いつか、そこに。 <epilogue>


 固く抱き合う二人の姿を、セシリアはぼうっと眺めていた。
 階上で女官長が柔らかな笑みを浮かべ、そして―そしてエドワルドがいつの間にか自分の傍に降りてきていることすら、しばらく気がつかなかったほど。
 すっと自分の目の前に差し出された手が、やっと彼女をその空間に引き戻す。指の長い、幾分骨ばった男らしい手。
 その意味するところを知りながら…いや、知っているからこそ当惑してセシリアは手の主を見上げる。
 固まってしまっている少女を見てエドワルドは苦笑し、身を屈めて自分から彼女の手をとった。
「僕がガーネットの話を君に聞かせていたのは、彼女がこのくびきを打ち崩そうとしていたからだよ」
 そう言ってセシリアを立ち上がらせる。
「上の者が、全てを投げ出して下に下るのは簡単だ。出奔してしまえばいい。だけどそれでは責任逃れになる。ガーネット女王にもそれはできなかったし、僕もできなかった。たとえどんなに相手を愛していても。ではどうすればいいか。…僕にはわからなかった。それでも彼女は諦めなかった。そして…ちゃんと答えに辿り着いたんだ」
 その言葉の先をまたもや勝手に解釈してしまった少女は、矛先を自分に向けて俯いた。
「ジタン様のように、川を飛び越えることなど私にはできません」
 蚊の鳴くような細い声で呟く。
「彼らと同じになる必要はないんじゃないかな」
 エドワルドは目を細め、寄り添うジタンとガーネットを見つめた。
「僕らは、僕らの道を行けばいいんだ。それが、彼らの示してくれた道のような気がするよ」
 そしてセシリアの手を握ったままの指に力をこめる。
「君を貴婦人に仕立て上げるつもりはない。僕が巷間に下りるつもりもない。君は君の生きたい生き方を選べばいい。そして僕は、君を護る人生を選ぶ。ただそれだけのことだ」
「エドワルド様…」
「できたら、君に僕を見て欲しいけどね」
 少年のように笑う黒髪の領主を恐る恐る見上げて、セシリアははにかんだように微笑んだ。それが全ての答えだった。

「さあさあ、ご一同様!朝餉の時間はとうに過ぎておりますよ!このままここにいらしては、宮廷一恐ろしいクイナ料理長のお怒りをかいますわ。このまま小食堂の方を開けますので、皆様そちらにおいでください。すぐに準備をいたしますから」
 二組の夢を半ば強制的に目覚めさせて、女官長のきびきびした声がホールに響く。
 彼らはお互いに顔を見合わせ、そして一様に弾けるような明るい笑顔を浮かべながら歩き始めた。
 が、そこは女官長。
「セシリア!あなたは、お給仕をするのですよ!」
「は、はい、女官長さま!」
 すかさず飛んでくる言い付けを、セシリアは嬉しそうに承る。
「エドワルド様、すぐにご用意いたしますから」
 ちょこんと膝を曲げて、挨拶を送ると、彼女はすぐに踵を返して広間を後にした。
「クイナ様にちゃんとこちらのことをご連絡するのですよ!」
「はーい、わかっておりますぅ!」
 回廊に続く中庭から明るい声だけが返ってくる。
 そのあまりの無邪気な愛らしさに思わず口元を緩ませながら、ガーネットが何か言おうと口を開く。
「だめだぞ」
 だが先に、ジタンがそっと人差し指を彼女の唇に押し当てた。
「セシリアをどこかの貴族の養女にしよう、とか提案しようとしただろう。だめだからな。そういうのをお節介、っていうんだ」
「ず、図星だけど…。ひどいわ、お節介だなんて」
 ぷーっとほっぺたを膨らませるガーネット。
「あいつらのことはあいつらで何とかするさ。それが愛の証だって、今さっき言ったろ?」
「それは、きいたけど…」
「乗り越えた壁が大きいほど想いは深いんだって」
 ぼそぼそと、背後のエドワルドに聞こえないように囁きあっていたつもりの二人だったが、どうも前方には注意を払っていなかったようだ。わざとらしい咳払いをひとつして、女官長が振り返った。
「まだまだ駆け出しのお二人が何をおっしゃいますやら。結婚生活はそりゃあもう、谷だらけなんでございますからね。でも…そうですね。ともに乗り越えていくうちに、なにかしらそこに生まれてくる連帯感みたいなものがございますわね。なぜだか人はそれを…愛と名づけたがりますけれど」
 果たしてそれが愛なのやら。
 そう嘯いて背を向け、彼女は再び歩き始めた。

「人生のはるか先を生きる人の言葉だからな。重みはあるよな」
 その幅広の背中を眺めながら、何故か妙に納得するジタン。
「じゃあ、今の私たちの間にあるのは、愛ではなくて何なのかしら」
「…それも愛だろ?生まれたての初々しい、さ」
「それがいつか、育っていくの?」
「違うな」偉そうにしたり顔でジタンが言う。「育ってくんじゃなくて、俺たちで育てていくんだ。そしてそこにきっと」
 そこまで言ってジタンは口をつぐんだ。言っているうちに自分で恥ずかしくなってきたのだ。その彼の心理が手に取るように分かって、ガーネットはくすくすと小さな笑いを洩らした。
「そうね、ジタン」
 あなたの言いたいこと、わかるわ。
 あえて言葉にはしない優しい相槌とともに、自分に差し伸べられたガーネットの手を、ジタンは自分の腕に導く。ちょっと得意げに、女王陛下をエスコートしつつ歩き始めるジタンと、全てを委ねるように、安心しきった瞳で彼を見上げるガーネット。
 その麗しい二人の姿を、早春の光が包みこんだ。
 すでに日は差し上り、春告鳥のさえずりが軽やかに辺りを満たす。
 それはひと時の夢を語る――。
 すべて世はこともなし、と。