衆議院総選挙は、民主党が大量の浮動票を獲得し大勝した。
民主に投票した人々は、現実離れしたマニフェストのために景気対策が打ち切られたり、大増税されたりすることを覚悟しているのだろうか。
(僕は総合的に見て民主党が国民に対するデメリットの多い党だと思っている――郵政民営化など足元にも及ばぬ資産流失が起こるだろう――が、その予測が正しいかどうかに関わらず、民主党の政策によって当面の国民生活が苦しくなることは厳然たる事実として避けられない)
あるいは単に「自民憎し」の勢いだけで投票したのか、はたまた民主なら暮らしを楽にしてくれると思い込んでいたのか。
選択肢が増えたことには大きな意味があるが、それは意図した選択であったのか。
民主主義最大の問題は、有権者が賢くなければ正しく機能しないことである。
大きな欠点を持つ民主主義だが、残念ながらチャーチルが言うとおり、民主主義よりも優れた政治体制はまだ存在しない。
よく言われるのは、「日本の民主主義は、民権運動で勝ち取ったものでなく、GHQの都合で与えられたものだ。だから日本人には民主主義が板についていない」というものだ。
この考え方、半分合っているが半分間違っていると僕は思っている。古代直接民主主義はともかくとして、近代間接民主主義の成り立ちを考えれば、そもそも民主主義は民衆の板についたものでなかった。
中世の社会は世界的に見て、封建的なシステムが大勢を占めていた。大きなことを成すには、その場にいる多くの人間を束ねて動かすよりなかったからである。
やがて大航海時代が訪れると、様子が段々と変わってきた。世界中から多くの資源とともに、奴隷という名の労働力がヨーロッパへ集められた。
奴隷によって、集約された労働力は王侯貴族が独占するものではなくなっていった。ここから「市民」という概念が浸透してゆき、市民革命という名の交代儀式が見られるようになる。
古代ギリシャにも市民による直接民主主義が存在したが、そのギリシャ市民たちも奴隷を使役していたことに注意する必要がある。本来の意味において、市民は労働力に余裕のある特権階級である。
人間を単なる労働力として束ねなければならない時代は、産業革命によって終焉する。
機械によって肉体労働の大半を代替することによって、封建や奴隷といった旧来のソリューションは脅かされていった。
アメリカ南北戦争を例にとってみよう。北軍によって南部の黒人奴隷は解放されたが、これは黒人のために成されたものではない。その後約100年間、公民権運動によって権利を勝ち取るまで、黒人への社会的差別は継続されていた。南北戦争は、奴隷利権から機械利権への交代儀式に過ぎなかったのである。
機械によって多くの人間がきつい肉体労働から解放された反面、同時に仕事を失うという問題も内包していた。
多くの機械を保有する資産階級は、こうした人々を敵に回すことを恐れた。と同時に、機械によって生産された製品を消費する市場も必要とした。ここに、「有権者=消費者」「皆が主役」という新たな民主主義、大量消費型資本主義を前提とした民主主義のスタイルが確立する。
(前述のアメリカ黒人は、人数の面でマイノリティであったため、単なる弾圧の対象であり続けてしまった)
近代型民主主義は民衆と資産階級の迎合によって生み出されたものであり、一般庶民にとって「勝ち取った」ものと呼べるかどうかは、どこに視点を置くかによる。
一方、日本ではどうだったか。
江戸時代まで(ヨーロッパのそれとは意味合いが異なるが)封建的な天下泰平の世が続いていたが、黒船によって一気に開国と近代化を余儀なくされた。ヨーロッパで段階を追って成された権力の交代が、日本では一気に起こってしまったのである。
欧州を手本に大日本帝国憲法が発布され、ある程度以上の納税者を対象に選挙権が与えられた。体制の変化に戸惑った日本人たちだったが、やがて大きな転機が訪れる。日露戦争である。
日本はロシアに辛くも勝利したが、庶民がそれを評価することはなかった。日本の継戦能力はほぼ尽きていたため、ポーツマス条約で戦勝利益を引き出すことなど出来なかった。が、軍が疲弊していると公にすることは講和条件をより不利にすることであった。
かくして日本をギリギリの場所で護った小村寿太郎は国賊の汚名を切ることとなり、権力者たちが牛耳る国会への批判が強まった。国民の権利を求める大正デモクラシーの声が高まり、同時に軍への期待が高まった。
「戦争に勝てば国は栄える」と国民が期待するもと、権力が軍へと集中してゆく。これがいわゆる十五年戦争の発端である。
この意味で言えば、日本の民主主義はまさしく民権運動で勝ち取ったものである。が、やはり板についてなどいない。
(新聞などに扇動されたという面もあるが、欧米の民主化が勝ち取ったものだったとしたら、こちらも勝ち取ったものと呼んで差し支えないだろう)
いわんや、戦後に「与えられた」権利はや。
今一度問いたい。それは意図した選択であったのかと。
沖縄からF-22が飛来したという情報を聞いて撮りに行きましたとさ。
行ったのだが……何このコロコロ変わる光線。
ラプター撮りに行ったのに、写りがいいのはファントムだったというアリサマ。
ずーっとラプターの前に貼り付いて、晴れ間を狙って撮影した者のみが勝者。
ここに上げた写真以外にも馴染みの機体が多数展示されていたのだが、容量と時間の都合上略。
本当はバイバイフライトも見たかったのだけれど、昼過ぎに雨が降ってきたので遁走。
この時期の天気予報はあんまりアテにならぬのう。
* * *
往路・復路とも南武線→青梅線に乗ったのだが、牛浜駅では朝はともかく、午後3時になっても「来場者」で駅が混んでいて乗れなかった。おそるべし。
政令指定都市を走る南武線よりも、地方線であるはずの青梅線の方が車両が新しくて吹いた。
それよりも。南武線を使うということは、川崎を通るということであり。
ああ買っちまった。例によって、これを書いている時点では未開封。
朧村正を買ったのは、某所で見た「プリンセスクラウンの正統後継作が一万本も売れていないなんておかしい!」という言葉に釣られて。
いい釣りであることを祈る。いやまあ、他にも買った理由はあるのだけれど。
あー。お盆休みの後、すっかり気力が抜けておりましたわ。
ドラクエIXとか新型PS3とかの時勢を完全無視して、Wiiの購入を検討しております。
ニンテン嫌いという定評のある私ですが、バーチャルコンソールの充実加減を考えると無視できなくなってきました。ファイネストアワーとかファイネストアワーとかファイネストアワーとか。
いや他にもアサルトとかスターブレードとかスペハリとかメガドラとか無視できないものは山とありますが。この週末はドタバタするので、月曜あたりにヨドバシ行こうかしら。
散財:
出版も軍需産業並みに合併がアレだよね(ぼうげん)
細かいことはmixiに書いたけれど、今回一番のトピックは2日目に起こった入場規制だろう。
特に東方Project系に人が殺到した結果、ビッグサイト自体への入場が滞るという事態に陥ったようだ。
とはいえこれは、近年のスムーズな入場列に慣れたからこそ思うことであって、晴海の時代を知っている身からすれば、それほど珍しいことではなかった。
コミケ会場としてのビッグサイトは、東西連絡通路のキャパシティ不足が非難されていたが、これは幕張メッセのコンコースがストレスフリーだったことと比較してのものだろう。しかも当時のコミケは8つのホールに収まっていたが、仮に今メッセへ再移転するとしたら参加人数が増えているので、道路を挟んだ9〜11ホールも使わざるを得ないだろうし、そうすればビッグサイト以上の混乱を招くおそれもある。
ビッグサイトは東西に分かれているとはいえ、それは入場行列を西館と東館に分けられるメリットでもある。
これは東よりも西のほうが余裕あるので、前回までのように同人ソフトを西館へ配置していればここまでの混乱にならなかったのだろうけど、どうやら他のジャンルとの兼ね合いもあったようで……むつかしいですな。
帰省。だったのだが。
大雨でろくに出かけられないところへ来て、伊豆で大きな地震があった影響か近所で土砂崩れ。
波乱に満ちてはいるのだけれど何も出来ないというアレな休みでありましたとさ。諸般の事情により写真は貼りませぬ。
9月の連休に帰省し直すかな。
この季節に「戦争について考えましょう」と言う人のほとんどが思考停止に陥っているのはいつものことなんですが。
ベトナム戦争に代表される、いわゆる冷戦中の「代理戦争」について語るとき、不思議と「なぜ代理戦争といういびつな戦争の形態が存在しえたのか」ということは語られない。
冷戦とは、端的に言えば資本主義と共産主義が繰り広げた世界規模での覇権争いである。しかしそこには、両陣営の代表国家であるアメリカとソ連が直接対決すれば第三次世界大戦は避けられない、という暗黙の了解があった。
したがって、アメリカとソ連の戦争は、水面下で行なわれなければならなかった。ベトナム戦争では、トンキン湾事件を機にアメリカが北ベトナムを直接攻撃するようになったが、しかしホワイトハウスは、北ベトナムを支援しているソ連軍がいるであろう場所には絶対に攻撃しないよう軍に命令した。そのため、第二次世界大戦を上回る量の爆弾を落としながらも決定的な戦果を挙げられなかったのが北爆である。
後に攻撃禁止令が解かれ、ソ連軍を含めた施設を攻撃するようになったものの、その頃にはベトコンによるゲリラ戦などによりアメリカは劣勢となり、さらには国内外の反戦運動で参戦そのものの支持を得られなくなった。
二度の世界大戦を凄惨と呼ぶならば、建前に翻弄されて泥沼化した代理戦争は陰惨である。
建前や感情論で戦争を語ることは危険だ。
しかるに「被爆国だから」というお題目だけで反戦・反核を訴える姿勢に疑問を抱く、というところまでは賛成なのだが、相変わらずタモの言っていることは稚拙すぎて話にならない。以前も書いたが、せっかくだから繰り返させていただく。
まず、核拡散防止条約締結後の世界で核保有を目指す必要があるのは、他に何の手段も持たない崖っぷち国家だけである。産業が壊滅的なうえソ連の支援を得られなくなった北朝鮮、中国と国境を接するインド・パキスタン、周囲をイスラム国家に包囲されたイスラエル。重大な外交的デメリットを覚悟してまで核を保有するメリットは日本にない。少なくとも日本は、アメリカと中国を敵に回して生存できる経済構造をしていない。
次に、相互確証破壊(核兵器の突きつけ合い)で防げるのは全面核戦争のみである。これは先に述べた代理戦争や、冷戦後に頻発する低烈度紛争、北朝鮮による(核兵器保有国を含む)各国国民の拉致、そして武器を交えずとも世界中で起こっている経済摩擦が証明している。以前話題に出たニュークリアシェアリングさえ、代理戦争の一環に過ぎない。
つまり「日本も核を持てば……」という言説も、しょせんは自称反戦主義者の口にする感情論と同レベル。こういった講演を有難がる人間がいるということは、日本人が歴史や時勢に疎いことの証左でしかない。
歴史アカテンだったオレにここまで言わせるな。