<7>die Seelenwanderung


 風のない、静かな夜だった。少女を先に休ませて、少年は一人火を絶やさぬように薪をくべていた。
 傍らで少女が安らかな寝息をたてている。
 幸せそうな寝顔。ちいさな口元に笑みすら浮かべて、彼女はぐっすりと眠りこけていた。
 その安心しきった姿を眺めていると、少年の心もなぜだか温かい気持ちに満たされてゆく。
 このまま時が止まってしまえばいい。
 炭になってしまった木切れを取り除けながら、彼はそんなことをぼんやり考えていた。
 と、不意に炎が大きく揺れた。
 風ではない。
 正体不明の空気の振動が伝わってきたのだ。
 本能的に――何かを察知して、少年は背後の森を振り返った。
 闇にさえ黒々とその威容を刻み付ける深い森の突端が、ざわざわと揺れている。振動に遅れてかすかに聞こえてくる低い機械音。 
 木々のたわみは徐々に大きくなってゆき、やがて森の影の向こうから大きな青い光が姿を現した。
 ドワーフたちが「目玉」と形容した船――インビンシブルである。
 船底に大きな丸い光穴が開いている。見ようによっては確かに目に見える、赤い不気味な穴だ。
 インビンシブルはゆっくりと森の中央まで進み、音もなく停止した。
『こんなところに隠れていたとはな』
 声が降ってきた。少年の頭の中に直接ではなく、大気を伝わる音声として。少年の脳裏に黒尽くめの男の映像がひらめく。彼を作り出した男。そして彼をこの大地に放擲した男だ。
 傍らで少女が目を覚ます。少年は屈み込み、彼女に小さく耳打ちした。
――茂みに隠れていろ。
 問いただそうとする彼女を彼はきつい目で制す。逡巡する猶予はないのだ。その目に浮かぶ切羽詰った色に圧されて、少女は不承不承肯いた。四つんばいのまま、静かに這って一段低くなった茂みの中に身を隠す。その間にも、少年と船とのやりとりは続いていた。
「何の用だ。お前は、俺を捨てたんだろう」
 ひどく冷めた声で彼は言い放った。
『ほう、やはり記憶は修復されたのだな。ではお前の存在の意味も分かっているだろう。私のもとに帰って来い』
「なぜ俺に執着する?お前が投げ捨てた実験体は俺だけではなかったはずだ」
『言っただろう。後のものはすべてこの世界に適応できず朽ち果てた。残ったのはお前だけだ。お前は貴重な素材だ。この世界に適応可能なジェノムを作り出すために必要な実験体なのだ。さあ、帰ってくるがいい』
「――いやだと言ったら?」
『お前に拒否する権利はない』
「なんだと!?」
『逆らっても無駄だ。お前の力ではこの船に適いはせぬ。逃げることも不可能だ。この世界のどこに隠れようとも、お前の思念がこの船を呼び寄せる。お前は――もはや逃れられぬのだ』
 勝ち誇ったように青い光が明滅する。少年は昂然と顔を上げた。
「断る」
『――愚かなことを』
 船底の赤い穴が白く発光し始める。
『では力づくで連れ帰るのみ』
 最後通牒を突きつけて、男は船の熱線を少年に向けて照射した。信じられぬような敏捷性でもってその光を避けた少年は、だっと平原に向かって走り出した。
 茂みから顔だけ出して一連の出来事を見守っていた少女は、思わず腰を浮かしそうになる。
 なぜ平原に逃げるのだ。あの熱線を避けようとするなら、遮蔽物の多い森のほうが有利なはずだ。と、そう思って彼女ははっとする。
 彼は、彼女から船を遠ざけようとしているのだ。
 自分がおとりになって、彼女だけでも助けようとしているのである。
 そんなことはさせない!
 少女は咄嗟に穴から這い出ようとし――そしてそのままずるずるとへたりこんだ。
 今ここで自分がのこのこと出て行ったら、かえって少年の足手まといになるかもしれない。わが身を省みず、少女を助けようとしてくれている少年の気持ちを、踏みにじってしまうことにもなるのではないか。
 そう考えると、身動きがとれなくなってしまったのだ。
 だが彼女が躊躇っている間にも、熱線は容赦なく少年に降り注ぐ。大地が不気味な音を立てて蒸発し、あちこちに開いた穴から火柱と灰色の煙がたつ。
『ちょこまかと…小うるさい鼠めが』
 いらだつ声が濃紺の闇を振るわせる。だが男は船の主砲を使おうとはしなかった。少年を粉々にしてしまっては意味がないからだ。
 少年はそこに活路を見出そうとしていた。
 自分が貴重なデータであるなら、男は必ず自分を傷つけずに収容しようとするだろう。ならばなんとか逃げおおせる手があるはずだ、と。
 ジグザグに走り抜けながら、熱線から身を隠せるような穴か岩場を探す。
 だがそのとき、不意に上空からゼムゼレットが襲ってきた。
 咄嗟に少年はその爪を避けようと身をかわした。が、体の向きを変えたことで、一瞬動きがとまってしまう。その瞬間、ジュッと乾いた音をたてて熱線がゼムゼレットと少年の両足を貫いた。
 もんどりうって地上に落下するゼムゼレット。そしてその脇に少年もまた倒れ臥していた。
 熱線が貫通した右足は半分ちぎれかかり、左足は焼き切られこそしなかったものの、ひどい火傷状態である。彼は完全に動きを止められてしまったのだ。
 彼を追って少しずつ移動していた船は、彼の真上で停まった。
 それまで熱線を雨霰と浴びせていた船底の光が収束し、替わりに青白い円筒形の光束が地表に向かって伸びてくる。その透き通った光の筒の中を、ゆっくりと降下してくる人影。
 見覚えのある、黒い装束に身を包んだ男だった。
「なぜだ?俺のこの体は大切な実験データじゃなかったのか!?」
 激痛に顔を歪ませながら少年が叫ぶ。
『そうとも、お前の体と、そしてその脳は生かしたまま持ち帰らせてもらう。だが――五体満足でなくとも一向に構わぬのだ。お前の心臓と脳さえ生きていればな』
 男は哄笑し、ゆっくりと右手を上げた。
 青い光筒が静かに地表に横たわる少年の体を捉える。そして抗う術もない少年の体が地面から引き剥がされ、飛空艇に吸い上げられようとした。
 そのときである。
 突然上空に爆音が轟いた。
 粉々になった飛空艇の一部分の破片が、きらきらと光りながら地表に降り注ぐ。と同時に青い光の吸引力が弱まり、少年はしたたか地面に叩きつけられた。
 一体何が起こったのか。
 軽い脳震盪を起こしかけた頭を振り、少年が上体を起こす。
 目に入ったのは、森の脇の窪地から立ち上がり、青白い顔で飛空艇を睨みつけている少女の姿だった。
 彼女は何かを唱えている。少年は瞬時に悟った。
 ――召喚か!
「やめろ!」
 彼は叫んだ。声の限りに――全身の力を振り絞って。

 少女は必死に口を拳で塞いでいた。
 逃げ惑う少年の姿が見える。だんだん小さくなってゆくそれを、彼女は必死に目を凝らして見つめ続けた。そして、見てしまったのだ。
 ゼムゼレットが少年に襲い掛かり、その魔物と一緒に彼の体が閃光に貫かれたのを。
 倒れ臥した彼がどんな状態なのかは分からなかった。
 だが、少年が起き上がる様子はなく、あまつさえ空飛ぶ船が少年の真上に音もなく移動し、彼の体を吸い上げ始めたではないか。
 少女は咄嗟に詠唱を始めた。
 考えている暇などなかった。このままでは少年が連れて行かれてしまう。その一事で胸がいっぱいになってしまったのだ。
 そんなことはさせない。彼女は思った。
 絶対に阻止する。
 そして彼女に出来る唯一の方法――召喚を始めたのである。
 
 ラムウの放ったいかづちは、船尾に直撃した。凄まじい轟音と衝撃が闇を走った。だがその一撃では船を沈めることはできなかった。少女は再び詠唱を始める。二撃目を確実に船体にぶち当てるつもりだった。
「やめろ!」
 少年の叫び声が聞こえる。それは悲鳴に近かった。けれど少女は退かなかった。少年は怪我を負っているのだ。彼を守るためなら、自分の命など惜しくなかった。
 
 再び船底の赤い穴が発光し始める。
 それが真下にいる少年からはっきりと見えた。その照準がどこを狙っているかも彼には分かった。とっさに彼は立ち上がろうとし、しかしすぐに地面に倒れこんだ。ちぎれかけた右足が無残に捻じ曲がっている。左足ももはや膝下の感覚が喪われていた。
 彼の焦燥をあざ笑うかのように、低い唸りを上げて光が振動し始める。
「やめろ…」
 必死に彼はいざった。腕で懸命に地をかきながら、匍匐前進するように彼女に向かって体を進める。それが何の意味をなさなくとも、それでもなんとかして彼は訪れるに違いない未来を止めたかったのだ。
 けれど――。
 彼の頭上が一瞬真昼のように明るく光った。
 閃光を放ちながら数条の白い光が発射される。
「やめてくれええええっ!!」
 彼の絶叫の先で、少女の体が跳ね上がった。少女の足元に突き刺さった熱線が大地をえぐった衝撃の煽りを受けたのだ。そうして宙に舞った細いその体を、次々に白い光が貫いた。
「ガーネット!!!」
 そのまま風に吹き飛ばされた紙切れみたいに空に漂い、彼女の体は地面に落ちていった。

 動かない。
 大地に倒れた彼女の体は、もうピクリとも動かない。
 
 全身の血が凍った。
 少年は魂の奥からこみ上げてくる慟哭をどうすることもできなかった。
 少年の体が発光しだす。
 見る間に眩いばかりの閃光に包まれ、彼は姿を変えた。
 声にならぬ絶叫が喉を裂いて迸り出た。

 インビンシブルが船体を少年に向けた。
 あの青い光を発しながら、彼を収容するべく近づいてくる。

 メタモルフォーゼを起こした少年の体から光球が発した。それは巨大なエネルギーの塊だった。肺腑をえぐるような悲しみに満ちた咆哮とともに、その閃光を彼はインビンシブルに放った。
 高熱の塊は船底の穴を直撃した。船内で大きな爆発が起こる。連鎖反応のように次々に火を噴出し、悲鳴のような音を上げて飛空艇が高度を下げ始めた。

 インビンシブル内部ではエマージェンシーコールが鳴り響いていた。
[緊急事態発生ノタメオートパイロットニ切リ替エマス]
 修復不能状態に陥った船は自動的にテラへの進路を取る。
 艦橋に佇むガーランドは拳を握り締めた。忌々しさとともに一種の感動を覚えていた。
「なんという力だ――なんという――変異だ…。これがガイアの影響なのか…?若い星のエネルギーなのか」
 いずれにしても、その力を含めて、いつか必ず7003を取り戻す。
 
 地表にも届いたその男の思念を、少年は無表情で聞いていた。
 既に変異は収まっていた。
 トランスしたせいなのか、ちぎれかけていた足も焼け焦げた足も回復していた。
 ただ、胸だけが――元には戻らなかった。
 
 大地に横たわる少女を見下ろし、そして彼はその傍らに座り込んだ。
 熱線は彼女の胸と腹を貫いていたが――彼女の表情は静かだった。まるで今にも目を開けて、はにかんだように彼の名を呼びそうな、そんな顔だった。
 少女の半身を抱え起こし、少年はその体を抱きしめた。
 力の限り、精一杯に。
 
 東の空が明るみ始める。
 影を潜めていた風が思い出したように地表を渡り、少年と少女の髪を揺らした。
 
 うそじゃないか。
 未来が見えるなんて、いつかガーネットと呼ばれるなんて、全部うそっぱちだったじゃないか。だから言ったじゃないか。俺と一緒にきたら、死ぬかもしれないぞって。こんな――こんなことになるんなら、離れていた方がましだった。俺が…。
 俺が死んだ方がずっとましだった。

 低く、かすれた嗚咽が、風に乗って白み始めた空に散った。