【第九幕・涙が出るのは悲しみだけじゃなくて(後編)】
見晴の真摯な問いかけに、拓也は正直、戸惑った。詩織に対する、近親憎悪にも似た、芹沢の異常な感情。それ自体は非常に重いものだとしても、そのキッカケは……その発端は、実はとるに足らぬ、些細な事なのを話すべきかどうか。
しかし、彼にはやはり、見晴の真剣な眼差しを無視する事は出来なかった。
「見晴ちゃん、それはね……。ラブレターが原因なんだよ」
「ラブレター?」
「そう、詩織が三島に出したラブレター。それが詩織の運命を決めたんだ」
見晴は、不思議そうな顔をしている。
「その事を説明する為には、第一の殺人事件、そのトリックを知ってもらわなくちゃならない。結論から言ってしまえば、それは詩織でなくても良かった。犯行の当日に、三島を伝説の樹の下へ呼び出す……それが出来る手紙の主なら誰でも良かったんだ。
詩織が三島に出したラブレターは、先生の望む、その条件にピッタリだった。『学園のアイドル』からの愛の告白を撥ね付けられる男なんて、きらめき高校には、まず、いないだろう。しかもここが重要なのだが、その手紙の末尾には、『放課後、伝説の樹の下で待っています』と書いてあった。ウチの学校ならではだけど、告白するなら、やっぱりあそこで……と、つい考えてしまう。だから詩織も、あそこを選んだんだ」
「……」
「順番に説明しよう―。
犯行の日が決定した後、芹沢先生がやったことは、三島の下駄箱から適当なラブレターを奪い去る事だった。三島のような男なら、この種の手紙は、ファンレターも含めて日に何通も受け取って不思議じゃない。しかも途中で無くなっても、送った当の女の子も含めて、誰も気が付かない。詩織がそうだったように、“振られた”と普通は思い込むからね。詩織が、よりにもよってその日に、ラブレターを入れておいたのは、偶然とはいえ、本当に不運だったとしか言い様がない。
さて、詩織のラブレターを手に入れた芹沢先生は、全ての計画を詩織中心に組み立てた。次に彼がやったことは、詩織の携帯電話の番号を調べる事だった」
「……」
「詩織がラブレターを下駄箱に入れた次の日……すなわち、三島が殺された当日、午後の美術の授業が、急遽、中央公園での野外実習に変わった。芹沢先生の独特の教育方針に慣れている僕達には、別に奇異に感じられなかったが、あれは詩織を屋外へ誘い出すため。廻りに電話機のない場所へね」
「電話機のない場所?」
「ここは詩織に聞いてみなければハッキリしないが、大体想像する事はできる。おそらく、芹沢先生は詩織に、こう持ち掛けたんだろう。『急に学校に連絡する事が出来たんだけど、うっかり携帯電話を忘れてきてしまった。君、貸してくれない?』ってね。
学校の教師から、こう持ちかけられたら、普通は断れないだろう。まして詩織は、優等生である自分を、普段から必要以上に意識している。何の疑いもなく、自分の携帯電話を貸したに違いない。
そして芹沢先生は、それで電話を掛ける。発信先は学校の中の自分の研究室だ。もちろん、誰も出るわけがないから十回ほどコールして、通話を切る。『おかしいなあ。誰も出ないよ。しょうがない、また後で掛けよう』そう言って詩織に携帯電話を返した。
これだけで良かった。これで研究室の電話には、詩織の携帯電話の番号が、着信履歴としてしっかり残された」
「……」
「この方法だと、詩織の方の携帯にも、発信履歴として残ってしまうけどね。元々学校へ掛けた電話だから、その点は問題ない。
勿論、うまくいかない場合も想定していただろう。詩織が、その日に限って携帯電話を持っていない可能性だってある。その場合でも、おそらく何かの手を打っていたはずだ。三島の手紙を偽装して、彼女のバッグに忍ばせる、とかね。もちろん手書きじゃまずいから、ワープロ印刷で。それくらいの準備はしてあったはずだし、それで詩織は、あっさり騙されていたことだろう。その為にも、野外実習に彼女を連れ出す必要があったんだ」
「……」
「さて、これで全ての準備は整った。三島への呼び出しは、朝の内に詩織の手紙を下駄箱に入れ直しておくだけでいい。三島に余計な雑念を抱かせないため、他の女の子からのラブレターは、全て排除しておく。詩織は、前日に三島が来なかったので、その日、一日ずっと落ち込んでいたが、何の事はない。手紙が三島の手に届くのが、丸一日遅れただけだったんだ」
拓也はそこまで話して、ちょっとため息をついた。あの時の詩織の様子。周りの事など何も目に入らないような酷い落ち込み具合。あれこそ、三島への偽らざる彼女の想いだったんだ。
そう思うと、三島が死んだ今となっても、拓也の胸に熱いものが込み上げてくるのは、致し方ないだろう。
「ここからが、見晴ちゃんのさっきの質問に対する答えになる。
……何故、芹沢先生は、詩織を陥れるような真似をしたのか。それは、殺す必要がある人間が、三島ひとりじゃなかったからさ」
「え……?」
「見晴ちゃんは気づいていたかい? 三つの殺人の内、一番目のが最も手が込んでいたのを。この最初の殺人で誰かをスケープ・ゴートに仕立て上げてしまえば、後の殺人が容易になる。
二番目の殺人は、トリックと言っても、ただ詩織の手に凶器を握らせていただけだ。おそらく先生は、真紀の身辺調査の過程で、彼女が誰かをリンチする時には、体育倉庫を使用する事を知っていたんだろう。適当な広さがあって、しかも普段は誰も寄り付かない。リンチには格好の場所だ。
ここで再び詩織が登場した訳だ。なんとも不幸な話だが、真紀の半分狂った頭が、三島を殺した犯人は詩織だと決めつけてしまっていたのだから仕方がない。芹沢先生にとっては、予定通りだったけどね。芹沢先生は、体育倉庫に網を張っていて、好機が来た事を知った。詩織がまんまと誘き出され、しかもレディースのメンバーも、真紀を残してみんな散ってしまった。これ以上の機会はない。そして、真紀の興奮が頂点に達し、辺りの注意がおろそかになったのを見澄まして、彼女を殺害した」
「……」
「ここまでくれば、芹沢先生にとってはもう、計画のほとんどは達成されたようなものだ。後は斎藤だけ。
そして彼は、ノコノコ自分から、この美術棟にやってきて、先生の手にかかってしまった。芹沢先生は、多分、全ての事が終わったら、始めから自殺するつもりだったと思う。だがその間は……三人全部殺し終わるまでは、警察の目を逸らしておく必要があった。その為にスケープ・ゴートとして使われたのが、詩織だったんだ」
拓也は、詩織が事件被害者となった過程を、そう説明した。三島にラブレターを出した詩織が、死んだ妹への悔恨の情の裏返しとして芹沢に憎まれていた可能性は……とりあえず伏せておく。そんな事を見晴に告げても、彼女を苦しませるだけだと考えたのだ。
その見晴は、拓也の言葉を引き取って話を続ける。
「……斎藤さんは……上で死んでいる人は、アパートから私の後をつけて来たみたいです。私、全然気がつかなくて……。
今日、初めて兄さんに電話しました。今まで連絡を取らなかった兄さんへ、急に会いたいと電話したのは、実は、この斉藤さんのことだったんです。この人だけは助けて欲しいと言うつもりでした。転校してきて分かったんですけど、この人は本当は気の弱い、三島さんの言いなりになっているだけの人だったんです。チィちゃんが死んだ時だって、この人は手を出していません。だから……。
でも、兄さんは私が来るのをここで待っていて、二階の窓からこの人を見つけて……。咄嗟に炊事場に隠れたらしいです。私、知らないから、そのまま兄さんの研究室に入って、兄さんが戻ってくるのを待っていたんです」
そう言って見晴は、縋るような目で拓也を見た。結局、彼女の気持ちは、ただの一つも、兄に伝わることが無かった。彼女は自分の無力さを、歯噛みするほど悔しく思っているに違いない。拓也は見晴に掛ける言葉を知らず、話を事件の説明に戻した。
「本来なら詩織の役割は、三島を呼び出す為のラブレターを奪われた時点で、終わっているとも言える。三島だけ殺せばいいのなら、彼女をスケープ・ゴートに仕立て上げる必要なんか、端からなかった。
その第一の殺人の状況を、時間通りに説明しよう。まず、三時十五分頃に三島が伝説の樹の下にやってくる。詩織の手紙に呼び出されてね。それを、待ち伏せて殺す。そして彼の携帯電話を奪い、代わりに自分の携帯電話を草むらの中の、目立たない所に転がしておく。
そして美術棟の二階に戻り、片桐さんがやってくるのを待つ。彼女が美術棟の中に入るのを確認してから、研究室に入って三島の携帯電話で詩織に電話をする。
……この時点で、携帯電話の着発信履歴には、三島から詩織にかけた電話記録が残される。すなわち、三時三十分までは三島が生きていた……と言う、有力な物的証拠がね」
「……」
「その電話は、詩織を伝説の樹の下へ呼び寄せる二重の意味もあった。そして二番目のトリック……オルゴールが使われたんだ」
「オルゴール」
「三島が、三時三十分には、まだ生きていたと詩織に証言させ、そして、三島殺しの犯行が三時四十分過ぎ……四十分か四十五分頃に行われたと印象付けるのが、あのオルゴールだったんだ」
「オルゴールの話は聞きました。三島さんの傍に転がっていたとか」
「そう、オルゴールの箱はね」
拓也は、ちょっといたずらっぽく笑った。
「確かにオルゴールの箱は落ちていた。そして、オルゴールの音がするのを、詩織も片桐さんも聞いている。でもね、本当は鳴っていたのは」
そう言って拓也は内ポケットから、自分の携帯電話を取り出した。そして、着信音プレビューをセットする。そこから流れてきたのは……。
「! ……オルゴールの音」
「最近の携帯は進んでるからなぁ。こうして聞くと本物とちっとも変わらない。オルゴールの音なんて単純だから、その気になれば簡単に再生できるんだ」
「……じゃあ、鳴っていたのは」
「三島の傍に転がしておいた、先生の携帯さ。音量を上げるために、多少の細工はしてあったかもしれない。それは、後で電話機を調べて見ればわかる」
「……」
「鳴らすタイミングには気を使ったはずだ。片桐さんから実習室に呼び出された訳だが、元々呼ばれなくても、先生は彼女の傍に行くつもりだった。実習室のブラインドを事前に少し開けて置き……彼女の絵の批評をするふりをして、裏庭の方に目を走らせていたに違いない。
そして、雑木林を抜けてくる詩織の姿を見つけた。同時に、ポケットにあらかじめセットしておいた別の携帯電話を使って電話を掛ける。すると三島の傍の電話がオルゴールの音を響かせる、と言うわけ。単純なトリックだけど、詩織も、片桐さんも、そして警察も実にあっさり引っかかってしまった。
無理ないよな。オルゴールの音がして、オルゴールの箱のふたが開いたまま落ちていたら、誰だって……」
「はあ……」
見晴が、なんとも気の抜けた返事をした。
「よく聞けば、違いが分かるはずなんだけどね。オルゴールって、鳴り止む時には急に止まるんじゃなくて、回転がゆっくり落ちて、それで止まるからね。音源自体を加工しておけば、そういう再生も可能かもしれないけど……。
でも、ハッキリ言ってそんな事、誰も気にしていなかった。詩織は、三島に会うことで頭が一杯だったし、片桐さんは、その詩織が何をしているのか、興味深々で見ていたんだから」
「……」
「後は説明する必要もないだろう。詩織の悲鳴を聞いて駆け付けた二人は、三島の死体を発見する。先生は、詩織を美術棟の中へ連れて行くように片桐さんに命じ、自分は三島の携帯電話を彼の懐に戻して、オルゴール代わりに使った自分のものを拾い上げる。それで終わりだ」
なんとも茶目っ気に溢れたトリックだ。芹沢先生の、人間味あふれた風貌を思い出しながら、拓也はそう思う。
「この、思い付きにも等しい単純なトリックを見ても、芹沢先生が完全犯罪を目指していたのではない事は、容易に想像できる。とにかく、一時でも自分の周囲から警察の目が遠ざかれば良かったんだ。
先生の狙い通りに、警察の興味は三時四十分頃に伝説の樹の傍にいた人間に絞られた。すなわち詩織一人にね」
「……」
「もし、先生が詩織を本気で陥れようとしていたら、もっと何か、証拠を偽造していたと思う。昨日もワイドショーでやってたけど、か弱い女子高校生が、健康な男子生徒を絞殺するとしたら、どんな手段を取るだろう。延々一時間も番組をやってたけど、電気ショックや薬で痺れさせるとか、ガスを使うとか……いろいろ考えてた。
正直な話、それを、あの詩織がやるのかと思うと、僕は笑っちゃったけどね」
「ふふ……」
見晴も可笑しそうに笑った。やっぱり女の子は笑顔が一番だな。拓也はしみじみそう思い、そして見晴が笑いつつ言う。
「出来ないよね。あの『泣き虫詩織ちゃん』じゃ……」
「あ……覚えてるんだ?」
そう言うと、見晴は遠くを見るような目で微笑んだ。
「覚えてるよ。きらめき町にいた時の記憶は、私とチィちゃんの一番楽しかった時の思い出だもの。詩織ちゃんって、転ぶとすぐ泣いて。私も泣き虫だったから、二人で良く揃って泣いてたよ。あなたは心配してたけど、チィちゃんは、全然平気でソッポ向いたりしてた。
小さい時、四人で一緒に遊んだ近所の公園。また行ってみたいなぁ」
見晴の夢見るような表情を、拓也は懐かしく見つめる。しかし、すぐ現実に引き戻された。
―そうだ。その詩織を、早く救い出してあげなくちゃ……。
「ねえ、見晴ちゃん。話はこれくらいにして、警察を呼ぼう。芹沢先生も、あのまま放っておいちゃいけないし」
「うん……」
二階の兄さんの事を思い出したのだろう。見晴の顔が、また、暗く沈んだ。
「宿直の先生の所へ先に行かなきゃ。さ、行こう」
「はい」
拓也は、努めて明るく振舞いながら、彼女の手を引いて美術棟の建物を出た。見晴は、ふと手の平から、彼の腕へと手を滑り込ませる。その指先の、えもいわれぬ暖かさ。そして彼女の甘い吐息と、しなやかな髪の感触を、今でも拓也は忘れていない。
***
それからの事を、くだくだしく書く必要はないだろう。
真犯人の自殺を知った警察は、大慌てで詩織を釈放し、警察病院から民間の病院に移送した。そして記者会見を急遽開き、真犯人の発表と、詩織への陳謝を同時に行った。報道陣からは、犯人の動機について執拗な質問が続いたが、その点については、ついに最後まで明らかにされなかった。
知晴を静かに眠らせて欲しい……と言う、館林家の強い意向のせいである。警察としては、犯人がすでに死んでいる事に加え、詩織の誤認逮捕という大失態があるため、言いなりになるしかなかった。
そして……
詩織の面会が許されたその日の朝。きらめき町立病院を、一番に訪れた高校生の姿が在った。言うまでもなく、それは本条拓也だった。
彼は扉の前に立ち、しばし躊躇した。この中にいる詩織に早く会いたいと言う気持ちと、会ったらどんな顔をすればいいんだ? ……と言う照れくさい感情が、めまぐるしく彼の心を駆け巡る。なにしろ、第二の殺人以来、彼女には一度も会っていないのだ。
(ええい。ままよ!)
彼は、ついに扉をノックした。
「どうぞ」
澄んだ声がする。間違いない、詩織のお母さんの声だ。拓也は、目をつぶったまま、思いきってドアを開けた。
「……!」
正面から、息を呑む音が聞こえる。拓也はおずおずと目を開けた。
「……詩織」
確かに、そこに彼女はいた。泣いているような、笑っているような……。口元は細かく震え、声が出てこないようだ。そして瞳に湧いて出た一筋の涙の滴。彼女の気持ちをこれほど雄弁に物語るものはない。
(きっと僕も、似たような顔をしてるんだろうな)
強張った顔に、必死に笑顔を造ろうとしながら、拓也は一歩ずつ近づいた。
「よう。詩織」
「……たっくん」
彼が枕元に達した時、詩織は、もはや止まらなくなった涙を拭おうともせず、手を差し出した。
「たっくん……やっと会えたね」
「ああ」
拓也は、差し出された詩織の指を、ちぎれるくらい握り締めた。もう、離さない。今度離したら、彼女には二度とめぐり合えないかもしれない。そんな思いを手の平の温もりに込める。
「良かった。割と元気そうだな」
「もう大丈夫。それに……ありがとう」
「え?」
「事件のこと。あなたは約束どおり、私を守ってくれた」
「出来る事をやっただけさ。それに真犯人も、警察への遺書を残して自殺したし。結局、僕のやった事は……たいした事じゃない」
照れ交じりの拓也の言葉に、しかし詩織は静かに首を振る。
「たっくんがいなければ、私、どうなっていたか。私を大切に思ってくれていた、あなたがいたから私は頑張れたの」
「……」
「だからお礼を言わせて。そして……これからも傍にいて。お願い」
気を効かせたのかもしれない。詩織のお母さんが、花瓶の水を替えに部屋を出て行く。その気配を背中で感じながら、二人はただ、見詰め合っていた。
―この時が永遠に続けばいい。
同じ想いを心に宿しつつ。