Round 12 筑波で神谷忠に教わった!

2003.08.30

 

二輪関係のいい本に出会った。根元健の”グランプリを走りたい”。根元氏のライテク本は数多く読んできたが、この本は根本氏の波乱の二輪人生を綴ったもので、特に前半がものすごく面白い。根元氏はプライヴェーターでWGPにチャレンジした数少ない日本人ライダーの一人だった。この本に引き込まれたのは、根元氏のレース・デビューが60年代のMCFAJのFISCOでのレースだったり、根本氏がFISCOの30度バンクで瀕死の重症を負ったり、始終自分を”怖がりライダー”と称している等、スケールは違うが、おらの経験に酷似している点だ。その根元氏は1995年に平さんと最年長ペアを組んで鈴鹿8耐を走っている。

 

絶版になっていた平さんに関する本、中島祥和の”平忠彦 爆走に賭ける”をアマゾンで手に入れる事ができた。古本が一冊出回ったのだ。その本によると平さんは天才肌ではなく、努力と人間性で大成した、大器晩成型であった。平さんは、ヤマハ・ワークス入りするまで、かなり頻繁に転倒していたようだ。しかし”転びの名人”であったらしく大きなケガはしなかったようで、それが速くなっていった要因のひとつでもあるらしい。それにしても、平さんがレース活動をされていた頃には、多くのライダーが死んでいることがわかる。それが職業ならあきらめもつくかもしれないが、二輪サーキットは趣味でやるようなものではないのではないかと思えてきた。また現在の日本人WGPライダーの主流であるポケバイ出身者らと違い、平さんのワークス入りされるまでの苦労は並大抵ではなかったようだ。平さんはただの二枚目人気WGPライダーではなかった。平さんが茶の間でも有名になったのは、1985年に鈴鹿8耐でケニー・ロバーツと組んだ事と資生堂のコマーシャルに登場した事によるらしい。そう言われてみると、おらが二輪サーキットを始める前に名前を知っていたライダーは、平さんとケニー・ロバーツだけだった。それにしても大手の講談社が出版した有名人を題材にしたこのような作品までが絶版になるなんて、おらは本書の自信がなくなってきた。

 

平さんがWGPに参戦していた頃のDVDも観たが、何故かその頃のWGPでの転倒は現在のWGPでの転倒とは比較にならない激しいものだった。平さんの転倒シーンも何回か観て空恐ろしくなった。ダントツで転倒が多かったのはクリスチャン・サロンだ。いったいどういう神経してたら、こんなに激しい転倒を繰り返しても、サーキットに戻ってくる気になるのだろうかと不思議に思ってしまう。

 

その平さんは1985年の鈴鹿8耐と1986年の日本GPで、ワイン・ガードナーと熾烈なバトルを繰り広げている。これもアマゾンで偶然見つけた古本、”ワイン・ガードナー 最速のGPライディング”を手に入れた。おらがWGPライダーの著作を見つけたのは、邦訳されたものとしては”ケニー・ロバーツ ロードレーシングテクニック”以来2冊目だ。

 

富樫ヨーコの“ポップ吉村の伝説”を読んだ。7週間も会社休んだから本ばかり読んでたのだ。“エンジンの神様”と呼ばれたポップ吉村の創設したヨシムラは、最初からスズキの二輪専門チューナーかと思っていたが、元はホンダの二輪と四輪のチューナーだった。その吉村は生涯一度だけ二輪ロードレースに出場している。それは吉村がMCFAJに頼み込んで1962年に九州で開催された、第5回全日本クラブマンロードレースで、吉村は転倒して脳震盪を起こし、その後は自らのレース出場を断念している。なんとMCFAJの歴史はMFJより古く、1958年にMCFAJの主催によって、浅間で第1回クラブマンロードレースが開催されている。この本にはMCFAJのレースやFISCOが多く登場するのがいい。そして日本で初の本格的なバイクレースは1953年の名古屋TTレースとある。おらが生まれる8年前に、おらの生まれた名古屋で日本発のバイクレースが開催されていた。また1965年まで鈴鹿で開催されていた日本GPが1966年にFISCOで開催されることになるが、既に5クラスでメーカー・タイトルを決めていたホンダは、FISCOのコース・レイアウトが十分安全性を考慮したものではないという理由から、日本GPを欠場している。その本当の理由は鈴鹿サーキットがホンダに圧力をかけたからだと考える者もいた、とある。これがきっかけでホンダとヨシムラの関係が拗れ、袂を分かつている。モリワキの創設者、森脇護は吉村の娘婿で、初のレースでのFISCOで富士山が綺麗だと余裕を見せたらしい。それがレース走行中に観た富士山なら確かに偉いと思う。それにしても著者の富樫氏が女性でありながら二輪レース経験者である事は、前に読んだ富樫氏の“選ばれしGPライダー”にある著者紹介で知っていたが、“ポップ吉村の伝説”といい、これも前に読んだ”ホンダ二輪戦士たちの戦い”といい、随分メカにも詳しい。富樫氏は南米パタゴニア9,000Km走破の経験もあるようで、メカでもライディングでもおらは太刀打ちできない。また、翻訳家でもあるフリ・ライターの富樫氏は、ホンダ・レーシングのコーディネーターでもあるようで、羨ましい限りだ。おらも翻訳家でフリー・ライターでレーシング・チーム・ヤマハのコーディネーターってのを目指したいが、当面は月給取りで、フリー(稼げないと言う意味で)・ライターで、MCFAJオーバー40ライダーだ。

 

そして越智誠の”頂へ 片山敬済の疾走”を読むと、後に日本人初のWGPチャンピオンとなる前途有望な片山を、ヤマハはクビにしていたことがわかる。その片山はゴルゴな人間のようだ。そして片山は二輪引退後、四輪でパリダカを走破していた。

 

次は同じロードレースでもケッタの方。それも地上で最も過酷な競技と言われるツール・ド・フランスに関する、ランス・アームストロングの”ただマイヨ・ジョーヌのためでなく”。おらが高校生のときの、無敵を誇るツールのチャンピオンと言えばフランス人のベルナール・イノーだったが、現在のチャンピオンは脅威の5連覇中の米国人アームストロングだった。そのアームストロングは進行癌から生還者で、その後ツールで優勝し、精子バンクに預けておいた最後の精子で子供を授かった。しかしこの本を最初に目にして素晴らしいと思ったのは、邦訳本のタイトルだ。原文のタイトルは、”It's Not About the Bike”で、マイヨ・ジョーヌというのはツール・ド・フランスの格ステージで、それまでの総合タイム一位の選手が着るイエロー・ジャージのこと。アームストロングのウェブサイトを覗いてみたら、カウンターは何と1,410万に達していた!恐るべし。ちなみにおらのウェブサイトのカウンターはやっと4,000になったところだ。

 

 

平さんが校長のヤマハ・レーシング・スクールは、今年はどれも日帰りコースになっていた。日帰りコースの為にSUGOまで行くのはちと辛いし、鈴鹿ではフル・コースを使わないからだめ。でも8月27日(水)の筑波のスクールには参加したいと思っていた。しかし今回のケガで参加を諦めた。これからおらのホーム・コースになる筑波だから、走行ラインとクリッピング・ポイントを知るためにも是非とも参加したかったのだけど。

 

新しいフルフェースを買った。アライの最新型RX-7RR4のレプリカ塗装で、今年カワサキでWGPに参戦しているギャリー・マッコイのレプリカだ。デザインが気に入った。ノーマル・カラーが\49,000でレプリカは\55,000。ちと高いがヘルメットはけちりたくない。このRX-7RR4はWGPライダーが使っているものと同仕様だそうだ。

 

使い古したタイヤをミシュランのパイロット・レースS2に履き替えた。今までのタイヤと同じだが、今回はミドルでなくソフト・コンパウンドにした。筑波ではあまり走る機会がなさそうだから、12月の筑波のレースに向けた選択だ。

 

 

8月23日(土)、片松葉で歩けるようになったおらは、四輪ビーマーで筑波サーキットに行って講習を受け、サーキット・ライセンスを取得した。幸か不幸か、FISCOの改修によってしかたなく筑波をフリー走行の場と選んだ為、おらは二輪サーキットを続ける気がまだあるんだと思う。FISCOの改修がなければ、おらはFISCOを走るのが怖くて、かといって筑波に逃げる気もしなくて、たぶん引退していたろう。

 

筑波サーキットの住所は、茨城県結城郡千代川村村岡。常磐自動車道の谷和原インター・チェンジから30分ほど北上した田園の中にある。おらの自宅からは、東京都、埼玉県、千葉県、茨城県の順に1都3県をまたいで行くことになる。FISCOに行くのと違って、万年渋滞の首都高を使って都心を抜けなきゃならないから往生こく。往復とも片道3時間もかかった。筑波のサーキット・ライセンス取得料金は\26,000で1年間有効。更新料金は\18,000で、FISCOよりやや高い。でも走行料金は土日祝日30分\3,000と随分安い。講習を受けていてサーキット走行中の事故により入院した場合は、1日\5,000の見舞金が出る事を知った。FISCOで走るときはいつも1日\400の保険料を払ってたから、ひょっとしてFISCOから見舞金が出るかも!と思って翌日FISCOに電話したら入院1日で\6,000と手術で\60,000出ると。10日間入院したから計\120,000出る!生命保険でも入院5日目以降1日\5,000と手術で\50,000で計\80,000出たから、こんなことなら無理に早く退院するんじゃなかった。二輪サーキットを趣味にするなら、入院保険には多めに入っておくのがよかろう。死ぬ確率も随分高くなるから定期保険にも多めに入っておくのが良いかも。

 

筑波のフリー走行はFISCOと違って結構大変だ。FISCOは予約などいらなかったが、筑波は電話で30分単位の予約を取り、走行前々日以降はキャンセルできず、走らなくても走行料を全額とられる。当日雨でもキャンセルできないのだ。一日3回分予約を取って、もし最初の30分で転倒して走行不能となっても、残り二回分の走行料を取られてしまう。またFISCOのサーキット・ライセンスは四輪、二輪のいずれのクラスも一つのライセンスで全てカバーされていたが、筑波のライセンスは四輪と二輪が別。たまには四輪でも走りたいがなー。さらには同じ二輪でもファミリー走行という初心者向けのライセンスとスポーツ走行のライセンスが別になっている。でも都合がいいのは二輪スポーツ走行の中でも、プロダクション・レーサー、プロダクション・レーサーで108以内で走れる人、250ccレーサー、125ccレーサーの走行時間帯を分けていることだ。スピード差のある二輪が一緒に走るのは危ないもの。おらはプロダクション・レーサーの時間帯で走る。よくよく考えるに、込んでなければクラス分けなく走らせるFISCOの二輪スポーツ走行は、無法地帯といえる。また、筑波ではオイル受けアンダーカウルの装着が義務付けられている。おらのR6には既に装着されているが、ノーマル・カウルでは筑波は走れないのだ。

 

筑波での講習の二人目の講師はカミヤ氏。どっかで聞いた名だなーと思いながら、受けないギャグを平然ととばし続けるカミヤ氏の旗信号の説明等の講習を受けていた。講習の後、マイクロバスでコースを回る。運転手になったカミヤ氏はコース攻略法を説明し始めた。とてもライダーには見えないが、やたらと詳しい。走行ラインやクリッピング・ポイントを、こういう理由だからどこにすると、クルマを何度も止めて懇切丁寧に説明してくれる。しかも4ラップも走ってくれた。サーキット・ライセンスを取りにいって、コース攻略法を聞けるとは思わなかったなー。おら感動した。FISCOのときは先導車の後を各自のマシンで走っただけで、ちゃんとしたコース説明などなかった。コース説明が終わってから、おらはてっきり筑波の従業員だと思ったカミヤ氏に、また筑波に来た時にコース攻略法を聞きたくて、「また教えて下さい。普段はコントロール・タワーにいらっしゃるんですか?」と聞くと、「いいですよ。でも私は筑波の人間じゃなくて、レースのある時にいろんなサーキットに行ってるんです」と。名刺交換して別れた。名詞を良く見ると・・・ん?神谷忠?!おらが感銘を受けたレッスン書、”神谷忠のレーシングスクールBOOK”の著者、元ホンダの神谷忠だ!この本には筑波の第1ヘアピンからダンロップ下までの走行ラインが詳細に説明されていたことを思いだし、カミヤ氏のコース説明に納得した。おらは神谷氏のところに戻って、「ホンダの神谷さんじゃないですか!本読みました!」とやった。おらの知ってるプロのライダーは皆それなりにライダーの面影があるから、カミヤ氏があの神谷氏だったとは、想像もつかんかった。神谷氏は元本田技術研究所勤務のテスト・ライダーで、現在は独立され、MFJロードレース副委員長、筑波のライセンス講習会主任講師、ホンダ・レーシング・スクール校長、その他多くの肩書きを持つ。おらはこれでヤマハとホンダ両方のレーシング・スクールの校長と面識を持ったぞ。


0172 教えまくりの神谷忠氏

 

FISCOが長いストレートを持つ高速サーキットであるのに対し、筑波は様々なコーナーで短い二つのストレートを繋ぐテクニカルなサーキットだ。別の言い方をすればFISCOがマシンの最高速度を発揮させ、ブレーキング・テクニックと度胸で走るサーキットであるのに対し、筑波はコーナリング・テクニックで走るサーキットである。その筑波で一番難しいのは最終コーナーだろう。最終コーナーは、最高速度の出るバック・ストレートから続く、入口100R、出口90Rの複合ワイド・コーナーで、その後ホーム・ストレートへと続く。最終コーナーでのスピードはラップ・タイムに大きく影響し、最終コーナーを制するものは筑波を制すると言われている。FISCOのストレートの終わりは、いずれも小径コーナーに繋がるので、ブレーキングでスピードをかなり殺してからコーナーに進入することになるが、筑波の最終コーナーには、ブレーキング後もある程度スピードをのせたまま進入することになる。その進入スピードを決めるのが難しい。そしてこの最終コーナーはワイドな上にヘアピンの様に回り込んでるから、進入してから出口が見えるまで、コーナーのどのあたりまで来ているのか皆目検討がつかないからおっかない。そして高速コーナーだからオーバー・スピードで突っ込んだ場合は大きなクラッシュとなる。しかしここで一度ぐらいはクラッシュしないと、筑波をものにすることはできないだろう。

 


course_s1[1] .jpg 筑波サーキットのコース図

 

 

骨折して運動量の少なくなったおらの体重は、筑波のレースからわずか3ヶ月で9Kgも増え、74Kgとなり、人間ドックで計った中性脂肪値は基準値の倍以上の355に跳ね上がった。

 

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