〜おくつきに瞑る夢〜


最終章 記憶が君を呼ぶ声(2)



 男の背中が遠ざかってゆく。
 突き動かされるように、もう一度だけ、女は屋根に目を走らせた。
 からだを駆け抜ける衝動――。
 意識する前に、彼女は動いていた。
 それはもう、感情ですらなかった。


 不意に突き飛ばされて、バランスを崩しながらジタンは振り向いた。
 自分を突き飛ばした手が月の闇に白く浮かぶ。
 その手以上に白い面差しが、彼をじっと見つめていた。ヘイゼルの瞳から光が急速に喪われ、ゆっくりと、スローモーションのように体が傾ぐ。
 差し伸べたジタンの手をすり抜けて、それは音もなく崩れ落ちた。


 射手を組み伏せ、矢の行方を目で追うブランク。
 月明かりを浴びて仄白く光るドレスが、ジタンに覆い被さるように倒れ臥すのが見える。
 一瞬、彼は何が起こったのか分からなかった。
 振り返り、射手の首をサッシュで締め上げているルビイと目を合わせる。
 何が起こったんだ?あれは何なんだ。
 事問いたげなブランクの視線を受けて、彼女は首を振った。彼女にも訳が分からなかったのだ。


 息をするのを忘れていた。
 二本の矢が突き立ったドレスの背中が、月明かりに濡れて光った。
 見る間に広がる血溜まりの中に跪き、彼は赤く滑る体を静かに抱き起こして彼女の白い頤に手を添えた。
 体の重みはまだ温かい。
 言葉は出なかった。ただ身を捩るような低い唸りが口から迸り出るのみだった。
 その声に呼び覚まされたように、女が土気色の重たい瞼を薄く開ける。そうして彼女は唇を微かに歪めた。自嘲の笑いだったかもしれない。何かを言おうとする唇は、しかし小刻みに震えるだけで言葉を紡ぐことはできなかった。
 ジタンは精一杯その口元に耳を寄せる。
 漏れる息に隠された掠れ声を、辛うじて彼の耳は拾い取った。
「見たく…なかった」
 苦しい息の下、なおも彼女は笑おうとする。
「あなた…殺せ…な…か…」
「もういい。喋るな」
 遮るジタンの声に、彼女は僅かに首を傾けた。最後の力を振り絞って、懸命に言葉を紡ごうとする。
「あ…い…し…」
 眦から一筋の雫が零れ落ちた。
 白い喉を反らせ、深く息を吸い込んで目を閉じ――そして二度と、彼女の眼が開かれることはなかった。
「マルガレーテ…!」
 ぐったりと力の抜けた彼女の体を抱きしめ、涙に濡れた声でジタンは彼女の名を呼んだ。もう届くことはないと分かっていても、呼ばずにいられなかった。
 最後まで憎みとおすことすらできなかった彼女の想いの深さ。
 こんな自分を彼女は本気で愛したのだ。彼を殺したいほど憎みながら、しかしそれは、それほど峻烈な愛の裏返しだったのだ。
 肺腑を抉るような痛みがジタンの胸に走った。

 そのとき。
 芝を踏みしだく足音が庭に響いた。
「ご無事でしたか!」
 大げさに両手を広げて姿を現したのは、がっしりした恰幅の良い壮年の男だった。
 マルガレーテを抱いたまま、ジタンは血に濡れた頬を上げた。
「あんたは…誰だ」
 底冷えのする声。男は肩を竦めて顎鬚をつるりと撫でた。
「これはこれは、ご挨拶が遅れまして誠に相すみませぬ。当方、この屋敷の主にて、先年男爵位を賜りました、ドゥアルテ・ブラガンサと申すものにございます。以後、お見知りおきを」
 慇懃に頭を垂れ、いかにも貴族式の挨拶を送ると、男は目前の惨状に眉宇を顰めた。
「この女がまさかあなた様のお命を狙っていようとは、全く思いも致しませんでした。先刻ようやくこやつの目論見を突き止め、何とか阻止しようと射手を配置して、仕留める機会を狙っていたのでございます。やっとこの女を弑することができました。とはいえ、御前を穢しましたこと、深くお詫び申し上げます」
 滔々と立て板に水の如き弁舌でまくしたてる。
 ジタンは不愉快極まりない表情で男をねめつけた。だが、相手はジタンの冷たく厳しい目つきに気づいても一向臆する風もない。平然とした表情で喋り続ける。
「このような不始末をしでかしましたこと、臥してお詫び申し上げます。この屋敷に囲うておりました以上、素性知れぬ女とはいえ身内の端くれ、女に成り代わりまして、私ドゥアルテ・ブラガンサ、如何様な処罰でも承る所存でございます」
 多分に芝居がかった物腰で男は恭しく低頭する。
 わざとらしい素振りにジタンは唾棄したい思いに駆られた。
 マルガレーテは明らかにジタンを殺すつもりだった。そのために射手を配置していたはずだ。それを巧妙に言い繕うこの男の言葉には、信頼を促す誠意のかけらすら見当たらない。
「この女をなぜ殺す必要があった」
 ジタンの問いに、ドゥアルテは大仰に首をすくめた。
「おお、なにやらたいそうご立腹のご様子ですな。あなた様が掛けられていた嫌疑は私も聞き及んでおります。しかもあなた様の処刑の報までも存じております。この女こそ女王暗殺を企て、あまつさえあなた様を陥れて濡れ衣を着せ、死罪に追いやった大罪人ですぞ。殺されて当然でしょう」
 太い腹をゆすって、さも楽しそうに忍び笑いを洩らす醜悪な男。
 ジタンの胸に、ふつふつと怒りが湧いてくる。
 彼の五感が大挙して目の前の男の不実を告げていた。
「お前は――何者なんだ」
 ジタンはそっとマルガレーテを大地に横たえた。
 彼女があこがれて止まなかった平穏に縁取られた、安らかな寝顔。その白いかんばせをしばし見やり、それから彼はゆっくりと立ち上がった。
「お前が…全ての元凶なのか」
「な、何をおっしゃいますやら」
「その通りだ」
 作り笑いを貼り付けて否定しようとした男の言葉に被さるように、通用門から声がかかった。
 小さな門扉が軋んで開いた。
「ボス…」
 姿を現したのはバクーである。背後に白髪の老人を一人従えている。
「おう、ジタン。無事でなによりだ。相変わらず悪運は強いらいしな」
 小僧っ子の無事を何より案じていた親父は、髭もじゃの顔を崩して白い歯を見せた。
「こいつが諸悪の根源よ。そもそもの、アヴィス家の事件もこいつの仕業だ」
「な、何を根拠に…。言いがかりだ!」
「根拠?見たいか?」
 ほら、という投げやりな台詞と共に、バクーは幾つかの装飾品を芝の上に放り投げた。
 金や銀の台座に埋め込まれた美しい宝玉が、月明かりに照らされてきらきらと輝く。
 それを見るなりドゥアルテの顔が青ざめた。
「お前が分割加工して売りさばいたアヴィス家の家宝だ」
「こ、これは…」
 うろたえ、脂汗を浮かべて男はあとずさる。
「これだけ全部かき集めるのは大変だったぜ。ドゥアルテ・ブラガンサ。これだけで不十分なら生き証人も連れてきてやっていい」
「な、ち、違う!確かに俺は売りさばく手伝いはしたが、この宝玉を盗んだのは俺じゃない!」
「そうだ。盗んだのはアヴィス家の家僕だったアルトゥーロという男だ。そいつは好きな女を娼館から身請けする金を作りたい一心で、たまたま隠し場所を知ってしまった宝を拝借した。首尾よく盗み出すことに成功したそいつは、有頂天で自分の女に報告したんだよ。その女を見つけ出すのもまた一苦労だったがな」
 バクーは地面に散らばった宝玉を一つ拾って、男に突きつけた。
 そして、男の悪行を逐一詳らかにしていったのである。
 アヴィス家の宝玉はアレクサンドリア一の大きさを誇っていた。当然そのままではすぐに元が割れるため買い手がつかない。途方に暮れていたアルトゥーロにドゥアルテを紹介したのはアルトゥーロが身請けしようとしていた娼婦だった。彼は彼女の馴染みの客だったのだ。
 宝玉の売買を引き受けたドゥアルテは足元を見て買い叩いた。それを幾つかの小さな装飾品に加工して、闇ルートに流したのである。
 もとより宝石そのものも、霧の大陸からは滅多に産出されない貴重な石だった。彼の予測より高い値でそれは飛ぶように売れ、そして彼は大枚を手にしたのだ。
 その資金を元手に武器売買の闇の商人に成り上がったドゥアルテは、アルトゥーロの口を塞ぐためにアヴィス家の領地を買い戻し、そしてアルトゥーロが忠誠を誓っていた一人娘のマルガレーテをひきとった。
 小心者の家僕は、自分のせいでアヴィス家が取り潰されたことを心底悔悛していた。そこから自分の悪行が明るみにでることをドゥアルテは恐れたのである。
 全てジタンという小僧の仕業にしてしまおうと彼はアルトゥーロに持ちかけた。家僕は納得した。そしてドゥアルテは同じようにマルガレーテにも吹き込んだのである。
 時期的にもちょうど合致する。深窓のご令嬢はころりと騙されてしまった。彼はその怨嗟を利用し、ジタンに全てをなすりつけて殺そうと企んだのだ。そうすれば彼は安泰になる。ついでにドゥアルテはジタンの持つ財産までも手に入れようとした。
「司法長官と謀って、土地譲与の証書を偽造し、ジタンの処刑後、公表するつもりだった――だろ?」
 バクーは証書を懐から出して見せつける。
「家僕は常に自責の念に駆り立てられていた。マルガレーテのためといえばどんなことでもしたし、自らを犠牲にすることも厭わなかった。お前はそれをも利用したんだ。」
 だが唯一の誤算は、マルガレーテがジタンを本当に愛していたことだった。彼の思惑を外れて、彼女は予想外の行動を取り始めた。ジタンの命を助け、あまつさえ自分の手元に置こうとしたのだ。
 危険信号だった。
 だから、ジタンと共にマルガレーテをも抹殺しようと企てたのである。
 が、最後の最後までマルガレーテは彼の予想を裏切った。

 ドゥアルテ・ブラガンサはふっと鼻先で笑った。
「そこまで調べがついてたんじゃ…申し開きもできんな」
 開き直ったように横柄な態度で、彼は宝玉の一つを拾った。指先で弄ぶように転がしながら、
「あんたの言うとおりだよ」
 嘯く。
「司法長官も今頃お縄を頂戴してるんだろう?大法官までこちらにお見えとあらば」
 バクーの背後の老人を顎でしゃくってさし示す。
「この屋敷はアレクサンドリア軍に既に包囲されておる。もはやお前に逃げ道はない」
 初めて活躍の場を与えられた大法官は、曲がり掛けた腰を精一杯伸ばして尊大に言い下した。
 と、その傍らを風のようにすり抜けた影がある。
 金色の風だった。
「ジタン!」
 バクーが止める間もなくジタンはドゥアルテに飛び掛った。
「くそっ!くそおぉ!」
 駆けつけたブランクが一斉に踏み込んできた兵隊たちと共にジタンを引き剥がすまで、彼は狂ったようにドゥアルテを殴り続けた。どんなに殴っても、気は治まらなかった。
 血の中に沈むマルガレーテの白い顔が頭にこびりついて離れない。
 何のために生まれてきたんだ。
 どんな幸せを味わえたというんだ。
 彼女が一体――何をしたというんだ。
「くそったれ・・・!」
 ドゥアルテが逮捕、連行され、マルガレーテの躯が運び出された後も、ジタンは一人その場を動かなかった。爪の先が手のひらに食い込むほど強く拳を握り締める。
 体の中に渦巻く鬱積した怒りは、ドゥアルテに向かうと同時に、自分自身にも向いていた。
 救えなかった。
 その思いが、彼を苛んだ。 

 
 アレクサンドリアには戻らない。
 ジタンは言った。タンタラスの誰が説得しても耳を貸さなかった。
「まだ、だめだ――。もう少し、一人で頭を冷やしたいんだ」
 その一点張りだった。
「その間、お姫様はたった一人、哀しみのどん底に放り出されるわけだ」
 ブランクの言葉も虚しく彼の上を滑るだけだ。
 苦渋に満ちた表情で固く目を瞑り、ジタンは呟く。
 もう、戻らないかもしれないから、と。
 殴りかかろうとしたブランクを咄嗟にルビイが止めた。
「お前!何勝手なことほざいてんだよ!ああ?危険を冒してまでお前を助け出したのは何のためだと思ってんだ!いい加減にしろ!この馬鹿が!!」
 体を押さえているのがルビイでなければ、ブランクは力任せに振り払ってジタンに飛び掛っていただろう。だが、自分の体に回された細い手を乱暴に振り解くことなどブランクにはできなかった。
 憤懣やるかたない顔で彼は握りこぶしを下ろし、そのまま踵を返してどこかに行ってしまった。
 後に残ったルビイは、斜を向いたまま黙り込んでいるジタンに宣言する。
「ブランクが怒るのも無理ないで。うちかて呆れ果ててる。――せやけど、あの女のこと考えたら、それも仕方ないかなって…思わんこともない。一人でゆっくり頭を冷やすなら冷やせばええやん。でも、うちはこのこと、全部お姫さんに話すで。ええよな?」
 もとより応えが返ってくることなど期待はしていない。言うだけ言うと、彼女もあっさりとジタンに見切りをつけた。
 夏の盛りを過ぎた夕暮れを一陣の風が吹きすぎてゆく。
 どこかもの悲しい秋を含んだ風になびく髪が、足の長い金色の光に洗われて、細く、白く光っていた。


 王宮から戻ったルビイは、地下劇場で待ち受けていたブランクの顔をみるなりぽろぽろと泣き出した。
「ど、どうしたんだ?ルビイ?ルビイちゃん?何か、あったのか??」
 彼女が人に涙を見せることなど未だかつてなかった。青天の霹靂といっても過言ではない展開なのだ。ブランクが面食らってしまうのも無理はなかった。
「ご、ごめんな」
 溢れた涙を手の甲でぐいっと乱暴に拭って、ルビイは笑って見せた。
「なんや、あんたの顔見たら、気が解れてしもうて…」
「な、何言ってんだよ。それで、お姫さん、どうだったんだ?」
 照れくさいのを隠しながら、ブランクは単刀直入に本題を切り出す。
 ルビイはブランクの反対を押し切って、ガーネットに全てを打ち明けたのだ。
 マルガレーテのことも、ジタンが戻らないと言ったことも。
「お姫さんな、ほっとした顔して、笑ってん」
 そう説明するうちにまたルビイの目が潤みだす。
「生きてて良かったって。それだけで十分やって」
 ジタンが生きている。そうルビイが口にした途端、ガーネットの顔は信じられないほどの喜色に輝いた。
 全てを聞き終わった後も、彼女の穏やかな表情は変わらなかった。
 そして、おもむろに女王は立ち上がったのだ。
 出かけます、と。
 柔和な笑みを目元に浮かべて、静かに彼女は言った。
「ジタンを迎えに行くって言うてな、そのまま飛空艇に乗り込みはったんや…」
 ジタンは一人で頭を冷やしたいといっている。今はそっとして置いた方が良いのではないかとルビイは忠告した。だが、ガーネットは微笑んで頭を振った。
「女王さんはこう言いはった。私が会いたいのです、て」
 会いたいのは私ですから。だから、会いに参ります。それだけのことです。
 そう言って微笑む女王の強さを、ルビイは感嘆の思いで眺めた。
 この人なら――。
 哀しみに倦み疲れた魂を、安らがせることができるかもしれないと、ルビイは思った。
「あの人は強い人や。ジタンは幸せもんや。あんな人にめぐり合えて」
 こぼすルビイの頭をブランクがくしゃくしゃと混ぜくる。
「この俺を振り切って全部ぶちまけに行ったお前の潔さだって、なかなかカッコいいもんだぜ?」
 冗談めかした口ぶりに、ルビイは笑った。
「そうやな」
 それから安心したように付け加える。
「多分、これで大団円や」