【終幕・プロミス(約束)】
=現在・再び拓也の部屋=
僕が部屋に戻った時、詩織は、ちょうど原稿を読み終えた所だった。僕のベッドに腰掛け、呆然とした表情で、手にした原稿用紙を見つめている。
「……どう?」
僕の問いかけも耳に入らないらしく、彼女は胸を押さえ、じっと蹲ったままだ。仕方なく、僕は脇の自分の椅子に腰掛ける。
「ね……」
再度の僕の呼びかけに、彼女は、やっと顔を上げた。そして、ポツリとつぶやく。
「ひどい、よ……」
「え?」
「何故、教えてくれなかったの? 私、三島くんがこんな人だったなんて……今まで、全然知らなかった」
当然、その問いは出るだろう。僕は予期していた。
「中にも書いてある通り、見晴ちゃんの家の希望だったからさ。事件の動機の部分は、詩織にも教えられなかったんだ」
「そんなのってないよ。じゃ、私は今まで、ずっと騙され続けて……」
「思い出は、綺麗な方がいいさ。死んだ知晴ちゃんだって、多分そうだったと思う。三島の本当の正体を彼女が知っていたら……とても、浮かばれないよ」
その言葉に、詩織は一瞬たじろいだが、再び、キッと、僕を睨みつけた。
「知晴さんの事は言わないで。その彼女に、こんな酷い事をした人でなしが、私の憧れの人だったなんて……。
嘘で固められた思い出が、いくら綺麗だって、これじゃ私は堪らないわ!」
僕は困ってしまって、頭を掻いた。詩織に機嫌を直してもらわなけりゃ、この後の話が出来ない。
「ホントはね、僕も詩織に真実を話そうと、何度も思ったんだ」
「だったら……」
「でもね、言えなかった。どんな相手でも、君が好きだった男だし。それに」
「それに、何よ」
「奴の悪口を言うと、なんか嫉妬してるみたいだしさ」
「……嫉妬?」
「うん。……ね、僕だって男なんだぜ?」
詩織が、ポッと頬を赤らめる。ようやく僕の真意が、彼女にも理解できたようだ。「死者に鞭打つ」と言う表現があるが、死んでしまった恋敵の悪口を、いつまでもグチグチ言うほど、男として情けない事はない。それは自分自身を卑下するのと同じ事だ。出来れば、三島孝祐なんて名前、記憶の中から全部追い払ってしまいたいくらいだ。
「たっくんの、その気持ちは分からないでもないけど……」
詩織は、ブツブツ言いながらも、一応納得したようだった。三島に関する彼女の追及が止んで、僕はとりあえずホッとした。だが、あまりにアッサリし過ぎて、別の懸念が湧いて出る。
(本当に分かっているのかな? 詩織って、『男のプライド』に関しての理解が、今一だからな)
だから普段から、結構キツイ事を平気で言う。彼女を「嫌な女」と誤解する人間が多いのは、そのためだ。
(まあ、詩織は一人っ子だしな。身近な男は、彼女のお父さんと幼馴染の僕だけなんだから、仕方がないか)
いつまでたっても、お嬢さんぐせが抜けない。ま、そこがまた彼女の魅力なんだけど……と、僕は満更でもない顔をする。
そんな僕の複雑な気持ちも知らず、詩織は少し機嫌を直して、言った。
「まあ、彼の件は、もういいわ。それより、もっと腹が立つのは、見晴ちゃんのこと。あなた、今まで彼女のこと教えてくれなかったじゃない。どうして黙ってたの?」
……おお、来た。
僕は、思わず心の中で身構えた。これは三島以上の難問だ。一つ答え方を間違えると、今度こそ大変なことになるに違いない。何しろ……
彼女の存在を、今の今まで詩織に黙っていた、その最大の理由は、美術棟で見晴ちゃんと話し込んだ時、つい彼女に「女」を感じてしまったこと。なんだか後ろめたくて詩織に言いづらかった……なんて、口が裂けても言えるもんか。
「いや、ね。あの後、結局彼女は元の学校に戻っちゃったんだ。あんな事件が起こったんだから、それは仕方がないんだけど。
その時、気持ちの整理が出来るまで、しばらくそっとしておいてって、見晴ちゃんが言ってたんだ。だから……」
「ふーん。でも、事件から、かれこれ一年でしょう? その間に一言ぐらい、私にあってもいいような。……だって私も、彼女の幼馴染なのよ?」
詩織の言い分は、もっともだった。故に僕は、「申し訳ない」と心で詫びながら、知晴ちゃんを引き合いに出す。
「何しろ、見晴ちゃんの話題を出したら、当然、知晴ちゃんの話になるじゃない? さっきの動機との絡みも、勿論あるんだけど……僕自身としても、君にそれを聞かれるのが、どうにも辛くて、さ」
「あ……なるほどね」
詩織は、突然納得したようだった。さすがに、今読んだばかりの原稿の影響があるらしい。可哀想な知晴ちゃん……と言って、うっすらと、涙すら浮かべた。
僕は、自分の口の上手さに感心しつつ、神妙な顔を繕う。
もっとも……
これだって、本当は嘘ではない。知晴ちゃんの話を聞いた時には、僕だって泣きたくなった。見晴ちゃんを慰めながら、そっと涙を拭ってたんだ。だから僕は、見晴ちゃんの一件は、出来る事なら一生僕の胸にしまっておこうと考えていた。僕の大切な思い出として、詩織には、出来る事なら内緒にして……。
でも、そうもいかなくなった。それが今日、詩織を僕の部屋へ呼び出した、真の理由なのだが。
「実はね……」
詩織の気持ちが段々に納まったのを見て、僕は切り出した。
「今日、見晴ちゃんから手紙が来たんだ」
「え?」
「どうやら、気持ちの整理が出来たみたいだ。もうすぐ知晴ちゃんの命日だから、お線香をあげに、泊りがけで来てくれって。詩織も一緒に来て欲しいってさ」
「そうなんだ……」
「一緒に行こうよ。ね?」
「もちろん、いいよ。……でも」
詩織は、再び原稿を取り上げ、横目で眺めた。
「それで、今まで隠していた、この原稿を見せたのね。私に予備知識を与えるために」
「いろいろ話をするより早いと思って。この原稿、発表するつもりはないんだけど、ただの記録よりもよっぽど、気持ちが伝わるからね。実は、見晴ちゃんにも、是非読んで貰おうと思ってるんだ」
「ふ〜ん。……あ、そうだ」
詩織が、思い出したようにつぶやいた。
―まだ何かあったか…?
僕は素知らぬ顔で詩織を窺いつつ、内心ドッキリする。
「最初の質問。まだ、答えてもらってないけど」
「最初の質問?」
「誤魔化しても駄目。読み終わったけど、結局、分からなかったわ。何でこの小説……
“『藤崎詩織』殺人事件”なのよ!」
「う……」
僕は、詰まった。
「そ、それは……」
「言っとくけど、いい加減な答えは許さないわよ。ホントに破り捨てるからね、これ」
詩織は、いきなり立ち上がった。原稿用紙に指を掛け、僕を睨んでる。なにしろ分厚い原稿だから、詩織の細い指で破れるか、その辺は少々疑問だったが、とりあえず彼女は本気らしい。僕は、彼女に敬意を表して、一応ビビッたふりを装った。
(それワープロ原稿だから、破ったって意味ないし、それなら元のデータを消去した方が……)
などと、余計な事も決して言わない。見かけはデジタル的な『元・きらめき高校のアイドル』が、意外にアナログ思考なのを知っている僕は、ただひたすら頭を下げる。その上で。
「本当はね……」
僕は、慎重に言葉を選びつつ口を開いた。
「『三島孝祐殺人事件』とか、『伝説の樹の下の殺人』とかも考えたんだよ。『或る美術教師の犯罪』とか、カッコつけてみたりさ。でも、どれもしっくり来ないんだ」
「どうして? 『藤崎詩織』殺人事件より、よっぽどいいよ。何度でも言わせて貰うけど、私はこの事件の“被害者”でも“加害者”でもないんだから。それなのに私の名前が付いてるのは、私の名前が利用されてるだけ……ハッキリ言って、馬鹿にされてるような気分なの」
詩織の怒りは、もっともだった。だが、これに関しては僕にも言い分がある。信念と言い換えてもいい。この事件は……僕にとって、この事件とは。
「僕にとって、この事件は」
僕は椅子から詩織を見上げつつ、瞬きもせずに、彼女を見詰めた。
「君を守る為の闘いだったから。……それじゃ理由にならない?」
「……」
「君は気がついていた? この事件を通して、君自身が少しずつ変わっていったのを?」
僕の問いに、詩織は意表を衝かれたらしく、しばらく押し黙った。そして、不承不承に頷く。
「そりゃ変わりもするわよ。こんな大事件に巻き込まれたんですもの。
でも、あなたの言うことも、なんとなく分かる。この時まで私は確かに……。優等生で、いい子で、『きらめき高校のアイドル』って仇名は好きじゃなかったけど、その一方で、みんなに見られてるんだから、おかしな事は出来ないって、内心思ってて……」
「正直なところ、あの時の君は、君自身を飾ってたんじゃないかと思う。“自分にふさわしいもの”。いつもそれを考え、求め続けていた。その結論が三島だったんだ。三島の正体を、君は今更のようにビックリしてたけど、本当はあれだって……。
君は、等身大の自分に憧れているようで、そのくせ、うんと背伸びをしていたんだ。そうでなければ、口も利いたことがない、良く知りもしない三島にラブレターを送る気になんか、ならなかったんじゃないかと思う」
拓也の口調に、労わりと、ほんの少しの同情が混じった。それを察し、詩織の胸に、彼女本来のしおらしさが姿を見せる。
「……そうかもしれない。私、確かに変わったわ。あの事件の後、廻りの評価が余り気にならなくなった。自分は自分……わたしは、わたし。
だって、自分には本当に大切なものがあるのに、廻りに合わせてそれを見失うなんて、そんなの嫌だと」
僕は、深く頷いた。
「僕は……君が、三島のどんな所に憧れて、好きになったのか、実は良く分からないんだ。知りたいと思って、夜通し考えたりしたけど、結局分からなかった。彼は、確かに格好は良かったけどね。
……こんなこと言うと、それこそ男の妬みになっちゃうんだけど」
「それ以上言わないで。私も今、ようやく分かったわ。この小説のタイトルの意味が。
あの事件で殺されたのは、あなたの言うとおり『藤崎詩織』だったのかもしれない。アイドルとして虚飾にまみれて、それを嫌がるふりをしながら、内心では愛しく感じているウソの自分。私はあの事件で、そんな自分をようやく葬ることが出来たんだわ」
事件の後、僕の想像以上に詩織は、自分自身を深く見詰めていたようだった。或る意味意外ではあったが、しかし僕は嬉しかった。単なる利口さから脱皮して、いつしか彼女は、聡明な女性(ひと)の資質を身につけようとしている。
(また追い越されたかな……)
少し悔しい思いもしたが、そんな気分もすぐに吹き飛んだ。
僕は、立ち上がって詩織を見る。詩織も、僕の目を逸らさなかった。
「君を助けることが出来て良かった。あの時しみじみ思ったよ」
「私も、あなたに気づけて本当に良かったと……今も、そう思ってる」
二人の会話が途切れた。盛り上がった空気の中で、ふと彼女の肩を寄せようとする僕。
だが今日の詩織は、なかなか一筋縄では、いかない。僕の意図を敏感に察し、クスリと一つ微笑むと、サッと体を翻した。再びベッドに腰を降ろす。
「いけない。相変わらず、ムード作りが上手いわね。朴念仁みたいな風を装って、たっくんって本当に上手いんだから。今日は駄目よ。見晴ちゃん達の話を聞いた後に、キスなんてする気にならないもの。でも、そうね……」
詩織は、肩をすくめて、いたずらっぽく笑った。
「うん。特別に騙されてあげようかな。私の疑問に、三つとも上手く答えてくれたんだし、ご褒美代わりにね。ただし、一つだけ条件があるけど」
「……何?」
「その、上手い口……他の子に使っちゃ、絶対駄目よ。いい? 約束だからね?」
僕は、内心を見透かされた様な気がしてギクリとした。実は、久しぶりに見晴ちゃんと会うことで、密かに期待する部分もあったんだ。あれから一年。彼女はさぞ、美しくなっただろう。
しかし、言われなくても、今の僕には詩織がいる。あやふやな気持ちのまま彼女に会っても、決してお互いの為にならない。
(もう、忘れよう。あの子は懐かしい幼馴染だ。それでいいじゃないか)
「分かった。約束するよ。僕には君一人だ」
僕がキッパリと宣言すると、詩織はホッと肩を落とした。そして壁の時計を見上げる。
「あ……もう、こんな時間」
「お母さんが心配するね」
「うん……。私もあなたみたいに、アパート住まいなら良かったんだけど」
「都心の大学に通ってるんだから仕方がないさ。僕みたいに、家から通ったんじゃ二時間もかかるってんならともかく、アパート住まいなんて、お母さんが許すはずがない」
そう言うと、彼女はちょっと寂しそうにした。
「今は同じじゃないんだもんね。高校まではずっと一緒で、それが当たり前だったのに」
「また、一緒になれるさ」
「え……?」
僕の言葉に、彼女はピクリ、と身体を震わす。
「大学を出て社会人になったら。君を、本当の意味で支えられるようになったら。また一緒になれる」
「たっくん」
詩織が立ち上がった。
「それって……まさか」
僕は頷いた。そして詩織の細い肩をそっと抱く。今度は、詩織も拒まない。僕の唇が彼女の熱い唇に触れ、ふと吐息を交わす。
「約束だよ。僕は君をきっと迎えに行く」
「たっくん……」
詩織は、それ以上言葉が出ないようだった。二つの影が再び一つになる。
訪れた「二人の時」に、もう言葉は必要ない。互いを理解しあう為に、これからもいくつかの困難を乗り越えなければならないだろうが、しかしその覚悟は、既に二人の胸の内に、しっかり刻み込まれた。
「永遠の幸せ」
それは、樹の力だけでは得られない。自分達の力で築き上げて行くものだ。それを悟った二人に……新しい伝説が今、始まろうとしている。
『藤崎詩織』殺人事件〜伝説の樹の悪夢〜 了