One Love  One Heart <epilogue>

 

 ようやく芽吹いたばかりの浅い緑から光がこぼれる。薄い木々の葉の色に染められた木漏れ日が細く伸びた小道を照らし、それはまるでヴァージンロードに敷き詰められた絨毯のようにも見えた。冬が来る前に落ちてしまったわくら葉の柔らかな苗床に、下生えの草々が敷き詰められたように密生しているのだ。
 その薄緑に光る小道を、彼女はジタンに手を引かれながら進んでいた。
 お互い、一言も喋らない。
 ガーネットが黙っているのはさして珍しいことではないが、ジタンがこれほど沈黙を続けているのは珍しい。全くもって、稀有といってもいいくらいだ。
 それに彼は真っ直ぐ前を向いて、とにかくがむしゃらに彼女の手を引っ張って歩いているので、彼女からは表情を見ることもできない。それでもガーネットは不安にはならなかった。
 しっかりと握り締められた手から、彼の温もりが伝わってくるのだ。
 もう絶対離さないぞ。と、その手は無言のうちに語っていた。きっと彼はそれが恥ずかしくて、そしてそんな顔を見られたくなくて、こんなにぶっきら棒な歩き方をしているのだ。

 前を行く彼の広い背中を見つめながら、胸のうちでガーネットはいつしか呟いていた。

 お父様。ここはまるで自然の聖堂です。そしてあなたに手を引かれて歩くはずの道を、今私は花婿に手を引かれて歩いています。祝福の赤ではなく、癒しの緑に満たされた道を。
 
 自分の手をしっかりと握る彼の節くれ立った太い指。すっきりとしていながら鋼のような筋肉の流れが感じ取れる力強い腕。少し伸びた金色の髪が揺れる肩。広い背中が、彼女の全てを背負い守ろうとする彼の静かな意志を語る。
 そして何より不思議なのは、それがすんなりと自分の中で肯定されるという事実。
 なぜだかガーネット自身にもわからない。けれどもジタンに対する信頼感と安心感は、それほど絶対的なものだった。

 どうか喜んでください。あなたの娘がこの人に巡り合えたことを。
 この人は強い人です。力だけでなく魂の強い人です。
 こんなにも心が憩い、安らげる人に巡り合えたあなたの娘は幸せ者だと、どうか空から寿いでください。
 うっそうと茂る木々の影から垣間見える澄んだ青空にガーネットは語りかけるのだった。

 もしあの旅がなかったなら、自分は彼のような人間の逞しさも美しさも見事さも、全く理解できない人間であり続けただろう。盗賊という外見に惑わされて。
 過酷な運命に放り出され、その海原で息も絶え絶えになりながら何かにしがみついて生き抜いた経験が、彼女に叡智をもたらしたのだ。そして生き抜かせてくれたのは、ほかでもない『ジタン・トライバル』その人だった。
 あの旅も今回の件も。
 すべて彼によって命を救われたことに思い至ってガーネットはふっと胸を痛めた。

 ――私は救われてばかりだ。

 再び目を空に向け、彼女は小さく嘆息した。
 お父様。この素晴らしい人に私は何が返せるでしょう?私にできることが何かあるでしょうか…。

「着いたぞ」
 ガーネットの夢想を破ったのはジタンの明るい声だった。
「今日はここで夜明かしするから」
 大きなミズナラの木に寄りかかるようにして辛うじて立っている粗末なあばら屋をジタンが指差す。
「でも、まだ日は高いし…もう少し進めない?わたしなら大丈夫だから」
 正確な時刻はわかりかねるが、おそらくまだ3時ほどにしかなっていないはずだ。日が傾くまでもう少しは歩けるのではないか、とガーネットは思った。それを彼がここで休もうとするのは、いつものように彼女の体を気遣ってのことなのだろう、と。
 そんなガーネットにはお構いなく、ジタンは荷を解き始める。
「あのな、どんなに急いでも、アレクサンドリアまでは2日半はかかるわけ。急がなくても3日もあれば帰り着く。そんなにたいして変わりないだろ?それに、俺としてはできるだけ二人っきりの時間が長い方がいいしさ」
 しれっと、そんな台詞を口にする。あんまりさり気なく言うものだから、ガーネットはいつも、しばらくたってからその言葉の甘さに頬を染めるのだった。
 春先でまだまだ日は短い。このまま歩いても、そうたいした距離を進めるわけではない。どの道順でどうやって帰るのか、ジタンの頭の中には既に行程表ができあがっているのだ。
「それに夜明かしするにも、準備がいるからな」
 言いながら彼は小屋の中を片付け始めた。
「ここは木こり小屋でさ。木こりが使うのは夏から秋にかけてだけで、この時期は空いてるんだ。雨露しのがせてもらう分には格好の場所なんだぜ」
 狭い小屋の中で二人きりと言う状況に、先ほどの寡黙な背中が嘘のように饒舌になる。…これまた彼が柄でもなく焦っている証拠なのだが、ガーネットにはそれは解らない。ただただ、何でも知っている彼の博識に喝采を送るばかりである。
「ほんとに、ジタンは何でも知っているのね。それに、何でもできるし」
 ガーネットの呟きにジタンは満更でもない顔で、鼻の下を掻いた。
「何でもってわけにはいかないけど。まあ、お前よりは世慣れてるよな」
 と喋っている間も彼の手は止まらない。手際よくベッドを整え寝られるようにすると、次に火を起こし始めた。
「あの…私、水を汲んでくるわ」
 手持ち無沙汰でそこにいたたまれなくなったガーネットは、壁の棚にかけてあった桶を取った。
「いいよ、危ないから。俺が行く」
「ううん。大丈夫。川、すぐそこにあるし。それに、私も役に立ちたいの」
 ジタンが何か言おうと口を開きかけた。が、思い直したようにふっと優しい笑顔を浮かべて彼は肯いた。
「わかった。でも、気をつけていくんだぞ。俺はこれから食料を調達してくるから」
「はい」
 可愛らしい返事を残してガーネットは小屋を出た。
 木立の間に彼女の姿が隠れてしまうまで見送っていたジタンは、小屋に戻ってくるなり小さな笑い声を洩らした。
「ほんとに…変なお姫様だよな」
 世間知らずで不器用で、身の回りのことをひとつするにもえらく手間ひまがかかる。でもそれは彼女が女王だからだ。彼女しかできないことは山ほどあって、そして自分ひとりの始末をする代わりに彼女は何万何十万という民を生かしているのだ。だからちっとも気に病むことはないのである。しかし、彼女はそうは思わない。いつも何もできなくて情けないと自分を詰責する。
 そんな女王は古今東西たった一人しかいないだろうなとジタンは思う。
 同時に、そんな彼女をたまらなく愛しく思うのだった。

 大言壮語したはいいが、川べりに下りるにはかなりの勇気を必要とした。
 渓流とはいえ流れはさほど速くない。だが緩やかな細い流れに張り出した岸からでは、桶を水につけることができないのだ。水を汲むためには岸から川面に頭を出している石に飛び移らなければならない。
 しょうがなくガーネットは川にお尻を向けると上半身で岸にしがみつき、恐る恐る足を下に伸ばした。靴の踵が岩に当たる。足場を確認して彼女は手を離した。と、案の定水と苔で足を滑らせ、思いっきり川に落っこちてしまった。
 きゃああ!
 という可愛い悲鳴と、水の跳ねる音が木立に木霊する。
「もお」
 それほど深い川ではない。しかしそれでもガーネットの小柄な体躯では、膝上まで水に浸かってしまうくらいの水嵩はある。全身ずぶ濡れで半べそをかきながら、ガーネットはなんとか立ち上がって岩によじ登った。
「あ、桶」
 岩にたどり着くのが精一杯で、いつのまにか桶を手放してしまっていた。あの桶は小屋の持ち主のものである。それを勝手に拝借した上に紛失させては申し訳が立たない。ガーネットは真っ青になって辺りをきょろきょろと見回した。
「どこ探してんだよ。川は一方向にしか流れていかないんだぜ?」
 笑みを含んだ楽しそうな声が、ガーネットの頭上から降ってきた。
「ジタン!」
 岸辺の大木に格好をつけて寄りかかっている人の姿を見とめて、ガーネットは声を上げた。彼の足元にはたっぷり水の入った桶が置かれている。
「だから気をつけろって言ったろ?」
 嬉しそうに言うと彼は軽くジャンプしてガーネットの真正面に降り立った。
 苔むして滑りやすい岩場なのに、彼の体は全くバランスを崩さない。
「なんで?なんでジタンはそんなに軽々と立てるのよ!」
 八つ当たりなのは解っている。でもむしゃくしゃした気持ちのやり場が他になくて、ガーネットはジタンの胸をぽかぽかと叩いた。
「なんでジタンは何でもできて、私は何にもできないのよ。水を汲むなんてこんな簡単なことすらできないなんて…」
 惨めさに目が潤んできてしまう。
 ジタンはガーネットの気が済むまで胸を叩かせていた。ひとしきり喚けば彼女はすぐに落ち着くのだ。今までの経験からそれはよくわかっている。
「あのな、一言だけ言わせて貰うと、ここで水を汲むのは俺でも大変だぞ。もうすこし川下に下ると、もっと低い岸のところがあるんだ。そこだと川も浅いし、楽に汲める。…それを言い忘れてた俺が悪かった」
 ようやく穏やかな表情に戻ったガーネットの顔をジタンは優しく覗き込む。
「…そうなの?」
「うん」
「…でも普通それくらいのこと考えるわよね。どう見ても…この場所で水を汲もうなんて思わないわよね」
 落ち着いて見回すと、確かにここは水を汲むには適していない地形だった。 
 自分の馬鹿さ加減にガーネットはまたもや嘆息しそうになる。
「そういう思い込みが激しいって言うか、前しか見えないってところも、俺は好きだぞ」
「え?」
 あまりにさらりと言ってのけられてガーネットは当惑する。もう一度問い直そうと口を開いた瞬間、ジタンが彼女の体を、とん、と軽く突いた。
「きゃああ!」
 やっと岩によじ登ったのに、また川の中に転落である。
「な、何するのよー!」
 烈火のごとく怒りに燃えてガーネットが立ち上がる。
 あっはっは。楽しそうに大きな声で笑いながらジタンは自分も彼女の前に飛び降りた。ざぶん、と大きな水飛沫がたち、ガーネットは頭から水を被ってしまう。
「☆△×ジタン〜!!」
 目を白黒させながらガーネットがジタンに掴みかかってゆく。その手を優しく受け止めて軽く握り、ジタンは彼女の体を引き寄せた。
「結構俺ら血と埃で汚れてるからさ。ちょうどいいじゃん。水浴びしようぜ」
 軽く…本当に軽く、まるで薄い瑠璃を抱くようにガーネットの体に腕を回して、ジタンはそっと耳うちをする。
「あ…」
 言われて初めてガーネットは自分の体に目を向けた。
 確かに、あのまま旅に要りようなものだけをまとめて出てきたために、ジタンにかけてもらった上着もその下のブリオーも、黒々とした血糊がこびりついたままだ。恐らく自分の顔も髪もひどいことになっているのだろう。
「でもジタンはそんなに汚れてないわ」
 彼の胸に手をついて、少しだけ体を離してみる。
 ジタンは毎度おなじみの格好だが、ほとんど血を浴びた形跡がない。
「俺は動きが早いから」
 こともなげに言うジタンに、ガーネットはまた可愛らしい頬を膨らませた。
「不公平だわ」
「んなこと言われてもさ」
 苦笑しながらジタンはひょいとガーネットの体を抱き上げた。「え?」と彼女が目を丸くして状況をつかめないでいるうちに、思いっきり仰向けに倒れこむ。
「ジ、ジタン」
 慌ててぎゅっと彼の首にしがみつく彼女のしぐさが嬉しくて、ジタンは背中に回した腕に力を込めた。
「さっさと体を洗って小屋に戻ろうぜ。風邪ひきそうだしさ」
「そ、そんなこと言って、こんなことしてるのジタンじゃない!」
「あはは、そうだった」
 全然悪びれていない様子でごめんごめんと嘯きながら、彼はガーネットを抱えたまま上体を起こした。川の中に座り込んだジタンは、向かい合った彼女の頬についた汚れをそっと親指でぬぐった。
「顔くらい、自分で洗えるわ」
 言いつつ、ガーネットは手を動かせなかった。頬に触れるジタンの指が熱い。いや、そうではない。自分の体が信じられないくらい火照っているのだ。冷たいはずの春の水も、少しも気にならないほどに。
「じゃあ、ダガーは俺の顔の汚れを落として」
 静かにジタンが言う。
 言われるがままにガーネットは手を伸べ、ジタンの頬に触れた。ジタンが心地よさそうに目を閉じ、彼女の手に頬をすりつける。
「ジタン、じっとしてくれないと、洗えないわ」
 それだけを言うのが精一杯だった。
 ジタンの手が彼女の頬から首筋へとつたい、そして丸い細い肩に下りてきたからだ。
 体の熱さがいやがうえにも増してゆく。
「お願い、じっとしてて」
 たまらなくなってガーネットはジタンの胸に顔を埋めた。彼の手から逃れる一番手っ取り早い方法だった。
「あ、俺を洗ってくれないわけ?」
 胸元に飛び込んできた小鳥を抱く大樹のように、ゆっくりと手を彼女の背中に回して、ジタンは彼女の体を包み込んだ。
「あ、洗えるわけないじゃない」
 首筋といわず、肩先まで真っ赤に染めてうつむくガーネット。
「どうして?」
 楽しそうに意地悪く問うジタン。
「も、もうっ!知らないから!」
 ぱっとジタンから離れると、すごい勢いで川を渡ってガーネットは岸によじ登った。さっきまでの乙女然とした嫋かさは一体どこに消えたのかと疑いたくなるほどの逞しい足取りである。
「おい、ダガー!」
 ちょっとやりすぎたかな、と内心少しだけ反省しながらジタンが慌てて後を追う。もちろん、水桶も彼が調達しに行っていた夕飯の鶉も全部彼が抱えて戻る羽目になったのは言うまでもない。

 小屋にたどり着いてからも、ガーネットの出番は何一つなかった。
「お前は火の側で体拭いてな。俺は薪を拾ってくるから」
「あ、それくらいは私が…」
「俺はこれくらい平気だけど、お前はこのままだと間違いなく風邪をひく。風邪をひかれると俺が困る。だからおとなしく体を拭くの。いいな?」
「でも…」
「あんまり聞き分けないと、俺がお前の体拭いちゃうぞ!」
「いえ!わかりました。すぐに拭きます!」
 ぴゅんっと小屋の中に戻ってガーネットは布に包まった。その姿を見ながらジタンは微かに苦笑する。
 なんでそんなにいやがるかなあ。仮にも俺たち夫婦なんだけどな。
 声にはできない一抹の悲哀を背中に浮かべて、ジタンは木の間に姿を消した。

 ようやく辺りに夜の帳が下り始めていた。とうに山肌に没した太陽の残光が木々をぼんやりと浮かび上がらせ、その間に暮れなずむ薄紫の空が覗く。鳥のさえずりは影を潜め、代わりに梟の太い声が梢に響くばかりだ。風はぱったりとやみ、密やかな生き物たちのさざめきに満ちたにぎやかな静寂が森をおし包んだ。
 体を拭き終わると、ガーネットはジタンが用意してくれていた薄いサテンのコタルディに着替えた。体にぴったりとした細身のドレスで、これもまた市で売られる女たちに着せるためのものだった。どういうわけか荷の中にはこうしてガーネットの着替えと思しき衣服が数点入っているのに、ジタンのものは何一つない。
 彼が自分に着せ掛けてくれた上着を火にかざして乾かしながら、ガーネットはジタンの心を噛み締めていた。
 いつも。いつも、いつも、彼は彼女のことを思ってくれている。
 どうやったらその想いに応え、そしてそれ以上に自分が彼のことを愛しているのだと伝えられるだろう。
 言葉でいい重ねることの無力さと浅薄さを、貴族社会で育った彼女は骨身に沁みて知っている。
 ではどうやって伝えればいいのだろう?
 堂々巡りの思考を途切れさせるように、入り口の扉が開いた。
「おっ、いいじゃん、そのドレス。体の線がばっちりわかってさ」
 ジタンの軽口が終らないうちに、ガーネットは上着を彼に投げつけていた。
「もう!ジタンってば!」
 軽く笑って上着をキャッチするジタン。一生懸命乾かそうとしてくれたのだろう、殆ど湿りは残っていない。裾の端がちょっと焦げているのはご愛嬌だ。それをつんとそっぽを向いたガーネットの肩にかけてやりながら、ジタンは手早く夕飯の用意にとりかかった。
 直火で炙った鶉と野草のスープ。
 ふかふかのパンも、豪華なメインディッシュも何もない食卓だったけれど、二人にとってはこの上なく幸せな晩餐だった。

 が。

 夢のようなひと時を終え、いざ就寝を迎える段になって、ガーネットは固まってしまった。
 小屋に寝台は一つしかない。それも城の天蓋つきのベッドとは比べ物にならないほどの狭さで、二人で寝ようと思えば密着するしかなかった。
「あ、あの…私、ちょっと夜風にあたってきます」
 頬を染めて小屋を出ようとするガーネットの手を、ジタンがそっと掴んだ。
「大丈夫だ。とって食いやしないよ」
 優しく引き寄せて寝台の端に座らせる。そして入れ違いに立ち上がって暖炉に寄った。
「火を落とすよ」
 炎を上げる薪を外してくすぶる燠火だけにすると、あっという間にあたりは夜の闇に包まれた。窓から差し込む月明かりが仄かに白く小屋の中を照らす。
 自分の横に戻ってきて同じように腰を下ろしたジタンの体温が、薄い空気を伝わってガーネットの肌に届いた。
 心臓が高鳴る。
 あまりにひどく鳴るので、隣のジタンに聞かれるのではないかとガーネットは体を強張らせた。その緊張はジタンにも伝わってくる。彼は固く張り詰めた彼女の肩をそっと抱き寄せた。
「…いやなら、何もしない。お前が望まないことはしないから。安心していい」
 その手の優しさに。彼の吐息の優しさに、ガーネットは胸を衝かれた。
 結婚してから2日間、城のベッドにガーネットは一人で眠った。夜になるとジタンが姿を消してしまったからだ。だから不安になってバクー親方の元を訪ねた。――つまりこうして二人きりで夜を迎えるのは、結婚してから初めてのことなのである。
 怖いわけではない。
 ジタンと共にいて、怖いと思ったことなど一度もない。ただ、無性に恥ずかしいのだ。彼の指に触れられただけで燃えるように熱く火照る自分の体を、はしたないと思ってしまうのだ。
 その彼女の逡巡を知っているのかどうか。ジタンは体の向きを変えて、正面から彼女を抱きしめた。細い体の全てを慈しむように、そっと自分の体で包み込む。
 あまりに穏やかで、あまりに慈愛に溢れた抱擁に、ガーネットはいつしか涙ぐんでいた。
 森の密やかな息吹に満ちた静謐がしんしんと小屋の中に沁みてくる。遠くでかすかに梟の鳴き声がする。なんと優しい静寂。
 その静寂を形にしたように、無理強いするでなく自分の気持ちを押し付けるでなく、ただ優しい温もりを伝える彼の腕。
 素直になろう、とガーネットは思った。
 幾分肌寒ささえ感じさせる春の宵の空気を、彼女は胸いっぱいに吸い込んだ。
 震えが止まる。
 明瞭に冴え渡る意識が清々しい白い月明かりに浮かぶ彼の姿を捉え――そして、はっとした。
 
 初めて彼女は気づいたのだ。
 はだけた胸元から覗く逞しい彼の体に走る深い傷跡に。

 考えれば当たり前のことだ。彼はずっと生傷の絶えない生活を送ってきたのだし、そしてあの旅でも凄まじい戦闘を繰り返してきたのだから。生身の人間である以上、傷跡は無数にあってしかるべきだった。しかし…。しかし、その傷を目の当たりにしてガーネットは平気でなどいられなかった。
 見る間に彼女の目に盛り上がる涙に気づいて、ジタンは訝しげに覗きこむ。
「どうした?ダガー」
 ガーネットは何でもないと首を振って笑おうとする。けれど、口元が微かに歪んだだけで、どうしても笑えなかった。それどころか留まりきれない涙がぽろぽろと溢れ出してしまう。
 彼女はその涙をぬぐいもせず、彼の胸にそっと指を這わせた。
「ああ、こんな傷…たいしたことないんだぜ?ほら」
 ジタンが軽く笑ってシャツを脱ぎ捨てる。
 一瞬、ガーネットは恥ずかしげに目を伏せた。彼女が彼の素肌を目にするのはこれが初めてなのだ。ジタンもそれに思い当たり、苦笑いしながら彼女の細い顎に指を当てて顔を上げさせた。
「恥ずかしがるなよ。裸になってるの、俺の方なんだぜ?」
 からかうような口ぶりに優しさが滲んでいる。
 彼の思いやりに応えるために、ガーネットはおずおずと目を上げた。
 そしてとっさに口を手で覆った。そうしないと叫んでしまいそうだったのだ。
 引き締まった体躯。無駄のない鍛え抜かれた筋肉の筋の上に、縦横無尽に傷が走っていた。
 最もひどい傷は胸の中心部にあり、ようやく盛り上がってきた肉が痛々しい色を呈している。
「これはイーファの樹でついた傷。根が突き刺さってさ。でも、気を失ってたんで、痛いとかってのはなかった。目が覚めたときには傷口ふさがりかけてたしな。だから、むしろ痒かったな、これ」
 彼女の目が釘付けになっていることを察したジタンは冗談めかして説明する。
「こっちは…」
 わき腹にうっすらと切れた跡があった。まだふさがっておらず、血がにじんでいる。
「ああ、これは今日の戦闘でついたのかもな。俺もたいしたことないな、あんな奴ら相手に傷をつけられるなんてさ――って、ええっ?ダ、ダガー!?」
 突如ジタンが素っ頓狂な声を上げた。
 ガーネットが彼のその傷にそっと唇で触れたのだ。
 柄にもなく真っ赤になって、ジタンは慌てふためく。
「ちょ、だ、大丈夫だって。どっ、どうしたんだよ、ダガーってばさ!」
 彼の狼狽をよそに、ガーネットは一つ一つ丹念に彼の傷に触れてゆく。真珠のような涙をこぼしながら。
「ジタンは何でもできて、とても強くて…だからいつも人のためにこうして傷ついて。そして一番傷つけているのはきっと私なんだわ」
「そんなこと…」
 すぐにジタンは否定する。だがガーネットは首を振って彼の胸にできた大きな傷に手を添えた。
「私、ジタンに守ってもらってばかりだもの。私のせいでジタンはたくさん傷ついてるのに、私はジタンに何もしてあげられない。私だってジタンを守ってあげたいのに」
「あのさ」
 自分の胸に当てられた柔らかい指を優しく掬い取りながらジタンはそっと壁に寄りかかった。
「実は一番おっきな傷は、これじゃないんだ」
 そう言って彼は中心の傷を指差す。
「ここらへんに、ぱっくりと開いてた傷口があってさ」
 その指を少し上にずらす。心臓の真上。
「ずっと、血を流し続けてた。そしてその傷は時間がたっても癒えるような代物じゃなかった。おまけに誰にも塞げなかった。俺は多分そのままだったら気が狂うか、死んじまってたと思う」
 彼は物憂げにガーネットの指を放し、代わりに彼女の黒髪に触れた。
「でもさ、幸運なことにたった一人だけその傷を治せる奴がいたんだ。しかもそいつは俺のすぐ側にいてくれて…そして俺のために言ってくれた。ジタンが私たちを守ってくれたように、私もジタンを守りたいの、ってさ。その瞬間、嘘みたいに俺の傷が塞がったんだ。どうして、なんて聞くなよ。理屈なんてないし、理由もない。だけど本当にその瞬間俺は…生き返ることができたんだ」
 黒髪を優しく撫でていた手をそっと彼女の頬に移す。それからもう片方の手も添えて、静かに自分の方に引き寄せた。
「俺はお前に救われたんだ。お前がいなかったら、俺は今ここにいなかった。もしかしたらあの時のクジャと同じように自棄になってたかもしれない。だとしたらお前はガイアも救ったことになるんだぞ。何もできないなんてそんなことあるもんか。お前はこの世界を救ったんだから。そして…俺を救ったんだから」
 ガーネットの大きな目から零れ落ちる涙をジタンはそっと親指でぬぐってやる。
「お前はほんっとに変わんないのな」
 くすっと笑って、ジタンはもっと彼女を引き寄せた。そうしてガーネットにだけ聞こえる密やかな声で想いを告げる。
 そばにいてくれ。ずっと――。
 初めて触れる彼の素肌に顔を埋めてガーネットは肯いた。何度も、何度も。
 やがて彼の優しい手は彼女の頬から肌理細やかな肌に滑り落ちてゆく。
 お互いに初めて交わすなにものにも隔てられぬ肌の熱さは、重ねあわされた吐息に紛れて春の夜に溶けていった。

〜FINE〜