日本英学史学会第48回大会発表用レジュメ

 

齋藤修一郎にとって西洋とは何であったのか

 

本学会会員  川瀬健一


 

 明治期に外務大臣秘書官兼総務局政策課長や農商務大臣秘書官兼商工局長・農商務次官などを務めた官僚・齋藤修一郎(18551910)。彼がどのような西洋観を持っていたかを示す興味深い資料が二つある。

それは、彼が1874(明治7)年3月、開成学校法科1年在学時に書いた英文自伝と同じく英文の西洋と東洋の歴史叙述スタイルの違いを論じた論説である。(どちらもラトガース大学 Rutgers Universityアレキサンダー図書館 Alexander Library所蔵のグリフィスコレクション The William Elliot Griffis collectionにある「Student Essays」の中に収められている。自伝は20の作文で署名は「エドワード」。エドワードの自伝を聞き書きした形式。「歴史叙述論」は、208の作文。)

 

1)西洋との出会いとその衝撃

 

 英文自伝の中で修一郎は、西洋との出会いを次のように述べている。

  But after he left his native town and saw that there is, besides our own, still another world in which are found many nations whose policy, government, intelligence, customs and manners are far beyond our reach, he began to see the importance of nationality or the national union in order to protect the country from the invasion of our speriorssuperiorsand now he is quite free from his local feelings and feudal prejudices. 

 しかし彼が生まれた町を去り、我々自身の国以外に、他の世界があることを見つけ、しかもその世界には、政策と政府と知性と習慣と作法が我々の到達点をはるかに凌駕するものを持った多くの国家があることを発見して、彼は我々の優越者の侵略から国を守るためには、国民性もしくは国民的結合が重要であることに目覚め始めた。そして今や彼は、彼の地方的な感覚や封建的な偏見とはまったく無縁である。

 

 つまり修一郎は、大学南校・開成学校で、英学を通じて西洋文明の実情を知り、この国々にならって日本を作り変えないと、日本はこれらの国に侵略されてしまう可能性が高いことを初めて知ったというわけである。

 

2)尊王攘夷主義者としての修一郎

 

 では東京に来る前の修一郎はどのような世界観を持っていたのか。

 故郷武生時代の修一郎の世界観については、自伝で、先の文の前で次のように述べている。

  Besides, while he was in his native town, having been connected by a strong tie of feudalism, that iswasthe relation between the lords and the subjects, and having thought that the foreigners, of whom very little was known at least to him, areweremore barbarians of unhumaninhuman and cruel dispositions, indeed, he said, like a frog in a well, there was no occasion offered to him to understand the importance of trade and commerce, nor the necessity to be intelligent in the matters of business, because he and I thinkthoughtalmost all others at that period of time, fancied that their rice income iswasa thing to be perpetual and upon that they cancouldlive without any work but fencing and searching something in the books ofthe Chinese classics and histories.

  His mind was very much limited to local prejudices and did not really know where was the Empire of Japan.

  また一方、彼が生まれた町に居る間は、封建制度の強い絆でつながれており、それは、領主と家臣との間の関係であった。そしてこの時、彼は外国人についてはほとんど何も知らなかったのだが、外国人は、非人間的で容赦の無い性格の野蛮人であると考えていた。本当に、井の中の蛙のようであったと、彼が言うように、そこでは彼には、貿易や取引の重要性や、ビジネスの問題で知的になることの必要性を理解する機会が提供されなかった。なぜならば、彼や私、そしてその当時の他の多くの者たちは、彼らの米による収入は永遠であり、彼らは、剣をとることと(中国の古典や歴史の)書物の中から何事かを探す仕事をして生きていくことができるものだと思っていたからだ。彼の心は、地方的な偏見にとても限られていて、日本の帝国がどこにあるか(どんな状態に置かれているか)本当には知っていなかった。

 

 故郷武生での彼は、「鎖国をして、武士が統治する日本国のありかたは永遠に続く」「外国人は人間性のない野蛮人である」と思っていたというわけだ。これは尊王攘夷思想を持つ人々の物の言い方である。

 

さらに歴史叙述論(英文の西洋と東洋の歴史叙述スタイルの違いを論じた論説)には、以下のような記述もある。

It is a great regret on the part of Asiatie nations that they have the false idea of loyalty. They - particularly the Chinese, seem to think that loyalty consists merely in words and language.

Asiatieの国々の側に忠義についての間違った考えがあることは、ものすごく残念です。彼ら−特に中国人は、忠義が単に語と言語だけにあると(言葉だけものであると)思うようです。

 

 つまり「中国人は忠義を字句づらでしか理解しない」ということであり、中国人は忠義という、天地を作った神が人に与えた人倫の道を踏み外し、歴代の皇帝はしばしば臣下によって暴力的に退けられてきたという見かたである(=易姓革命論)。

これは江戸時代の儒者に特有の中国観であり、当時の中国が「正統な」漢民族の王朝であった明を滅ぼした、「野蛮人」である満州族の清王朝であったことに由来し、これとの対比で、この中国観の裏側には、日本は神の子孫を今も戴く忠義の国であり神国であるとの意味を含む。そして後期に広がった尊王攘夷論者の考え方では、日本が忠義の国であることが、日本が世界を統べる国で有る理由にまで持ち上げられた。

15歳までの齋藤修一郎は、尊王攘夷思想の持ち主であった。

このことは、彼が1907(明治40)年に語った『懐旧談』(1908・明治4112月サンフランシスコ 青木大成堂刊、後に武生郷友会から再刊、1917)にも示されている。

この『懐旧談』には、次のような漢詩(右側)が添えられ、この詩に添った形で、彼の半生が語られている。

 

三決死矣而不死。二十五回渡刀水。

五乞閑地不得閑。三十九年七処徙。

邦家隆替非偶然。人生得失豈徒爾。

自驚塵垢盈皮膚。猶余忠義填骨髄。

嫖姚定遠不可期。丘明馬遷空自企。

苟明大義正人心。皇道奚患不興起。

斯心奮発誓神明。古人云斃而後已。

 

(三たび死を決して而して死せず。二十五回刀水を渡る。

五たび閑地を乞うて閑を得ず。三十九年七処に徙る。

邦家の隆替偶然に非ず。人生の得失豈徒爾ならんや。

自ら驚く塵垢の皮膚に盈つるを。猶余す忠義骨髄を填む。

嫖姚遠期す可からず。丘明馬遷空しく自ら企つ。

苟しくも大義を明らかにし人心を正さば。皇道奚ぞ興起せざるを患へん。

斯の心奮発神明に誓ふ。古人云ふ斃れて後已むと。)

 

三決死矣遂未死。二請閑地不得閑。

落魄江湖二十春。三十生頭半白髪。

旧知未改友交温。又慰柱石今猶健。

読書養性何所為。我涙注人不濺我。

 

(三度死を決して未だ死を遂げず。

二度閑地を請うて、閑を得ず。

落魄して江湖に二十の春。

三十にして頭は半ば白髪。

旧知は未だ交友の温もりを改めず。

また柱石を慰め今も猶健やかなり。

読書養性何のためか。

我涙人に注ぐも、我には注がず。)

 

 

右の修一郎の漢詩は、左の漢詩の冒頭の句と三番目の句に倣って作ったものであることは明白。この左の漢詩は、幕末水戸藩執政で、水戸藩天保改革において水戸藩を尊皇攘夷思想で組み替えた立役者である藤田東湖(18061855)が天保改革の次第を詩に託して語った『回天詩史』(1844年)の漢詩。

この『回天詩史』は尊王攘夷思想の聖典として幕末に多くの藩校でも読まれたので、修一郎もこの漢詩を愛唱したものか。終生国粋主義と戦った彼が、晩年に『回天詩史』を読んだとは考えにくい。

 

3)修一郎にとって西洋とはなんであったのか

 

この意味で西洋との出会いで、齋藤修一郎の世界観は一変した。単純な尊王攘夷主義では日本は西洋の植民地になってしまうと。

ではこの時出あった西洋とは、彼にとって如何なるものであったのか。

 先に見た自伝では西洋の優れた面として、「政策と政府と知性と習慣と作法」を修一郎は挙げている。

ここにはすでにその卓抜した軍事力と科学技術の問題が外されていることに注目すべきだろう。つまりそうした西洋の強さの背景は、それを支えた文明のあり方であり国のあり方だと修一郎は認識していた。

そして日本が西洋の強国に侵略されないために必要なこととして修一郎があげたことは、nationality もしくは the national unionである。

nationalityは国民性と訳して妥当だと思うが、the national unionはどう訳すか。直訳すれば「全国連合」。日本が独立した諸藩でなることを踏まえると、諸藩の連合体とも考えられるが、この自伝が廃藩置県で日本が統一国家になった後のものであることを考えると、「国民的結合」と訳すべきか。

つまり修一郎は、西洋の強さの背景には、その民を統一した国民に組織し、それを政治的主体としたところにあったと認識していたのだろう。

この推測を裏付けることとして、自伝のこれに続く個所で彼は、以下のように興味深いことを述べている。

Still I think that until the greater part of the people becomes like Edward there is no safety as to the independence of Japan; and to affect this end the only resort is to educate them, for that which made Edward as he is now is nothing but his education.

しかし人々の大部分がエドワードのように心の地方性を克服するまで、日本の独立が安全であるとは私は思わない。そしてこの目的に影響を及ぼすための唯一の手段は、人々を教育することだ。なぜならば、今現在あるようなエドワードを生み出したのは、教育以外の何物でもないからだ

 

 つまり日本の独立を保つためには、人々の大部分が心の地方性、つまり日本は世界に冠たる国だとかいう世界を見ない現状を克服することが必要だと修一郎は考え、これは彼らを教育することで克服できると考えていたわけである。

これらのことから、彼が出会った西洋とは、国民を主体とした民主主義国家であったことが推察される。

そしてこのような西洋観は、「歴史叙述論」でも確かめられる。

修一郎はその「歴史叙述論」で、概ね「中国は専制主義の国で政治は王周辺の限られた人物が行い、そのありさまは市民にほとんど知らされることがない国柄だから、歴史叙述においても、王達の業績とそれへの賛美が中心でしかも正確さを欠く。」と述べたあと、西洋の歴史家の叙述態度について次のように述べている。

 

As far as my judgment goes most of the writers of Europe and America in treating common and not philosophical histories simply state the facts as clearly and exact as they can find, and leave the discussion to be decided by the readers, and so give tolerably good and valuable exercise to the students of history as well as to the men of world.

私の判断の限りでは、一般的で哲学的でない歴史を扱う、ヨーロッパとアメリカの大部分の歴史家は、単純に事実を述べています。明らかに、そして、彼らがわかる範囲で正確に。そして、読者によって決定されるために、議論を残しています。そしてさらに、世界の人々に対してだけでなく歴史を学ぶ学生に対しても、かなり良い価値ある課題を与えています。

 

つまり西洋の歴史家は事実をできるだけ正確に記すとともに、歴史評価も読者に委ねている。

これは修一郎にとっては、専制主義の中国に対して、西洋は民主主義で、国民が政治的主体だからこのように叙述されると理解されたわけである

西洋の強さを修一郎はこのように理解した。そしてこの「歴史叙述論」の背景となった西洋の歴史書は、ギゾーの「ヨーロッパ文明史」と考えられ、この書は代議制民主主義を文明の最高の形態だと論じた書物であるので、修一郎が見た西洋とは、議会を基礎とした代議制民主主義の国家であったと推察される。

つまり修一郎は、西洋にならって日本を議会を基礎とした代議制民主主義の統一された国家へと組み変えることで初めて、日本は西洋の侵略の危機から脱出できると考えたわけだ。

 

4)修一郎は議会を基礎とした代議制民主主義国家を国づくりの目標としていた

 

 齋藤修一郎の見た西洋は、彼自身が目指すべき明治国家像そのものであり、これにならって日本を改造することで初めて対抗できる強大な敵だったと思う。

この彼の西洋観は、彼が1875(明治8)年にアメリカのボストン大学法学校 Boston University Law School に留学し、以後5年間に渡ってアメリカに住み、ここでかの国のありさまを見聞きしたことで強化されたに違いない。ただその過程で、修一郎の尊王観は形を変えて存続した。キリスト教と文明を背景にした欧米に対抗して日本という国を立てるためには、文明を取り入れるだけではなく、日本国家独自の背骨が必要だったからだ。これが神の子孫・天皇に忠義を尽くす文明化された国としての日本。だからこそ彼はアメリカで、忠臣蔵を愛国心の発露の物語りと捉え返し、日本を代表する文学作品として英訳したのかもしれない。

また彼の西洋観は、彼が1907(明治40)年に語った『懐旧談』で、アメリカ時代の唯一の旅行であったという1876年のフィラデルフィア万博見物の折に、「ワシントンに立ち寄り、議院の傍聴を試みた」と語ったこと、そして、1878(明治11)年6月に修一郎はボストン大学を卒業した後の一年間、この前年先に卒業した菊池武夫(18541912)と共に憲法学と議院法を学んだことにも繋がっている

そして1880(明治13)年に帰国した折には、「理想的な新聞記者になって、理想の新聞を発行して見たいものだという考えが常に自分の頭にあったものだから、紐育発行の毎週新聞、紐育ネーションといえる雑誌などを常に愛読していた。そして如何かしてこれらに類似した新聞雑誌を日本で発行して見たいものである、誰か3万か5万の資本を投じて素志をとげしめてくれるような資産家はなかろうかなどということを思って帰朝した」と『懐旧談』は語る。つまり修一郎はアメリカ生活の中で、国の主体としての国民の意識を統一する手段としての新聞雑誌に注目していたわけで、ここにも彼の西洋観と、その西洋に倣って日本を改造しようとの彼の意思が見えている。

アメリカでの5年間は修一郎にとって、国民を主体とした国家とは、如何にして運営されるものなのかを、実地に講究する場であったと言えよう。

またこうした彼の西洋観は、後年の彼の政治行動にも繋がっている。

1888(明治21)年秋に農商務大臣となった井上馨の要請で、ベルリン公使館付参事官を辞めて帰国し、さらに外務省を辞め農商務大臣井上馨の秘書官兼商工局長となった修一郎が、1889(明治22)年には、明治憲法体制発足に対応して、地方の地主層を政府の側に組織することを目的として、井上馨とともに自治党結成にも動いている

また、日露戦争が目前に迫った1898(明治31)年には議会内の官僚派であり穏健な国粋主義者の集団であった国民協会を基盤として、地方の地主層を組織すべく、当時中外商業新報社長で東京米穀取引所理事長を兼ねていた修一郎が動き出し、1900(明治33)年には帝国党を創設した

さらに1894(明治27)年に39歳で農商務次官を辞して以後死ぬまでの間に、度々雑誌太陽を中心に外交論を発表し、その中で日米戦争に至る危険を警告したこともこの流れに属する行動であろう。これは、およそ10万部の発行数を誇り、多くの知識人や中間層に読者を持つ雑誌太陽やその他の総合雑誌を通じて、主権者たる国民に国の外交のありかたを説くことの必要性を、彼が認識していたことを示すものでもあり、これも彼の西洋観に繋がっている。

以上見てきたように、大学南校・開成学校以後の齋藤修一郎の後半生の道筋それ自体が、大学南校・開成学校で英学を通じて形成された彼の西洋観に由来すると言っても過言ではない。齋藤修一郎にとっての西洋とは、国民を主体とした議会に基礎を置く代議制民主主義国家であり、それにならって日本を改造し、対抗すべき国々であった。


 

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 英文自伝は、2011年4月の本部例会において報告した。来年3月発行の、「東日本英学史研究」に全文と和訳、そして脚注をつけたものを発表する予定である。引用した英文自伝の文中の【】は修一郎の誤りを訂正したもの。_はグリフィスが注目してつけたもの。

 

 齋藤修一郎が故郷武生で学んだ書物についての記録は少ない。『懐旧談』で「21史略を3度読んだ」と述べているだけ。しかし彼の父方のまた従弟で4歳年少の松本源太郎(18591925)が藩校立教館で学んだと後年述べている書物には、歴史の本が含まれている。それは、『日本外史』・『皇朝史略』・『皇朝戦略編』・『18史略』・『元史略』・『明史略』であるので、同じ立教館に学んだ修一郎が、これらの本を読んだ可能性は高い(松本源太郎『懐旧録』の「学歴」の項:松本秀彦著「母を語る」1977年私家版による)。『21史略』という書物は存在しないので、中国の正史から逸話を綴った『18史略』に『元史略』『明史略』そして日本史である『皇朝史略』を合わせて「21史略」と読んだものか。

 『日本外史』(1836・天保7年刊)は幕末の歴史家・詩人の頼山陽(1780―1832)の記した書物で、武家の歴史、とりわけ将軍や将軍に代わる立場の者として天下に号令した武家の歴史をそれぞれが如何に天皇家に忠節を尽したかを評価基準尺度で記した尊王思想に基づく歴史書。『皇朝史略』(1826・文政9年刊)は、水戸藩士青山延于(1776―1843)が『大日本史』を抜粋して書いた天皇の事跡を中心に日本の歴史を概観した、尊王攘夷思想に基づく書。『皇朝戦略編』(1856・安政3年刊)は、尾張藩士宮田円陵(18101870)が尊王攘夷思想に基づいて江戸時代までの日本の戦の歴史を記した書。

 幕末から明治初期における日本史の書物はほとんどみな、尊王攘夷思想で書かれたものであり、そのため当時教育を受けていた若い世代もこの思想に染まったのは当然。そしてこれは、アジアを侵略し日本を侵略しかねない西洋諸国が、キリスト教を国教とし自らを神に選ばれた国と呼号していたのだから、これに対抗して自国のアイデンティティを確立するには不可欠の道。今日神に選ばれた国と呼号して世界をアメリカ化・民主化せんとするアメリカに対抗してイスラム文化を護ろうとする人々が当初は、自らもまた神に選らばれた者と称して、悪魔の王であるアメリカに聖戦を挑んでいたのと同じ構図である。

 この修一郎の尊王観・日本観は、西洋との出会い以後も形を変えて持続した可能性は大きい。

「赤穂浪士の一件は愛国思想の発露であった」との言葉が、後年彼がグリー Edward Greeyと共に『いろは文庫』を英訳した本・『The Loyal RoninsG. P. Putnam’s Sons. New York, 1880)』の彼の序に書かれていることはこれを示している。

さらにこうした尊王観・日本観を持ち続けた後年の彼が、日本の外交方針に厳しい目を注ぎ、それが尊王攘夷思想の直接の後継者である国粋主義と西洋列強に対抗して帝国主義国家へと飛躍しようとする植民地主義に流れる傾向と戦ったことは、彼が西洋との出会いとその衝撃で獲得した認識にも、生涯こだわり続けたことを意味している。この件については別途論じたい。

 

 この西洋と東洋の歴史叙述のしかたを比較することを通じて、西洋と東洋の国のありかたの違いを論じた英文論説を書くに際して彼が参照した西洋の歴史書は、何であろうか。修一郎は、大学南校・第一番中学・開成学校予科の授業で、パーレーの万国史やウーストールやウィルソン万国史らの歴史書を読んでいることが推察される(明治5年「第一大学区第一番中学教科順序取調に付伺」:中央大学史資料集第3集、国立国会図書館蔵「東京開成学校一覧 明治8年2月」による)。しかしこれらは各国の主な歴史上の話を集めたもので、この歴史叙述論の背景とは考えにくい。なぜなら修一郎のこの歴史叙述論の中には、アジアの歴史書の記述の中心をなす、王の名前や王朝の交代や戦争などを「国をより高次の文明に導く大いなる出来事に比べれば重要ではない」との記述が見られるからである。これは彼が文明論の系譜に属する歴史書を参照した証拠である。ではそれは何か。修一郎が読んだことが確実な「文明論」は、開成学校開校の直後に皇后が参観した際に歓迎の挨拶を修一郎がしたことに対する褒美としてもらった、ギゾーの『ヨーロッパ文明史』英訳本である(松本源太郎「懐旧談を読む」武生郷友会誌第39号大正7年7月刊掲載による)。この本は福沢諭吉の『文明論之概略』成立に大きな影響を与えた本でもあり、フランス革命・ナポレオン戦争・7月革命を経て成立した代議制民主主義を、人類史の最高到達点として位置づけたものであり、修一郎が読んでいた従来の歴史書と大きく異なる内容を持っているので、「歴史叙述論」の背景としては最も相応しい。なお修一郎が読んだ中国の史書は、注2で見たように、中国正史の抜粋である『十八史略』と『元史略』・『明史略』であろう(松本源太郎『懐旧録』の「学歴」の項:松本秀彦著「母を語る」1977年私家版による)。この英文論説は、彼の西洋観・東洋(中国)観・日本観を示す貴重な資料であるが、近いうちに本部例会で発表する予定。

 

 監督の目賀田種太郎(18531926)の文部省あての報告による:「在米留学生菊池武夫・小村寿太郎他4名の学業に付留学生監督目賀田種太郎報告の件回達」明治1112月7日:中央大学史資料集第3集1988年刊所収。

 

 1889(明治22)年5月5日の武生郷友会での修一郎の演説「郷友会に関する報告及び、越前七郡農商工業並びに政治上情況一斑」(武生郷友会誌21号明治23年5月刊掲載)による。

 

 帝国党結党は、議会の官僚派である国民協会と旧自由党の山口県を基盤とする大岡育造らを結合して、地方の地主層を集めようとしたものと言われている。しかし伊藤博文の組織した立憲政友会に大岡らは合流したため、帝国党は結局、元の国民協会の枠内にとどまり、地方の地主を結集することはできなかった。だが帝国党が国民協会がそうであったように、穏健な国粋主義者の集まりであるとすれば、日露戦争を目前にして、政府の対応を右から批判しかねない国粋主義者の流を政党として結集させることは、議会において対露戦に向けての軍備拡張予算を通しやすくするとともに、国民の中にある国粋主義的傾向を議会の中で政府が統制することを意図したものとも考えられる。これは民権派を中心に地方の地主層を組織しようとした伊藤博文の立憲政友会結成と対になる動きではないか。ここにも修一郎が目ざしたものが、議会制民主主義に基づく国民国家であったことが仄見えるとともに、彼が生涯戦い続けた相手が国粋主義であり、ここに明治国家が直面した困難さが良く示されてもいる。この件についても別途論じたい。

 

 雑誌太陽に投稿した修一郎の外交論文は、「外交論」(雑誌太陽:1898・明治3112月5日 第4巻24号掲載)、「北米太平洋岸と日本人」(雑誌太陽:1902・明治35年5月5日 第8巻5号掲載)、「世界的強国としての独逸」(雑誌太陽:1903・明治36年2月1日 第9巻2号掲載)、「独逸皇帝の人物」(雑誌太陽:1903・明治36年7月1日 第9巻8号掲載)、「露国の半面観」(雑誌太陽:1903・明治3611月1日 第9巻13号掲載)、「戦争の価値」(雑誌太陽:1904・明治37年4月1日 第10巻5号掲載)の6編である。

このうちの最初の「外交論」と、他の雑誌「日本及び日本人」に掲載された「米国の侵略的径路」(雑誌日本及日本人第5301910・明治43年4月1日掲載)の二つの論文は、それぞれの同じ時期に、歴史の流れは門戸開放(自由貿易主義)と中国の独立と領土保全(植民地解放)にあるとの観点から、植民地主義に傾斜する日本外交批判を展開し、この歴史の二大原則を堅持するアメリカとの間に日米戦争が起こることを警告した歴史家・朝河貫一(1873―1948)の日本外交批判、「日本の対外方針」(1898年6月「国民の友」掲載)と『日本の禍機』(1909年6月刊)に呼応したものである可能性が強い。

そしてこのように日本外交を批判した齋藤修一郎の背後には、伊藤博文(18411909)・井上馨(18351915)、そして彼の親友の原敬(18561921)など、明治政界において自由貿易派とでも呼ぶべき一波があったことが仄見えている。この一派は、日本は帝国主義国家になるのではなく、アメリカのような工業に立脚点を置き世界を自由貿易主義で再組織しようと試みており、国粋主義・植民地主義に基づいて古い西洋の帝国主義国家を指向するもう一つの有力な一派、山県有朋(18381922)や松方正義(18351924)、そして桂太郎(18471913)や小村寿太郎(18551911)らからなる有力な一派と死闘を繰り広げたものと見られ、この対立はそのまま大正時代・昭和初期へと続いたものと思われる。

ここにも修一郎が、西洋との出会いで獲得した世界観に、最後までこだわっていたことが見られる。

この点については、別途論じたい(修一郎の外交論文が持つ意味については、1119日の朝河貫一研究会第91回研究会において、「朝河貫一の日本外交批判論の限界−齋藤修一郎日本外交批判論の検討を通じて」の題で論じる予定)。

 

補注:本論考を、2011年10月9日に行われた日本英学史学会大会で発表した。その際に、会員の平田諭治氏(筑波大学)から質問が出された。それは、「なぜnationalityを国体と訳さなかったのか」というものである。質疑を重ねる中で、この質問の背景には、平田氏がかつて、教育勅語の英訳文を検討した際に、「国体」を「nationality」と訳した例があったということであり、平田氏が質問を発したのは、この報告では修一郎が攘夷思想を持っていたことはよく分るが、彼が尊王主義者であったことはよく分らない。彼の天皇観を考える上でも、ここは国体と訳した方が良いのではないかという意味であった。後日平田氏の関係の論文を読み、さらには修一郎がこの自伝を書いた時期がちょうど、明治初年において国体論争が始まった時期でもあったことを考え合わせ、「nationality」は「国体」と訳すほうが適切であると考えている。その結果「nationality or the national union」全体も、「国体(天皇の下における国民統合)もしくは国家的統合」と訳すのが適切であると、考えを変えるに至っている。このように訳すことによって、齋藤修一郎の天皇観や国家観を、国体論争の中に位置づけて理解できるからである。国体論争においては、三つの異なる立場がぶつかり合っていた。右派は、神である天皇に国家運営の全権があると考え、天皇の下で内閣が国政を実際に行う神聖国家を考えていた。これに対して、左派は、日本を共和政体の国家としようと考え、国家運営の全権すなわち主権の存在する国民の選挙によって選ばれた代表者が国政を運営するとした。最後の一派はこの中間に位置する人々で、この人々もまた多様な考えを持っていたが、概ね彼らは、天皇は国民統合の象徴としてとらえ、天皇の権威の下で統合された日本国家を、国民の選挙で選ばれた議会に基づいて形成された内閣が国政を担うという考え方を持っていた。齋藤修一郎は自伝の中で、西洋の侵略から日本を守るには西洋に習った国づくりが必要だと述べ、そのためには人々を教育しなければならないと述べていた。また「歴史叙述論」の中では、西洋は中国や日本などの専制国家ではなく民主主義に基づく国民が主人公の国だと述べているので、右派ではないことは確かである。では、左派なのか中間派なのか。この点については注で示したように、彼がアメリカで出版したThe Loyal RoninsG. P. Putnam’s Sons. New York, 1880)』の序文のなかで、「赤穂浪士の一件は愛国思想の発露であった」と述べていることや、「歴史叙述論」のなかで「忠義の心」が強調されていることを考えるとき、彼が天皇に対する忠義でもって国民統合を図ろうと考えていたことは明白である。ということは修一郎の国家観・天皇観は、国体論争の中の中間派に位置づけられることが理解できよう。修一郎が「国体」を「nationality」と訳したと理解することで、彼の国家観・天皇観がこのように位置づけられるわけである。


 

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