第3話
住み慣れた生活も8年暮らしましたが、ここで一番大きな問題がおこりました。
東京にお店があって埼玉にも家があって二重生活を8年ぐらいしていましたが、私がいるために母が毎日朝晩と家に帰ってきてれたんです。
本当は、家族で住む家でしたが、父親が病気で私が、中学3のときに糖尿病になってしまいました。
昔は景気が良かったんですが、今は、お店のほうも全然だめになってしまい、若い人は、ヨドバシカメラにいってしまい小売店はさっぱりだったんです。
それで、借金をかかえてしまいお店をつぶすか、埼玉の家をつぶすかどっちかきめなくてはいけないことになってしまい、両親は、私を安全な場所の所にいかせようとしてそこで、施設のはなしがでたんです。
両親は、八王子にある自立ホームと言う施設を妹、おじさんと見に行きました。そこの施設は、設備がととのっていて10畳ぐらいの部屋に一人で生活ができて、カーテンを開けるのも自動で、台所も高さによって自由に調節ができていて今までにない施設です。私は、施設を見学をして一度入ろうと両親に言いました。病気の父は「お前がきにいったんなら議員さんにたのんでお願いしていくからいいね」「うん」と言いました。
その前に、わらじの人達にあいさつにいってくる。でも、わらじにいけばアパート暮らしをするっていってしまう。家に帰れば施設に入るといってしまう。どっちか決めないといけない、自分がわかんなくなって、どうしていいのかそうこう言っているうちに、施設の入る日が決まってしまいました。私は、今わらじの人達と草加駅にエレベータを作る運動をしているのに、施設に入ったら、エレベータ設置の運動ができなくなると思い、私は、やっぱり施設にはいらないと言いました。
病気の父は「なんでお父さんの言うことを聞かないかそんなに言うことを聞かないと 「お前を殺す」
「きゃ」こわいよとわらの人達と電話で相談をしました。
「わかった今行くよ」と、わらじの人が、車で家まで迎えに来てくれました。
このまま家出をしてしまい、母が仕事から家に帰ってきて、私の姿見えなく探しました。私は、谷中耳鼻科に逃げ込み次の日に母とおじさんが私をつれもどしにきて、「やだ、帰らないここにいる。」もうここでに私がいる事がわかってしまったので、今度は知り合いの家に逃げました。
今度は、父が耳鼻科に電話をしてきて警察に訴えるぞ、と、落どしたんです。そんな騒動があって、耳鼻科の一角を借りて1ヶ月生活をして、そのあいだ、介護のビラを作ったり、生活保護の勉強をしたりしました。
黄色い部屋に、ある日お客さんがみえました。二人の男性でした。
春日部で作業所を作りたいといってたずねてきた、そのとき山下さんと、私がいて、二人の話を聞いているうちに、山下さんは「野島さん」会の代表になりなさいと言って、その後その二人の男性とアパート探しました。
今、バリ研通信に私の生い立ちを、連載にして乗せてもらっています。皆さん読んでいただいたでしょうか?まだまだ続きますが、感想などお寄せください、返事を待っています。
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