30年も前に日米戦争を予見した男・齋藤修一郎との出会い

 

川瀬 健一

 

 (日本英学史学会東日本支部紀要 第10号 2011年3月発行 掲載原稿)


 私の母方の祖母・松本利の父親・齋藤修一郎は、1875(明治8)年に文部省の第一回官費留学生として、小村寿太郎・鳩山和夫・菊池武夫らと共にアメリカに5年間留学。ボストン大学法学校を卒業して帰国後、外交官や農商務省次官などをつとめた官僚である。彼はその時代においては有名な人で、次官であった時代には彼の方が大臣より大臣らしいと評せられ、様々な殖産興業政策を推進した。そして、1894(明治27)年年初に農商務次官職を辞したのは、東京米穀取引所の設立に際して賄賂を受け取ったと非難されて(金時計事件)衆議院の追求を受け、さらに明治天皇より農商務省の官吏は腐敗しているとのお叱りを頂戴して、農商務大臣後藤象二郎と共に辞職したのだった。さらに、野に下ってからは、1900(明治33)年の帝国党結成に辣腕を振るって注目されたが、その政党結成のための多額の他人名義の借金を背負い込んで破産し、失意のうちに死去したと報ぜられるなど、話題に事欠かない人物であった。

しかし1910(明治43)年56日に死去して後は次第に忘れ去られ、近年では、彼がボストンに留学中の1880(明治13)年7月に、作家のエドワード・グリーEdward Greeyと共訳で出版した英訳本の為永春水の『いろは文庫』(赤穂義士伝)The Loyal RoninsG. P. Putnam’s Sons. New York, 1880(1)を読んだ、後のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが感激して日本贔屓になり、1905(明治38)年の日露講和を斡旋したという「伝説」でわずかに知られる存在に過ぎない。

だが私が彼に関係する資料を辿ってみると、齋藤修一郎は、彼の自叙伝『懐旧談』(青木大成堂、サンフランシスコ、1908 [明治41] )で彼が語ったことに反して、1888(明治21)年の外務省退官後も陰に陽に外交に関り続けたことが明らかになった。そして晩年には、日露戦争の勝利以後着々と満州の植民地化を進める日本政府の政策がこのまま続けば、1898(明治31)年に終結したスペインとの戦争に勝利し、いまやカリブ海のキューバや太平洋のハワイ諸島やフィリピン群島を勢力下に収めて「世界帝国」へと変貌したアメリカ合衆国がとる「門戸開放政策」と、将来日本が激突する危険性をも指摘するなど、終始日本の外交政策のありかたに厳しい目を注ぎ提言を続けていた。

このことは、2010年7月の日本英学史学会本部例会で報告したように、1898(明治31)年以後に雑誌『太陽』や『日本及日本人』に投稿した一連の外交論文、とりわけ1910(明治43)年4月1日の『日本及日本人』に掲載された「米国の侵略的径路」によく示されている。

彼は実に1941(昭和16)年の日米開戦の30年以上前にこの戦争を予見していたわけで、彼が生涯を通じて学びえた世界認識の深さ正確さを示しており、彼がどのようにしてこの卓越した認識に至ったのかを具体的に知りたいという欲求を、子孫の私に強く感ぜしめた。そして彼を巡る資料を渉猟してわかったことは、彼は1870(明治3)年に沼津兵学校付属小学校で英学を学び始めて以後、大学南校・開成学校・ボストン大学法学校などで英学を通じて世界を学ぶとともに、ボストンでは英字の評論雑誌や新聞から世界について知識を得、さらに帰国後も英字の評論雑誌などを通じて学び続けていた。

さらに彼が書いたものを順次読んでみると、明治初期の日本人が、いかに欧米の侵略に怯え、それを阻止するためにいかに速やかに欧米文化を取り入れて日本を欧米に伍して世界に雄飛する強い国にしようと苦闘していたかが読み取れ、「黒船の激震」に揺れた日本人がどのようにして今日の日本を築き上げて行ったかのその苦闘のあとが、とても身近なものとして感じられる。

私は今、彼の苦闘のあとを明らかにするために、彼の英文自伝や様々な活動資料を読み込むことで彼の心の軌跡と外交姿勢を読み取ろうとしているが、今後はさらに彼がボストン留学中や帰国後に購読し続けた英字評論雑誌の記事などを渉猟することに手をつけたいと考えている。

しかし私が曽祖父・齋藤修一郎に出会ったのは、ごく最近のことであり、それは偶然の出来事であった。それは200928日。京都での出来事。

この日に、母の下の兄・松本翠の49日の法要があり、母の代理で私が法要に出席した。そして法要後の食事会の中での二人のいとこ、藤野いづみと松本かつらの会話から、自分の母方の曽祖父の一人が齋藤修一郎であることを初めて知り(もう一人は松本晩翠)、彼らは共に福井県武生の出身であり、彼らの名前をインターネットで検索してみると、詳しい履歴や様々な資料が出てくることを知った。母から聞いていた曽祖父たちの名前は、齋藤修一と松本右馬丞だったので、正しい名前を初めてここで知ったのだ。

家に帰ってさっそく「齋藤修一郎」「松本晩翠」でネット検索をしてみると、修一郎の資料の多さにビックリ。その中の『朝日日本歴史人物辞典』(1994年朝日新聞社刊)に基づく彼の履歴に目がとまった。そこには次のように記してあった(※は私の注記)。

生年: 安政2.7.12 1855.8.24

没年: 明治43.5.7 1910)(※正しくは56日である)

明治期の官僚。越前国府中(福井県武生市)出身。府中藩(※正しくは福井藩の付家老府中本多家家中・武生市)眼科医斉藤策順の子。沼津兵学校付属小学校,大学南校に学び,明治8(1875)年第1回官費留学生として米国に留学,13年帰国後外務権少書記官公信局勤務を振り出しに外務卿付書記,外務権大書記官,翻訳局長などを歴任,19年公使館参事官として欧米に出張。この間井上馨の知遇を得,21年井上の農商務相就任により帰国。農商務相秘書官,商務,工務,農務各局長を経て26年農商務次官となり,27年退官後実業界に入った。第1回総選挙(1890)には郷党の強い出馬要請を辞退。中央での活躍のほか,郷里武生のためにいろいろと尽力し,半狂学人,談笑門人とも号す。(池内啓)

これは私の全く知らない曽祖父の顔であった。私が母から聞いていたのは、アメリカに留学したことと外交官であったこと、さらに他人の借金を背負い込んで破産したことだけであったからだ。そこで、念のために彼の出身地の武生市(現越前市)の図書館のサイトを見つけて彼の名前で蔵書検索をかけてみたところ、そこには彼の自伝・懐旧談の文字があり、さらには、『武生郷友会誌』(武生出身者の互助団体の機関誌)の中には、彼の詳しい履歴や彼についての追悼文などたくさんの資料があった(晩翠の資料も多数あった)。

後に松本晩翠の資料とともに修一郎の資料のコピーを図書館に依頼し、届いた資料の中の、『武生郷友会誌』第32号(1910・明治4312月刊)の修一郎死去を報じた記事の「齋藤修一郎先生履歴書」や『福井県南條郡史』(1950・昭和25年福井県南條郡教育委員会編・名著出版刊)の「修一郎伝」と『武生市史資料篇3人物・系譜・金石文』(1966・昭和41年武生市役所刊)の「修一郎伝」を読んだとき、彼の経歴に強い興味を抱いた。その理由は、明治外交史において日本が朝鮮を植民地と化していく過程での大きな三つの事件に、彼が外務省書記官・外務大臣秘書官などとして直接関っていることが、そこには明記されていたからだ。

その三つの事件とは、1882(明治15)年7月の京城事変(壬午軍乱)、1884(明治17)年12月の京城事変(甲申政変)、1895(明治28)年10月の京城事変(乙未事変・朝鮮王妃虐殺事件)である。

壬午軍乱は、進行する日本の侵略と王妃閔氏一族の腐敗、売国政策に対して朝鮮軍人たちが立ち上がり、王宮と日本公使館を襲った事件。この時日本公使は辛くも軍艦に飛び乗って避難。事件は清国の介入で収束し朝鮮における清の勢力が強まって日本との対立が激化。この事件の跡しまつのために出張した井上外務卿付書記として修一郎は馬関(下関)まで出張。甲申政変は、閔氏政権を打倒し、国王親政の下に国政を改革しようとして開化派が行った政変。 この時開化派は日本にならった立憲王政の樹立を画策し日本軍の援助の下で宮廷クーデタを敢行。閔氏政権の重鎮を殺傷して王を確保し新政権を樹立。しかし清国軍が介入して日本軍は戦闘に敗れ、開化派は日本に亡命し公使館は焼かれ、またも公使は軍艦で避難。日本は清に対して劣勢に追い込まれた。この事件でも修一郎は、特派全権大使となった井上馨に秘書官として随行し跡しまつ。朝鮮王妃(閔妃)虐殺事件は、日清戦争後勢力を強めた日本が軍事力を背景に朝鮮政府を直接指揮下において支配を強化しようとしたことに対して、王妃を中心とする一派がロシアと結んで日本の侵略を阻止しようとした。この王妃を邪魔者とみなして、駐韓公使三浦梧楼指揮の下に日本軍と大陸浪人らがソウルの景福宮に乱入し、閔妃を虐殺した事件。この事実が白日の下に明らかになることによって親日的であった国王高宗は反日親露に転じ、ロシアの勢力が強まったことで日露戦争に日本は追い込まれ、結局は朝鮮の上下の人々にその侵略の意図を疑われた日本が、韓国併合によって朝鮮を植民地化せざるをえなくなった直接的きっかけをあたえた事件。ちょうどこの事件の一年ほど前から修一郎は、駐韓公使として赴任し朝鮮王室政府改革を図ろうとした井上馨の下で、朝鮮政府農商務(※武生市史などにこう書いてあるが、正しくは内部−内政・治安維持にあたる内務省)顧問として動いていた。

近代日本の針路選択の誤りの一つは朝鮮植民地化にあったと考えていた私にとって、韓国併合への直接的な一里塚である三つの事件に修一郎が直接関っていたことは衝撃的であった。一体曽祖父はどのような見通しと意見をもってこれらの事件に臨んだのか。ということはすなわち、1910(明治43)年8月の韓国併合に至る日本政府の対韓国政策に彼はどう対したのかという問題に直接つながる。ここを明らかにしようとして私の修一郎探索は始まったわけだ。

その過程においてネット検索で、雑誌『太陽』1902(明治35)年5月5日号に修一郎が北米移民を勧める論考「北米太平洋沿岸と日本人」を発表していることがわかり、同時に、彼がボストン留学中に翻訳した赤穂義士伝の翻訳事情を雑誌『日本及日本人』1910(明治43)年1月1日号に「『いろは文庫』の英訳」として発表していることが、宮澤誠一著『近代日本と「忠臣蔵」幻想』(2001年青木書店刊)を読むことでわかり、二つの雑誌を同時に見られるところが近所にないかと探して見つけたのが、駒場の日本近代文学館であった。そしてそこで当該の二つの論文を見つけたついでに、この二つの雑誌に他にも修一郎の論考がないかと探したところ、最初に発見したのが、前記の「米国の侵略的径路」であった。

この論文によると、なんと修一郎は、1910(明治43)年の時点でこのまま満州植民地化を進めるとアメリカと激突することを警告していた。要するに彼は、満州を自由市場とし、満州開発にアメリカ資本を参入させろという後に総理大臣となった原敬が唱えた外交路線を、早くも提唱していたのだ(原敬が総理大臣となったのは8年後の1918・大正7年9月)。

これはもっと大きな衝撃であった。昨年2009年の7月のことである。

近年になって明治日本の外交路線を巡っては政府部内にも深刻な対立があり、例えば初代韓国統監となった伊藤博文は韓国の植民地化には反対し、その内部の開化派と協力しつつ外部からの指導助言と援助によって、それを日本と同じく欧化した文明国にして日本の緊密な同盟国となし、もって欧米の侵略に対抗しようと考えていたことが諸資料から明らかになってきている。

一方「米国の侵略的径路」を見つけたとき同時に見つけた「井上侯と齋藤修一郎翁」という修一郎の聞き書き(大塚則鳴著・『日本及日本人』1910・明治43年6月1日号掲載)では、彼は朝鮮王妃暗殺を事前に星亨らから打診された時に、列強をめぐる複雑な情勢を説いてこのような方策への関与を避けるべきだと述べたと書かれていた。つまりこの逸話では、韓国との関係において修一郎は伊藤博文と同様な考えを持っていた可能性が示唆されている。

こうして、近代日本外交路線を巡る深刻な対立は、曽祖父・齋藤修一郎の心の軌跡そのものとなり、彼を追う私の探索は勢いを増したのだった。

20101026日記す)


 

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1)The Loyal Roninsの中扉にはAn Historical Romanceと本の内容の性格が記されており、これがしばしば書名に追加されてThe Loyal RoninsAn Historical Romance として知られている。また裏表紙には「忠義浪人」と漢字で書名が書かれており、日本ではしばしばこれが、齋藤修一郎が英訳した本の書名として使われている。このAn Historical'An' 1884年の第二版で踏襲され、その後の他社の版の中には'A'と訂正されたものもある。


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