「いろは文庫」の英訳C−出版の背景―

 

                                                                                         川瀬 健一

2013年9月29日、日本英学史学会第50回大会にて発表


 

 齋藤修一郎(18551910)が1880(明治13)年に英訳版忠臣蔵としてThe Loyal Roninsを出版するに至った経緯については、従来は『名流百話』(渡辺斬鬼編1909・明治42年文錦堂刊)が示した、「遊びすぎて負債山をなして進退きわまり、友人が持っていたいろは文庫を英訳して利益を上げて負債を返した」との説が、巷に流行っている。たとえば外交史家・信夫淳平の『明治秘話二大外交の真相』(1928・昭和3年萬里閣書房刊)では、「ある種の軍資金補充のため忠臣蔵を英訳して紐育の一書肆に売付けた」と記されている(この本は、アメリカ大統領セオドア・ローズベルト Theodore Rooseveltが講和成立後に、The Loyal Roninsを読んで感銘を受けて日本びいきになったと日本全権小村寿太郎外務大臣に語ったという「逸話」を初めて紹介した)。

 しかしこの「説」は、齋藤自身が書いた序文とは大いに異なっており、「金時計事件」の収賄で弾劾されて官僚を辞任するようなものは「若い時から女郎屋に入り浸った」からとの民権派によって捏造された齋藤像に依拠した妄説の可能性が極めて高い。

 齋藤の序文によると、英訳の動機は、1876年のフィラデルフィア万博で日本の文物が大いにアメリカ人に受けたが日本の小説はまだ知られていないと考えたこと。その後1879年になって「いろは文庫」英訳を決意して半年苦闘したが果たせず、年末に知己をえたイギリス人グリー Edward Greey の助力をえて1880年夏にようやく出版に至ったと。そして出版を支えた人脈は、「いろは文庫」を貸してくれたボストンのギルバート・アトウッドGilbert Attwood氏、他の為永の諸本を貸してくれたニューヨークの福井誠氏とエールカレッジの司書A・ヴァン・ネームA. Van Name氏。そして他の日本の本を見せてくれたボストンのジョン・A・ローウェルJohn A. Lowell氏。これらの人々は塩崎智氏の『アメリカ「知日派」の起源―明治の留学生交流譚』(2001年平凡社刊)によれば、みな日本文化に深い関心をもつ上流階級の人々であった。

今回は、アメリカ東部の日本文化に深い関心を示す人々の期待を担ってThe Loyal Roninsは出版されたのではないかとの仮説を、アトウッドと元駐米公使森有礼がこの本の出版に関わっていた可能性を示す新発見の資料を交えて考察してみたい。


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