俺が探してくる。
かっこいい台詞とともに去って行ったのはいいが、ジタンはなかなか帰ってこなかった。
待ちくたびれたガーネットは、女官長が止めるのも聞かずに後を頼んで部屋を出た。
ルシアスと違って図体がでかく人目に立ちやすいジタンを追うのは簡単だった。
「湖の方に行かれました」
「バラ園の通路を通って向こうに渡られたようですわ」
庭師、まかないの調理師、回廊を渡る女官たちが口々に彼の行方を教えてくれる。
「ありがとう」
にこやかな女神の微笑を返しながら、ガーネットは足早にバラ園に向かった。
城の裏側にある広い庭の一角はバラのアーチに囲まれた細い通路になっている。園と呼ぶにはいささか小さすぎる感もあるが、しかし城では誰もがその場所をそういい慣わしていた。
この通路はブラネ女王を祭った築山に続いている。
夏の真っ盛り。季節を得て、真っ赤な花を勢いよく咲き誇らせているその小径を、ガーネットはひた急いだ。むせ返るようなバラの匂いが、むっとする夏の土の匂いと交じり合って彼女の体を包む。考えてみれば、こんな時間に外を歩くのは久しぶりだった。
ブラネの築山は深閑とした梢に囲まれて端然とそこにあった。
晩年悪鬼の如き暴君と化したとはいえ、生前の彼女は慈愛溢れるよき女王でありよき母だった。
ジタンが戻ってくる前までは、ガーネットはよくこの場に佇んだものだった。一人では支えきれない重責を分かち合ってもらえる場所だったからだ。ブラネの面影を偲ぶことで、気持ちは少し楽になった。
感慨深げにガーネットはその場に立ち止まった。
ジタンが戻ってきてくれてからというもの、彼女は滅多にここに立ち寄らなくなっていた。
彼の存在は、彼女にとって磐石の礎も同然だったのだ。
だが、ひさしぶりにここを訪なって、ガーネットはかすかな胸の痛みを覚えた。
義母を忘れたわけではない。それでも、もっともっと心を尽くすべきだったのだという想いがこみ上げてくる。
「ごめんなさい。お母様」
思わず跪き、ガーネットは祈りを捧げた。そのとき。
――いいのだよ。
梢を揺らす風すらない静かな築山に、不意に暖かな声が降ってきた。
驚いて顔を上げ、あたりを見回すガーネット。
だが、誰の影も見当たらない。
戻ってきた風に木々の葉が揺れた。きらきらと光る木漏れ日が、白い花崗岩の墓石の上に散る。
「お母様?」
試しに呼んで見る。だが、応えはなかった。
ふと我に帰って彼女は苦笑した。何を馬鹿なことを考えているのだろう。なき母の声が本当に聞こえたりするわけがない。きっと、自責の念が起こした幻聴なのだ。
そう思って彼女は軽くかぶりを振った。
「こんなことをしている場合じゃないわね」
ドレスの裾を翻して、彼女はバラ園とは反対側の階段を駆け下りた。
眼前に広がる広大な湖。
一年で一番日の長い7日間である。夕方近い時間になっているとはいえ、まだまだ日は高い。
静かな湖面が強い夏の光を弾き、湖畔を歩くガーネットの体に水紋の模様を映し出した。
光の網の向こうに、潅木の茂みに覆われた小高い丘が見える。
春先に白い花が咲き乱れるそこは、どことなく黒魔導士の村に似ていた。この城に来てジタンはすぐにその丘を見つけ出し、小さな墓標を築いた。
刻まれた文字はただ一言。「われわれの友」。
執務で忙しいガーネットは、母親の室と同じくここにも殆ど訪れることは出来なかった。
だがジタンはしばしばここで彼を偲んでいたようだ。丘の麓に数本伸びた巨木の枝によじ登って、はるか彼方の連山に沈む夕日をぼんやり眺めるのが彼のお気に入りだった。もちろんそこからはビビの丘も一望できる。――そこでジタンは愛息子を見かけたのである。それも、何度も。
だがそんなこと、ガーネットはちっとも知らなかった。ジタンが胸のうちにしまっておいたのだ。彼は本能的に、自分の息子の力を察していたのかもしれない。それを母親に告げることで、彼女の気を揉ませたくなかったのだろう。
丘の縁にたどりついたガーネットは、邪魔になるドレスをたくし上げ、必死に登っていく。途中で靴も脱ぎ捨ててしまった。歩きにくくて仕方がなかったのだ。
「か、階段くらいつければいいのに」
最近の運動不足がたたっているのかもしれない。少し息を弾ませながらガーネットはようやく頂上付近の茂みにたどり着いた。
墓標の周りをぐるりと取り囲んだ天然の生垣にも切れ目はない。不用意に他の人間が入り込まないように、わざと階段もつくらなければ墓に続く入り口も設けなかったのだ。全てはジタンの一存である。
勢いよく茂った葉の隙間から、ジタンの金髪と広い背中が見えた。
枝を掻き分け、夫に声をかけようとしてガーネットは口を開き――そしてすぐに閉じた。
胡坐を組んだジタンの膝の上で丸くなって、ルシアスが小さな寝息をたてていたからだ。父親の組んだ足のくぼみにすっぽりと納まる小さな体。その黒髪を、愛しげにジタンが撫でる。
「疲れたみたいだ」
声を出したわけでもなく、ましてや近づいたわけでもないのに、ジタンは背後の気配に気付いたらしかった。振り向きはしなかったけれど、彼女に向かって低く優しい声音で囁く。
「歩きつかれたのかしら?」
その声に促されて歩み寄り、彼女は夫の背中ごしに息子を覗き込んだ。
「いや…。力を使ったからだよ」
「力?」
「ああ」
優しい眼差しを膝の上の息子からその母親に移して、ジタンは言った。
「来る途中で俺は今まで死んで行った何人かの仲間たちに会った。…声だけだったり、姿だけだったりしたけどな」
ガーネットは息を呑んだ。
「それは…」
「お前は会わなかったか?」
「あ…でも…」
「こいつの力なんだってさ」
あまりにも素っ気無く簡単に言って、ジタンは苦笑いを浮かべた。
「ここで…あいつがそう教えてくれた」
「あいつ…って、ビビ?」
ジタンは浮かべた苦笑いのやりどころに困ったように、更に口の端を曲げた。
「ここでルシアスは一心不乱に誰かと話をしていた。俺が来たことにも気がつかないくらい、夢中になってた。こいつ、いっぱしの口きくだろ?でも口がなかなかまめらなかったりするじゃないか。あの独特の喋り方でさ、つっかかりもっかかり、一生懸命話してるんだ。面白かったぜ?おっきくなったら光になるんだ、とか、自分の名前はとうさまとかあさまがつけてくれたんだ、とかさ」
再び目を膝の息子に戻して、ジタンは優しく頭を撫でた。
「最初俺には相手が見えなかった。でもルシアスの話に耳を傾けてるうちに、少しずつ、うすらぼんやり見え始めたんだ――とんがり帽子と、金色の目が。…そしてあいつ――ビビは俺の方を向いて、ちょっと首をかしげた。ほら、あいつがよくやってた仕草だよ。帽子のつばのはじを掴んで、きゅきゅっって引っ張って整えるやつ。あれをやって、そして俺の名を呼んだんだ。ジタン、って。…俺は…すぐには信じられなかった」
「魂還節だから?だから魂が還ってきてたってことかしら」
「そう思ったよ、俺も。だけどビビは、そうじゃないって否定した。――こいつの力なんだって…」
――ルシアスの力なんだよ。
ビビは言ったのだ。
――ジタン、ルシアスはぼくらみたいな魂に実体を与えてしまうだけの力をもってるンだ。今はまだ目覚めていないから、ときたま隙間をぬって表面に溢れてくるだけみたいだけど…でも、底知れない大きな力がルシアスの中には眠っているよ。
傍らでルシアスがきょとんとしてビビと父親を見上げていた。
三つの彼にはまだビビの語っている内容がよくわからないのだ。
「とうさま?なんのお話してるの?」
父親の足元に近づいて、ズボンの端をひっぱるルシアス。下を向き、にっこりと笑ってジタンは息子を抱き上げた。
「もうそろそろお昼寝の時間じゃないか?守らなかったらお母様に怒られるぞ」
意味は分かっていないとはいえ、こんな話を本人に聞かせたくはなかった。
ジタンの言葉に、ルシアスはあっ、と声を上げて首を竦める。
「うん。ボク、おりこうさんにする」
かあさまに怒られるのは苦手なのだ。ルシアスは慌てて目をきゅっと閉じた。笑みを禁じえず、つい口元を緩ませてしまいながらジタンはビビに視線を戻した。
「ビビ…こいつがお前を引き寄せたのか?」
さすがに疲れていたのだろう。腕の中ですぐにルシアスは寝息をたて始める。腕にかかる心地よい重さ。ジタンはひどく温かい顔で腕の中の息子を覗き込んだ。
――ううん。そうじゃなくて…。魂に体を与えてしまうんだ。引き戻してしまうんだ。
ビビの言葉を思い出して、ジタンは一つため息をついた。
「ガイアは、青いだろう?」
すっと、遠い目になる。
「青いってことはそこに魂があるってことなんだってさ。ビビも、死んでいった仲間も、お前の両親も、そこにいるんだって…ビビは言うんだ。いつも、そこにいるんだって」
「ただ私たちの目に見えないだけ?」
「ああ。そして、彼ら死者の魂も意識の枠が取り外されて、渾然一体となった状態らしい。そこに秩序を持ち込んで、思念の強い魂を実体化させてしまったりする…そんな力をこいつはもってるって。つまりは、クリスタルの力を自在に操れるって事だよな?」
ふっと、ガーネットの目元に陰りが差した。
「そんな力…いらないのに」
「俺もそう思う。だけど、持ってるものを否定したってしょうがないだろう?こいつも、俺たちも、それを受け入れて、そして上手くつきあっていくしかないさ」
眠りこけるルシアスの体を抱き上げて、ジタンはひょいと立ち上がった。
「あ…」
そして湖に目をやり、思わず声を上げる。
「どうしたの?」
つられてガーネットも立ち上がり、ジタンの目を辿って湖の方を向く。そして彼女もまた、一瞬息を詰めた。
日はとうに連山に没し、名残の夕焼けが空を真っ赤に染め上げていた。
湖面には連山の長い影が落ち、麓の町や村も濃紺の闇に埋もれている。だが、ぽつぽつと明かりが灯り始め、やがて辺りにはまるで宝石箱をひっくりかえしたみたいに光がちりばめられた。その光は湖の岸辺に集い、そして少しずつ湖面に漕ぎ出してゆく。
凪いだ水面が松明の明かりに照らし出されてきらきらと光ながら揺れる。
音もなく湖に散らばってゆくいくつもの灯火。
「送り火か…」
「きれい…こんなところから見たのは初めて」
城の高い塔の上から湖を眺めたことはある。送り火も知っている。
だが、こうして丘の上から、そよ風と湿気と緑の匂いを含んだ夏の空気の中で送り火を眺めたことなどなかった。
不思議な一体感が、ガーネットの胸を締めつける。
片腕にルシアスを抱えたまま、ジタンはそっと彼女の肩に空いた方の手をまわした。
「――俺が、守る」
「え?」
唐突なジタンの台詞に、一瞬ガーネットは戸惑う。
「ルシアスも、お前も。俺が守るから」
肩に回された手に力が篭る。ガーネットはその力強い手に自分の手を重ねた。
「…知ってるわ。ずっと、知ってたわ」
なのに、いまさらどうしたの?
聞きたいけれど、彼女はそれを口には出さなかった。きっと、束の間甦ったビビとの会話の中で、何か彼の心に影を落とすものがあったにちがいない。だから突然そんなことを言い出したのだと彼女は思った。そしてそれは――ジタンが口に上らせぬ以上、踏み込んだり掘り返したりしてはいけない部分なのだ。
「あなたを信じているから。わたしも、ルシアスも」
そう言って自分を見上げるガーネットの額に、ジタンはそっと口づけを落とす。
「魂還節の空は抜けるように真っ青だよな。いつもの倍くらい」
はっとしてガーネットは目を上げた。
「青は――魂の色」
妻がすぐに自分の言いたいことを察した事に、ジタンは軽い満足感を覚える。
「青が濃いってことは、それだけたくさんの魂がこの空に満ちてるってことなんだ。ビビによるとね」
ジタンは少年みたいにはにかんで肩を竦めた。
「だからルシアスの力も発現しやすかったのね」
静かに肯いて、ジタンは空を仰いだ。既に濃紺の帳に覆われつつある空。連山の際だけが、薄橙に光っている。残光を追いかけるように、彼らの背後から風が吹きすぎて行く。
「ビビが――最後にこう言ったよ。覚えててね、ジタン」
――ボクは青の中にいつもいる。いつもみんなのそばにいるよ。
ガイアの地表からボクの記憶がなくなっても、僕は青の中にいて、
そしてガイアの記憶のなかにいるんだ。
めぐりゆくたましいのなかに。
だから、覚えていて、と。ビビは言った。
「忘れっこないわ」
ねえ、と同意を求めるガーネットに、ジタンは笑みを返すのみ。
そうだ、忘れない。忘れるはずがない。
万物はすべていつかは風化し、新しい風に取って代わられるだろう。
今ここで忘れまいと誓う自分も、いつかは青の中に紛れてゆくのだ。
それでも俺たちが紡いでゆく時の糸の切れはしは、細々と次代に受け継がれてゆくだろう。
腕の中の二人を引き寄せて。
ジタンは胸の中で呟いていた。
だからこそ、この美しく愛しい糸を途切れさせぬよう、全身全霊をかけて俺は守る。
遠く汽笛が鳴った。
最後の送り火が岸を離れたのだ。
濃さを増した闇の中、静かに水面を滑り行く光の輪。
幾重にも重なる灯と水面に映る光は、しじまに満ちる人々の想いを載せて、ゆっくりと揺れた。
こうして小さな出来事とともに、魂還の七日間は終わりを告げたのだった。