20111119日朝河貫一研究会第91回研究会

 

朝河貫一の日本外交批判論の限界

−齋藤修一郎日本外交批判論の検討を通じて−

 

 

報告者:川瀬健一(本会会員・日本英学史学会会員)

個人サイト:http://www4.plala.or.jp/kawa-k/


 

〇本報告の概要

 

 朝河貫一が、1898(明治31)年6月に雑誌「国民の友」に「日本の対外方針」を発表して以来、1909(明治42)年6月に実業之日本社から『日本の禍機』を出版し、日本外交のあり方を巡って批判的言辞を発表し続ける過程で、これに注目しかつ、朝河の日本外交批判論の「限界」を認識しそれを批判的に支持する立場で自身も雑誌に日本外交批判を寄稿し続けたと見られる人物がいた。元外務官僚・農商務官僚の齋藤修一郎(18551910)である(31年は中外商業新報社長、42年は無職)

 本報告では、この齋藤修一郎の日本外交批判論を紹介かつ検討することを通じて、朝河貫一の日本外交批判論が、その卓越した歴史認識・時代観に基づいた具体的な提言であったにもかかわらず、時の政界の人々を説得できなかった「限界」について論じる。

 

1:齋藤修一郎とはどのような人物であったか   資料1:齋藤修一郎の年譜

2:齋藤修一郎の日本外交批判論の紹介と検討   資料2:「外交論」

                        資料3:「米国商工大勢論」序・目次

         資料4:「米国の侵略的径路」

3:朝河の日本外交論はどのようにうけとられる可能性があったか

  −朝河日本外交批判論の限界−        資料5:雑誌太陽の外交論文

4:齋藤修一郎は、何を目的に『最近米国観』を出版しようとしていたのか?

〇終わりに−まとめ・今後の課題

                        

1:齋藤修一郎とはどのような人物であったのか

(資料1:年譜参照)   

【まとめ】

 

〇アメリカ合衆国の実際を知る人物:大学南校・開成学校での英語教師はアメリカ人グリフィス William Elliot Griffis。アメリカに5年間留学(187580)。法学を学び、議会法・憲法に注目。この間、週刊新聞・雑誌ネーションを講読しアメリカの実際を知る。以後三度渡米経験あり(1886.111901.121902.51908.31909.10)。アメリカ関係の訳書として、「米国商工大勢論」(博文館1902年):米国前大蔵次官ブァンダーリップ氏著「米国商業の欧州侵略」と題する論文を翻訳したもの。

〇歴史認識を基礎として現状を考え未来を考察する傾向をもった人物。歴史に深い関心をもった外交官・政治家:「法律起源論」の御前講演、英文「歴史叙述論」、「いろは文庫」英訳、「保伊頓氏国際法沿革史」の翻訳、歴史認識を元にした現状分析(外交論文)。

〇井上馨の右腕と呼ばれ、政界の実力者達との強いパイプを持つ官僚・政治家:外交官としては朝鮮事務・条約改正・朝鮮政府改革に取り組む。農商務省官僚として殖産興業政策を進める。政党の結党(自治党・帝国党)にも関る。郷里の先輩には渡邉洪基がおり親友として学友・小村寿太郎原敬がいる。

〇齋藤修一郎の政界人脈は、主として(小村寿太郎を除けば)英米との連携・自由貿易派。満州植民地化に反対した人々:修一郎は、政界の裏側にも通じた人脈・外交の裏側にも通じた実務経験のある人物で、議会制民主主義の日本を目指し、終生国粋主義と植民地主義に反対して活動したものと思われる

 

2:齋藤修一郎の日本外交批判論の紹介と考察

 

〇修一郎の外交関係論文

1:雑誌太陽:1898・明治3112月5日 第4巻24号に「外交論」

2:雑誌太陽:1902・明治35年5月5日 第8巻5号に「北米太平洋岸と日本人」

3:1902・明治358月、博文館より「米国商工大勢論」を出版。

4:雑誌太陽:1903・明治36年2月1日 第9巻2号に「世界的強国としての独逸」

5:雑誌太陽:1903・明治36年7月1日 第9巻8号に「独逸皇帝の人物」

6:雑誌太陽:1903・明治3611月1日 第9巻13号に「露国の半面観」

7:雑誌太陽:1904・明治37年4月1日 第10巻5号に「戦争の価値」

8:雑誌日本及日本人第5301910・明治43年4月1日に「米国の侵略的径路」

 

          このうち3は英文の論文の翻訳、修一郎のアメリカ観が良くわかる。

          4・5はアメリカの週刊雑誌の論文に、8もアメリカの週刊雑誌「アウトルック」記事に基づく

          4・5・6は修一郎の政治分析方法が良くわかる。

          1・8が、朝河貫一の「日本の対外方針」「日本の禍機」に対応したものか?

 

(1)「外交論」の内容と考察    (資料2:「外交論」を参照)

 

 この論文は4つの部分から成り立っている。

 T:外交と国際法の関係(p8・9)

 U:外交の歴史(9下段末尾〜1011の下段一行目)

 V:近世外交の妙―トルコ問題(露土戦争)を例として(p11下段二行目〜1213・14の上段)

 W:日本外交の今後のありかた(p14の上段末尾〜15

 

 この内容のうち、TとWが主題と結論である。

 

A:内容の抜書き・要約

 

 長い文章なので要約する。

 T:外交と国際法の関係

『外交はすなわち「鶯花濃艶」の幻境にして、国際法はすなわち、「水木痩枯」の真吾なり。』

・外交をなぜ幻境というか?

  国際関係上、一度紛議錯綜の現象をきたし、一国の代表者たるもの、一堂に相会して、論争抗議するにあたっては、三寸の舌鋒巧に敵を粉砕して、その効果よく百万の貔貅(ひきゅう=勇猛な軍士)を行るに優るものあらしめ、又平時にあっては、対手国の強盛なるものに向かって、滑脱微妙の画策を施し、もってその機先を制し、あるいはその殍徴(るいじゃく=よわい)なるものに対しては、直前肉薄の態度をとり、もって彼をして顧慮するの余裕なからしむるかごとき。

・国際法をなぜ真吾というか?

  まづ国家自衛権の何物たるかを決定し、ついで自衛権を行使するの方法および範囲を定め、もって各国をして対等の地位を維持せしめ、各国民をして天賦の人権を保有せしめ、その間かつて一点の非理不法あるを許さざるをもっての故なり。

 

・外交と国際法とはいかなる関係にあるのか?

  外交なくんば国際法の効果得て望むべからず、国際法なくんば外交の妙味得て掬す(きくす=結実する)べからずと断言せん。

  (国際法は、国と国とが将来にわたるその関係を決めようとするとき生れるもので)列国を統一して、これが上に強制的準則すなわち法律を発布施行するの機関は、実際の歴史にてらして、未だ吾人のあえて見ざるところなり。しからばすなわち、国交際の準則すなわち国際法の原則は、一に真正にして合理なる、実際の国際慣例に基づいて成立確認せらるるものたらずんばあらず。

 

 (U・Vは省略)

W:日本外交の今後のありかた

 ここでは、近時我が国にたいする欧米列国の外交の例をもとにして、日本の今後の外交のありかたを論じている。

 

・最巧妙を極めたる如くにしてかえって拙劣を表したるものは、露仏独の遼東還付に関する提議なり。―近時清国における露国の態度たる、日本国民徹骨の憤怒は機運を卜して轟発せんとす、露国たるもの豈夫れ外交の妙を極めたりと言うを得ん。

・清廉を示したる如くにして巧妙を極めたるものは、米国政府の申し込みにかかる赤間が関事件損害賠償金の還付なり。―米国は赤間が関事件をもって当時日本文化の程度未だ列国と平行するあたわず、加うるに国歩艱難の一事は国際関係の方面に周到なる用意をなすあたわざりしものと解釈し、償金還付の交渉をなしたるなり。これに対して日本臣民の米国を徳としたる果たして幾ばくぞ。吾人日本国民の米国をもって無二の知友となす決して偶然に非るなり。徳義上、理論上、渇仰やむをえざるの洪恩を施与し、もって東洋無二の雄鎮をして心底より自家の度量を追慕せしむ、米国はそれ真に外交の真相を大観するものと言うべきなり。

・ロシアの外交が妙ならざるは、外交の目的と手段とを合わせて欺瞞権変の幻境なりと思為するか故に非るか、アメリカの外交妙ならさるか如くして妙なるは、外交の手段と目的とを識別し、外交てふ幻境の裏面には国際法てふ真吾の泊する了知するか故に非るか。

〇日本の今後の外交のありかた:露国一流の外交に惑わされることなく、妙ならざるがごとくにしてしかも妙極まれる米国風の外交家たれよ。日本の地盤は無朽(むきゅう=くちることなく永遠に)にわたって倍強固安静ならん。

 

B:「外交論」の性格‐朝河「日本の対外方針」との関係

 

 この論で齋藤修一郎が言いたいことを要約すると、以下のようになるであろう。

『外交は、国際法(国際的慣例)を基盤として、自国の利益を図るために行うもの。したがって世の人々がしばしば誤解するように、力で相手国を脅すようなものであってはならず、一般的にその当時に国際的に認知された慣例に基づいて、相手をも納得させて最終的に自国の利益を図るものではなくてはならない。しかしそのありかたは、相手の国の情況や国際状況によって変化して一様ではない。

日本が範例とすべき外交は、アメリカのように、国際法・慣例に基づいて、相手に徳義上・理論上において広範な恩をなして、相手をして自国を追慕させるようなものではなくてはならない。』と。

 

・この「外交論」の半年前に、朝河貫一は「国民の友」に、「日本の対外方針」を発表し、来るべきロシアとの対決に当っては、ロシアは黄過論を駆使してヨーロッパ人のアジア人に対する差別意識を動員し、日本が中国・満州を手に入れれば、日本はかならずそれを独占し、場合によっては中国をも傘下に組み込んで欧州に侵略の手を伸ばしかねないというキャンペーンをはる危険があることを指摘し、日本外交は、ロシアとの対決にあたっては、欧米諸国全体を味方につけられるような、「世界史の最高道義」を掲げて戦うべきだと論じた。朝河が言う「世界史の最高道義」とは、すでにイギリスやアメリカがアジア外交において掲げ、この朝河論文の翌年にアメリカ合衆国国務長官のヘイが宣言したところの、「清国の領土保全」と「門戸開放・機会均等」であることは言うまでもない。つまり朝河は、今後の日本外交は、アメリカの例に習うべきだと断言した。

・齋藤修一郎の「外交論」も同じく、今後の日本外交はアメリカに習うべきだとした点で、朝河論文と同じであり、彼も「清国の領土保全」「門戸開放・機会均等」を主張したものか。

・しかし朝河の「日本の対外方針」と齋藤の「外交論」の決定的な違いは、朝河のそれが、アメリカ外交のあり方を全面支持し、それこそ人類史の流れに沿った最高の価値を示すものと礼讃しているのに対して、齋藤のそれはあくまでも、外交とは自国の利益を確保するためのもので、アメリカが日本を援助し同胞として同盟者のように遇するのは、日本の協力がアメリカの利益につながるからであるという、極めて現実主義的な見方をしていることにある。つまりアメリカと日本の利害が異なれば、敵になることを視野に入れている。

〇結論:この意味で齋藤の「外交論」は、その内容から、半年前に出された朝河の「日本の対外方針」の方向性を支持しながらも、そこにある理想主義的側面の危うさもまた指摘したものと考えられる。

 

(2)「米国商工大勢論」の内容とその性格

                   (資料3:「米国商工大勢論」序・目次参照)

 

齋藤は1902(明治35)年に三度目にアメリカを訪問したおりに(1901.121902.5)、彼が留学していた明治8年から13年のアメリカと異なって、そのあまりの発展ぶりに驚き、そのありさまを本にして出版しようとしたことがあった。しかし当時のアメリカの現状、それもアメリカの対欧州貿易や資本投下の様子を詳しく論述した前大蔵次官(財務省次官)ブァンダーリップ氏のパンフ「米国商業の欧州侵略」を目にし、著者の了解を得てこれを和訳して、帰国後に出版した。

 これが「米国商工大勢論」である。

 

A:この本の内容と性格

 

 この本はアメリカの前大蔵次官(財務次官)ブァンダーリップが欧州各国を実際に訪問し、欧州におけるアメリカ資本の進出の様を実見し、あわせて政治家や企業家たちと意見を交わして得た知見を元にして、最近の貿易統計などを参照して書いたもの。

 欧州各国でアメリカ資本がいかに広く進出し、アメリカ商品が欧州市場を席巻しているかを詳しく論じ、その上で、さらにアメリカが欧州に進出するうえでの課題を論じている。 

 ブァンダーリップは、シカゴの新聞記者で「シカゴトリビューン」の財政部主幹であったが、時のシカゴの銀行頭取ライマン・ゼー・ゲージの知己を得、彼がマッキンレー大統領の下で大蔵大臣(財務省長官)となったさいに、その秘書官としてワシントンに行き、次官として腕を振るった人物で、現在はナショナルシティー銀行の副頭取と著者紹介にある。

 この意味でアメリカの財務官僚であり銀行家でもある氏のアメリカの現状認識でもあり、欧州の著名な政治家の認識とも合わせた、貴重な資料である。

 ちなみに、この本の第一編「欧州全般における観察」から、アメリカの貿易統計の数値を挙げておこう。

 

米国の外国への輸出金額・1897(明治30)年

10億ドルを越える

米国の外国への輸出金額・1900(明治33)年

15億ドル

米国の外国への輸出金額(1896年前10年の平均)

 8億2500万ドル

米国の外国からの輸入金額(最近56年平均) 

 8億ドル

1900年の貿易黒字=約7億ドル

米国の製造品輸出金額(1897年前10年の平均)

 1億6300万ドル

米国の製造品輸出金額・1898(明治31)年

 2億9000万ドル

米国の製造品輸出金額・1899(明治32)年

 3億3900万ドル

米国の製造品輸出金額・1900(明治33)年

 4億3400万ドル

※米国は原料・食料の輸出国⇒製造品輸出国(世界の工場)に転換

※製造品輸出の増加の原因は、鉄鋼製造・器械製造技術の発明による

米国と欧州との貿易(米国輸出−輸入)・最近3年平均

 6億ドルの黒字

米国と欧州との貿易(米国輸出−輸入)・6年間の合計

27億4400万ドル

※欧州が超過額を金貨で支払った額=1億3200万ドル 米国は欧州に対する巨額の債権国

 

B:齋藤修一郎がこの訳書で言いたかったこと

 

 これは、「訳者緒言」に明確である。

【訳者緒言】

 訳者15年ぶりに偶々米国に漫遊し、その15年間の著しき殖産興業および貿易の進歩を目撃し、その国家全般と個人とが蓄有する巨大なる富を認め、またその殖産興業と貿易と富とが日に月にますます増進して際限なく。従ってこの国の勢力がすでに業に世界の巨大国たるに至り、英も独も露も仏も争うてこの国の友情と歓心とを求むるに汲々たる有様を観察し、実に今日の戦争は兵隊と弾薬とにあらずして富なり資本なりとの金言をなお一層悟るに至れり。

 米国のかかる繁盛なる有様を我が同胞に報道して一つは我が国殖産興業上啓発の資料とし、又一つは米国との交際軽んずべからざることを勧告せんを希望せしが、偶々米国前大蔵次官ブァンダーリップ氏著米国商業の欧州侵略と題する論文を閲読し、その米国殖産興業上の近年の進歩を述ぶること頗る詳悉にして訳者凡庸の眼凡庸の筆の遙かに及ぶべからざるを知り、著者の承諾を得て今これを翻訳してその利益を楽しみとを我が同胞に分たんと欲す。こいねがわくは我が同胞徒に形式上の文明をてらうことなく同盟約束の文面に安んずることなく奮って殖産興業の実力を養成することを勉めんことを。余が不文或いは著者の深意を尽さざる所あらば幸いにこれを恕せよ。

 

齋藤修一郎がこの本を訳出した目的は、「米国が世界の巨大国たるに至り、英も独も露も仏も争うてこの国の友情と歓心とを求むるに汲々たる有様を見る」ことによって、「米国との交際軽んずべからざることを勧告せん」ということと、「同盟約束の文面に安んずることなく奮って殖産興業の実力を養成することを勉めん」ことを勧告するためである。

 この「同盟」とは、修一郎が滞米中の1902(明治35)年2月に締結された日英同盟のことであろう。

 日本もまた殖産興業につとめ、アメリカに匹敵するような工業国へと雄飛し、アメリカと同様に、日本も自由貿易主義で行けと言いたいのであろう。これは原敬が、後の1908(明治41)年にアメリカと欧州を訪問して得た感想と同じであり、後年首相となった彼の主張と同じである10

 

(3)「米国の侵略的径路」の内容とその性格

(資料4:「米国の侵略的径路」を参照)

 短いものなので全文を読みたい。

 

 

A:内容の概略(まとめ)

 

 この小論は、今執筆中の『最近米国観』の概要を紹介するもの。

 小論であるが内容は、5つに分かれている。

 T:アメリカ合衆国の侵略史=領土拡張史⇒米西戦争以後の今や、アメリカは世界帝国へと成長している。この背景には、アメリカ人の侵略的人気がある。アメリカは危険極まる列国的分子。

  ※以上は、「アウトルック」誌に掲載されたH.アデングトン・ブルースの連載評論に依拠している。

 U:ブルース論文の認識(アメリカはいまや世界帝国である)をベースに、米西戦争以後のアメリカのアジアに対する行動を、「列国的活動、帝国主義の発揮」と評価し、その上でルーズベルト式の「清国の領土保全」「門戸開放・機会均等」を高く掲げた、今日的言い方をすれば「人権外交」のありかたも、世界帝国としての行動であるとし、これに逆らう日本に対してアメリカは、「満州鉄道中立案」「日本人排斥案」を出していると見る。

 V:この列国的な合衆国の行動を日本はどう見ているか?⇒日本には対米策がない。それはペリー来航以来の日米関係史を親和的なものとみなし、この観点で日本の利益を図ろうとしてきたから。なおここで齋藤が批判している「小村外相と大石正巳の問答」とは、1910(明治43)年1月末から2月初の第26回帝国議会の衆議院予算第一委員会での移民問題と満州政策に関する議論のことであろう11

 W:合衆国は西欧とは違う⇒一種独特の政治、社会組織、人情、人気をもち、外交の如くも突然飛躍的行動に出る。欧州列国の秩序整然、一糸不乱という組織とは異なる性格を持つ。米国を欧州列国と同じとみなすことで対米政策を誤る。

 X:今後の米国⇒米国は米西戦争の結果得た広大な領土で満足するか?その野心はいまだ底知らず(H.アデングトン・ブルースの言を引用して)。

 

B:この小論で齋藤が言いたかったこと

 

「外交論」や「米国商工大勢論」で見た齋藤の知見を元に小論の論旨を補ってみると、以下のようになるであろう。(【 】は齋藤が言外にこめたと考えられること。齋藤のアメリカ政治・社会観は不明だが、留学経験のある彼としては当然の知見として補う)。

米国はすでに世界帝国であり、【アジアに触手を伸ばそうとしている。その方策が、ルーズベルトも掲げた「清国の領土保全」「門戸開放・機会均等」であった。日本もまた同じ政策を掲げて日露戦争を戦い、政策を同じくするイギリスとアメリカの援助を得て、ロシアを破った。だが戦後日本はこの「国際公約」を破り、満州を自国の植民地としようとしている。】この裏切りに怒ったアメリカは、満州鉄道中立化案を出して満州の門戸開放を要求し、これと平行して日本人移民排斥をおこないつつある。しかし日本はアメリカ合衆国を、ペリー以来の知友とみなし、親日国アメリカに依拠しながら自国の利益を図ろうとし、満州植民地化の結果を見ようとしない。米国は欧州列国とは違う。アメリカの列国的行動はこれでやむとは思えない。【議院制内閣に基づいた欧州列国の外交方針は一貫性があり秩序整然としているが、大統領と議会という二つの直接国民に選ばれた機関が外交権限を持つ国は、国民感情に大きく左右されるがゆえに、突然激しく変化することがある。日本の日露戦争後の「国際公約」に反した「裏切り的行動」は、アメリカ国民を反日化し、それゆえ将来日米戦争に両国を追いやる危険性がある。】と。

 

C:朝河『日本の禍機』と齋藤「米国の侵略的径路」の比較

 

 朝河貫一の『日本の禍機』と齋藤修一郎の「米国の侵略的径路」は、共に、日本の日露戦争以後の大陸政策が、日露戦争での「国際公約」に反し、満州を日本の植民地としようとするものであるとの認識では同じである。そして日本がこのままこの政策を維持すれば、日米戦争もありうると警告する点は同じである。

 また米国が欧州列国とは違った政治の仕組みや社会組織を持っており、その外交政策の確定においては、欧州列国以上に国民の意向が強く反映しやすく、そのため米国の外交政策は急激に動くことを認識している点では、朝河も『日本の禍機』で繰り返し、アメリカ国民の日本観・清国観を論じていることからして、同じ認識に立っていたと考えられる。

しかし決定的な違いがある。

・朝河は米国の「清国の領土保全」「門戸開放・機会均等」政策を人類史的な高い理想を掲げたものと高く評価してきたが、齋藤は、これもまた米国の列国的姿勢の表れであり、清国の利益を守る姿勢を取りながらも、あくまでも米国の利益のためと冷徹に見ている。

・また後に詳しく見るように、朝河の『日本の禍機』の前半は、日本の大陸政策が日露戦争時の「国際公約」に反していることを論じ、これゆえにアメリカの輿論は次第に反日的になっていることを警告することに当てられており、後半は、日本人の多くが抱いていた「満州植民地化」の弁護論とアメリカの新外交批判に対する反論に当てられている。しかし齋藤の論は、その『近年米国観』という題や「米国の侵略的径路」という題が示すように、アメリカがすでに世界帝国であり、彼らが掲げる「清国の領土保全」「門戸開放・機会均等」も、世界帝国として米国の利益を図るためのものであるとし、米国という国家がなぜこのような行動にでるのかを、米国と欧州列国との違いを意識しながら「アメリカ論」として展開しようとしたところにその特徴はある。

 

D:【結論】

 

 齋藤が日米戦争を警告するに当って、朝河のように日本の「裏切り」を糾弾し、アメリカのような「人類史的な高い理想」に立ち返れという論の立て方ではなく、アメリカ論に論点を絞り、アメリカ合衆国という国の在り方を論じ、それが掲げる「清国の領土保全」「門戸開放・機会均等」もアメリカの列国的行動の一部であり、それゆえこれに従わない日本は、アメリカと全面衝突になるとの一点におそらくしぼろうと意図したのは、朝河の論の立て方では、当時の人々、とりわけ日本の政治家を説得できないと判断したからではなかろうか。

 

3:朝河の日本外交論はどのようにうけとめられていたか−朝河日本外交批判論の限界−        

                     (資料5:雑誌太陽の外交論文を参照)

 

 残念ながら、朝河の『日本の禍機』や、政治家に送った私信での警告がどのように受け止められていたかを示す、直接的な資料はまだ見つからない。しかし、朝河に対する直接批判ではないが、アメリカ合衆国が出した「満州鉄道中立化案」(1909・明治4211月〜12月)に関する興味深い論考を三つ、雑誌「太陽」上に見出した。この三つの論は皆、「満州鉄道中立化案」に反対の立場で書かれたものだが、論者の社会的立場からして、それぞれ、アメリカの提議に対する代表的な反対論であると考えられるので、この三点を分析する。

 三つの論文は以下の通り。

T:「米国の提議と日本の地位」伯爵 大隈重信君談

U:「危険不謹慎極まる提議」 大石正巳君談

V:「没分暁極まる提議」 法学博士 戸水寛人君談(全て雑誌太陽明治43年2月1日号掲載)12

 なお、大隈重信は当時は外務大臣・総理大臣も経験した元老であるが、大石正巳13は当時衆議院議員で大隈の憲政本党の幹部、戸水寛人14は法学者出身で日露開戦を主張した七博士の一人。当時は政友本党所属の衆議院議員。

 

(1)他の論者の米国提議反対論の概要15

 

T:大隈重信が米国提議に反対する理由(要旨)

 

・我輩は元来日本で満州を領有すべしという意見である。

・日本が満州を領有するというのは日本が清国の土地を欲しいが故ではなく、他の外国がこれを領有するときは、日本は大いなる圧迫を被るから。(=満州生命線論)

・欧米人は東洋方面において傍若無人の行動を演じて憚らず、甚だしく東洋諸国に圧迫を加える。これはすなわち白禍である。彼らが恐れるのは日本と清国が合同して白人種に対抗することである。(=黄禍論に対抗して白禍論を唱える)

・列国は日本を蔑視し、日本の勢力伸張をもって黄禍とみなす。特にドイツ皇帝はこの論に立ち、日英同盟は欧州に対する英国の裏切りとまでいい、いつの日か欧州は大艦隊をもって日本征服に出かけると言明している。しかし日英同盟あるかぎりそれはありえない。(=日英同盟期待論)

・米国は太平洋上の制海権を握ることに腐心しており、日本はその場合の仮想敵国。「満州鉄道中立化案」もまたこの大方針の一旦を示している。(=米国のいう新外交は米国の利益をはかるためのもの)

・日本は「徳化的帝国主義」の道を歩む。それは我建国の精神を拡充したもの。日本は神が世界を作ったとき最初に作られた国であり、天照大神の子孫を頂く神国。世界の国々に優越しそれを導く立場にある。(=日本神国論⇒大東亜共栄圏につながる認識)

 

U:大石正巳が米国提議に反対する理由(要旨)

 

・米国の満州鉄道中立化案は、金さえだせばなんでもできるという米国人特有の考え方に基づいて、金で買収できる程度の考えか?それとも満州駐在の米国官吏の日本が満州の商権を独占しようとしているとの言を信用して、東洋の事情に通じていない国務省が、日本に対して一種の危惧心・猜疑心を抱いてのことかもしれない。あるいは、満州における門戸開放・機会均等、すなわち経済上における列国の自由競争とも重なる部分があるやもしれぬが、主たる理由は、これをもって日露の間を緩和し、東洋平和を維持するためか。しかし米国がこれを実行したとして、はたして東洋平和を実現できるのか。平和を攪乱する要因ではないのか。

・日本がロシアと戦ったのは、ロシアと中国の国力の差が激しく、ロシアの勢力は満州を圧してこれを併呑せんとし、弱小の朝鮮はロシアの勢力に抑えられてその傘下に入ろうとした。こうして列国の均衡がやぶれ帝国の位置が危なくなったから、やむを得ず戦ったのだ。清国・韓国がロシアと対立するだけの勢力であったなら日露戦争はありえなかった。今や日本は満韓の地でロシアの勢力と対峙しており、その後ろに日英同盟があって、東洋のバランスは維持されている。もし日本の勢力を満州から撤退させたならこのバランスはまた日露戦争前に戻り、ロシアは清国を圧倒するであろう。(=満韓生命線論、日英同盟期待論)

・米国が遼東の還付や鉄道の還付を主張するのは、列国が他で同等の利権を持っていることを無視して我が国のみ圧迫するものであり、10万の血と20億の金を費やして得た代償を奪いとるものであり、我が国への侮蔑である。(=米国新外交への疑念・血で購った満州を渡せないとの感情論)

・戦争は国民の輿論によって起こる。当局者がいかにそうならないよう苦心しても、日本を侮蔑するような米国の行動は日本国民の公憤を爆発させかねない。(逆にアメリカを戦争で脅す=アメリカは戦争に踏み込めないという楽観論?)

・米国が日本の特権を奪おうとする一方でシンジケートを結成し清国で特権を得ようと画策していることは、極めて不謹慎な行動である。(=米国新外交も米国の利益のためであるとの認識)

 

V:戸水寛人が米国新提議に反対する理由(要旨)

 

・満州の鉄道を六カ国共同経営に移して中立とする米国の提議は、日本の権利を無視した不都合極まるもの。日本の満州における特権は、日露戦争の結果、ポーツマス条約で承認されてえた正統なもの。この条約はアメリカも承認している。日本に対する侮蔑である。

・米国提議は手続きでも間違っている。直接関係者である日露両国の内意を問わず、第三国と先に協議するとは無礼極まりない。そして英国がこの提議に賛成するとは思われない。なぜなら英国は日英同盟を結んだ同盟国であり、同盟国日本の権利を殺ぐ米国の提議に賛成するはずはない。(=日英同盟期待論)

・米国は近年マッキンリー大統領以来モンロー主義を捨て新帝国主義的行動が目立ち、他の大陸に干渉する傾向を強めている。今回の提議も新帝国主義の一端を現したもので、アジア大陸を手に入れたい野心から起こったことは疑いない。アジアの富源であるシナに対しては米国は手を出し遅れ、米国の勢力を扶植するには時期が遅れている。といって他の列強がなすことを傍観するには野心が余る。ゆえに機会を狙っていたのだ。思うに今後は米国のアジア大陸に干渉することはますます甚だしきに至るであろう。パナマ運河の開通以後はなお更だ。(=米国新外交は新帝国主義の傾向の産物)

 

(2)他の論者の外交認識と朝河の認識の関係

 

論の展開は三者三様であるが、その反対意見の元となった認識は、三人とも共通で、3点ある。

T:「清国の領土保全」「門戸開放・機会均等」のアメリカ新外交は、遅れてきた帝国主義国アメリカがアジア大陸に進出するための方便であり、アメリカの国益を図るためのものという認識が三者の論の基盤にある。この点は、齋藤修一郎とも共通する認識であり、朝河貫一の認識と根本的に異なるものである。思うにこれは、外交のプロにとっては共通した認識であったろう。そして彼らはアメリカが新外交方針を満州のみに適用して他の列強の中国勢力圏に適用しないことから、余計疑念を持つ。

   この二大原則は言い換えれば、「植民地解放」「自由貿易主義」であり、米国が世界から植民地をなくし自由貿易競争の世界に変えようとしていることを示しているが、朝河が論を展開した1909(明治42)年ごろはまだ、そこに至る歴史的過程のほんの入り口であった。この原則が高らかに宣言されたのは、朝河も指摘しているように1899年のアメリカ国務大臣ヘイによってであったからだ。歴史的過程のその入り口で、朝河のように、「これが人類史の流れだ」と言ってみても、反対者を説得する力はない16。 むしろアメリカに領土的野心はなく植民地解放と自由貿易世界への作り変えが目的であり、これは日本にも利益のある展望だと具体的に指摘すべきだ。

U:日本と満州・韓国との関係について、戸水は明言していないが、他の二人は明確に、満韓生命線論に立っているつまり満州・韓国を他の列強が占領した場合は、日本はその存立が危うくなるという論。この論は、実際に韓国や満州が日本の産業にどのような重要な位置を持っているかどうかという問題に依拠したものではなく、極めて政治的なもので、幕末以来ロシアが度々武力を持って南下し、極東進出の拠点たる不凍港を中心とした足場を確保しようとする政策との対抗関係で生れた認識である。この認識を基礎として、日清・日露戦争は行われ、これはそのままその後の日本の満州・大陸進出を支える認識となる17。Tとの関連でこの認識の虚妄性を朝河は突くべきであったろう。

V:三者共通の認識であるが、日本がアメリカと対立することに対する楽観的な姿勢がみられ、これに加えて同盟国であるイギリスが日本の国益を害するような行動を取るはずがないという楽観論も明白である。この裏には、齋藤が指摘するような日米関係を開国以来の親和的なものと認識する楽観的なアメリカ観が存在すると見られ、この点で、朝河は他の論者と共通の認識に立っている。この対米観の一致ゆえに、朝河の論では、アメリカも日本との衝突を欲しているわけではないと楽観的に分析しがちになり、どうしてもアメリカと衝突する危機の性格の描写が甘くなるのではないか。

 

  (3)朝河日本外交批判論はどのように受け取られる可能性があったか?

 

   A:「日本の禍機」の構成

 

 朝河貫一の日本外交批判論は、以上に見た日本の論者基本認識である、「アメリカ新外交」への疑念や「満韓生命線」論、「親日的なアメリカ・イギリス」という論に有効に反論し、日本の論者の目を開かせるものになっていただろうか。次に、この点について考えて見たい。

 朝河の日本外交批判論である主著『日本の禍機』の論理構成を考えて見たい。

1909(明治42)年6月に出版された『日本の禍機』は、特徴的な構成となっている。

 試みにその目次とページ数を見てみよう(講談社学術文庫版による)

 

序:・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

 

 

前編 日本に関する世情の変遷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11

  日本に対する世評の変化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15

  満州における日本に対する世の疑惑の由来

  反動説−感情的反対者−利害的反対者・・・・・・・・・・・・・・・・22

  東洋における世界の要求・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26

  1899年以前・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32

  1899年以後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・36

  日露戦争以後

(1)      日本は新外交の二大原則を主義として確立したり・・・・・・・41

(2)      日本は南満州において旧外交の利権を得たり・・・・・・・・・44

(3)      新旧外交の不調和は満州において最も著し・・・・・・・・・・48

(4)      日本が南満州における新旧外交の実行・・・・・・・・・・・・58

  軍事的・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61

   撤兵/租借地

  政治的−鉄道地帯・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・68

  経済的−鉄道経営および貿易・・・・・・・・・・・・・・・・・・81

   清国の反抗/世の誤解および曲解

日露戦争後の日本の満州政策が「国際公約」に違反すると批判する部分

後編 日本国運の危機・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・123

第一章       戦後の日本国民多数の態度に危険分子のあることを論ず・・・・124

    国権説は機に後れたり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・125

    国勢は激変にして国民の態度はこれに副わず・・・・・・・・・・・129

    国民の危険なる態度、国運の危機・・・・・・・・・・・・・・・・135

満韓生命線論への批判の部分

 

第二章              日本と米国との関係に危険の分子少なからざることを論ず・・・149

  米国人の日本に関する感情の変遷・・・・・・・・・・・・・・・・151

  日本人の米国に関する思想の浅薄・・・・・・・・・・・・・・・・153

  日、清、米の重大なる関係・・・・・・・・・・・・・・・・・・・169

  米国と新外交、清国の信頼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・175

  米国人民の東洋に対する輿論・・・・・・・・・・・・・・・・・・179

  米国為政者の東洋に関する思想 ローズヴェルト氏、タフト氏・・・187

アメリカ新外交への疑念に反論する部分

 

結論 日本国民の愛国心・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・219

跋(日米の宣言につきて)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・229

【解説】由良君美・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・243

 
 

 

目次を一見して明らかなように、朝河の『日本の禍機』は、日本の論者に共通する認識に正確に対応し、それへの反論を試みている。

すなわちP11122までの前編は、日露戦争後の日本の満州政策が「国際公約」に違反していると事実経過を示して論じた部分であり、これは「日本外交批判」を論じる前提である。そしてこの書の本論がその後に続く後編なのだが、後編の前半の第一章、p124148が、日本の多くの論者が抱く「満韓生命線」論への批判であり、後半の第二章、p149217までが、日本の論者が抱く「アメリカ新外交への疑念」に反論した部分である。

朝河貫一は、日本が満州を植民地化していくことを弁護する論者たちの論の論理構造を、的確に把握していたのである。

 

 B:『日本の禍機』の論理構造とその限界

 

1)「満韓生命線」論に正面から挑んだ朝河

 

だが跋も含めた241ページにわたるこの本の前半半分が、日本が日露戦争の時の「国際公約」とでも言うべき「清国の領土保全」「門戸開放・機会均等」の二大原則を破っていることにたいする糾弾とでも言うべき内容になっていることは、事実を示して問題を提示する歴史学者としての慎重な姿勢から来ているものと思われるが、日本の論者にはあまりに刺激的である。つまりこれでは、朝河はあまりにアメリカ寄りだと非難されかねない危険性を有している。

しかし朝河は、この自分の論の持つ危険性を明確に認識していた。

 後編の第一章の冒頭で朝河は、自分の論が「外国本位」であると非難する日本の論者の言をあげ、彼らが日本の行動を弁護する論はその論理としては、「満韓生命線論」とそれを補強する「満韓非自立論」、さらに「アメリカ新外交への疑念」から成り立っていることを明示している(p124125)。

そして続いて第一章の全ページを使って、満州を植民地化することを弁護する論は、如何に誤っているかを、すでにアメリカ新外交の二大原則が日露戦争における日本の勝利によって世界的趨勢となっており、これに反することは日本を世界の孤児にしかねない危険性を指摘し、さらに中国は日本の保護を必要としないほどに民族意識が勃興しており、自らの力で国の近代化を成し遂げようとしているので、日本が中国を子ども扱いして満州を自己のものにしようとしていることに対しては、中国国民ばかりか中国の有力政治家である袁世凱ですら嫌悪の情を示していると警告した。

では朝河が、二大原則が世界的趨勢となっていると判断した根拠は何か。

140で朝河は、「中国は一定の国づくりの方針があるわけでないので四分五裂しており、この情況に乗じて列国がこれに介入して中国を四分五裂させるから、日本が中国をその指導下に置く必要がある」という日本の論者に反論して、「列国の中には英あり米あり、また日英同盟あり、日露日仏協約あり、列国が協同して公平なる原則によりてこの難局を処せんとするの傾向は、北清事変の時よりもはるかに大いなるべし」と述べ、「日本は、その時こそ新外交の二大原則を基礎とし、自ら主位に立ちて、日英同盟および日露日仏協約をして物を言わしむべき秋なれ」と述べている。これによれば朝河は、日英同盟(1902年締結)、日露日仏協約(1907年締結)が、新外交の二大原則を承認したものと理解していることがわかる。

 

2)「新外交はすでに世界の趨勢」との朝河の情勢認識の表面性

 

たしかにこれらの三つの協約では「清国の領土保全」と「門戸開放」が確認されている。しかしそれはロシア・フランス・イギリスがアメリカが掲げてきた二大原則の理念を承認したというよりは、これを「国際法」として承認したほうが、列国同士の争いを制限することができ、ひいては自国の利益の保全に役立つと判断したからである。実際にこの三つの協約文を検討してみると、主な眼目は中国における相互の既得権の維持を確認し、これ以上清国を侵犯しないとする性格となっている(「日本外交年表並びに主要文書」による)。既得権益を守ることが主眼なのである。

国際的原則と言うのは、理念そのものが承認されるというより、多くの国がそれを承認することが自国の利益に繋がると判断したからこそ、原則になるに過ぎない。従ってこの「国際法」は、列国の一部がその原則があると自国の利益の保持や拡大に障害であると判断した場合には、直ちに廃棄される危機に直面する。

アメリカが掲げた二大原則は、そうした経過を経て、1910年頃までに一時は「国際慣行」へと近づいたのだが、1913年に発する恐慌に伴い、列国の競争が激化し、1914年の第一次世界大戦勃発によって一度は反故にされた。しかしこの「国際慣行」を反故にすべく動いたドイツの敗北と、ドイツからヨーロッパを救い出したのが二大原則を掲げたアメリカであったために、第一次大戦後から1920年代に再び国際法になりかけたが、1929年の世界恐慌の深刻化に伴う、列国のブロック経済政策の進行とともに、再び反故にされ第二次世界大戦が勃発した。二大原則が「国際法」になったのは1960年代である。

この意味で朝河の世界情勢分析は、極めて表面的であり、二大原則の承認が自国の利益にならないと思い込んでいる日本の論者たちの目を開かせる力はない。

この第一章で特徴的なことは、朝河が、「日本が二大原則を掲げたのはロシアに対抗するための方便にすぎず、戦勝の暁にはロシアに代わって満州を自分のものにするのではないか」との恐れを実は抱いていたと述懐していることである(p132)。朝河自身が、二大原則は列国の一つによって反故にされかねない現実を日本を例として知っていながら、この事実を基礎に、「国際法」と「外交」と「国益」の関係を、弁証法的に、つまり相互関係の歴史的変化として捉えるに至っていないところに、彼の弱点はある。

また朝河は満州植民地化を進める人々が頼りにしている日英同盟については、前編の冒頭、「日本に対する世評の変化」の項で、「英国は日本と同盟したるがために利を得たること少なからざるべし。しかれども英人が日英同盟を喜ばざる情の戦後大いに加わりたることは、何人といえども認むるところならん」と記述し(P18)、その原因の一つとして「満州およびシナ内地における実利競争が日本の不公平の施政にはなはだしく害せらるべきを患える」事があると指摘し、英国も、日本の満州植民地化には反対であることを示した。そしてこうした実利的原因だけではなく、英国のこうした動きの背景には、日露戦争後に世界情勢が一変し、二大原則が国際的公認を得つつあることをあげて、その説明を以後、前編・後編にかけて行った。

すなわち朝河の「日英同盟期待論」に対する反論は、「満韓生命線論」への反論と同じく、二大原則はすでに歴史の流れだという彼の判断を論拠にしただけで、イギリスがアメリカに追随せざるを得ない背景にまで踏み込んではいない。20世紀初頭においてすでにアメリカは、イギリスの経済力をはるかに凌駕しただけではなく、イギリスを追い越して急成長したドイツをもはるかに凌駕した経済力を持っていた。そしてこれを背景にして軍備を拡大していたのだが、ドイツにも追い越され海外植民地を奪われかねない危機に直面したイギリスは、アメリカの卓越した力に頼らざるを得なくなっていた。イギリスが長年の孤立政策を捨てて、次々と国際協約を結んだ(1902年日本:対ロシア・ドイツ、1904年フランス:対ドイツ)こと自身がその表れであった。

この点を朝河は見逃している。

 

3)「新外交が日本にとっても利益である」ことを具体的に示していない朝河の弱点

 

またもう一つ朝河の論の進め方には問題がある。

それは、朝河がこの論の本編たる後編で、「満韓生命線」論の誤りを的確に指摘できていないことであり、「アメリカ新外交の二大原則は、日本にとっても意味あること」を的確に指摘し、日本の新外交への疑念を晴らすことができていないことである。

朝河は、「日本が南満州における新旧外交の実行」の「経済的−鉄道経営および貿易」の中で、「南満州の商業運輸ははなはだ多額なりと言うを得ざる」(p82)と満州貿易が日本貿易の中で絶対的な大きな地位を得ていないことを仄めかし、さらに、「南満州の産物を輸出する外国はほとんど全く日本のみ」(p84)と指摘して、満州貿易の特殊な情況を示してはいる。しかしここから更に論を進め、なぜそれほど経済的にも絶対的に重要ではない満州の植民地化を日本は進めるのかと、日本の対外進出の背後にある考え方の考察には至っていない。つまり「満韓生命線」論がイデオロギーにすぎず、満州韓国が日本の対外貿易に絶対的な位置を占めていないことを論証するところまで踏み込んではいない。結局「新外交がすでに世界の趨勢」だから、「満韓生命線」論は時代遅れだと断じただけである。

この点で、日露戦争後の日本の満州政策を具体的に批判した本書の記述は、日露戦争の原因を詳細に分析した『日露衝突』の序章での分析と好対照である。そこでは朝河は、この戦争の根本原因は経済問題だとして、日露両国の韓国・満州との経済関係のありかたを詳細に分析し、その中で、たしかに満州と韓国は日本の国際貿易において、増大する日本の都市人口を養う食料供給基地として、そしてそのための外貨を稼ぐ綿糸・綿織物の輸出市場として大きな位置を占めていて、この地域の市場が閉ざされると日本の発展はないと指摘し、だから日本はここを独占しようとしているロシアに門戸開放を要求して戦うのだとした。しかし分析の過程で示された数字を見ると、韓国・満州が日本の貿易に占める割合は過半を占めるわけではなく、他の国の占める割合もかなり大きいことがわかる。

そこで示された数字を見てみよう。

両地域の日本貿易全体に占める割合は、韓国は小麦では平均で50%前後であり、米でも50%前後、そして満州は豆では平均で同じく50%前後と占める割合は多いが、それでも日本は食糧輸入においても、東南アジアや米国、オーストラリアにも多くを負っている。そして綿糸の輸出でも(朝河は分析にあたって中国に輸出された日本産綿織物や綿糸の40%が満州を含む北部中国に移入されたと仮定した。仮定の根拠は不明である)両地域の割合は46%、また綿織物では70%とかなり高い比率を占めてはいるが、満州以外の北部中国や南部中国を含むその他の国もまた重要な位置を占めている。そして日本の対外貿易全体で見ると、東アジアは全体の48.7%を占め、対ヨーロッパの総額は東アジアの約半分、対アメリカのそれは東アジアの約三分の一である。ヨーロッパとアメリカの合計は、全体の約43%を占めている。

つまり韓国・満州は日本の貿易の重要な相手国の一つであるが、日本の貿易におけるその地位は絶対的なものではなく、この二つの地域を日本が独占してしまうことは、中国やアメリカそしてヨーロッパとの貿易を阻害し、日本の将来の発展には大きな障害になることがこの数字で暗黙の内に示されている。

これは言い換えれば、日本の発展にとってはアジアの市場の門戸開放が維持拡大されることが不可欠だと示す数字なのである(以上は、矢吹晋著「ポーツマスから消された男−朝河貫一の日露戦争論」2002年東信堂刊掲載の、「日露衝突序説−衝突のいくつかの争点」p58と注2021を参照した)。

なぜこのような『日露衝突』で示した冷静な分析を『日本の禍機』で示すことを朝河はしなかったのであろうか。おそらく朝河は、日露衝突の原因は、自分が『日露衝突』で示したような経済問題ではなく、韓国・満州を他国の侵略から守れとするイデオロギーである「満韓生命線」論が背景にあることに気がついたのであろう。だから『日本の禍機』ではこの論がすでに時代遅れになっていることのみに論点を絞ったのではないか。

しかし朝河の反論の根拠である「新外交はすでに世界の趨勢」との認識も歴史的に後から見れば正しい認識であるが、これがまだ確定していない当時にあっては、朝河の認識そのものがイデオロギーと受け止められる弱点を持っていた。これゆえここで論じるべきことは、あくまでも問題を経済問題であるとの自身の認識に依拠して論を進め、日本にとって中国とアメリカは日本の対外貿易にとって大きな位置を占めており、中国が自立した国家として栄えることは、アメリカにとってだけではなく、日本にとってもまた利益のあることだと示すことにあったのではなかろうか。

 

4)アメリカ新外交の背景を思想にのみ限定した朝河論の限界

 

さらに朝河は、第二章全体を通じて、日本の戦後の行動によってアメリカ国民の同情は日本から中国へと動き、今やアメリカ国民は日本の中国圧迫政策に憤っていることを示し、アメリカは今や、新外交の方針に沿って中国を助けようとしていることを示し、「アメリカ新外交はアメリカの国益を図るための方便に過ぎない」という日本の論者の疑念に反論し、これが崇高な人類最高の道義に基づくものであることを縷々述べた。

では朝河はそこで、アメリカが二大原則を掲げて戦う理由を如何に論じたのか。

朝河は、「日本人の米国に関する思想の浅薄」の項で、米国人の感情が、以前は日本に、今は清国に移っている理由を説明する中で、米国人の心理の特色として「自由進歩を希える弱者に対する同情これなり」と断言している。そしてこの感情は、「自国の強大と自由とを信ずるの深厚なるによりて、他の圧制を脱せんとする後進者を庇護するを好む無意識の傾向によること多かるべし」と断言している(p168)。

これはたしかに鋭い分析である。アメリカという国の建国の事情という歴史的経過から見事に説明している。

だがこの説明も少し深く探求してみれば、アメリカが東洋の弱国である日本や清国を高い理想を掲げて支援してきたのは、それらの国が自国と同じ「自由と進歩」を理想とする国であるが故であり、同じ文明を掲げる後進国を、より強大で先輩たる米国が指導するという考え方であり、もしその庇護された国が、アメリカと同じ理想を共有しないと判断すれば直ちに、その国は敵へと変化しかねないことを意味している。つまりアメリカが弱者を庇護するのは、人類史的な高い道義・理想のためだけではなく、アメリカの掲げる理想を世界に広げ、その理想に沿って世界を変えるためであり、それによって得られる自国の利益のために動くということだ。そしてここには、経済的な政治的な利益が絡んでくることは、朝河自身が、中国が如何にアメリカにとって経済的にも政治的にも重要であるかを詳しく論じている(p169175)ことからも明らかである。

また朝河自身、アメリカの新外交がアメリカの国益の追求に傾斜しかねないことも認識していた。

朝河は、第二章の「米国人民の東洋に対する輿論」において、アメリカ輿論に「正義派」と「国利派」とがあることを指摘し、「国利派」が多数を占めかねない危険性を指摘しており、アメリカの新外交がアメリカの国益そのものとなる危険性は認識していた(p180181)。

しかし「正義派」や「国利派」と言っても、世界的道義に重きを置くか、それを承認しながらもそれに反しない限りで国益を追求するかの違いにすぎず、両派には最終的には国益を選択するという共通基盤がある。むしろアメリカが「正義」をかざすのは、建国の由来からして古い腐敗したヨーロッパから独立し、そのヨーロッパ文明の粋を保全するという高い「理想」を掲げて成立した国柄からして、アメリカが他の大陸に手を出す際には、高い「理想」に基づかなくては合意形成ができないという国柄に由来し、アメリカ外交を国民に認知させる方便と受け止めるべきである。そして「国利派」が自国の利益を優先して「正義」を踏みにじった場合でも、最終的には「正義派」もこれを承認するに至ることは、朝河も認識しているはずである。1898(明治31)年の「米西戦争」後にアメリカがキューバとフィリピンそしてハワイを領有したことは「国民の予期または希望したところにあらず」(p186)であったにもかかわらず、「正義派」を代表した民主党のクリーブランドが「すでに米国が異人種を支配し、かつ東洋に関係することの避くべからざるを見て、この上は正義をもって国の責任を遂行するの外はないと確信した」と朝河は分析した(p184)。

朝河の論を追ってみても、アメリカ新外交が、中国の利益を追求することで、アメリカ自身の利益を追求するものであることは明らかである。

そして同時に、朝河が、中国が如何にアメリカにとって重要であるかを詳しく論じている(p169175)にもかかわらず、それを要求している現在のアメリカの国力(産業が世界をどうリードしているか)を明らかにして、欧州の列国ですらそれに従わざるを得ないような力を持ち、日本一国でこれと戦って勝てるものではないことを、現実的に明らかにして警告していないことも重要である。

朝河が論じたのは、「誰しも米国の富強は疑うことはできない」ことと「米国が世界上最も富強の国となるときあるべからず」と論じたことと(p154)、アメリカが1898年のスペイン戦争を通じて「世界的強国となった」と論じた(p186)だけである。朝河のアメリカ認識では、アメリカはいまだ世界を席巻する経済力を持った国であるとは認識されていなかった。

この点で朝河のアメリカ分析は浅い。「経済」と「政治」の相互作用を見ていない。

輿論とそれを動かす政治家の動きの背景には、このアメリカの経済的実力があることは明らかであるが、ここを見ずにアメリカ人の対日観だけを論じていたのでは、その論は観念的にならざるをえず、朝河のアメリカ新外交の検証は、その弁護に終始していたと言わざるをない。

この意味で朝河のアメリカ新外交への評価は、観念的であり、自分の分析すら無視したものである。

これは彼自身のアメリカ新外交は人類史の最高の道義を体現したものであるという若き日からの認識に縛られ、現実をもってそれを修正することに目をつぶった結果であろうか。

 

以上見てきたように、朝河の『日本の禍機』での日本の満州植民地化を弁護する論者たちへの反論は、完全な空振りに終っている。

しかしそれにもかかわらず朝河は、この本の最終章「結論 日本国民の愛国心」で、日本人は国際情勢の変化と歴史の変化に正面から向きあい、日本が二大原則に沿って動き、この歴史的な流れを推進する側に立つことを訴え、そのためには、日本国民の道徳観の根幹を成している武士道の四つの要素、すなわち@義に勇むことA堅固の意思B自重・公平・抑制・礼譲・同情の諸徳C静寂・思慮・反省に立ち返って、日本の針路を冷静に判断することを説いた。

これでは、日本の満州植民地化を一方的に非難しておいて、「朝河の論はアメリカ寄りではないか」という日本の論者に、その信念に更に確信を与えておいて、その上でお説教を垂れるようなものである。

朝河の『日本の禍機』は、このような論理構成になっていたのだ。

 

5)まとめ−『日本の禍機』の限界とそれへの反応

 

『日本の禍機』は、その論旨の大半を「国際公約」を破った日本非難に費やされ、それによっていかに欧米の人士の心が日本から離れているかを論じたものであった。従って朝河の日本外交批判論は、鋭い人類史の歴史的流れにたいする透徹した視点を持ちながらも、現実の外交批判としては、極めて観念的なものになっていると言えよう。

 

 朝河が、日本が日露戦争以後、その「国際公約」に反して、満州を植民地化しようと動いたと批判したことは事実として正しい。そしてこれは、「国際公約」に沿って満州の門戸開放を進めるべきだとの日本政府内の有力反対派(代表者は伊藤博文)の制止を無視ないしは振り切って、満州で現に軍政を敷く軍部と結びついた日本政府内の満州植民地化派(代表者は山県有朋であり、首相桂太郎・外相小村寿太郎と軍)によって強行された措置であった18

この裏の事情を朝河がどこまで知っていたかは明らかではないが、満州植民地化を進める人々の論拠を具体的かつ事実にそって分析しその論理の弱点・間違いをつくべきである。

しかし『日本の禍機』における朝河の論理展開はそのようになっておらず、極めて観念的であった。

 したがって朝河貫一の日本外交批判論は、日米の衝突を憂える人の共感を得ることはできたかもしれないが、アメリカの動きに反感を持つ人々の心を動かす力はないし、外交のプロたる政治家達から見れば、そしてその中の満州植民地化を進めようとしていた政治家や軍人から見れば、極めてアメリカ寄りの理想主義的な現実を見ない空論と受け止められた可能性が高い。

先にその談話を検討した、大隈・大石・戸水のうち、大隈・戸水には『日本の禍機』が寄贈されたことは確実である19。また大隈系の憲政本党幹部である大石も読んでいた可能性は高い。しかし彼等の談話には朝河の議論の影響は全く見られない。

このため朝河の『日本の禍機』は、政治のプロたちからは、素人のたわごとと受け取られ無視された可能性が高い。

 

C:朝河の政治家への私信の持つ限界

 

 朝河は、『日本の禍機』を出版して公に日本外交方針の批判を繰り広げ、日本国民に直接訴えようとしていたが、それと平行して政治家に直接日本外交批判を送りつけ、彼らを翻意させようと努めていた。

 その代表例が大隈重信に対する私信である。

 その私信の数の多さと内容の豊かさからして、朝河が最も期待していたのは自分の卒業した学校の創立者であり、彼のアメリカ留学を支援した一人であった大隈重信であったことはあきらかである。

 では朝河の大隈重信に対する私信は、先に『日本の禍機』で見たような論理構造の弱点はなかったのだろうか。

 大隈重信は先の考察で見たように、「満韓生命線」論に立ち、「アメリカ新外交への疑念」を強く持ち、列国に対抗して「神国日本が世界を道義的に指導する」とまで宣言していた政治家なのだから、大隈に対する朝河の私信が『日本の禍機』と同じ論理構造を持っていたのでは、全く通用しないはずである。

 大隈宛の朝河私信は数が多いので、『日本の禍機』が出された前後の3通に絞って考察してみよう。

 

1:大隈宛1908(明治41)年5月21日の手紙(「朝河貫一書簡集」p174175

  この書簡で朝河が取り上げたことは、米国における日本の人気が一変したことと、その原因である。

  朝河は言う「此の人気を一言にて申せば、日本は韓国を圧制し、又満州にては露国に代わってシナの    主権を傷つけ列国の利権を害せんとするの傾ありという感情に候」と。

  そしてこの原因は複雑であるが「少なくとも一原因は、日本が未だ戦後の新境遇及世界文明の新傾向を充分に感ぜざるの致すところと存候」とし、「国民の愛国心は今猶戦前の形式を有し、政府のシナに対する外交は今猶昔日のシナに対すると相似たることをいたし候」と、日本の戦後の対応に問題があることを指摘している。そしてこの過ちを改めなければ、「旭の如く盛んなるべき国勢が今や忽然孤城落日の有様に歩を向け候」と、日本の孤立と没落を警告している。

 

この書簡の朝河の日本外交を批判する論理は、『日本の禍機』のそれを越えるものではない。

 

2:大隈宛1909(明治42)年9月27日の手紙(『朝河貫一書簡集』p179180

  この書簡で朝河が取り上げたことは、「タフト大統領が米清関係の前途を洞観して今より国民の注意を喚び起さんとしつつあること」によって、アメリカ国民の間に清国への興味・関心が増大したことである。

  朝河は、近日行われたクラーク大学20年記念の学会で、史学の学会では清国問題についての講演会を催し、前外交官や関税経験の有る人、宗教者、諸大学の東洋史の教授らが講演したことを報告し、そこに招かれて自分も列席したことを伝え、これらの論者の日本への態度のあらまし述べた。

  それは朝河によれば、「日本が満州において門戸開放の原則を破りつつあるといわれることについてはその真否をしらず。しかしそれを批評的態度で観察しつつあり、吾等は日本および欧州諸国の対清態度をも疑いつつある。なぜなら日本や欧州と清との関係と、米国と清との関係は異なる。米国一人清国の土地を取りしことなく、清国と政治的敵味方となりたることはない。又米国将来対清利益は、清国が独立富強、自ら主権を遂行するを得るに至りて、始めて増進すべし。故に清国の開進独立を妨ぐるものは、米国の利益を害するものなれば、此の如きこと起こらば清国を助けて侵害者に抗せざるべからず」であると。

  朝河はこう大隈につげて、「新たに大統領が清国公使に任命したクレーンは、実業家で東洋の事情に通じているので、日本に対する疑惑に感化された人物である。彼が日本に一週間滞在する間に、いかに日本が日清および列国の共同利益のために尽力しているかを見せれば、氏の誤解も消え去る」だろうと述べて、クレーン滞日中に是非会えと勧めている。

 

 ここで注目すべきは、朝河がアメリカの論者の言を借りて、アメリカ新外交が米国の利益そのものの実現のためのものであることを示し、最後の提言で日本が満州の門戸開放を進めることが、「日清および列国の共同利益に繋がる」と明言した所だ。しかしここでの朝河の提言は、なぜ満州の門戸開放が日清および列国の共同利益に繋がるか説明しておらず、これ以上の具体性はないので、『日本禍機』の論理の範囲に留まっている。

 

3:大隈宛1910(明治43)年5月1日の手紙(『朝河貫一書簡集』p181182

  この手紙では朝河は、日本を非難する米国民の態度は、新聞が伝える満州での情況は「資本家の意見を発言するもの」であることが識者に知れ渡ったため、反省批評の度を加えていると、危険性が一時緩和していることを伝えた。

  その上で朝河は、アメリカ国民は、「租借地及鉄道の期限の終わりたる後に日本は何を為さんとするや、これこそ最も日本の公平私曲を判断せしむべきこと」なりとの論に向かうのは自然の理であると説き、「清国に対して誠実に助力する態度が日本国民に普及」することが大事で、米国国民はその政府及び資本家の清国政策のいかんに関らず清国同情は濃厚であると、満州植民地政策の撤回を勧めている。

 

 この手紙で朝河が大隈に説いた論理もまた『日本の禍機』のそれと同じである。

 

 以上の3通とも、『日本の禍機』の日本外交批判の論理と同じである。短い私信のなかで、それを詳しく述べるのは難しいとはいえ、ここでも朝河の日本外交批判の論理は、アメリカの新外交方針が世界の流れになっていることと、アメリカ国民の清国への深い同情を指摘する範囲に留まっている。

 これでは「満韓生命線」論に立ち、この二国が自立することは不可能と考え、その併合を強く主張している大隈重信の心には、朝河の批判はアメリカ寄りのたわ言としか見えなかったことであろう。

 

D:朝河は自分の論の限界に一部気付いていた

 

 以上見てきたように、朝河貫一の「日本外交批判」論は、歴史の流れについての鋭い洞察に富んでいるにもかかわらず、日本が満州植民地化を進める論理に内在する誤りや虚妄性を具体的に突いていくものではなく、極めて表層的で観念的なものであった。

 しかしこの朝河の「日本外交批判論」の限界については、その一部分を朝河自身が気がついていた。

 すでに先にも見たように、『日本の禍機』で、自分の分析が表面的なものであったのではないかという恐れを、朝河は何度も口にしている。

 一つは、日本が日露戦争の時に二大原則を掲げて戦ったのはロシアと戦うための方便にすぎず、戦勝の後には、満州を独り占めするのではないかとの恐れを持っていたことを告白し、それが戦後現実のものになったことを嘆いたこと。

 さらに二つ目には、アメリカ新外交の性格について、それがアメリカの国益をのみ図り、世界を我が物にせんとする野望に基づくものではなく、そうなる危険性もないと縷々述べていること。ここにはアメリカ新外交に対する朝河の疑念が仄見えている。

 果敢にも大上段に論陣を張っていながら、朝河自身は、自分の論の表層的な危険性に自覚的であった。

 

 だからこそ、よく知られたことであるが、しばらく後になって「日本の外交方針についての自分の分析は、表面的なものであったと常々恐れていた」と表白したのだと考えられる。

 これは、1912(明治45)年3月12日の坪内雄蔵(逍遥)宛手紙(案)(「朝河貫一書簡集」p187189)においてである。

 ここで朝河は、自分の仕事も昨今は専門の歴史研究に専心できていると述べて、日露戦争の前後に激しく日本外交のあり方を批判した理由を次のように述べている。

 「日露戦争の原因の如き、満州問題の如き、目下の事項につきて、他に真面目に言論する人の少かりしことありて、見る目の前に謬説横行いたし、之が為に私も之に心を乱されて言論を敢えてしたること少からざるは御諒知のことと存候。之は私の好むところにあらず候。此の如く年々変転することにつきて如何で精致の研究を為し得べきやややもすれば愛国心に欺かれ、又は日本為政家の言を真実と心得て之を紹介し、之がある暫時にして己を欺くこととなること稀ならむ。兼々心苦しく存居候。」(強調は筆者)

 そして最近は新渡戸・本田・河上・家永ら時事を論ずる人が多くなったし、欧米人にも東洋の事情を熟知するものも増えているので、「一層現実なる学問に専心」する機運ととらえ、「欧州の少数の東洋学者・比較史学者に訴える」範囲に留めたいと、時局を論じることから撤退し、日本の文化史の研究に専心するところから、日本という国について、専門の学者らに訴える道に限りたいと述べている。

 

 これに寄れば朝河は、日本の対外方針が、異なる方向性をもった複数の勢力の闘争をへて行われていると言う内情を知らなかったことが読み取れる。だから彼は「日本の為政者の言を真実だと心得」てしまい、日本政府の公式声明と実際の行動、とりわけ満州現地の軍政府の動きが政府見解と異なっていく理由を朝河は理解できなかった。

 朝河は自分の日本の対外方針の分析が極めて表面的であったことを、ここで認めた。

 そして自分の行動が、「自分が変転する現実を分析する方法を確立していないにもかかわらず、愛国心に突き動かされた、情熱的行動であった」とここで表白しているのである。

 だから朝河の論、とりわけ『日本の禍機』は冷静さを欠き、極めて情熱的な語り口になっていたのであろう。もしかしてこう表白せざるを得ないほどに、『日本の禍機』の出版は失敗であったのかもしれない。

 

 またこの手紙の中ほどで朝河が、「右の如く折々に岐路に入りて言論致候ては、徒に今日に騒ぎて後代に死することとなり候」と述べていたことは重要である。

 朝河は自分の「日本外交批判」論が、日々変転する外交を分析する方法論を持たないために、極めて表層的な分析になり日本当局の動きを誤って理解したものであることを自覚していた。そしてこのような間違った業績を世に問うたことは、「後代の死」つまり、誤った論を公開したことへの批判が後世に起こることを恐れたのだろう。つまり自分の未熟さの自覚と未熟さを批判されることへの恐れである。このあたりに、朝河がこの前後の日記までも廃棄したと考えられることの背景があるのではないか。日露戦争前からの言論活動や、講和会議への介入、そして『日露衝突』や『日本の禍機』などの日本外交に関する著書や論文、こうした未熟な活動を世に問うたこと自身を、朝河は「消し去ってしまいたい」と考えたのかもしれない。彼の学者としての誇りがそれを許さなかったのだと思う。

 ただ朝河を突き動かした情熱が、「愛国心」と一言でくくれるものであったかどうかは別である。

 この手紙(案)で、時局評論からの撤退を述べて、日本史研究を通じて欧米の東洋学者に日本という国の理解を広めることに専心すると述べた朝河が、第一次世界大戦にあたっての日本の対中国政策に危険を感じ、政治家に直接手紙を出すという形にしろ、再び日本外交批判に踏み込んでいったことは、彼を突き動かした情熱が、極めて激しい、理性をも、彼の誇りをも、超えるものであったことを示している。

 それは何であったのか?

 それは、祖国日本が滅びてしまう! 「国敗れて山河あり」の惨状を見てしまう!という彼の心の中にある無意識の衝動ではなかったのかと、彼の人生を通観して、とりわけ山内晴子氏がその著書で詳しく記したその幼少期を知って、私はこう感じている20

 

4:齋藤修一郎は、何を目的に『最近米国観』を出版しようとしていたのか?                        

 

 齋藤修一郎の「米国の侵略的径路」は、先に見たように、朝河貫一の『日本の禍機』との関係で言えば、朝河の論の後編の第二章に相当し、しかもそこで朝河が指摘していなかった、アメリカ新外交の性格や世界帝国としてのアメリカの姿を明らかにして、日本人のアメリカ観の誤りを正そうという意図でこの論文は発表されたのであったのではと思われる。したがってこの小論の本編である『最近米国観』は、小論の5点の論旨にそって、それをもっと詳しく展開したものとなったのであろう。

 先に見たように、齋藤は三度目にアメリカを訪問した後に出版した米国商工大勢論」で、「戦争は産業や金の力で行うものだ。すでにアメリカはその点で、欧州を凌駕している。それゆえイギリスやドイツですら、アメリカの顔色を伺っている。今後の日本の対米策を確定する上で、この認識にたつことは重要である」と語っていた。

 おそらく修一郎は、『最近米国観』で、世界に卓越した経済力を持つアメリカの姿を描いたに違いない。

 そしてこのアメリカ認識は、先に見た、1908(明治41)年に世界漫遊を行った原敬の認識とも同じである。原がアメリカを訪問してその後フランスやイギリスを見た感想が日記に書かれているが、彼は保守的なフランスやイギリスでもアメリカ資本が跋扈し、アメリカ流儀が欧州を席巻している様に驚いている。

 『最近米国観』は、このような最近の米国に関する知見と、米国の特異な政治社会構造の分析とその歴史過程の分析に基づいて、この国が新外交を展開しようとする所以と、この国と激突する危険性を説こうとするものであったのではなかろうか。

 この小論「米国の侵略的径路」と『最近米国観』を齋藤修一郎が書いた理由は明らかではない。しかし彼が1909(明治42)年10月の帰国以後、日本の政治の在り方に極めて批判的であったことは、『大学学生遡源』が、彼が1909(明治42)年の年末と1910(明治43)年の年頭にあたって読んだと言われる漢詩を示して明らかにしているところである。(橋本南漁著:明治43年5月日報社刊 P828321

己酉歳晩

 

 外遊三年髪倍白 帰来小齋冬尚暖

 国事多違野人見 朋友却歓老士志

 米鹽給得陰徳報 南椽温背正君恩

 宿昔雄図一笑夢 好共児童迎陽春

 

(外遊三年にして髪ますます白く、帰来小齋、冬なお暖かし。

国事多く違うと野人に見え、朋友は老士の志を歓ぶ。

米塩を給得するは陰徳の報い、南椽〔南のひさし〕は背に暖かく君恩を正す。

宿昔の雄図は一笑の夢、児童と共に陽春を迎えるを好む。)

 

  庚戌新正

 

 聖明治世四十三 邦興民振士気揚

 大平徳記賎人家 富豪却忘国恩渥

 連旬天晴細民蘇 六十余州唱万歳

 内外小策請勿關 大道坦々通八荒

 

(聖なる明治の世四十三年、邦興り民さかえて士気揚がる。大平の徳は賎人の家にも記され、富豪はかえって国恩の篤いことを忘れる。連旬天晴れて細民も蘇り、六十余州万歳を唱える。内外の小策は関を請い、大道は坦々として八荒に通ず。)

 

 年末の詩は、国事に関れなかった3年の間(明治40年に破産し、4142と渡米した)に、日本の政治の在り方は明らかにおかしくなったと自分には見えたが、朋友はこれを批判する自分の意見を歓びこれに同調する。米塩を得て暮らせるのはこれまで国家に尽くしてきたことの報いである。暖かな日差しを浴びた縁側で児童とともに遊びながらも、老骨に鞭打って君恩を正そうとの決意を述べる。そして年頭の詩はこれに続き、明治の世が栄えている様を讃嘆するとともに、内外の難題に直面した政治は、その誤った政策ゆえに行き詰まり、大いなる困難に直面すると詠い、もう一度政治に乗り出す覚悟を示したものと言えよう。

『大学学生遡源』がこの項の標題を「復活せんとする齋藤」としたのは的確である。

 朝河貫一の『日本の禍機』が出版されたのは、齋藤がアメリカにまだ滞在していた1909(明治42)年6月である。日本に帰った齋藤がこの本を読んだのかどうかは明らかではない。

しかし農商務次官退官後も、日本外交になみなみならぬ関心を持ってきた齋藤が、そして「外交論」でアメリカの新外交のような外交を日本もせよと提言した齋藤が、日露戦争以後の日本の満州植民地化に危機感を持っていなかったはずはない。そして彼はその経歴からも分るように、日本が満州・韓国を植民地化することに強く反対し、満州の門戸開放を強く唱えていた伊藤博文に繋がる人物である。

 齋藤は伊藤の盟友で先輩でもあり、自身も満州鉄道の日米共同開発を唱えていた井上馨の右腕といわれた人物である。そしてその伊藤の腹心として、政友会を事実上動かしている原敬も彼の親友であり、彼らのところには、『日本の禍機』は寄贈された可能性は高い。

 伊藤と井上は元老。原は前年1908(明治41)年7月までは西園寺内閣の内務大臣で現職の政友会の総務委員。彼らに寄贈されないわけはない。 

 この意味で齋藤修一郎が『日本の禍機』を読んだ可能性は高い。

 練達の外交官である修一郎の目から見たとき、朝河の『日本の禍機』は、高い歴史認識と歴史に対する洞察力に富んだ好著ではあるが、その現実認識はあまりに甘く、満州植民地化を進める論者には一笑に付されるものに映ったであろう。

 そして政界の裏側に通じた彼の耳には、伊藤博文の満州植民地化阻止の動きと制止を、元老山県有朋に後見された桂太郎や外相小村寿太郎が軍部と結びついて無視している過程も届いていたに違いない。

 齋藤修一郎は1909(明治42)年10月の伊藤博文死去に際して、彼の動き方を批判したと『大学学生遡源』が伝えている。これによると齋藤は、1909(明治42)年11月4日に開かれた杉浦重剛22主宰の称好塾記念会席上で、伊藤について「一場の感想談を試みた」とある(P113)。その内容は伝えられていないのだが、この齋藤の伊藤評を批判したと『大学学生遡源』が伝える長谷川芳之助23の伊藤評は、伊藤を讃えかつ彼の業績の背後には自分らのごときものが居たというものであったと『大学学生遡源』は伝えている。

これによれば齋藤の伊藤評は、伊藤の行動に対する批判であったと思われる。従って、常に雑誌を使って国民に外交のあり方を説いてきた齋藤の目から見れば、伊藤が常に政府の動きに批判的でありながら、その立場を公然と明らかにせず、政府部内の内密の会合でのみ動いていたことを批判した可能性がある。

 伊藤の暗殺によって、明治政界の中の有力な反対派が潰れる危険性をみた齋藤が、満州植民地化の危険性を世に問い、政治のプロたちにも、彼らの依拠する論の間違いを明らかにするために、『最近米国観』という本を出版しようと動いていたのではなかろうか。

 

〇終わりに−今後の課題

 

 以上齋藤修一郎の日本外交批判論を検討することを通じて、朝河貫一の日本外交批判論の限界を明らかにしてきた。

しかしこの論証はまだ不充分である。

この論考では、朝河の日本外交批判論を、齋藤修一郎の見解と、大隈・大石・戸水の4人の論との比較をしただけである。

今後ここで示した結論をより明らかな強固なものにするには、以下の作業が必要である。

T:朝河の他の書簡での論理の分析。とりわけ第一次世界大戦以後の書簡の論理が『日本の禍機』を越えるものになっていたかどうかを分析する。

U:「日本の対外方針」と『日本の禍機』に対する書評や意見を、新聞雑誌で探し、人々の朝河論への反応を探る。

V:当時の代表的な総合雑誌である太陽の外交論文を精査し、「日本の対外方針」と『日本の禍機』出版の前後で彼らの論調に変化があるのかないのかを点検する。あわせて他の総合雑誌や経済雑誌、そして新聞においてもこの作業を行う。

W:朝河が外交批判を書き送った政治家たちが如何に反応したのかを、彼らの論説や講演などを元に点検する。とりわけ朝河が期待しかつ熱心に批判を書き送った大隈重信は多くの論説や講演を残しているので、これらに当って、朝河の批判の影響の有無を明らかにする。

X:朝河の支援者たちの、「日本の対外方針」『日本の禍機』への反応や、彼らの満州をめぐる日本政界の内外の情勢認識の度合いなど、彼らの論考や手紙などがあれば調べる。

Y:あわせて、朝河貫一や齋藤修一郎と同様に、日本の満州植民地化に反対した政治家の認識と言動を調べる。特に伊藤博文と原敬は重要である。

 

朝河については、以上6点の作業が今後必要であろう。

また齋藤修一郎については、彼の透徹した外交論や日本外交批判論が如何にして生れたのかということを探求する必要があろう。

 そのヒントは、彼の外交論の多くがアメリカの週刊評論雑誌(おそらく、「ネイション」と「アウトルック」)の記事に依拠していることにある。

そしてこれに依拠した齋藤の論は、そのドイツ論・ロシア論においてもアメリカ論と同様にかなり鋭く、それぞれの国の世界経済における位置や他国との経済的関係、そしてそれぞれの国を動かす人々の異なる経済的利益に基づく異なる政治的利害。さらには政治権力を握っている人々の思想のありかた。こうした多用な要素の複雑な絡みあいとその変化の過程を見ながらそれぞれの国の国際政策の性格を分析し、これに依拠して今後の国際関係を考えようとしている。これは極めて唯物弁証法的なものの見方だ。

 19世紀末から20世紀前半のアメリカの言論界や知識人には、多くのマルクス主義者が居た。齋藤は『懐旧談』で米国留学中には週刊評論雑誌「ネイション」に読みふけったと述べた。そして彼の外交論文の多くもまたアメリカの週刊評論誌記事に依拠している。齋藤が読みふけりその分析に共感し学んだ論説の多くが、アメリカ人の記者や知識人の中の唯物弁証法を会得したマルクス主義者の手になるものではなかったのか。このあたりを探求してみたいと考えている。

齋藤修一郎論を探求して彼の評伝を書こうとする道からは少し外れてしまうが、できる限り、これらの課題にも今後挑戦してゆきたい。

【注】


 

 齋藤修一郎は私の母方の祖母・松本利(京都帝国大学工学部教授松本均:工業化学専攻・醸造学・高分子合成学 の夫人)の父。利は修一郎の三女(五男六女)。私の母・新は、利の末っ子の五女(二男五女)。2009年2月、曽祖父が齋藤修一郎であることを知りその資料を集める。外交官として日本が朝鮮を植民地にしていく過程の重要な事件全てに関ったことを知り、彼の生涯を通じて明治が見えるのではないかと考え、修一郎研究に入る。修一郎研究に関して、日本英学史学会副会長の塩崎智氏のお世話になり、この縁で200912月に日本英学史学会に加入。テーマは「留学生・齋藤修一郎」。例会・大会などで研究発表を続ける。これまでの研究成果は、「破産してもなお外交にこだわった男・齋藤修一郎−『失意の外務官僚』像の再検討」:2010年7月本部例会。「30年も前に日米戦争を予見した男・齋藤修一郎との出会い」(2011年3月刊「東日本英学史研究第10号」掲載)、「齋藤修一郎の英文自伝−西洋との出会いとその衝撃」(2011年4月本部例会)。「齋藤修一郎にとって西洋とは何であったのか」(201110月大会)。朝河貫一と齋藤修一郎との関係に気付いたのは、朝河研究会事務局長の増井由紀美氏が、2011年3月の日本英学史学会本部例会にて「私の朝河研究」と題して報告することを契機に朝河に関する書物や彼の著作を集めて通読したことによる。

 

井上馨。長州藩出身。18351915。外務大臣・内務大臣・農商務大臣などを歴任した元老。1973年に大蔵大輔を辞任したあと岡田平蔵・益田孝らと先収会社(三井物産の前身)を設立。三井の顧問格。

 

渡邉洪基。越前福井藩出身。修一郎と同じく府中本多家家中。18481901。外交官として岩倉使節団に随行。伊藤博文(18411909)・森有礼(184789)が進めた最恵国待遇を無視した条約改正強行に反対して辞任。この過程で木戸孝允(183377)の信任を得、この縁で後に伊藤博文の腹心となる。帝国大学初代総長・駐オーストリア公使・衆議院議員・日本国家学会創立者として伊藤の考える日本国家創立に尽力し、伊藤が組織した立憲政友会総務委員も勤めた。

 

小村寿太郎。18551911。日向飫肥藩出身。この当時は外務大臣。齋藤修一郎と同期で、大学南校・第一番中学・開成学校と進み、1875(明治8)年7月に法科2年を修了して、文部省第一回貸費留学生としてアメリカのハーバード大学法学校に学び、1877(明治10)年卒業。以後3年間弁護士修行などをして、1880(明治13)年9月帰国。法務省に出仕。その後齋藤の勧めで1884(明治17)年外務省に入り、清国駐在代理公使・外務省政務局長・外務次官、駐露大使・駐米公使などを勤め、1901(明治34)年桂第一次内閣で外務大臣となり、日英同盟を結ぶ。日露戦争の講和会議を推進しポーツマス条約を締結。しかし満州植民地化論者として知られ、元老等が進めていた満州鉄道日米共同開発計画を破棄するなど、日露戦争での満州を門戸開放するとの「国際公約」を無視して、元老山県有朋の後援のもと桂とともに、朝鮮併合・満州植民地化を進めた。

 

原敬。18561921。盛岡藩出身。司法省法学校中退後、「報知新聞」「大東日報」の記者をつとめるが、1882(明治15)年、齋藤の推薦で外務省に入り、パリ駐在臨時公使、外務省通商局長、外務次官などを勤め、1897(明治30)年、朝鮮駐在公使を最後に外務省を退職して「大阪毎日新聞」社長に就任。1900(明治33)年、伊藤博文が結成した立憲政友会に加わり、第4次伊藤内閣で逓信大臣、第一次西園寺内閣で内務大臣を勤め、この当時は政友会の総務委員。後に1918(大正7)年に総理大臣となり、対米協調外交・自由貿易を進めた。

 

これは徳富蘇峰宛の手紙や、後に見る外交論文で明らか。また、修一郎が若い時の尊王攘夷主義思想から離れ、西欧にならって議会を基本とした代議制民主主義国家に日本を改造しようと考えるに至った事については、今年10月の日本英学史学会大会での報告「齋藤修一郎にとって西洋とはなんであったのか」に詳しい。

 

これらの論文のうち、3を除く7編は、駒場の日本近代文学館所蔵のものを参照した。3の「米国商工大勢論」は、所蔵する明治35年の初版本および、国立国会図書館所蔵本(これは近代アーカイブで全文を見られる)を参照した。

 

 赤間が関事件損害賠償金の還付:1863(文久3)年5月、長州藩が馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖し、航行中の米仏蘭艦船に対して無通告で砲撃を加えた事件。最初に砲撃されたのが、アメリカ商船ペンブローク号(Pembroke)で、5月10日突然襲われたがこの船はかろうじて逃れた。その後フランス軍艦・オランダ軍艦も砲撃され、両船は大きな被害を受け死者もでた。これにたいして横浜にいたアメリカ軍艦ワイオミング号が6月1日に報復攻撃。長州軍艦2隻を撃沈1隻を大破(アメリカ側死者6人、負傷者4人、長州側死者8人、負傷者7人)。さらに6月5日にはフランス軍艦2隻が来襲し、砲台を破壊。その後、長州藩による関門海峡封鎖で途絶していた生糸貿易を復活させるべく、英仏蘭米四カ国連合艦隊17隻が、1864(元治元)年8月5日から7日にかけて下関に来襲し砲台を徹底的に破壊占領し、講和条約を結んだ上で、総額300万ドルの賠償金をとった。9月22日の横浜での下関事件取決書調印により、賠償金は約六割の200万ドルに減額され、幕府は50万ドルずつ4回の分割払いで支払い、英蘭仏米四カ国に分配された。この時に得た賠償金をアメリカは、1883(明治16)2月に日本に返還することを決めた。理由は、実際の損失は1万ドルに過ぎなかったのに不当に過大な額を取ったとのこと。アメリカ合衆国国務省は日本から賠償金の分割金を受領するたびに国庫に納めず国債として保管していたため、利子で増え元利合計785000ドル87セントに増えていた。日本では1889(明治22)年、返還金約140万円を横浜港の築港整備費用(総額234万円)に充当する事を決定し、1896(明治29)年5月に完成している。

 

「米国商工大勢論」には、題字を井上馨が寄せ、序を藤田四朗が、跋を浅田徳則が寄せている。藤田四朗は、18611934、東京帝大卒の官僚。外務省時代は井上馨の四天王の一人と称せられた人物。外務省参事官、逓信相・農商務相の秘書官などをへて、1898(明治31)年農商務次官。1901(明治34)年貴族院議員。また日本火災保険社長、台湾製糖社長などを勤めた人物。彼は雑誌太陽に「米国商工大勢論」の書評を書いている。浅田徳則は、18481933、官僚で政治家。1868(明治2)年に官界に入り、大蔵省・外務省をへて、1886(明治19)年には井上外務大臣の下で外務省通商課長。後、神奈川県知事・長野県知事・新潟県知事・広島県知事を勤め、再び中央官界に戻って、外務総務長官(外務次官)・逓信総務長官(逓信次官)などを勤めた。1903(明治36)年に貴族院議員となり終生在任。また東京電力社長や帝国蚕糸社長も勤めた人物。「米国商工大勢論」にこれらの人物が名前を載せたということは、彼ら井上馨に繋がる元外務官僚もまた、齋藤修一郎と同様なアメリカ認識を持ったことを示している。これは藤田四朗の序に詳しい。

 

10 原敬はその日記の中で以下のように記述している(1965年福村出版刊「原敬日記」第2巻を使用)。世界漫遊旅行の途中立ち寄った米国での感想は、1908(明治41)年9月22日の条に「イリノイス製鋼所を見る。会社に案内者もなく、工場取締の巡査様の者案内せしのみなれば更に要領をえず、但し専ら器械を使用し居り、延ばすべき熱鋼を回転しコールに掛くるも悉く器械を使用し居るの情況は、先年余の見たる枝光製鉄所などの比にあらざるが如し」と、米国工業の進んださまを述べる。また、10月8日の条のニューヨークを発って欧州に赴くにあたって米国の感想を「米国は今日まで実見するの機会なかりしが真に活動の国にして、目下経済界不況にてその影響を受け居る所多しと云うも、全国活動の形勢明かに見るを得たり、将来此国は世界に対し如何なるものとなるかは常に注目すべき要件たること、今更ら記し置くまでもなき事なり」と、米国の世界的地位の高さに注目すべきことを記している。さらに渡欧後のパリを見聞し、20年ほど前に臨時公使として着任していた頃の姿とパリの町や人々の様子が大きく異なったことに目を見張り、その原因について11月1日の条に、「要するに著しく変化せしものは米国に酷似せり、或いは下の如き理由ならんか、即ち米国人の巴里を好むこと非常にて、毎年幾万となく来りて其財を散じたりしが、当時は米国人を以って風俗の点に於て極めて野卑なるものとして仏人の蔑視せし所なりしが、安んぞ知らん其野卑なるもの財を散ずること多く遂には彼等の歓心を求めて其嗜好に投ずる様になり、何時とはなしに彼等の風習にも同化したるものならんかと思はる。余の如く二十年間全く打絶て其中間の変遷を見ず而して米国を通過して此の地に来りたる者には右の如き断定の感なきを得ざるなり、米国は政事経済のみならず風俗にまで斯る潜勢力を有したるは真に驚くべき事柄なり。」と、米国の力が欧州まで広く及び、保守的なパリ人の風俗まで米国風に変えている事態に認識を新たにしている。原敬の外交方針については、川田念著「原敬と山県有朋−国家構想をめぐる外交と内政」(1998年中央公論新書)が詳しい。

 

11 速記禄によれば、大石は満州において政府の出先機関と軍とでは意見が異なりしばしば衝突している。統一的な将来満州を日本はどうするという方策はあるかと政府を問い詰め、さらに日本は中国の鉄道事業にどんどん参入すべきだと問い詰めた。此れに対して小村外相は、統一方針でやっていると答えるだけで、これを明かにするのは国益に反するとして答弁せず。シナの鉄道問題も参入するべく努力していると答えただけ。さらに大石は、政府はアメリカの排日の動きに、アメリカやカナダ移民を制限しているが、排日運動を抑えよとアメリカに要求し、人道問題として欧州の日本への支持を拡大するべきだと問いただした。此れに対して小村外相は、別にアメリカやカナダへの移民を辞めようとしているわけではないと弁解に終始した。大石の論は膨張主義であり、アメリカと衝突することなど考慮にも入れておらず、一方の小村もまた大石の弁に賛成の意見を述べるなど、政府自身が膨張主義を取っていることを仄めかしていた。両者の対外方針を齋藤は批判したものと思われる。

 

12 これらの論文も駒場の日本近代文学館所蔵の雑誌を参照した。

 

13 大石正巳:18551935。土佐藩出身。板垣の自由党創立に参画したが、彼の洋行方針に反対して脱党。1888(明治21)年後藤象二郎らと大同団結運動を進めたが破れ、1892(明治25)年朝鮮駐箚弁理公使となる。1896(明治29)年大隈の進歩党結成に参画し、翌年大隈内閣で農商務次官を務める。1898(明治31)年の自由・進歩両党の合同による憲政党結成では創立委員となり、隈板内閣には農商務大臣として入閣。以後野党となった憲政本党の幹部として活躍し、日露戦争後は非政友会系合同を画策し官僚派に接近。民党主義を取る犬養毅と対立。1910年(明治44)犬養らと妥協して立憲国民党を結成して常務委員となったが、1913年(大正2)憲政擁護運動が高まるなかで脱党し、桂太郎の立憲同志会結成に参加して総務となった。 1915(大正4)年第二次大隈内閣の下で大浦兼武農商務大臣と対立、彼が内相に転じるのに反対していれられず、それを機に政界を引退。

 

14 戸水寛人:18611935 明治-昭和時代前期の法学者,政治家。東京帝大教授。1903(明治36)年同僚の小野塚喜平次らと日露開戦を主張して七博士意見書を発表。1905(明治38)年ポーツマス講和会議反対をとなえ休職処分となるが,翌年復職(戸水事件)1908(明治41)年衆議院議員(当選5,政友本党)1935(昭和10)年120日死去。75歳。加賀(石川県)出身。帝国大学卒。

 

15 この三つの談話ともに、朝河が「日本の対外方針」や『日本の禍機』、そして大隈重信宛の私信で指摘した日本外交の危険性についての忠告をまったく考慮していないことに注意。

 

16 この考え方は一旦は第一次大戦後に大きな流れとなり、1921(大正10)年のワシントン会議、1928(昭和3)年の不戦条約、1930(昭和5)年のロンドン会議と続いて、軍縮と中国や太平洋諸島の領土保全が条約として結ばれ、世界史的な流れとなるかに見えた。しかし、1929(昭和4)年の世界恐慌勃発の影響が長引くとともに列強が再び植民地主義に立ち戻って行ったため一旦頓挫。この考え方を世界、とりわけ列強が共通認識とすることが最終的に確定したのは、第二次大戦後の1960年頃。イギリスやフランスのアジア植民地が独立運動を通じて独立し、最終的には、フランスのアフリカ植民地アルジェリアが独立戦争の果てに独立し、同じくベトナム独立勢力がフランス軍との戦争に勝って後のこと。

 

17 しかし、実際のところ韓国は資源も少なく日本の工業製品の市場としては小さくたいした役割はない。また満州は資源は比較的多いとは言え、日本は中国本土のより良質の石炭・鉄鉱石に依存しており、日本の工業製品の市場としては満州よりもより人口の大きな中国本体のほうが日本にとって重要である。したがって朝河が指摘したように、満州を日本が占領することは、民族意識に目覚めた中国人の間に反日感情を生み出し、これが日本との貿易に深刻な害を及ぼす危険大であった。そしてアメリカもまた日本にとって、最大の資源輸入先の一つであり最大の輸出市場の一つである。この情況は20世紀初頭から、日本が満州事変・日中戦争・太平洋戦争に突入していった時期にも続いた。この意味で「満韓生命線」論は極めて観念的なものであり、江戸末期以来のロシアとの対立を通じて生れたイデオロギーとでも言うべきものであった。

 

18  1906(明治39)年522日に閣議決定された「満州問題に関する協議会」では、会議を招集した伊藤博文が満州軍政府が進める政策が「国際公約」に違反しているとの米英からの通告を承認し、このような行動をとらないことを念を押して、この伊藤の主張に沿った対策が承認されている(「日本外交年表ならびに主要文書18401945」上巻のP260 1965年原書房刊)。伊藤は満州植民地化を止めようとしていた。だが、ここでの伊藤の満州植民地化に反対する論拠が、英米の反対と対日感情の悪化が主な理由となっていることは、朝河の論との関係で興味深い。伊藤もまた満州の門戸開放が日本の発展に資するという認識を明確に打ち出していない。

 

19 山内晴子著「朝河貫一論−その学問形成と実践−」(早稲田大学出版部2010年刊)のp299には、『日本の禍機』が「桂首相・外務大臣・同次官・政務局長など政府高官、日露戦争七博士などの学者…」に送られたとある。

 

20 山内晴子前掲書には、第一部「学問の形成」の第一章第二節において、朝河が父正澄から「戊辰戦争と二本松少年隊」の話を詳しく聞かされた様が叙述されている。山内氏はこの父から聞いた二本松藩「滅亡」の様が彼の学問と理念の深層にあるとしたが、それ以上に彼の心に父の「祖国」である二本松藩の「滅亡」の様は、朝河貫一に「国敗れて山河あり」の思いを深く植えつけたのではないか。明治の日本人で国が滅びる様を体験した人は少ない。この実感が激しい恐れとなり、朝河の危機感となった可能性は高い。

 

21 「大学学生遡源」は、東京日日新聞の記者であった橋本南漁が、東京帝国大学の初期の頃の学生の有り方に興味を持ち、当時の関係者に直接あたったり、その懐旧談などの資料を渉猟して書いたもの。東京大学の前身である大学南校・第一番中学・開成学校のころの主な学生の言動とその後日談を、豊富な資料をもとに生き生きと描いた出色の書。1910(明治43)年の年頭から5月にかけて新聞に連載され、それを本にまとめたもの。国立国会図書館にはその上巻しか所蔵されていないので、下巻の存在は不明。本稿では国立国会図書館所蔵本を近代アーカイブで手に入れて参照した。

 

22 杉浦重剛 18551924。教育家、思想家(国粋主義者)である。近江膳所藩出身。1876(明治9)年開成学校を卒業し、第二回文部省貸費留学生としてイギリスに留学して、マンチェスター・オーエンスカレッジやロンドンのサウスケンジントン化学校、ロンドン大学等で化学を学ぶ。帰国後は東大予備門長等の官職に就いたが主に民間で活動。80年代の徳育論争では儒教道徳に自然科学を折衷した<理学宗>を提唱した。1887(明治20)年乾坤社を創設し条約改正案反対運動に参加、1888(明治21)年島地黙雷らと政教社を結成して雑誌「日本人」を創刊、1990(明治23)年衆議院議員に当選し大成会を結成。東京英語学校・日本中学校長、東亜同文書院長等を歴任し、1914(大正3)年から東宮御学問所御用掛として皇太子(昭和天皇)に倫理を教授した。

 

23 長谷川芳之助 1856.1.221912.8.12。修一郎と同じく、1875(明治8)年に文部省第一回貸費留学生として米コロンビア大鉱山学科へ留学、独フライブルク大で製鉄業を研究し、帰国翌年の1880(明治13)年三菱入社。日本初の工学博士の肩書で製鉄事業調査会委員として1896(明治29)年3月製鉄所官制公布にこぎつけ、翌30年八幡製鉄所が開庁した。官営八幡製鉄所設立の立役者の一人。1902(明治35)年衆院議員。


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