無限大の…

第1話 右か左か 

 やけに空が黒くて、暗い。
 おおきな雲がうずを巻くように、まわっている。ごうごうという風の音が、耳をうってとぎれない。
 空の下には、ごつごつした岩場がある。足をふみいれる者をこばむかのように、おそろしい形にえぐれて見える黒っぽい岩々が、灰色の空のせいで、ますます黒く、ぶきみな影をつくっていた。
 そのなかを、ひるむことなく進むものがいる。
 雲のうずと切り立つ岩が、おどかすように存在感をましたが、歩みはいっこうにとまらない。一歩一歩、しっかりとした足どりで、侵入者はすすんでゆく。ふたつの瞳は、なにものも見落とさないように、見ひらかれたままだ。
 だしぬけに、洞窟があらわれた。ふかい闇が、足をふみいれるなと、無言でうったえかけてくる。それでも、侵入者はすこしためらっただけで、ゆっくりと中にはいっていったのだ。
 静かになった。しずくが、どこかで切れぎれにくだける。
 水をふむ足音が、ずんずんと奥へすいこまれていく。すがたは見えなくても、足はこびにもう、迷いはない。
 この洞窟のなかには、なにかがある。侵入者は、それをめざしているのだ。
 足音がとまった。
 見すえる闇のなかに、あかい光がぼうっとうかびあがる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
 なにかがいる。大きい。

ごはあああ。

 はでな音がした。よく見えないが、どうやら『でかぶつ』が、息をはいたらしい。ものすごくくさい。侵入者が暗がりで、顔をしかめた気配がする。ちょっと後ずさったようだ。

『…ここを通ろうとするは、なにものだ…?』

 ひどいしわがれ声がした。
 『でかぶつ』の声だ。おそろしさもあるし、くたびれたようなひびきもある。
 答えはない。
 『でかぶつ』は、めんどうくさそうにまた息をはいた。

『…まあいい。通りたければ、かってにするがいい。ワシはもう、つかれた』

 ごそりと、重い音がした。『でかぶつ』が、からだをずらして、道をあけているのだ。

『だが、条件がある』

 進もうとした侵入者の歩みが、ぴたりととまった。足もとにたまった水が、ぱしゃりとはねる。
 重くるしい声が、さらにつづく。

『この先にすすむのならば、おまえは選ばねばならん』

「…選ぶ?」

 侵入者が、はじめて口をひらいた。『でかぶつ』にくらべれば、ずっと高い声だ。

『行けばわかる』

 闇のなかの目が、ほんのすこし細くなった。

『右か、左か。好きなほうを選べ。だが、どちらかにしか進むことはできぬ。それをわすれるな』

「…………」

 ことばの意味がわかったのかどうか。侵入者の足が、ふたたび動きはじめた。とまることなく、あいた道をすりぬけ、遠ざかり、やがて気配さえ消える。それをたしかめて、『でかぶつ』はまた、からだをもどしていった。

『……右か、左か、か』

 口をきくのもおっくうなのか、重くるしい口調とともに、四つの目がまた、とじてゆく。

『…不条理な、話だ…』

 静かになった。闇がいっそうふかまって、音がすいこまれ消えうせる。
 ぽちゃ。
 たまにどこかで、水がしたたるばかり。
 ぽちゃ…。





 ぽーん、ぽーん、ぽーん。
 朝日をさえぎりながら、サッカーボールがまるい影をつくり、上下している。
 ぼさぼさの髪が見えて、世界がいっしゅん、まっくらになり、ぽん、影がはなれた。くるりと回って落ちてゆくそれを、日にやけたひざが受けとめる。右、左、右、左。

「大輔〜!」

 よばれてふりかえった先では、親友が手をふっている。

 大輔とよばれた少年は、ひざとつま先で器用にボールをさばいて、やさしく着地させると、ふりむいた。

「おう」

 つぎのしゅんかん、走りだした。ボールは、足からはなれていない。マークを軽くかわして、空中に球をもちあげるや、きれいな直線をえがき、ゴール。
 ステップをふんで立ちどまった大輔は、小さくガッツポーズをとり、休むまもなく、親友のほうへとボールをほうった。
 こんどは、大輔が守るばんだ。負けずおとらずのたくみさでドリブルしてくる親友の足のうごきを、冷静にみる。切りこんだ。はかったように、相手の走る先へ。ひるんだスキに、ボールはまた、大輔の足にもどる。
 よろめきそうになりながら、ふりむいた親友が、苦笑いした。

「まいったなぁ〜。 おまえ、またうまくなったんじゃないか?」

「まぁな。それだけの練習はしてるぜ」

 けんそんすることなく、大輔も腰に手をあてて、ニッと笑ってみせた。ふたりのあいだがらが、よくわかる。
 そうこうしているうち、他のチームメイトがグランドにはいってきて、てんでにウォーミングアップをはじめた。一足さきに休憩している大輔たちの姿を見て、ディフェンダーの松本が声をかける。

「おまえら、はぇぇなぁ」

「まぁね」

 こたえる大輔の頭が、ぽんぽんたたかれる。

「まぁ、本宮も佐々木も、うちのツートップだからな。佐々木なんか、アレだろ? Jリーガーだろ?」

 本宮というのは、大輔のことだ。その大輔の親友にして、照れたように頭をかいたのは、佐々木信二。
 同時に大輔が、ちらっと信二を見た。

「聞いたぜ〜。校長じきじきに、話がきてんだって?」

「…まぁ、たしかに、そういう話はあるけど…オレより、大輔のほうがうまいぜ」

「そうか? そうでもないと思うがなぁ」

「運がよかっただけだよ。練習量だって、大輔のほうが…」

 てれてすこし顔を赤くし、信二は目をちょっとそらした。松本はかまわず、なおも信二をおだてる。と、大輔がとつぜん立ちあがった。

「さあって、と。さっさと始めようぜ。練習練習!」

 伸びをしながら歩きさる姿を目で追いながら、松本はおおげさに、ためいきをついてみせる。

「ま、あいつもそうとうのもんだけど…個人プレーがめだつからなぁ」

「やめろよ、そういうかげ口みたいな言いかた」

 聞きとがめて口をはさむ信二を、松本はしらけた目で見て、またかるく、ためいきをついた。

「お前もさ、あいつと仲がいいのはわかるけど、もうちょっとクールになれよ。ライバルでもあるんだぜ?」

「…オレは、大輔をそんなふうに思ったことなんてないよ」

「あっそ。ま、ご自由に」

 背中をむけて離れてゆく松本の後ろ姿を見ながら、信二はしばらく立ちつくしていたが、すぐに小さく頭をふって、グランドのほうに足をむけた。視線のさきには、大輔をとらえている。グランドに腰をおとし、シューズのひもを結びなおしているようだ。
 大輔の手つきは、すこしあらっぽい。結び目がいまひとつ、うまくつくれずにいる。また崩れた。右手が、ひものはじっこを、ぎゅっとらんぼうににぎりしめる。それから、また結びなおしがはじまった。横顔の表情は、わからない。

「…だいじょうぶか?」

 大輔の肩がいっしゅん、ふるえた。ぎこちなく、ふりかえる先には、信二の気づかわしげな顔がある。

「…ああ、なんでもねぇよ。くつヒモが、ちょっとな」

 大ざっぱに手をうごかしてから、大輔はゆっくり、立ちあがった。

「そっか。ならいいんだ。じゃ、はじめようぜ」

 ほっとしたような信二の顔を、またちらっと見てから、大輔はおおきく息をすって、さけび声をあげた。

「おっし! 気合いいれてくか!」

「おう!」

 グランドのそこかしこで、こだまのように声があがり、止まっていたグランドの時間が、ゆっくり動きはじめる。
 そろそろ、日ざしがきつい季節になろうとしていた。





「やれやれっ…と」

 夕日が、高等学校の校舎をオレンジ色にそめるころ、大輔はげた箱から通学用のくつを取りだしていた。
 くつヒモを結ぼうとして、けさのことを思いだしたのか、すこし笑う。くたくたにつかれていた。

「よっと…」

 ユニフォーム入りの、重いショルダーバッグをもちあげて、あけはなしの出入り口と正門をぬけ、そこでちょっとバッグをもちなおし、なんとなく上を見あげて、歩きだす。正門前のでかい木がつけている若葉が、ゆっくり視界をながれはじめた。

(今日はどうすっかなぁ…。疲れてるし、コンビニ弁当にしちまおうか…それとも)

 駅前のファーストフードが、頭をよぎる。

(いや、まてよ…たしかスーパーで、魚の特売やってたな)

 思案しているあいだにも足はすすみ、商店街はもう、まぢかだ。いせいのいい兄ちゃんが、スーパーの前で客よせをしているのが見えてくる。足がとまった。

(…いいや、今日はマックにしよう。あの兄ちゃん苦手だし)

 このまえも、あのいきおいについ、つりこまれて、いらない分まで買ってしまったにがい思い出があるのだ。大輔は方向をかえて、マクドナルドのほうへ向かった。そろそろ6時半だ。夕ごはんにはすこし早いが、どうせ夜ふかしや夜食のくせもないので、たいしてちがいはないだろう。朝ごはんのたくわえはある。
 だが、目的地についてみると、店の外まで行列ができている。大輔はうんざりした。肩から力がぬける。

(しょうがねぇ、コンビニ弁当でいいか。この時間じゃ、どーせろくなもんねーだろうけど)

 きびすをかえし、こんどは駅のほうへ。つぎの電車がくるまではには、まだすこし時間があるようだ。こんなことなら、さっきの店で買い物していればよかった、とも思ったが、いまさらひき返す気にもならない。とりあえず駅にはいり、荷物をおろしてひと息。ふと目にはいったキオスクには、色とりどりのお菓子が陳列されている。

(…ハラへったなぁ…)

 ふらふらと、たなの前にすいよせられた大輔は、なんの気なしに、赤い包み紙のチョコレートを手にとっていた。

(………)

 ひどくなつかしい感覚をおぼえて、視界がいっしゅん、ぶれる。声がきこえた気がした。
 いや、いつでも聞きたいときに、その声をきくことはできる。
 ただし、じぶんの記憶のなかだけで。
 宝物のように、だいじにしまっている、遠い日の記憶のなかにだけ、その声はひびくのだ。
 声のぬしは、とてもひとなつっこくて…。

「お客さん?」

 気がつくと、キオスクのおばちゃんが、けげんそうな顔で見ている。大輔は、目をぱちくりさせた。

「買うの、買わないの?」

 手のなかにうっすら汗をかんじながら、チョコレートに目をやって、

「すんません」

 ごそごそと制服のポッケをさぐって財布をとりだし、お釣りを一円もらった。
 ふとホームのほうを見ると、屋根がだいぶ黒くなって、むこうには赤むらさきの空が見える。もう、夜は目の前まで来ているようだ。
 待合室にもどった大輔は、いちどチョコレートをバッグにしまったが、思いなおして取りだした。ぶきっちょに封をきって、ひとかけ口にほうりこむと、甘さがじわっと口じゅうにひろがってゆく。

「…あめー…」

 ぼそりとつぶやいて、天井を見上げる。かんかんかんかんかんと、踏切の音がきこえてきた。





 本宮大輔が東京をはなれ、サッカーの名門として知られる地方の私立高校へかようようになってから、もうずいぶんになる。
 とうぜん自宅から通学するわけにはいかないから、学校のほうにせわしてもらったアパートでくらしていた。ほんとうは寮にはいることもできたのだが、大輔のほうでことわった。もともとサッカー特待生としてはいったのだし、プロ選手の道も真剣にかんがえていたので、ほかのメンバーと試合いがいで、なれあいをしたくなかったのだ。
 それに、自主性のあるひとり暮らしにあこがれもあったし、そこへとびこんでみることで、自分だめしをしたかった、というのもある。学校がわはこの申し出をあっさりと承知した。そういう校風らしい。
 しかし、大輔のへやからはかれ自身の声と、キーボードをたたく音いがい、とくにかわった音がしない。
 家にいるときの大輔は、とても無口だった。
 さいきんはTVも見ず、ゲームもやらず、たまにへやを出たとおもえば、ちかくの公園でサッカーボールをけっているか、走っている。毎日が、そのくりかえしだった。
 けれども、きょうは、すこしちがった。
 コンビニで買い物をすませ、まっすぐに家へむけて進んでいた大輔の足が、止まる。
 いつもと同じアパートの、大輔のへやにつづく階段ののぼりはじめのところに、なにかがいた。

「……?」

 背中にみょうな警戒心をおぼえながら、そっと近づいてみると、どうやら人らしい。ひざをかかえて、頭をふせて、ぼろぼろのTシャツをはおっている。髪の毛が長い。女の子のようだ。
 もともと人通りのすくないところなので、まわりにはだれもいない。蛍光灯がぼんやり、女の子の姿をてらしだしているだけだ。どこか遠いところで、犬がほえているのがきこえる。

「……ふう…」

 ちいさく息をはいて、バッグを肩にかけなおし、一歩ふみだした。とにかく、どいてもらわないと、へやに入れない。
 こんどはえんりょなく、ずかずかと近づいてゆく。足音に気づいたのか、少女がはっと、顔をあげる。うす暗いなかではっきりとはわからないが、かわいらしい顔立ちだ。大きくてひとなつっこそうな瞳が、大輔のすがたをうつす。

「……あ……!」

 かわいい唇から、ちいさな声がもれたが、大輔は気づくことなく、すぐ目の前に立つと、とがめるように、

「あのですね…」

 言いかけたが、声がとぎれた。胸にとつぜん、重いものがぶつかってきたからだ。

「…って、うわぁっ!?」

 よろめいて見おろす先には、大きな瞳がある。わけがわからないまま、足がもつれて、今度は尻もちをついた。

「ててて…なん…」

 おどろくまもなく、女の子が大きく腕をひろげたのが見えて、大輔は力いっぱい抱きしめられる。

「…え? え? なに!?」

 しかし、つぎのしゅんかん、もっとおどろくべきことがおこった。

「大輔っ!!」

 ききおぼえのある声だ。

「大輔っ! 大輔っ! 会いたかったよ! オレ、ずっと待ってたんだ、ここにいれば、大輔に会えるって!」

 どうやらそれは、じぶんにギュウギュウ抱きついている女の子が発音しているらしい。
 もちろん、聞きおぼえがあるというのはただの気のせいだろう、そう思って、

「…あのー、なんでオレの名前を?」

 力がゆるんだ。がばっと、あの大きな瞳が目のまえいっぱいにうつる。

「…オレのこと、わかんない? それとも忘れちゃったの、大輔?」

 大輔とおなじくらいに見えるのに、ちいさな子どものようなしぐさと口ぶりだ。わざとやっているようには見えない。地なのだろう。だが、

「…悪い。 あんた誰?」

 やっぱり知らない顔だ。
 とたんに、少女の表情がすねたように変わって、眉があがった。

「ひどいなぁ、大輔ならわかると思ったのに。オレだよ!」

「…………誰?」

 少女が一転、にこっと笑って、

「オレ、ブイモンだよ、大輔っ!」

「………………………………は?」

 時間がとまった。
 大輔の耳に犬の遠ぼえが、まるで遠い世界のできごとのように、かすれて聞こえてきた…。