齋藤修一郎の英文自伝−西洋との出会いとその衝撃

 

                      2011年4月2日:日本英学史学会本部例会報告

                           会員   川瀬  健一


 

 今回は、齋藤修一郎が明治7(1874)年3月に開成学校法科1年在学時18歳のときに書いた英文自伝を紹介する。これは恩師W.E.Griffisが同年7月にアメリカに帰国するに際して、師の求めに応じて書いたものと推定され、彼の人生を考える時、興味深い情報を与えてくれる。

    ※修一郎については【資料1】略歴参照

齋藤修一郎略歴  18551910                   【資料1】

 

 安政2712(1855年8月24)、越前府中(後武生、現福井県越前市)の福井藩付家老本多家中の眼科医齋藤策順の長男として生まれる。4歳の時父に死別、母は再婚したため祖母に育てられる。13歳の時祖母が死亡したため、以後は叔父の大雲嵐渓に育てられ、漢学の薫陶を受けるが、明治3年(1870)の本多家家格問題をめぐる福井藩との衝突(武生騒動)により嵐渓が獄死したため、身近な家族を全て失った。

 明治3年(1870)春15歳の時、静岡藩(旧幕府)の沼津兵学校付属小学校に入学し、英語・漢学・数学を学ぶ。同年10月、福井藩の貢進生として東京に出て大学南校(東京大学の前身)に入学。在学中の明治6年(1873)、南校が開成学校に組織替えとなった際、その開業式に生徒総代として明治天皇の前で英語で法律論の御前講演を行う。

 明治8年(1875)第1回官費留学生として鳩山一夫や小村寿太郎らとともにアメリカに渡り、ボストン大学法学校に留学。明治13年(1880)7月には、小説家エドワード・グリーとともに為永春水の『いろは文庫』を英訳した『The Loyal Ronins』をニューヨークで出版し、日本文学を広く紹介した。

 明治13年(1880)に帰国してからは外務省に入り、明治14年(1881)に東京木場の材木商・山田庄兵衛の娘・キクと結婚。19年(1886)には母フミと異父の妹ユメを武生から呼び寄せた。外務省では、外務省権少書記官兼通商課長をかわきりに、明治19年(1886)には外務大臣秘書官兼総務局政策課長となり条約改正会議書記官長として不平等条約改正に尽力するも、改正案漏洩事件のため辞任。ベルリン公使館参事官として西欧に2年間外遊した。

明治21年(1888)、井上馨が農商務大臣に就任したため呼び戻され、その秘書官兼商工局長、後には農商務次官等を務め、製鉄事業や鉄道敷設など産業基盤整備に奔走するも、農商務省官紀振粛事件(金時計事件)のため明治27年(1894)1月に辞任。辞任後の明治27年(189410月、駐朝鮮公使となった井上馨とともに渡韓して朝鮮国政府の内部顧問となり内政改革に従事した。帰国後は、中外商業新報社長・東京米穀取引所理事長などを歴任しつつも、帝国党創設や雑誌への論文投稿などを通じて終生外交に関る。また、皇国殖民会社専務としてはブラジル移民に始めて着手した。

明治38年(1905)から明治40年(1907)に帝国党結党のための他人の借金約22万円(およそ20億円)が降りかかって破産。後に明治41年(1908)に渡米しサンフランシスコで「懐旧談」を出版。帰国後、明治43年(1910)5月6日に腎臓病のため56歳で死亡した。墓所は東京麻布長谷寺。修一郎は、郷里武生に対し、常にその慢心に警鐘を鳴らし、産業振興の啓蒙に努めた。

2010年6月の越前市武生公会堂記念館における「越前市ゆかりの人物コーナー」での齋藤修一郎説明パネル作成のために、越前市教委が作成した文書に加筆訂正を加えたもの)

 

1.史料の内容と所在

 この自伝は、ラトガース大学の図書館が所蔵する、グリフィス・コレクションの中の、Student Essays(生徒作文)3191の第20編目の作品。署名はEdward

       自伝のマイクロフィルムコピーそのもの【資料3】

       自伝を活字化して日本語訳を付したものは【資料2】。なお活字化にあたっては、従妹松本かつらと英学史学会員山下英一氏の点検とご教示、日本語訳については山下英一氏の点検とご教示を得た。2

 自伝は表紙を含めて8枚の洋紙に書かれており、内容としては以下の五つに分かれている。

  T:幼少期−父母との別れ                       約2ページ

  U:沼津時代−武生騒動と大学南校へ                  約1ページ半

  V:大学南校時代−大学改革運動                    約1ページ

  W:英学学習による人生観・世界観の変化−西洋との出会いとその衝撃   約2ページ

  X:法学を志した理由−外交への関心                  約半ページ

 今回使用したテキストは、国立国会図書館所蔵のマイクロフィルム(Japan through western eyes : manuscript records of traders, travellers, missionaries, and diplomats, 1853-1941. 出版地     Marlborough, Wiltshire, England  出版者  Adam Matthew Publications  出版年  1995- )のpt. 2. The William Elliot Griffis collection from Rutgers University Library: Journals and student essays (reels 21-26))の、リール2526にあるstudent essays319編をコピーした中から見つけた。

 

2.   史料発見の経緯

 英学史学会会員の西忠温氏が、英学史研究第39号に、小村寿太郎の英文自伝を紹介して(2005年大会の口頭発表)おり、この論考を読んで初めて、ラトガース大学のグリフィスコレクションの存在と、その中に開成学校生徒の英作文があることを知る。西氏に問い合わせたところ、その中に修一郎名で署名された自伝はないが、おそらく存在するとのこと。

 この話を従妹の松本かつらにしたところ、彼女がラトガース大学のサイトを通じて、直接グリフィスコレクションを管理するFernanda Perrone氏に連絡をとったところ、グリフィスコレクションの中には、修一郎署名の英作文一編と、グリフィスに宛てた修一郎の手紙2編、さらに修一郎が韓国ソフルからグリフィスに宛てて送った写真(裏に修一郎の注記とグリフィスの注記あり)が存在することを告げ、子孫であるということで特別に当該史料をpdfファイルにして転送してくれた。そして私がFernanda Perrone氏に直接問い合わせたところ、グリフィスコレクションのマイクロフィルムが発売されており、日本の大学図書館などが多数所蔵するはずだから、それを直接見てくれれば、修一郎自伝が見つかるかもしれないと教示してくれた。

 東大駒場のアメリカ太平洋地域研究センター図書室に同マイクロフィルムが所蔵されていることを知り、直接出向いてそのリストとガイドをコピーし、マイクロフィルムの複写については国立国会図書館にお願いして手に入れた。

 

3.  Edward署名の自伝が修一郎のものであると判断した理由

 かれが自伝のT・U・Vで述べた以下の経歴が、修一郎が1907(明治40)年秋に語った「懐旧談」で知られていた彼の経歴と一致したため、この文章は、修一郎が18歳の時の自伝であると判断した。

 それは、

 T:幼少期

He was born in a small town in the province of Yechizen in the Autumn of 1855.

   彼は、1855年の秋に越前の国の小さな町に生まれた。

 

  〇His father was a doctor and with that profession served under a small Daimio having an income of little more than 20.000 Kokus of rice, and residing in the town where Edward was born.

   彼の父親は医者であり、米にして20000石ほどにすぎない収入を持ちエドワードが生まれた町に住む小大名に仕える家臣であった。

 

  〇When he was four years old, unfortunately of all, his father died of prevailing cholera, and as his mother was still very young she married again a rich man

   エドワードが4歳のとき、まったく不運にも、彼の父親は流行していたコレラで死んだ。そして彼の母親はまだとても若かったので金持ちと再婚した。

 

  〇Thence-forward, for a very long time, poor orphan Edward was under the protection and care of his old grandmother.

   これ以後、とても長い間、哀れな孤児のエドワードは、年を取った祖母の保護の下に置かれ、彼女の世話を受けた。

 

  〇He was indeed very idle when he was (a) boy and escaped his grandmother’s watching eye by every means possible. Sometimes he was so wicked and cunning to say to his grandmother, Good grandmother. I now just returned from my teacher’s having received good instruction, while in reality he was playing in(on) the street with dogs and lost the proper time to go to instruction.

   彼は実のところは、少年時代はとても怠慢であって、彼の祖母の監視の目をあらゆる可能な手段をつかって逃れていた。時には彼はとてもずる賢く、祖母にこう言った。”すてきなお婆さま。私はちょうど今、よいご指導を受けて先生のところから戻りました”と。しかし実際は、彼は犬たちと道路で遊んでいたのであり、授業に行くまさにその時間を浪費したのだった。

 

  〇At the time of the death of Edward’s father the Feudal system was still in its great power, and it required that no man should inherit either estate, title, position, or rank of his predecessor unless he was old enough to be able of bearing arms to do something which will be serviceable to the lord. Therefore young Edward in his 4th year could not succeed to his father, and his old grandmother was obliged to adopt a son who could legally succeed to her dead son, although she was very desirous to make Edward the successor. So she did, but this adopted son of her, after married and had a son, died of disease together with his wife, and the result of this transaction was a poor little boy as was Edward.

   エドワードの父が死んだとき、封建制度はまだその強大な力を保っていた。そしてその制度では、領主に役立つために武装することが十分に可能な年齢に達していなければ、何者もその前任者の財産や名称や職務または地位も受け継ぐことはできないと義務づけていた。それゆえ4歳の若いエドワードは父親の跡を継ぐことはできなかった。そのため彼の年とった祖母は、エドワードがその後継者になることを強く望んでいたが、彼女の死んだ息子の跡を合法的に継ぐことのできる養子をもつことを強制された。そして彼女はそうしたのだが、この養子の息子が結婚して息子を一人授かった後、妻と共に病気で死んだため、この処置の結末は、一人の可哀相な少年、つまりエドワードが継ぐこととなった。

 

  〇Still Edward was an idle boy, and when he 13 years old his grandmother died without much satisfaction and assurance of her grandson’s future success. Indeed the death of his grandmother was very great misfortune to Edward; however it so turned out as a fortune in this that immediately upon her death, he changed his character and determined to be studious and to fulfil that great anxiety which his grandmother as well as father must have had when they had departed this world for their unknown dwellings having left their anxious descendant behind. To a great surprise of all persons, in about two and a half years Edward made wonderful progress, and read over no less than 500 books of pretty high character and could compose pretty fair composition, even poetry also.

   だが依然としてエドワードは怠慢な男の子だった。そのため彼が13才のとき祖母が亡くなったのだが、彼女には孫の将来の成功への満足と保証はなかったのだ。本当にエドワードにとって、祖母の死はとても大きな不幸であったが、幸いにも祖母の死に直面するや、エドワードは心を入れ替えて、学問好きになることと、祖母や父が、気がかりな子孫を残してこの世から未知の住居へと旅立ったときに抱いていたに違いない大いなる希望を実現することを決意した。全ての人を驚かしたことには、およそ2年半でエドワードは素晴らしい進歩を見せ、かなり評判の高い書物を500冊読み終え、そのうえ、とても正しい文章、それも詩すら作れるようになっていた。

 

 U:沼津時代

  〇After the death of his grandmother Edward was entirely under the guardianship of his above mentioned uncle, and in the spring of 1870 he left his native town and came over to a small town called Numadzu in the province of Suruga to be educated in European ideas and institutions.

   祖母の死後、エドワードは完全に上述の叔父の保護の下にあった。そして1870年の春、彼は生まれた町を去って駿河の国の沼津と呼ばれた小さな町にやってきた。それは、ヨーロッパの知識と制度の下で教育を受けるためであった。

 

  〇During his abode in Numadzu there arose some difficulties between the samurais of his master and those of another Daimio of a higher rank and of a greater power, and as the consequence of this his uncle Omo together with 5 or others whose view had been somewhat radical and rather opposed to those who had been in power at that time was put into custody.

   彼が沼津に滞在している間に、彼の主人である武士と他のより高位のより大きな力を持った大名の武士との間に、いくつかの問題が起こった。そしてこの結果、彼の叔父大雲は、やや急進的でその当時政権をとっている人々に反対しようという見解を持っていた5〜6人の他の人々と共に収監された。

 

  〇So poor Edward, while he was out of his native town and distant from all his relatives, lost his only guardian, and in fact he could not got(get) even his money for a considerable period of time; and when he was at the point of returning to his native town to do something which might be favorable to the safety of the person of his much indebted uncle he was compelled to come to Tokio as a scholar to Nanko, the name by which Kaisei Gakko was once called.

   哀れなエドワード。彼は生まれた町の外に居て、彼の親族たちから遠く離れている間に、彼の唯一の保護者を失ったのであった。そして事実、彼はかなりの期間、彼のための金銭すら得ることができなかった。さらに彼が、生まれた町に戻って、大いに恩恵を受けている叔父の身柄の安全のために役立つことをしようとしていたちょうどその時、彼は東京に南校の学生として行く事を強制された。この南校とは、開成学校がかつてこう呼ばれていた名前だ

 

  〇After about 5 months’ stay he had received a most disagreeable letter of his uncle’s death in his prison. 

   およそ五ヶ月間の(沼津での)滞在の後、叔父が監獄で死亡したとのとても不愉快な手紙を受け取った。

 

 V:大学南校時代

  〇After about one year from the commencement of new session, that is(was) after almost all choosen(chosen) scholars had come, the school became so much disorder and so corrupt that many students’ principal business was, instead of his attending to study, to go to Yoshiwara; and some of the students could not at all see the use of the college unless it be passed through a great revolution and evils corrected. Therefore about ten students, among whom was Edward, formed a company and went to Mr. Kido a member of Sangis, and applied for a reformation.  This Mr. Kido understood well and complied, and the college was once closed and all students without regard to their qualities left the college. The college was again opened in less than a month with its new system and reformed regulations, and about 500 students out of those who had been abandoned numbering to more than 1000, were recalled. Fortunately Edward was one of those who were recalled

    新しい学期の開始からおよそ1年後、ほとんど全ての選ばれた学生たちが到着したあとのことだが、学校(南校)は甚だしく無秩序で堕落し、多くの学生の主要な仕事が、講義に出席する代わりに、吉原に行くことになっていた。その学生たちの中の幾人かは、大きな変革によって中断され悪行が改められない限り、大学の有用性を見出すことはまったくできなかったろう。したがって、およそ10人の学生は、その中にはエドワードも含まれていたが、仲間を作って参議の一員である木戸氏を尋ね、改革を求めた。この木戸氏は(訴えの趣を)よく理解し(訴えに)応じた。そして大学は一旦閉鎖され、すべての学生はその資質に関らず大学を去った。大学は新しいシステムと改革された規則によってひと月未満で再開され、見捨てられたおよそ1000人ほどの学生のうちからおよそ500人の学生が呼び戻された。幸運にもエドワードは、呼び戻された人々の一人であった

 

4.「懐旧談」に語られていない新「事実」

  しかし18歳の折の英文自伝には、懐旧談には語られていない興味深い「事実」が、いくつも語られている。

 T:幼少期

  〇The father married a young woman of 15 years old when he was in his thirtieth year,

   父は30歳になったとき、15歳の若い女性と結婚した

 

  〇and as his mother was still very young she married again a rich man in a country village about 13 English miles from Edward’s native town.

   そして彼の母親はまだとても若かったので、エドワードが生まれた町から13マイル(20.9km)ほどの田舎の村4の金持ちと再婚した。

 

 U:沼津時代

  〇and in the spring of 1870 he left his native town and came over to a small town called Numadzu in the province of Suruga

   そして1870年の春5、彼は生まれた町を去って駿河の国の沼津と呼ばれた小さな町にやってきた。

 

  〇His first intention was to study French from what reason unknown but because he could not find any French teacher there in the town, he determined to study English and was able to find a native teacher under whose instruction he commenced a small book on conversation. 

   彼の当初の意図は、その理由はよくわからないが、フランス語を学ぶこと6であった。しかしその町でフランス語の教師を見つけることができなかったので、英語を学ぼうと決心して一人の英語を母国語とした教師7を見つけることが出来た。そしてその教師に教えてもらい、会話に関する小さな本を(学び)始めた。

 

 V:大学南校時代

  〇Therefore about ten students, among whom was Edward, formed a company and went to Mr. Kido a member of Sangis,

   したがって、およそ10人の学生は、その中にはエドワードも含まれていたが、仲間を作って参議の一員である木戸氏8を尋ね、改革を求めた。

  〇but since he was at that very time in a hospital on account of some trouble in his heart, he could not attend the college for about a month,

   ちょうどその時、彼は心臓のトラブルで病院にいたため9、およそ一ヶ月間大学に通うことができなかった。

 

  しかし英文自伝によって初めて明らかになった最大の事実は、W:英学学習による人生観・世界観の変化とX:法学を志した理由が書かれていることである。

 

5:W:英学学習による人生観・世界観の変化−西洋との出会いとその衝撃

 ここでは、とても興味深いことが語られている。

 

 )武生時代の地方的偏見に囚われた人生観・世界観

 〇It is a remarkable fact, he told me once, that during the course of his intellectual career his mind underwent various changes. When he first took up his book in Chinese and began to read it, he had no idea of what learning is, but he used to read simply because his grandmother said that he must do so.

  かつて彼が私に語ったことであるが、彼の知的な経歴の過程で、彼の心が様々に変化したことは、注目に値する事実である。彼が最初に中国語の書物に取り組みそれを読み始めたとき、学習が何であるかまったくわからなかった。単に彼の祖母がそうしなければならないと言ったので、中国語の本を読んだものだった。

 

 〇When he reached his 13th year of age and determined to study, he thought that by reading the Chinese classics and histories, and by understanding and remembering what are contained in them, he can easily become a great statesman.

  彼が13歳に達して学ぶことを決心したとき、彼は中国の古典と歴史を読み、そしてそれらに含まれていることを理解して記憶することで、簡単に偉大な政治家になることができると考えた。

 

 〇Besides, while he was in his native town, having been connected by a strong tie of feudalism, that is(was)the relation between the lords and the subjects, and having thought that the foreigners, of whom very little was known at least to him, are(were) more barbarians of unhuman(inhuman) and cruel dispositions,

  また一方、彼が生まれた町に居る間は、封建制度の強い絆でつながれており、それは、領主と家臣との間の関係であった。そしてこの時、彼は外国人についてはほとんど何も知らなかったのだが、外国人は、非人間的で容赦の無い性格の野蛮人であると考えていた。

 

 〇indeed, he said, like a frog in a well, there was no occasion offered to him to understand the importance of trade and commerce, nor the necessity to be intelligent in the matters of business, because he and I think(thought) almost all others at that period of time, fancied that their rice income is(was) a thing to be perpetual and upon that they can(could) live without any work but fencing and searching something in the books of

  本当に、井の中の蛙のようであったと、彼が言うように、そこでは彼には、貿易や取引の重要性や、ビジネスの問題で知的になることの必要性を理解する機会が提供されなかった。なぜならば、彼や私、そしてその当時の他の多くの者たちは、彼らの米による収入は永遠であり、彼らは、剣をとることと書物の中から何事かを探す仕事をして生きていくことができるものだと思っていたからだ。

 

 His mind was very much limited to local prejudices and did not really know where was the Empire of Japan.

  彼の心は、地方的な偏見にとても限られていて、日本の帝国がどこにあるか(どんな状態に置かれているか)本当には知っていなかった。

 

 これは彼個人の認識ではない。おそらく彼を育んでくれた彼の親族の認識であったであろう。

 彼の親族の大半は、福井藩の付家老で、事実上は独立した2万石の藩政を敷いていた越前府中(武生)本多家の家老衆であった10。彼らが「武家の支配は永久になくならない」と考えており、「藩政は続く」との認識であったからこそ、1869(明治2)年冬の本多家家格問題勃発がそのまま、1870(明治3)年夏の武生騒動に直結し、多くの囚人と死者を出す結果につながった。

 だが修一郎に「貿易や取引の重要性やビジネスの問題」を教えてくれる人はいなかったということや、「外国人や野蛮人であると考えていたこと」、そして「日本がどんな状態に置かれていたかは知らない」ということは、府中(武生)は大きな商業都市であったことや、蘭学を学んで活躍した人物もいることと、大きな乖離がある11。この理由は何かということと、はたしてこのような地方的偏見とも言える認識が、武生だけのものであったのか。検討する必要あり。12

 

 2)英学を通じて西洋の学問を学んで得た世界観の転換

 〇and above all began to think that to study is nothing more than to attend one’s duty and to become so intelligent to understand what is right and what is wrong, to be useful to the society to which he owes his protection and to be a good citizen of the country.

  そして、彼の天性の才能と具体的な習得物を理解して、何よりも学ぶことは、その人の義務に目覚めることや何が正しく何が間違っているかを理解できるほど知的になること、さらには、彼が保護されている社会にとって役立つようになることや、その国の良い市民となることでしかないと考えるようになった。

 

    〇But after he left his native town and saw that there is, besides our own, still another world in which are found many nations whose policy, government, intelligence,    customs and manners are far beyond our reach, he began to see the importance of nationality or the national union in order to protect the country from the invasion of our speriors(superiors) and now he is quite free from his local feelings and feudal prejudices. 

  しかし彼が生まれた町を去り、我々自身の国以外に、他の世界があることを見つけ、しかもその世界には、政策と政府と知性と習慣と作法が我々の到達点をはるかに凌駕するものを持った多くの国家があることを発見して、彼は我々の優越者の侵略から国を守るための国民性もしくは国民的結合の重要さに目覚め始めた。そして今や彼は、彼の地方的な感覚や封建的な偏見とはまったく無縁である。

 

  当初は学問をする理由は個人の立身出世のためであると修一郎は認識していたわけであるが、東京で英学を通じて欧米の学問を学び、世界には日本よりも強大な国がたくさんあり、日本が今のように国家的に統一されずに270幾つかの国家(藩)に分かれていたのでは欧米の強国に侵略されてしまうということを認識し、それを阻止するために国家的統一を果たすことが必要であり、自分自身もそれに寄与できる市民になろうと決意した13と、修一郎はここで述べている。

 

6:法学を志した理由−外交への注目

  そしてこのような意識の変化を背景として最後に修一郎は、開成学校で法科を選択した理由を明確に述べている。

 

 〇At first his intention was to study the art or science by which the country may be made wealthy and rich; but afterward being persuaded by his relations and friends he inclined to take his father’s profession. However, after he came into the world out of a well and saw the importance of the intercourse with foreign lands, and some times have noticed some defects in our diplomatic agents thereby resulting many calamities upon the country, he determined to study law particularly relating to the international communication. By training himself in that branch of culture he thinks he can do better to the society and for himself than by trying any of other department of learning.

最初は彼の意図するところは、国が裕福で金持ちになれるかもしれない技術もしくは科学を学ぶことだったが、彼の親族と友人たちに説得された後には、父の職業を引き受けたいと思っていた。しかし、井戸の外の世界に出てきたあとでは、彼は外国との関係の重要さに気付き、同時に我が国の外交官たちの幾つかの欠陥、それは結果として国家に多くの災難をもたらすものだが、それに注意を払うようになって、彼は法律、とくに国際関係に関する法律を学ぶことを決心した。彼はその文化の分野(国際法の分野)において彼自身を訓練することによって、他の学習分野で訓練するよりも、社会にとって、そして彼自身の生活にとって、より貢献ことができると考えている。

 

 ここで注目に値することは、彼が法科を選択した時点(1873・明治6年9月)ですでに、彼は外交に注目しており、しかもその背景には、当時の外交官が国際法を認識していないことが、国家にとって多くの災難をもたらすものだという認識を持っていたことだ。

 これは具体的には、187112月(明治4年11月)から1873(明治6)年7月に行われた岩倉使節団において、副使伊藤博文と駐米弁務少使森有礼がアメリカとの間に単独で条約改正交渉をしようと動き交渉を始めたが、欧米諸国にのみ一方的に最恵国待遇が定められていたので、アメリカと単独交渉を進めると、それが極めて日本にとって不利な結果を生むことがわかって中止された事態14を指すものと考えられる。

 この交渉は、この国際法の事実を欧米に留学していた日本人や駐日独逸公使に指摘されて危険性に気付いた使節らが急遽中止して事なきをえたのだが、この間の使節団の中での激しい論争の一部始終を知っていた人物が、修一郎の身近にはいた。

 二等書記官として使節団に参加し、伊藤博文の条約改正方針に反対してそれが入れられないとわかるや辞表を叩きつけ、途中で帰国した外交官・渡邉洪基15である。彼から詳しい顛末を聞いていた可能性はある。

 

7:明らかになったことと今後の課題

 この明治7年の英文自伝によって、齋藤修一郎が武生から東京に出て来て英学を通じて欧米の学問を学んだことで人生観や世界観が変わったことがわかるととともに、彼が1873(明治6)年に開成学校法科を選択するに際してすでに外交に強い関心を持っていたことが明らかになった。

 彼は1907(明治40)年に語った「懐旧談」では、1880(明治13)年帰国当初は新聞社を作ろうと志していたが支援者も得られず、官費留学生は一定期間官職に就く決まりであったので、外交ならましかと判断して外務省に入ったと述べ、外交官を当初から志したわけではない口ぶりであったが、これは事実ではないことが、この自伝で明らかとなった。

 このため留学以前から外交に関心を持っていた修一郎が、アメリカボストン大学で学びながら、ニューヨーク発行の毎週新聞と雑誌ニューヨークネイションを読んだと「懐旧談」で述べているのは、逆に彼が外交に強い関心を持ちながらこれらの情報に接したことを示しており、彼がボストンで得た外交情報とは何かが、今後明らかにされる必要があることが示される。 


 

1 Student Essays(生徒作文)319編は、確認したところ、83名の生徒の記名がある作文が含まれており、その内の自伝はEdwardのものを含めて27編。そのうち日本名の記名があるものが14編。英語の変名の記名があるものは3編。無記名が10編。319編には幾つかのテーマがあり、グリフィスが与えたテーマを生徒が選んで書いたものと推定される。その中には、「アイヌ」「アート」「自伝」「子供の遊び」「夢」「昔話」「外国人−初期の印象」「歴史叙述」やさまざまな日本の文化や生活習慣についてのテーマが含まれ、明治初期のエリートの若者の人生観や知識などを知る興味深い資料である。

2:山下氏によれば、この英文は時制について幾つか誤りがあるなど修一郎のまだ未熟な面が見られるが、英語を学び始めて3年と少しのものとしては、しっかりした英語であるという。なお英文自伝の中で( )をつけたところは修一郎の間違いを訂正した個所。また下線部は、グリフィスがつけたもので、さらに行の横に縦線に「f」の文字があるものは、グリフィスが読んで重要だと判断した個所によくつけるものであると山下氏のご教示を受けた。

 

:修一郎の父母の年齢差を示す資料の一つ。懐旧談では、父策順は33歳で死去し、この時母は19歳であったと書かれている。つまり年齢差は14歳。どちらが正しいか? 策順の没年は1858(安政5)年9月28日だから数えで33歳なら生年は、1826(文政9)年。また1858年9月に妻フミは数えで19歳であれば、彼女の生年は1840(天保11)年。二人の年齢差はおそらく14歳と何ヶ月かの差なのではないか。フミの没年は1913(大正2)年3月1日なので73歳没か?

 

4:修一郎の母の再婚先を示す唯一の資料。20.9kmなら越前国内。北方なら福井近郊。修一郎の異父弟に福井の医師青山信太郎がいるので、この青山家のことか?

 

5 :「懐旧談」では沼津へ行ったのは1869(明治2)年春と語られ、福井藩の「旧陪臣録」にある彼の履歴には1870(明治3)年3月とあることと矛盾していた。「懐旧談」の他の個所に1870(明治3)年春という記述も見られることから、修一郎が沼津へ赴いたのは、1870(明治3)年3月(春)であることが確定できる。

 

6 :沼津兵学校には英語とフランス語のどちらかを選ぶ仕組みであったので、フランス語を選ぼうとしたことに矛盾は無いが、何故フランス語なのかは不明。旧幕府はフランス人教官によって軍事訓練を実施していたから、その流れで判断したか。

 

7 :沼津で「英語を母国語としていた教師」を見つけたという話は、根拠不明。沼津で兵学校生徒や付属小学校生徒に英語を教えていたのは全員日本人。

 

8 :大学改革を陳情した相手は、「懐旧談」には明記されていない。ただしちょうどその時は、文部卿に大木喬任、文部大輔に江藤新平両氏が任命された時で、「この建策が幸いにも大木江藤二氏に歓迎され」と記している。確かに当時木戸孝允は参議であった。もしかして直接明治政府首脳である彼に談判に及んだのか。

 

9 :英文自伝のみに見られる記述。子孫にも心臓にさまざまな不具合あり。遺伝か?

 

10 :越前府中本多家には、家老格の家が10家あった。そのうち齋藤修一郎の家と直接的親族関係にあった家が三つ。齋藤家はいつ頃分かれたかは不明だが、家老・滝(明治になって本姓の土生に復帰)家の分家筋。修一郎の祖母は家老松本家の出。従って当時の首席家老松本右馬丞勝基(後に隠居して晩翠)は修一郎の父策順の従兄。また父策順の妹の一人が、家老高木家に嫁している。この高木家も松本家と婚姻関係で結ばれるなど、家老家同士も婚姻関係で結びついている。すなわち、松本右馬丞勝基の妻は、家老平野家の出。そしてその妹は家老本多家に嫁し、その弟は、家老薬師寺家を継ぐ。また滝家は、同じく家老の井上・佐久間両家とも縁戚。従って齋藤家との親族関係がなかった家老家は、佃と真柄と別家松本家の三家のみ。武生騒動当時の本多家家老衆のほとんどが、修一郎の親族であった。

 

11 :本多家2万石の実高は4万石で、しかも3000軒にものぼる商家からあがる運上金の実高も多く、参勤交代をほとんどしない(20年に一度程度、つまり代替わりのみ)ので御金蔵には金がたくさんあったという、神門酔生の発言(「武生藩史」1966年刊)や、府中には制産方役所が置かれ、特産物の打刃物の全国的販売ルートを開くとともに、販売業者には免札を与えてそれを保護して冥加金を取っていたという高木不二の考察(高木著「近世社会と明治維新」第3章2009年有志舎刊)などは、越前府中本多家と商工業との深いつながりを示唆している。しかも「藩校」立教館の建設費用300両を負担したのが、この制産方役所の世話役に任じられていた豪商松井耕雪なのだから、越前府中本多家と商工業者は持ちつ持たれつの関係にあったことは明白。修一郎に商業や貿易の大事さを教える人がいなかったということは、武士は表向きは商業を軽視する儒学の教説に依拠した道徳観に縛られているため、そのような講義しか修一郎が藩校立教館で受けなかったということか。越前府中本多家旧臣で幕末に全国で活動した人物としては、山本龍次郎と渡邉洪基がいる。山本は、1839(天保10)年生まれ。修一郎より16歳年長。本多家家臣の次男に生まれ、福井の藩校明道館で蘭学者橋本左内らに教えを受け、彼に認められて江戸昌平坂学問所で学び、後に坂本竜馬の海援隊で活躍した(後関龍二と改名、維新後義臣とさらに改名)。また渡邉洪基は、1848(弘化4)年生まれで、修一郎の7年先輩。府中の町医師総元締めの息子。彼は、千葉佐倉の順天堂で蘭学を修め、後に福沢諭吉の慶応義塾などで英語を学び、幕府医学校の英語教授をつとめたり、戊辰戦争中には会津若松や米沢で英学校を開いた英学者である。こういう人々は広く世界を知っていたはずだが、この人々のようは広い認識は、府中の侍や医師たちには共有されていなかったということか?

 

12 :西忠温さんが訳した小村寿太郎の英文自伝でも、彼が「明治の政治改革により私の考え方も大変革をなし、藩にこだわる偏見が失せた」という記述が見られる。1871(明治4)年7月の廃藩置県のおりにも、藩主が東京に行ってしまい役人が変わることに反対した一揆が起きた県もあったようなので、武士・百姓・町人ともに、武士の支配(藩体制)は永久だとの観念は強かったと思われる。廃藩置県のわずか1年前の1870(明治)3年8月に武生騒動はおきたわけだから、武生だけが「井の中の蛙」であったわけではなさそう。諸藩の状況や開成学校生徒英作文などを見て、さらに考究したい。

 

13 :これが修一郎と西洋との出会い。英語で欧米の学問を学んだことで修一郎の人生観・世界観は大転回を経たわけで、その理由は、日本より強い国はたくさんあり、何もしないとこれらの国に侵略されるという危機感。まさに西洋と出会っての衝撃。ということは西洋諸国は仮想敵国。その仮想敵国に視察や留学で行った人々が、どのような西洋体験をしてどのように人生観や世界観の大転回をしたか、先行研究など調べてみたい。

 

14 :岩倉使節団は1872年3月から6月(明治5年2月から5月)にかけて合計10回アメリカ側と条約改正交渉を行ったが、アメリカ側に多大の譲歩を迫られた上に、このまま改正締結をすると、その譲歩はそのまま欧州諸国に適用されてしかも欧州諸国は日本がアメリカから得た些細な譲歩すらする必要がない(これが片務的最恵国待遇の結果)ことを日本人留学生や日本駐在ドイツ公使に指摘されて、改正を断念。交渉の詳しい経過は、下村冨士男著「明治初年条約改正史の研究」(1962年吉川弘文館刊)や、宮永孝著「アメリカの岩倉使節団」(1992年筑摩書房刊)などに詳しい。

 

15 :渡邉洪基は、修一郎より7歳年長の1848(弘化4)年生まれ。1871(明治4)年に外務省に出仕した彼は、条約改正案の作成にあたる。後岩倉使節団二等書記官として随行したが、条約改正交渉を進める方針に反発して、アメリカとの交渉中の1972(明治5)年5月23日(6月28日)に辞表を出して、これが5月26日(7月1日)に認められ、交渉途中で日本に帰国した。その後1873(明治6)年2月にウィーン駐在公使館一等書記官に任命されて赴任。1876(明治9)年帰国後は、外務省大書記官、元老院議官、東京府知事・初代帝国大学総長、衆議院議員、貴族院議員などを務める。彼については資料が東大の大学史史料室に保管されているが、今のところ1873(明治6)年前後に彼と修一郎とが直接交渉があったという資料は見つかってはいない。だが修一郎が1880(明治13)年帰国後外務省に入るにあたっては大書記官渡邉の推薦があったと言われているので、早くから交渉があった可能性は高い。研究論文としては、瀧井一博著「渡邉洪基−日本のアルトホーフ」(2006年兵庫県立大学「人文論集」第41巻第2号掲載)などがある。洪基の米沢時代については、松野良寅氏が英学史研究第12号(1979年)に「渡辺洪基と米沢の英学」が発表されている。


 

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