設を勝ち取ったのは自由党であるとして改進党を攻撃した。こうして星は自由党を固くまとめるとともに、一方では政府に対して、自由党は今や国民世論の支持をあげて一身に担っているから解散しても無駄であると脅し、政府に対して何らかの妥協を強いる動きに出たのであった。

この星の動きに呼応するように伊藤内閣は天皇に上奏して1893(明治26)年210日に「今後6年間、宮中内廷費から30万円を支出して軍艦建造費に当て文武官は俸給一割を献納して軍艦建造費を補足するとともに内閣は行政整理を行うので内閣と議会が和協して天皇を輔弼せよ」という勅語を出した。これには自由党も改進党も従うしかなく、民党が要求した政府支出の削減と軍が要求した軍艦建造の拡充とが二つながら成立し伊藤内閣は難局を乗り切った。だがこの過程で存在を無視された官僚派の議員からなる国民協会の星への憎悪は増し一方的に攻撃された改進党の星への憎悪も激化し、この両者が連携して自由党と伊藤内閣の連携打倒の攻撃が開始された。

これが星議長と後藤農商務大臣・齋藤農商務次官の「賄賂」事件であった。

第四議会で成立した取引所法に基づいて、全国で取引所の設立認可が進んでいたが、取引所関係者の顧問弁護士でもあった星は取引所関係者から3万円の賄賂を貰い、後藤と齋藤とともに料亭で接待を受け、後藤と齋藤も星と同様に賄賂を貰ったと、改進党機関紙「改進新聞」が1893(明治26)年8月に書きたてた。

しかし賄賂授受の事実は全くの根拠がなく、実態は彼ら三人が取引所関係者から料亭で接待を受けたことと、齋藤が次官就任にあたって東京米穀取引所理事長から取引所開所記念会で配った金時計一個を貰ったことだけであった。したがって星が改進新聞を告訴した裁判では、新聞記事の事実無根が認められ1124日の判決では、星は、新聞発行人への禁固・罰金刑と、新聞10紙へ謝罪広告を命じる判決を勝ち取った。

しかしこれでも星や後藤・齋藤への攻撃は止まなかった。

この理由は、当時陸奥外相のもとで進められていた条約改正にあった。この改正案では、治外法権を廃止する替りに、従来行われていた外国人の内地居住の制限と経済活動の制限を廃止することとなっていた。この条約改正案に対して、国民協会と自由党から出て作られていた東洋自由党がともに大日本協会を結成し、国粋主義的理由を掲げて政府の条約改正案に反対した。そして改進党もこれに同調した。

1893(明治26)年11月に召集された第五議会の開院式の直後に、大日本協会は星議長不信任の緊急動議を出し、過半数の賛成で動議は可決された。しかし星がこれに従わないと、今度は議長不信任上奏案が出されこれも可決された。これにも星が従わないと、125日に七日間の議会出席停止を可決し、さらに13日には星の議員除名案を三分の二の賛成で可決し、星を議会から追放してしまった。この際には、星の専断を気に入らない自由党議員が分裂し、彼らは星除名案に賛成したのである。

こうして星を追放することと平行して、後藤と齋藤に対する攻撃も行われた。

124日には農商務省の汚職を批難した官紀振粛上奏案が国民協会から突然議事日程を無視して緊急動議として出され、農商務省官吏に答弁も許さず、議会としてその汚職が事実か否かの審議もせずに可決してしまった。そして19日には現行条約励行建議案を上程して政府の動きを批判するとともに、先の上奏への回答がなされないことに対しては、内閣の怠慢を批難した官紀振粛内閣大臣処決の緊急動議を提出し、直ちにこれを可決してしまった。可決後に演説した伊藤総理は、「議会の注文は余計なお世話だ。宸断を待て」と言い放つしかなかった。

こうして1214日に官紀振粛の勅語が出され、農商務省の官吏は人民に接するにおいて最も慎重を要し、大臣がこの旨をその属僚に励行せよと指示が出された。この際には、枢密院が異例にも付帯奏議をなして、議会がこの件を上奏するに際して事実を質疑せず当該官吏に直接糺す事もせずに拙速に上奏したことを批難した。これほど改進党と国民協会らの攻撃はえげつないものであったのだ。

しかしこれでも民党と政府の対立は収まらず、政府は1230日に議会解散に打って出て総選挙で決着をつけようとした。その過程で後藤大臣と齋藤次官は、議会を混乱させた責任をとって、1894(明治27)年1月に相次いで辞職した。

だが31日に行われた第三回総選挙では民党は圧勝し、自由党は120議席、改進党は60議席と躍進し、両党で議会の過半数を握り、官僚派の国民協会は35と大幅に議席を減らして、政府と民党との対立はますます激しくなったのである。

これが「金時計事件」の顛末であった。事実は政治的なでっちあげであり、捏造された疑獄事件だったのだ[ix]。議会と政府との軋轢が高じて政治が停滞する中で両者の関係のあり方が模索され、後に日清日露戦争期を経て、両者の関係が変化し議院内閣制が成立するまでの過渡期における、政治的な捏造された疑獄事件だったのである。

この攻撃に批判的であった改進党代議士の島田三郎(18521923)は、1920(大正9)年723日の、高橋蔵相・山本農相・中橋文相の株式投機疑惑に関する議会質問書で「金時計事件」に言及し、政界を震撼させたこの大事件の実態は、料亭での接待と金時計一個であると述べている(1920724日の国民新聞記事)。また島田は、1921(大正10)年6月の東京日日新聞に書いた「時事寸観」の6にて同じく「金時計事件」について語り、料亭での接待と金時計一個の贈り物が問題となった昔は、政治家に対する贈り物が数万円の株券や銀行切手・自動車・家屋と賄賂が横行し、しかもそれすら問題にならない今の事態と隔世の感ありと述べている[x]

また事件当時に福沢諭吉(18341901)も時事新報の論説で度々事件を追及している側を批判して、追及する側も料亭での接待を受けているだろうし、議会は議員や官吏の倫理問題を論ずるところではないと批判している[xi]

しかし四ヶ月にもわたって多くの新聞を動員して、さらには議会で緊急動議を出してまで「汚職」だと糾弾したキャンペーンの結果は甚大なものがあった。

齋藤が農商務省を退官したあと武生に帰郷した際、故郷の人々の対応は冷たかったと言う。そして齋藤が設立に関わり副会頭も務めた武生出身者互助会の武生郷友会でも、後々まで彼を心から尊敬はしないという態度で接した会員が多かったという[xii]。またずっと後の明治40年代になっても齋藤修一郎が「金時計事件」の汚職で失脚して零落したと多くの人々に信じられていたことは、1908(明治41)年に出版された齋藤の自伝『懐旧談』に付せられた「懐旧談拾遺」において、金時計事件の詳細について齋藤の聞き書きを記録した鷲津尺魔がわざわざ編者の注を記し「読者の中『金時計事件』の真相を解せず、この事件の発作が先生の運命を左右し、将来逆境失意の生涯をこの事件によりて生みたるものの様に解釈する人もあらん」と、ここに「金時計事件」の真相を記した意図を提示したことに良く表されている[xiii]。そして齋藤が死去した1910(明治43)年の時点においてもまだ、政党内閣は成立していたものの、自由党と改進党との対立は尾を引き、それは「藩閥政治家」伊藤博文に「屈した」立憲政友会と、「真の民党」の伝統を継承した憲政会の対立として継続していた。

従って改進党の後身政党の憲政会やこれにつらなるジャーナリズムは齋藤を相変わらず「藩閥政治家」の犬である「汚職」官僚としていたことであろう。このことは有名人のゴシップを集めた『名流百話』に、齋藤がアメリカ留学中に『いろは文庫』を英訳した動機を「芸者買い」で膨らんだ借金を返済するために英訳してニューヨークの書店に売りつけたと、何の根拠もなく書きなぐられたことにも示されている[xiv]

『東海三州の人物』を書いた伊東圭一郎の周囲には、こうした齋藤の「醜聞」が満載された記録が数多く存在し、伊東はこれを参照して齋藤伝を書いた可能性が高い。

 

5)まとめ:『東海三州の人物』の齋藤像の資料価値

 以上長々と史料批判をしてきたが、山下英一氏が主として依拠した『東海三州の人物』は、齋藤について詳しくは知らない伊東が、民権派の描く従来の齋藤像に従って書いた記事に過ぎない可能性が高く、「花柳界に沈湎して芸者買ひの味を覚え」は、政敵による誹謗中傷だった可能性が高い。

 

3:史料批判(2):金城隠士「沼津時代の回顧」

 

1)金城隠士「沼津時代の回顧」とは

明治史料館学芸員の木口氏によると、この史料は静岡民友新聞に1913(大正2)年722日から814日まで9回にわたって連載されたものである[xv]

金城隠士がこの回顧録を語った経緯は、『東海三州の人物』の序の一つに「沼津兵学校の一章の如き、君の叙述によりて金城隠士を起し、之の回顧談をも叙せしめ」とあることから、伊東圭一郎が「静岡民友新聞」に掲載した「沼津兵学校の人材16」に刺激されて、金城が民友新聞に語ったものか。掲載途中の「沼津時代の回顧6」の最後に「明日から北越に遊ばん」と述べ「次回は蓋し一週日の後にあるべし」と語っており、掲載が二週間ほど休止していることから、掲載日の直近に語ったものを記者が速記して即日起して新聞に掲載されたものであろう。

伊東圭一郎が書いた「沼津兵学校の人材」が大正26月掲載だから、これに刺激されて金城が回顧談を語ったとの前述の序の記述が裏付けられる。そして金城が語った相手が伊東で、回顧談を編集したのも伊東圭一郎の可能性がある。

 

2)金城隠士とは

金城隠士は齋藤とは兵学校付属小学校同級で本名は黒川正。その父の山田大夢も兵学校付属小学校教授(教授方手伝い)や寄宿舎舎監を務めるなど兵学校との縁は深い。その後彼は静岡師範学校や静岡中学校で教師をしていた。また樋口雄彦『沼津兵学校の研究』(2007年吉川弘文館)p625などによると金城隠士は1856(安政3)年321日生まれ1916(大正5)年320日没で旧名木村鈔太郎正節。慶応義塾に遊学していた1879(明治12)年から翌年にかけ静岡の「函右日報」に論説を投稿し自由民権論を唱えたという。さらに樋口雄彦『旧幕臣の明治維新−沼津兵学校とその群像』(2005年吉川弘文館)P167によると黒川正の父の山田大夢も1880(明治13)年に結成された民権結社・観光社に加わっている。

 

3)金城隠士「沼津時代の回顧」の評価

この史料は後年の回顧談であるが実際に沼津兵学校付属小学校で齋藤と学んだ人物の証言であり当時の学校の様子や逸話に詳しく信憑性の高い。そして「沼津時代の回顧」は伊東圭一郎の『東海三州の人物』の語る齋藤像を否定している。すなわち「沼津時代の回顧2」は「青桜を下宿とした齋藤修一郎」との見出しがあるが、本文には「他藩留学生の中には青桜を下宿として通学した輩もある」とあるだけで、齋藤の名は他藩留学生の中で一人後世に名をなした人物として挙げられただけである。また「沼津時代の回顧(六)」(「静岡民友新聞」大正2727日)では齋藤が勉学に明け暮れていたことを示すように「吉村右文[xvi]という数学先生のもとに通った相弟子」であるとし、筆算を学ぶ際に使用する紙から彼の裕福さに言及している。さらに坪井正九郎という徳島藩留学生を「青楼下宿組の一人であった」と記している。

 以上のように金城隠士「沼津時代の回顧」では他藩留学生の中には青楼を下宿としたものがいたとだけ書かれ、それが福井藩士だとか齋藤修一郎だとかの断定はされていない。「青楼下宿組」と名指しされたのは徳島藩士の坪井正九郎だけである。したがってこの史料で齋藤が「青楼下宿組」であったと断定することはできず、かえって「回顧」(六)が齋藤修一郎が後年の『懐旧談』で語ったように、小学校の授業だけでは足らずに私塾に通って学んだことが示されていることのほうが重要である。 

 本史料、『東海三州の人物』が描く齋藤像を否定し『懐旧談』の正当性を示している。

 

4:史料批判(3):大野虎雄『沼津兵学校と其人材 附属小学校並沼津病院』

 

 この史料は、注記からも明らかのように、『東海三州の人物』を参考資料の一つとして書かれた書物である。発行日が1939(昭和14)年530日であり、かなり後世に昔の資料に拠って書いたものである。しかも齋藤修一郎の没年を「大正2年」と記したことは、大野虎雄氏が齋藤に関する記述は専ら『東海三州の人物』に依拠しただけで他の記録を確認していないことになる。すなわち、『東海三州の人物』では先に見たように、大正26月に掲載された記事で齋藤のことを「今春不遇に逝きたり」と書いたので、大野氏は齋藤の没年を明治43年ではなく、大正2年と勘違いしたのだ。

 従って福井藩などの留学生の醜聞が書かれていても、その根拠は『東海三州の人物』の引き写しである可能性が高く、したがって史料としての価値は低い。

 

5:結論「青楼下宿説」は蜃気楼であった

 

 史料批判を繰り広げてきたが山下英一氏が「沼津兵学校の福井藩員外生」の「6.齋藤修一郎」で述べた沼津兵学校付属小学校時代の齋藤修一郎像は依拠した資料の性格や限界を吟味せず、その相互の関係も考察しないで繰り広げたと言わざるを得ない。

 齋藤修一郎は「金時計事件」以後、主に民権派の新聞によって腐敗した官吏としてのイメージが流布され、その中で「芸者買い」のイメージが何度も付与されているようだ。そして彼自身も『懐旧談』で見られるように、あまり語りたくない場面や国家機密に関るのでぼかしたい部分ではしばしば「芸者遊び」をしたと誤魔化していた(35:理想の処世観と仕官、40:欧米官遊二年間、41:帰朝命令を受く)。実際に農商務省時代に勤務終了後に新橋の料亭で芸者を上げて遊んでいたようである。このことは彼の従妹の子である瀬尾昭が、農商務省時代の修一郎の後輩であった理事の田中隆三(18641940:明治22年帝大卒。明治26年当時は鉱山局長、後政治家となり文部大臣を務める)から聞いた話として伝えている[xvii]。しかし齋藤が15歳の時から「花柳界に沈湎して芸者買ひの味を覚えた」という話しにはならない。

 

6:沼津兵学校付属小学校時代の齋藤修一郎の生活

 

 齋藤修一郎が1870(明治3)年の春から10月に掛けて沼津兵学校付属小学校に在籍していた時代の彼の生活は自伝『懐旧談』で述べており、また学友の金城隠士が回顧談で述べたように昼間は学校で漢学・数学などを勉強し、夜はまた塾で英語や数学を習うという勉強漬けの毎日であったのではなかろうか。

 齋藤は1874(明治7)年の「英文自伝」で「1870年の秋から英語を学び始めた」と述べ、「会話に関する小さな本を学び始めた」と述べていた。彼が沼津に赴いたのは1870年の春なので英語を学び始めるには数ヶ月の時間差があった。

 樋口雄彦の『沼津兵学校の研究』p153158によると付属小学校で英語学習が導入されたのは1870年の正月で、読書・算術・手習の各課程を初級・一級・二級の三段階を履修し終えて最上級の第三級で英語学習を始めると規定していた[xviii]。それゆえ「英文自伝」で彼自身が語っている1870年春に付属小学校に入った時では二級の課程を終えておらず、秋に二級までの履修を終えて三級に進級して英語学習を始めたことになる。齋藤は武生(越前府中から明治に改名)で漢学を修めていたから最初から十八史略や国史略・元明史略を学ぶ二級に属して漢学で夜に教師の私塾に通う必要はなかったが、武生で西洋数学を学んでいなかったので算術の課程は加減乗除から始める初級に属し数ヶ月の勉強で分数を終える一級を履修し、さらに比例式を終える二級をも履修し終えた。金城隠士の証言のように昼は学校で正規の授業に臨み夜は教師の私塾で数学を学ぶと言う勉強漬けの成果だったと見なせる。そして齋藤は1870年秋には三級に進んで英語の初歩を学ぶことになったが、三級に進んだ学生のうち成績優秀で本人が望めば課程外で読書では論語や孟子の輪講や春秋左伝や蒙求等の会読も教授され算術では対数表の用法も教授され英語では会話類まで教授されると掟書に定められている。齋藤が「会話を学んだ」と「自伝」で述べているので成績優秀で本人が望んでこれらの課外の授業も受けたことが分かる。

 以上のような推論は齋藤が後年に『懐旧談』で述べたこととも符合する。『懐旧談』の「24.大学南校の学生生活」で英学はその素養の程度に応じて18組に分けたが「余は16組に編入された」と述べており沼津で1870年秋から英語の初歩を学んで10月に東京に移ったこと、算術で「沼津在学の当時大分進歩していた結果、2の組に編入され代数を学んでいた」のは沼津で三級まで進み開平開立も学んでいた事と符合する。

 このように複数の史料をつき合わせてみると、沼津兵学校付属小学校での齋藤修一郎の生活は『懐旧談』で語ったように勉強漬けの毎日であったことが浮かび上がってくる。ただし全く遊ばなかったわけではなく1870年の夏に同級の長州藩出身の仲間等と富士登山を試み、「霊山の頂上に登って天下四方を一望」する余裕があった[xix]

(本稿は、20123月東日本支部沼津大会報告レジュメに資料を加えて改稿した)

 


 

[i] 齋藤の経歴については、「齋藤修一郎の英文自伝」(「東日本英学史研究」第112012年)の略歴と開成学校時代までの自伝を、外務省入省後のことについては、「破産してもなお外交にこだわった男・齋藤修一郎−『失意の外務官僚』像の再検討」(「北陸英学史研究」第122012年)を参照。

[ii] 1908年サンフランシスコの青木大成堂刊。1917(大正6)年武生郷友会から再版。

[iii] 伊東圭一郎『東海三州の人物』と金城隠士「沼津時代の回顧」は、当時山下氏が史料探査にお世話になった沼津の明治史料館学芸員の樋口雄彦氏が佐倉の国立歴史民俗博物館に居られることがわかったので根拠となった史料を問い合わせたところ判明。大野虎雄『沼津兵学校と其人材 附属小学校並沼津病院』は、明治史料館現学芸員の木口亮氏の調査で判明。今回使用した史料は、明治史料館所蔵のものを木口亮氏がコピーまたはPDFファイルにして送ってくれたもの。

[iv] 熊澤恵里子「沼津兵学校における『他藩員外生』−福井藩を事例として」(「沼津市研究」第61996年)による。

[v] 松平文庫所蔵の家臣履歴書による(越前市史資料編14『武生騒動』2010年に掲載)。

[vi] 齋藤修一郎『懐旧談』16沼津遊学の動機による。なお本多家家格回復問題については、前記「齋藤修一郎の英文自伝」の注13を参照。

[vii] この点については前記「破産してもなお外交にこだわった男」を参照。

[viii] 齋藤は1881(明治14)年12月に井上外務卿の書記官になって以後、終生その右腕として活動した。中上川彦次郎(18541901)は福澤諭吉の甥で、188112月の政変に伴い外務省を退官し、翌年福澤と共に時事新報を創刊し主筆に就任。その後井上の勧めで三井銀行理事に就任し三井財閥の基礎を築いた。都築馨六(18611923)は、齋藤が1886(明治19)年に外務大臣秘書官を退いてベルリンに赴任したあとを受けて井上外務大臣秘書官となったが1890年にフランスから帰国後は山県有朋首相秘書官兼内務参事官となり、以後山縣の腹心として活動。彼は終生議会を軽視する超然主義者として動いた。藤田四郎(18611934)は外務省参事官時代に井上の娘婿となり、その後農商務省に移って大隈農商務大臣秘書官や農務局長を歴任し、1900(明治33)年5月から1901(明治34)年6月まで農商務次官を務め、退官後は貴族院議員となった。

[ix] 政治過程の詳細については、『新聞集成明治編年史』第8巻(1934年財政経済学会)と、有泉貞夫『星亨』(1983年朝日新聞社)を参照した。

[x] 神戸大学図書館新聞データベースによる。

[xi] 「官紀振粛に関する勅語に就て」他。明治2612月時事新報論説:『福沢諭吉全集』第14巻所収:岩波書店1970年による。

[xii] 武生郷友会80周年懐古座談会の竹内松次郎の発言(『武生郷友会百年史』1988年)による。

[xiii] 1910年5月刊の橋南漁郎『大学学生遡源』(日報社)の26.金時計事件では、橋南はわざわざ「懐旧談拾遺」の記事を引用してこの疑獄事件が政治的な捏造であることを示し、農商務省退官後の齋藤は、東京米穀取引所理事長や日本人造肥料会社会長などを歴任していて上流の生活を営んでおり、齋藤が零落したのは帝国党結党時の多額の借金のためであると論じたのも、世間にまだ「金時計事件」が「汚職」事件であるとの説が広範に流布していることを認識していたからであろう。

[xiv] 渡辺斬鬼編『名流百話』(1909年文錦堂)による。

[xv] 私が使用したものは、これを『沼津兵学校の群像』(明治史料館刊)に翻刻したもの。

[xvi] 吉村右文は樋口雄彦『旧幕臣の明治維新』(2005年吉川弘文館)のp4849に掲載された兵学校・小学校教授陣一覧にある「三等教授方並 吉村右文次 撤兵指図役下役」であろう。

[xvii] 蚤坊の証言「齋藤修一郎先生を憶ふ」:1925(大正14)年武生郷友会誌第47号。

[xviii] 『沼津兵学校の研究』掲載 沼津明治史料館所蔵「静岡藩小学校掟書」明治3年1月改定による。

[xix] 『懐旧談』17.沼津在学時代の余による。

 


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