〜おくつきに瞑る夢〜


第一章  罠


 閉ざされた大陸の一部はジタン、いや彼の偽名であるヴァランタン卿の所有地となっている。
 結婚と同時に彼の私有財産はすべてアレクサンドリア王家へ寄贈することになっているため、いずれはその地も女王ガーネットのものとなるのだが、それでも彼は独自に地質調査を続けさせていた。
 かなりの鉱脈が眠っていることは初めから予想できた。だがどうやらそれを遥かに上回る金鉱が縦横に走っているらしい。もしそれが発掘できれば、窮状に瀕しているアレクサンドリアは莫大な利潤を得ることができる。己のために財産を欲したことなど一度もないジタンは、純粋にガーネットのために、彼の地を開発しようとしていた。

 何のためにどこにいくか。
 ジタンがガーネットに事前に告げてゆくことは少ない。
 というより、彼がじっとアレクサンドリアに居ついていたためしなどほとんどない。
 妙に律儀な面があるのか、夜は必ずガーネットの隣室で眠るため、朝気がつくといつの間にかいなくなっていた、ということがざらにあるのだ。
 その日の朝もそうだった。
 小鳥のさえずりで目を覚ましたガーネットは、小さな伸びをして半身を起こした。
 もし彼がおとなしくこの国で朝を迎えているなら、必ずといって良いほどガーネットより早く目覚めて、彼女が目をさますまでベッドの脇にいてくれる。そして彼女の意識がはっきりとここに戻ってくるより早く、優しく笑いながらおはようの挨拶を贈ってくれるのだ。
 伸びをした段階でそのご挨拶がないということは、彼がまたもや黙って姿を消した、ということである。
 ガーネットは落胆を禁じえない顔で小さなため息をついた。
 また二、三日彼の顔が見られないのかと思うと、胸に穴が開いたような気分になる。
 婚約は交わしたものの結婚はまだまだ先で、いわば彼は未だ誰のものでもない。行った先でどんなことをしているか、誰と会っているのか心配にならないといったら嘘になる。が、その心配に支配されてしまうほどガーネットは浅はかではなかったし、なにより胸にぽっかり穴が開くのは彼の挙動に対する不安よりも、彼が側にいない寂しさのせいの方が大きかった。
 突然いなくなっても彼は必ず数日後には帰ってくる。そして帰ってきた彼の眼差しを見れば彼が誰を想っているかは一目瞭然だった。ジタンの目は正直なのだ。後ろ暗いことがあればすぐにその色が翳るし、そうでなければ常に深い愛情に満たされていた。その光が揺らぐことは全くなかった。
 だから彼女にとってはジタンは絶対的な安心感に等しい存在だったのだ。
 自分の善なる面も悪なる面も、すべてを受けとめてくれる存在。
 彼女は知らないけれど、それはジタンにとっても同様だった。
 固く結びついた二つの魂は、その絆が裂かれることなど想像もしていなかった。
 なのに。
「二三日の辛抱だわ」
 あえて声に出して自分に言い聞かせたのは、その朝感じた不安がいつもとは微妙に異なることを、無意識のうちに感じ取っていたからかもしれなかった。

 女王の午前中の主な仕事は引見である。各地からの領主の報告や上申のうち、女王自ら会見する必要ありとみなされたもののみが上がってくる。大臣がその書類に再度目を通し、事前に拝謁者に面会してそれから女王の許へ通すのがこの国のしきたりだった。
 何重もの関が用意されているのはこの国に代々女王が多かったせいだ。王の間での帯刀は禁じられているが、それでも暗殺未遂は各国で横行している。それを未然に防ぐための措置なのだ。謁見するものは王の間に至る前に身体検査も受けねばならなかった。
 
 微熱があるのかもしれない。
 ガーネットは疼く頭を軽く指で押さえながら思った。
 どうも体が重い。ジタンがいない落胆のせいばかりではなさそうだ。体調が思わしくないから気分がさえないのだろう。だが、執務を休むほどでもない。
 本当は休みたいのだけれど。
 ちらりと頭の隅を掠める考えに、彼女は慌ててかぶりを振った。
 そんな怠惰なことでは女王は勤まらない。どんなに死にそうな時でも、危急存亡の際であれば彼女が采配を振るわないわけには行かないのだ。少々具合が悪いからといって執務をサボるようでは国民の信頼は得られない。
 真面目な彼女はそう思った。
 ゆっくりと、重たい体を引きずりながら玉座に上がる。
「デドリー岬の集落長が謁見を所望しております。海流の変化で今年は漁獲高が低迷しておるようです。租税の陳情とのことですが、ぜひとも詳しい事情を聞いていただきたいと、キング公の書状を持参して来ております」
「キング公の…。そう。あそこは彼の所領でもあるものね」
「デドリーの漁業収入にかかる税金のみアレクサンドリアへ納めることになりますからな。地域に課した人頭税を地域別に設定することなどできませんからなあ。上申させたのはキング公の苦肉の策でしょう。ここでかの公爵に恩を売っておくのも一興かと存じますが」
 宰相を務めるシェダ卿が、真っ白なあご髭を撫でながら進言する。
「そうね…。通して頂戴」
 いつもよりいっそう白い女王の顔色に気づくものはいない。 
 やがて彼女の前に、一人の男が通された。礼服とは名ばかりの薄い木綿の上下を身につけ、平たくなるほど叩頭する彼に、ガーネットは優しく声をかけた。
「面をお挙げなさい。それではお話を聞くことができないわ」
「は」
 恐縮しつつ、彼は頭を上げた。存外、若い男だった。30を幾つか越したくらいだろうか。その顔を見た瞬間、ガーネットはふと、どこかで目にしたことがあるような感覚に襲われた。
 くぐもった声で男が何かを語り始める。
 だがしゃがれて潰れた声で、玉座まで届かない。
「もう少し、大きな声はでないのですか?」
 申し訳ありません、と彼は再び恐れ入って頭を床にすりつけた。
 ガーネットは嘆息し、傍らのシェダ卿に目をやった。シェダ卿は肩をすくめて、男に近寄る。一言二言言葉を交わし、彼は仕方ないという顔つきで玉座に告げた。
「海で喉を潰しておるようですな。私が中継ぎいたしましょう」
「いいわ。私がそこに降りましょう」
 ガーネットは老宰相を制し、立ち上がった。
 熱っぽく重たい体を引きずるように、何とか階段を降りきったそのとき、悲劇は起こった。
「女王!お覚悟!」
 白刃が一閃したのである。
 男が帯に巻いて隠し持っていた、刃の薄い刀だった。それを使って人を殺傷するにはそうとうの技量を要する。そして男はそれだけの技量の持ち主だった。
 シュっと風を切る音とほぼ同時に、鮮血が天井に向かって吹き上がった。
 体調が思わしくなかったガーネットは避けることすらできず、まともにその切っ先を受けたのである。
「な、何をする!狼藉じゃ!狼藉者じゃぞ!取り押さえよ!ベアトリクス将軍!!」
 真っ青になってシェダ卿が自分の体でガーネットを庇う。
 舌打ちをして男は老人を力任せに引き剥がそうとした。だが予想以上の抵抗に手間取る。その間に駆けつけた近衛の兵に、瞬く間に彼は取り押さえられた。
「侍医を!早く医者を呼べ!」
 急行したベアトリクスがガーネットの傷口に布を押し当て、応急処置を施す。だが白い布はあっという間に真っ赤に染まってゆく。
「ベアトリクス殿、ケアルを!」
「心得ています」
 到着した当初から何度もかけているのだ。だが、一向に傷口が塞がらない。
「その刀には呪いがかけてある。それでつけられた傷には魔法はきかん」
 後ろ手で縛り上げられた男がそう言って不敵に笑う。
「貴様!」
 ベアトリクスが男の胸倉を掴み、引きずりあげた。
「女王陛下!私が参りましたからには、もう大丈夫ですぞ!」
 その傍らを侍医が血相を変えて通り過ぎてゆく。
「失礼つかまつります!」
 彼は床に倒れた女王の横に座ってドレスの肩先を破った。露わになった傷口を確かめるとすぐに軟膏を塗り、薬草を貼り付け、包帯を巻きつけた。
「そこまで傷口は深くありません。お命に別状はありますまい」
 そう言って、彼はすぐに女王を寝室に運び込むように告げた。

「この者を牢屋に放り込んで置くように」
 引きずりあげていた男の体を床に叩きつけるように突き放して、ベアトリクスが吐き捨てる。
「極刑は免れぬと思え。おって沙汰が下る。それまで冷たい石牢で己のやったことを悔いるがいい」
 怒りが収まらぬ彼女は、引き立てられてゆく男の後姿に、憎々しげに言葉をぶつけた。
 その言葉に反応したのか、一瞬、男が彼女を振り返る。
 その表情を見た瞬間ベアトリクスは凍りついた。
 男は笑っていたのだ。目的をすべて果たしたと言わんばかりの顔で。

 廊下を曲がり、男の姿が見えなくなるまでベアトリクスは目を外すことができなかった。見えなくなってしまってからやっと我に返ると、部下を呼んだ。
「誰かある!」
「は」
 すぐに参じた兵士に、彼女は厳しい口調で命じた。
「あの男の素性を洗え」
 低頭して即時退出してゆく兵士。
 王の間に一人残って呆然と佇むベアトリクスの胸中に、えもいわれぬ不安が垂れ込めていた。
 単独犯ではない。
 明らかに、あの男を動かした黒幕がいるのだ。
 あの男の表情がそれを語っていた。
 だが、こんなあからさまな暗殺未遂まで犯して女王を狙う人物を、彼女は思い浮かべることができなかった。この国のどんな腹黒い貴族でさえ、ここまでの危険は犯さない。詳らかになれば自分の身が危ういからだ。暗殺に大義名分は与えられない。
「では、誰だ…」
 呟きが冷たく高い王の間の天井に跳ね返され、虚しく木霊した。
 だが、数日の後。
 彼女の疑問は、最も思いがけない形で明らかになったのである。


 事が事である。取調べはベアトリクスが自ら行うことにした。
 男はしばらくの間黙秘を通していたが、将軍の昼夜問わぬ尋問に耐えかねたのか、次第に重い口を開き始めた。
 そして彼の自白が核心に触れた時、女将軍は思わず己が耳を疑って席を蹴り立ち上がった。

 スタイナーはその間ベアトリクスの代わりに下士官の報告を受けていた。
 暗殺未遂犯の素性がくまなく調べ上げられている報告書のとある一行に、彼の目は釘付けになった。今度の事件と関連があるとは思いたくなかったが、しかしそこにははっきりと信じたくない事実が記載されていたのだ。
 いつの間にか彼は必要以上に紙を握り締めていたらしい。くしゃくしゃになってしまった報告書の束を机に乱暴に投げ出すと、深いため息とともに彼は頭を抱えた。
 そのとき、ノックもなしにいきなり部屋の扉が開いた。
「アデルバート!」
 入ってきたのは今屋敷に帰り着いた彼の妻、ベアトリクスだった。
 かつてないほど蒼白な顔色で彼女は呆然と立ちすくみ、夫を見つめた。
 彼女がドアを開けるなりそうやって夫の名を呼んだことはついぞない。余程の異変が起こった証拠だった。だがスタイナーには彼女の狼狽の原因の予測がついた。
「アデルバート」
 もう一度、どうしていいか分からぬように夫の名を繰り返すと、彼女はそのまま彼の腕の中に飛び込んだ。
「犯人の尋問はどうした。成果を得られたのであるか?」
 妻の肩にそっと手をあて、自分の腕の中から彼女を引き離す。極力感情を拝した声で努めて冷静を装い、尋ねた。
 ベアトリクスは力なく肯き、そして口ごもる。
「アデルバート…この事実を公表すべきなのかどうか、私には分からぬのです。あの男の供述によれば、あの男を唆し凶行に及ばせたのは…」
 それ以上はとても口にできぬように、頭を振って彼女は唇を噛み締めた。
「教えてくれ。真偽のほどはもっとよく確認せねばならぬだろう。だがそのためにもこの段階での事実をわしも知っておかねばならぬ」
 夫の沈着な言葉に、ベアトリクスも心を決めたらしい。紫色の唇をわずかに震わせながら、彼女は再び口を開いた。
「その人物は、…ガーネット女王の許婚の…ジタン・トライバルだというのです」
 瞬間、スタイナーは天を仰いだ。

 予想は的中した。
 だがそれはあまりにも無残な、そして衝撃的な事実だった。