Round 14 本間師匠と忘年会

2003.12.30

 

5月25日の筑波でのレースで申し込んだビデオ・サービスだが、DVDがなかなか送られてこないから、会社名も書かれていなかったビラにあったe-mailアドレス宛に催促したら7月上旬まで待ってくれとの返事が来た。その後7月をとうに過ぎても送られてこないから再度e-mailで催促したが、それ以降何度e-mailを送っても返事が来なくなった。これもビラにあった携帯の電話番号に電話したら繋がって、もう少しだけ待ってくれという。しかしいくら待っても送られてこないばかりか、それっきり電話にも出なくなった。\4,000前払いしただけだが、金額の問題ではなく、おらはこういうやからは絶対に許せない。おらは泣き寝入りしないたちだ。そこでおらは9月末になって1週間以内にDVDを送るか返金しないと警察に通報するとのe-mailを送信し、留守電にもそう入れた。そしたらしばらくして、金を振り込むから口座番号を教えてくれというe-mailが来た。ビデオが作成できない理由も述べられていたが、人から金を取っておいて音信不通になるなんて、とんでもない話だ。そんな信用できない相手に口座番号を教えたくはないから、現金書留で振り込むように返信したら、やっと10月中旬に返金してきた。悪気があったのかどうか知らないが、詐欺だと思われてもしかたがないだろう。com19mphという会社だ。

 

おらは相手に非があって、なんらかの費用負担をさせたり賠償させたりした企業が少なからずある。名うての大企業がそのうちの半分を占める。ここ数年そういった問題は起こらないが、今のおらにはウェブ・サイトという武器がある。おらがウェブ・サイトを開設したのは本書を知人に公開するためだが、もともと最初にURLを取得したのは、ある企業の製品のおかげで大変な目にあって、おらが賠償を求めたが、交渉がうまく進まず、暴露サイトを作成しようと思ったからだ。結局その企業には不本意な額ながらも賠償をさせて和解に至った為、ウェブ・サイトの開設には至らなかったが、相手はウェブ・サイトでの暴露を恐れている発言をしていた。一民間人でもウェブ・サイトを持つことで、大企業と戦える大きな力を得ることができるのだ。でも悪用しちゃいかんよ。

 

 

2003年の中日はなんと巨人より上位の2位でシーズンを終えた。しかし外様の山田監督はシーズン途中で解任され、2004年の中日の監督には落合博満が就任した。おらは落合が嫌いではないが、中日の後巨人に行った選手というのがちとひっかかる。それは別としても、落合の監督就任を知った瞬間、なぜかおらには落合が無残にも解任される姿が目に浮かんだ。さてどうなるものか。それにしても坂東監督の目はやはりないか。

 

 

公園の舗装路でラジコン・カートのレースを見た。今どきのラジコン・カートはタイヤが白煙をあげながら驚くほど加速し、ブレーキングもハードで、おらはしばらくの間見入ってしまった。これを二輪サーキット代わりの趣味にできたら安全でいいのだけど。

 

 

年に一度はバイク買いたい病とクルマ買い替えたい病にかかるおら。今のビーマーには8年間で85,000Km乗ってる。新車で買ったときの目標10年まであと2年で、バイクを買ったときに新たに決めた目標の15年までは、まだあと7年ある。しかし2003年の東京モーターショーに出展される外車特集の雑誌を見て、欲しくなったクルマがとうとう現れた。アルファロメオのアルファGTとプジョーの307CCだ。ただ、ビーマーの調子が悪くなってくれれば買い換えるのも仕方なしとあきらめもつくが、5年目にはあちこち故障したのに、ここ数年全く故障しない。しかたないので少なくともあと2年は乗ることにするが、10月25日(土)におらは東京モーターショーにこれらのクルマを見に行った。もちろん二輪の展示も見てきた。おらが欲しいトライアンフのスピード・トリプルとBMWのF650CSスカーバーが出展されてた。そしてヤマハのブースには、2004年モデルのYZF-R1が出展されていた。172Kgで172PSだと!ついに1リッター・スーパースポーツはパワー・ウェイト・レシオ1Kg/PSの時代に突入した!メーカー各社はこぞってこんな凶器のような1リッター・マシンを開発するが、サーキットでさえパワーをもてあますようなマシンを公道用に販売するなんて、本当にこんなことでいいのかしらん?

 

 

1998年のFISCOでの四輪レースで大事故に遭ったプロ・レーシング・ドライバーの太田哲也氏が、主催者のFISCO他に損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁が約9000万円の賠償をFISCO他に命じた判決が10月29日に下された。自動車レースの事故で主催者側に事故責任を認めたのはこれが初めてという。例の“死の誓約書”には「主催者の故意、過失に関わらず損害賠償を請求できない」という滅茶苦茶な文言があったようで、判決によればその部分は「社会的相当性を欠き無効」とされている。ちなみにMCFAJの“死の誓約書”には「主催者の故意、過失に関わらず・・・」なんて文言はないが、それがあったとしてもおらは深く考えずに署名していたろう。

 

 

足首に埋めたボルトが折れてから一ヶ月経って、おらの足首の痛みは癒え、整形外科医と協議の上、足首を固定する装具を普段から着用することで、折れたボルトはそのままにしておくことになった。医者にも本間師匠にも再手術を勧められたが、有給休暇の残っていないおらは松葉杖で通勤するのも嫌だったし、12月に筑波で開催されるMCFAJの最終戦へのエントリーも諦めて、治癒に多少時間がかかってもいいと思ったのだ。最終戦に使うつもりだった支払済みの第三戦の出走料金は、お世話になってるLANGの中村店長の出走料の一部にあててもらうことにした。それにもう寒いから筑波でフリー走行する気にもならない。というわけで、おらの今シーズンの二輪サーキットは、FISCOでの大転倒が最後となった。

 

Round yy.mm.dd Circuit Condition Machine Tire Laps Fastest Lap Fastest Time Km/h Crash
1 03.02.01 FISCO Dry T-TT600-2 ML Pilot Race M2 9 9 2'14 119 1
2 03.03.08 FISCO Dry T-TT600-2 ML Pilot Race M2 4 4 2'17 116 0
3 03.03.20 FISCO Dry T-TT600-2 ML Pilot Race M2 17 17 2'04 128 1
4 03.04.09 FISCO Dry T-TT600-2 ML Pilot Race M2 11 10 2'03 129 0
5 03.04.20 FISCO Wet T-TT600-2 ML Pilot Rain 0 - - - 0
6 03.05.11 FISCO Dry Y-YZF-R6 PL Dragon SC 19 19 2'04 128 0
7 03.05.25 Tsukuba Dry Y-YZF-R6 ML Pilot Race M2 14 13 1'16 98 0
8 03.05.30 FISCO Dry Y-YZF-R6 ML Pilot Race M2 28 19 2'00 132 0
9 03.06.26 FISCO Dry Y-YZF-R6 ML Pilot Race M2 8 5 2'03 129 1
Total           110       3

2003年シーズンのおらのサーキット走行記録

 

今シーズンの9回に3回の転倒率は、2001年の11回に6回の転倒率からすれば大いに向上している。そして半年間シーズンを棒に振ったわりには、計110ラップの走行量はまあまあだろう。何と言っても、初めてのレース出場、そしてFISCOでの2分切りと、ほとんど走ることのなかった2002年シーズンに比べれば、実りの多いシーズンだった。おまけに200Km/hでの転倒なんていう、あまり体験できないこともやった。ケガが治って来年暖かくなり、サーキットに行く意欲がわいてからでないと、来シーズンのことは考えつかない。ただ来年はもてぎと鈴鹿を走行会で一回ずつ走ってみたい。それとも来年こそ引退するかも・・・。

 

 

11月11日(火)、S社から出版賞の結果が郵送されてきた。応募総数5,038点で、本書は大賞1点にも、ノンフィクション部門最優秀賞1点にも、ノンフィクション部門優秀賞5点にも、ノンフィクション部門奨励賞20点にもひっかからなかった。いいところまで行くと思っていたおらは大ショック。金額によっては共同出版も辞さずと思ったが、見積金額を見ておらは共同出版も諦めた。やはりおらは、月給取りで一生を終わるのか・・・。世の中そんなに甘くないね。これで本書は日の目を見ることなく、おらのPCのハードディスクに埋もれることとなった。こうなったら本書はおらのウェブ・サイトで一般公開しようかしらん。

 

 

11月27日(木)の夜、友人の岡田の手配した4t車で、TT600 1号機と2号機が名古屋に向けて運ばれていった。

 

 

12月7日(日)にMCFAJのロードレース最終戦をかみさんと筑波まで観にいった。Team LANGからの出走は中村店長だけ。今回中村店長はホンダCBR600F4iで初めてノービス・プロダクション600クラスに出場し、ファステスト105で2位入賞を果たした。決勝での鮮やかな2台抜きはWGPのテレビ観戦より感動した。そして来年のMCFAJ第一戦は筑波で2月だと。まだケガが完治していないし、練習する時間もないからおらはたぶん出ない。第一戦、第二戦、第四戦は筑波で、第三戦は何とSUGOだと!FISCOが使えないし、もてぎは使用料が高いからSUGOになったようだが、とんでもなく遠いところでやるもんだ。SUGO 6時間耐久なら出たいけど、MCFAJの一戦の為にSUGOまで行くのは考えちゃうなー。

 

 

12月20日(土)にLANGに行った。いらなくなったトライアンフの帽子を村崎さんにあげるためだ。オーバー40の小山さんとTeam LANGのメカニックの沢口さんがいた。「SUGO 6時間耐久に出ましょうよ!」と中村店長と沢口さんに話すも、相当金がかかるみたいでその気になってくれない。SUGO 6時間耐久のことを皆は「すごろく」と呼んでいた。LANGに置いてあった1990年式カワサキのゼファー750に試乗させてもらった。おらの好きな青だ。最初は13年前のネイキッドのナナハンならちょうどいい速さかも・・・と思っていたが、走ってみるとどえらい速い。おらには街乗りでもレッド・ゾーンまで回さないと気がすまない習性があるから、二気筒4サイクル250ccのSRV250なら安全に走れるが、このゼファー750は1速でもレッド・ゾーンで100Km/hぐらいは出るだろうから危なくてしょうがない。でも欲しい・・・。乗らないに違いないのに・・・。中村店長がいつのまにか錆びついてたSRV250のチェーンに油をさしてタイヤの空気も補充してくれていた。この日久しぶりにSRV250に乗ったがシフト・チェンジでの足首の痛みはなくなったものの、左コーナーで左足底をステップの先に置くと痛い。

 

 

12月29日(月)、おらは何年かぶりにかみさんとクルマで名古屋へ帰省し、本間師匠や江場ちゃんと飲んだ。岡田は残念ながら仕事の都合で来れなかったが、ヤマハの社員の林さんとWGPでアンテナ3のメカニックをやっていた石井さんが同席。師匠に会ったのは2年ぶりだ。師匠に聞きたかったいくつかの質問をし、回答してもらった。

 

ブレーキングはどこまで続けるか?

ブレーキングはクリッピング・ポイントまで引きずる。

 

ブレーキング後のスロットル・オンのタイミングは?

ブレーキング終了とほぼ同じにスロットル・オン。

 

FISCOで風が強いときホーム・ストレート終盤で自然と右に流されるが、左に戻そうと左に寝かそうとするとどうしても頭がカウルから出てスピードが落ちる。これを防ぐ方法は?

カウルに穴を空ける。

 

ハングオフの際、おらはイン側の足の裏をステップの根元につま先があたるように置いているが、WGPを観ていたらイン側の足の裏をステップの先端に置いていたがどちらが正しい?

イン側の足の裏をステップの先端に置く

 

師匠も弟子のおらもびっこをひいてた。膝にはまだ完全には力が入らないし、足首の骨もなかなかくっつかない。冬のボーナスでR6を買った際のかみさんへの借金\400,000をやっと返済し、おらは、42歳の厄年の年末を迎えたのであった。

 

2部 完

 


2部の執筆を終えて

 

2001年末の左肩脱臼以来、サーキット通いも、本書の執筆も嫌になった筆者は、二度とサーキットで走ることなどないと思っていた。ところが2003年に入ってから筆者はまたサーキットに通い出し、必然的に再びサーキットでの体験を執筆しだす。そしてそれからたった2ヶ月程で初のレース参戦を決めるなど、筆者自身思ってもみない展開となった。しかし筆者は2001年シーズンには経験しなかったサーキットへの極度な恐怖感を持ち、自信をなくしてしまった。また、TTのエンジンを再びダメにしたり、大ケガをするという悪夢もあった。なぜ怖い思いをしてまで二輪サーキットをやるのかという自問の日々が続いた。そこにサーキットがあるから?レースがしたいから?生きていることを実感できるから?いろいろ理由はあるにせよ、自分を含めて二輪サーキットをやる連中の気が知れない。職業ライダーでなくて良かったとつくづく思う。趣味としてやるならいつでもやめられるから。加藤大治郎の死から数ヶ月がたち、彼はWGPの殿堂入りをするとともに、ゼッケン74は永久欠番となった。筆者は忘れない。日本人の天才ライダーがいたことを。そしてサーキットの安全性とオートバイの危険性を。

 

とはいえ、現在筆者は二輪レースを経験したことが嬉しくてしかたがない。筆者はサーキットに通いだしてから、世の中には二輪レースに出場したことがある人間とそうでない人間がいると考えるようになっていた。それがWGPであろうと草レースであろうと関係ない。そして筆者もいつしか二輪レース経験者の仲間入りをしたいと思うようになった。二輪関係の多くの著書を持つ富樫ヨーコや女優の高島礼子が二輪レース経験者だと知ってから、その思いは増した。そして筆者は二輪レースに出場したことにより、師匠やWGPライダー達の仲間入りをしたという優越感に浸ることができた。泉優二の“マン島に死す”に「どうして、俺がレースをやるって分かったんだ」「匂いさ、君の体に染みついた」というくだりがある。今の筆者にはレースをやる男の匂いがプンプンするはずだ。ところで後に高島礼子が出場したのは四輪レースだったということと結婚していることを知りがっかりした。

 

江場ちゃん、師匠、飯尾さん、本田さん、スナップリングのお二人、Team LANGの皆さん、そして筆者のサーキット人生に関わっていただいた皆さんのおかげで、筆者は素晴らしくも悲惨な二輪サーキットの世界を垣間見ることができました。どうもありがとうございました。これからもよろぴくー。

 

2003年12月30日

デューク南郷

 

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